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第一章
叶わない願い
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ここのところ黒猫はめずらしくイライラしている。どれだけイライラしているかというと、カラスがカァと鳴くだけで舌打ちしてしまうぐらいだ。鳴くなバカ。
一事が万事そんな調子だから、電柱の傍らにブチ猫がちょこんと座ってこちらをちらちら伺っているのを見つけた瞬間、心底うんざりして素通りすることに決めた。
「ちょ、ちょっと! おい! き、きみに用があるんだ! 待って! お願いだから!」
どこまでもついて来られそうで、それも勘弁だなと嫌々立ち止まる。
「……なに。白猫のことなら白猫に直接言ってよ。僕はきみとする話なんか……」
「お、おれはある。きみに決闘を申し込む」
「は?」
「今夜八時に亀の像がある公園のすべり台下に来い彼女をかけて勝負だいいかわかったなそれじゃあ」
早口に告げるやいなやすぐ逃げ出してしまったので、断ることもできなかった。あまりの面倒くささに目眩がする。バカだ。バカすぎる。バカの極み。行くはずがないだろう、そんなもの。
――そのはずだったのに。
うっぷん晴らしにブチ猫の決闘申し込みを笑い話として聞かせたはずが、白猫はちらりとも笑わなかった。
「……彼、こないだわたしが『もう近づかないで』と言ったから、本当に近づいてこなくなったわ。だけど、毎朝、わたしが通る小道で遠くから一言だけ『おはよう』って声をかけるの。わたしが無視しても、いつも」
「それで?」
「それだけよ」
「よくわからない。きみはあいつが好きなの?」
白猫は傷ついた顔をして、首を振った。
「ねえ、あなた、わたしの名前をちっとも呼んでくれないのね」
「……それ、今関係ある?」
猫の間では、特別な間柄の猫にだけ自分の名を教えるという謎の習慣がある。この間、白猫はしつこく自分の名前を聞きたがり、ないとわかると目に見えて落ち込んだ。黒猫には理解できない。名前なんて、そんな重要なことか?
「黒猫さんが好きよ。だから……彼をバカにしないで。彼の気持ちを、バカにしないで」
何を言っているんだか全然わからない。ああ、イライラする。むしゃくしゃする。
よっぽどすっぽかしてやろうかと思ったけれど、溜まりすぎたうっぷんを晴らすならいい機会じゃないかと思い当り、黒猫は結局公園に向かうことにした。
月夜の公園は、昼間とは打って変わったように静かだ。日中子どもに愛されているカメの銅像も、暗闇じゃただの不気味な影だ。木々が風に揺さぶられる音だけが響く。ブチ猫はすべり台の下で尻尾をぼわんと逆立てながら待っていた。体全体をぶるぶると震えわせながら。
「……寒いの?」
「ちがう! 武者震いだ!」
ブチ猫は自身を奮いたたせるような威嚇音をあたりに響かせた。
「黒猫、覚悟はいいな!」
実際のところ、黒猫の体はブチ猫と比べても小さく力も弱い。まともに戦えば、ブチ猫の勝利は難くないだろう。だが、そんなことはなんの問題にもならない。まともに戦う必要なんてないのだから。
にやり、口元をゆがめ、一歩間合いを縮めたその瞬間――黒猫は自分の誤算に気がついた。
魔法を使う必要なんてなかったのだ。ブチ猫はまた、腰を抜かしていたのだから。
ずっとうなだれているブチ猫を見るにつけ、白猫はこの情けなさすぎる猫の一体どこがよかったんだろうと考える。なにせ決闘相手の黒猫がだんだん不憫になってくるぐらいなのだ。
「……よく決闘しようと思ったね」
「わ、わかってるよ……おれは、ケンカなんか一度も勝ったことないし、蝉ですら怖いんだ。夏なんか地獄だよ」
すこしわかる、と黒猫が頷きかけた向こうで、「でも、」とブチ猫が鼻をすすった。
「彼女を取り戻すのにほかに方法が思いつかなかったんだ」
「あのさあ、言っておくけど白猫が自分で選んで僕の傍にいるんだよ。何もきみから力尽くで奪い取ったわけじゃない」
「わかってる……けど、けどあんなの何かおかしいよ! だってあの日、きみに出会うあの瞬間まで、おれたちは――」
「ねえ、それを一目惚れって言うんじゃないの」
ブチ猫はそれ以上何も言えなくなってしまった。実際は、一目見る前に惚れさせていたのだが。
話も終わりだろうと腰を上げかけたころ、
「なあ、きみは彼女が好きか」
ふいに投げかけられた問いに、黒猫はなぜかぎくりとした。
「……好きだよ」
「そうか」
ブチ猫はうつろな目で月を見上げる。しなやかな三日月のシルエットは、どこか少し白猫に似ていた。
「おれはね、すごくすごく好きなんだ」
「……にぼしより、かつおぶしより?」
「ああ、マタタビよりもさ」
ブチ猫は笑った。
「彼女はね、大人っぽく見えるけど、本当はすごく寂しがりやなんだ。素直じゃないから言わないけど……そんなときは尻尾で背中を撫でてあげて」
ブチ猫の足元にぽたぽたと滴が次々落ちる。
「彼女を……花を幸せにしてあげて」
黒猫は何も答えなかった。『花』――確かにそんな名前だったな、なんて今更思っていた。
間抜けな顛末に終わった決闘の帰り道、黒猫は少し遠回りをして寝床に戻ることにした。ほかの猫と違い夜目の利かない黒猫は、いつもなら夜はゆっくり休むことにしているのだが。
理由はわからない。ただ、なんだか落ち着かなくて、心を落ち着けたかった。アスファルトの舗装された道を歩いているはずなのに、泥の中をゆくような重たさ。
ふっと視界が開けた。空が広い。
同時に泥くさい水のなんとも言えない匂いが鼻に届く。足元は雑草たちの楽園だ。ハルジオンがあちこちで誘うように揺れて、たんぽぽの黄色が夜に浮かび上がっている。
目の前に広がるのは、あの河川敷だった。
黒猫は思い出していた。腰を抜かしたまま『花を幸せにしてあげて』と涙をこぼすみじめな猫。その姿を前に、なぜか三つ編みの女の子が頭をよぎった。無数の色が輝く、ひかりの絵。
そう、あの日から自分はずっとイライラしている。
願いがはじめて叶わなかった、あの瞬間から。
広がる世界を見渡した。それなりに晴れた夜空に、浮かぶ三日月。街灯を反射して揺れる水面。闇とかすかな光でできた、単なる景色。つまらない、ありふれた僕らの背景。
――だけど、あの三つ編みの瞳を通したら、きっとそれらは輝きだす。
胸が焦げつくような感覚に、黒猫は思わず鈴を鳴らした。ちりん、ちりりん。目をつむってつぶやく。
『あの子の瞳で世界が見たい』
目をおそるおそる開く。やっぱり、何も変わらなかった。
(どうして。この鈴は、なんでも願いを叶えてくれるはずじゃなかったのか)
ムキになってもう一度――鳴らそうとしたときだった。
「だから、そのお願いは無理なんだって。あきらめなよ」
すぐ後ろで、声がした。
ぎょっとして振り返る。男だ。人間の、若い男だった。
茶髪というよりは金に近い髪の毛を、無造作に頭のうしろでくくっている。よれよれのTシャツにジーパン。履きつぶしたサンダル。その男はどこからどう見てもふつうの男だった。それなのに――今まで出会ったどの人間とも明らかに違った。
まず最初に黒猫の頭をよぎったのは『まずい』ということだった。それから『やばい』。最後に『逃げろ』。
でも、そのどれもが意味をなさなかった。足がぴくりとも動かなかったから。
「あ、ごめんごめん。自己紹介しなきゃね。俺、山田太郎。この近くのアパートに一人暮らししてんの。大学二年、文学部所属。めずらしいっしょ、今時。まあ、猫だからわかんないっか」
一息にそこまで言ったかと思うと、軽薄な笑みを浮かべながらしゃがみこんで来た。
目線が近くなったことで、よりわけのわからない恐怖が増して後ずさる。
「そんな怯えないでよ~、俺は何も黒猫ちゃんをいじめにきたわけじゃないんだから。ただ何で願いが叶わないんだって不思議がってんだろうなって思ったから、親切にも解説に来ただけ」
「なんで……」
「俺はエキスパートだからね」
山田という男は黒猫のつぶやきに当たり前のように返事をする。猫の言葉を勘違いするでもなく理解する人間なんて、今まで会ったことがない。
こいつ、いったいなんなんだ。
黒猫の動揺ぶりを楽しげに見ていた山田が「まず、ひとつめ」とふいに切り出した。
「その鈴は、願いをすべて叶えてくれるわけじゃない」
「……え?」
「それはさ、外側のものに働きかけて、こう……」
男は指をくるくると回して、「内緒話するには明るすぎだから消しちゃおっか」となんともなしに口にした。黒猫は息を呑む。ふっと電源を落としたように黒猫たちの周辺の電灯だけが闇に落ちた。唖然とする黒猫を気にせず、男は続ける。
「意識や運動の方向を変えるっていうの? そうして願いを叶えるんだ。つまり、この場にりんごを突然出現させることはできない。ないものをあることにはできない。あるものをないことにもできない。黒猫ちゃんも無意識に使い方をわかってるんじゃない?」
「やっぱ暗すぎるかな」ぱちっと指を鳴らすと、ふたたび電灯が灯った。さすがに理解しないわけにはいかなかった。
目の前の男は、自分とおなじ力を持っている。
確かに何かが欲しいときにはそれが手に入るだろうところにまで出向いていた。たとえばスーパー、たとえば魚屋。空から降る花を願ったとき、本物の花ではなくて紙吹雪が降ってきたのは近くにその対象がなかったから?
「それから、この鈴は黒猫ちゃん自身を変えることもできない。君は今までその必要性を感じなかったから気づかなかったと思うけどね」
こんなうさんくさい男の言葉、信用できるはずがない。しかし、黒猫は山田の話に耳を傾けずにはいられなかった。少なくとも『鈴』に関して、記憶のない自分よりもずっと詳しいらしいのは間違いがなかったからだ。
「それが、僕があの子のように世界を見れない理由……?」
山田は口の端をにぃ、と持ち上げた。
「そう、それが半分」
「……半分?」
「さっき俺、ひとつめって言わなかった?」
あっという声も出ないうちに手が黒猫の額に伸びていた。
さっきとおなじだった。からだはすこしも動いてくれない。最初から、この絶対的な力の差を前に黒猫は屈していた。
「ふたつめは、あの時言ったはずなんだけど……忘れちゃったかな?」
山田の手が黒猫の頭を撫ぜる。
突然、猛烈な眠気に襲われた。
沈み込むような、落ちていくような、急速な睡魔につかまる。抗おうと首を振ろうとして失敗する。蜘蛛の巣にかかった虫みたいに、もがけばもがくほど、深みにはまってゆく。
よしよしと頭を撫で続ける山田が夢うつつをただよう耳元にささやいた。
「心配しなくていいよ。過去に降りてもらうだけだから」
なんとか半分までこじ開けた視界に、使い古されたサンダルが映り込む。
「……あんた……いったい何なんだ……」
「それも忘れちゃった? 山田太郎だよ。大学二年でー、文学部でー、一人暮らししててー、それからー」
遠のく意識の向こうで、「……天使だよ」付け加える声がかすかに聞こえた。
それを最後に世界は真っ黒に反転した。
一事が万事そんな調子だから、電柱の傍らにブチ猫がちょこんと座ってこちらをちらちら伺っているのを見つけた瞬間、心底うんざりして素通りすることに決めた。
「ちょ、ちょっと! おい! き、きみに用があるんだ! 待って! お願いだから!」
どこまでもついて来られそうで、それも勘弁だなと嫌々立ち止まる。
「……なに。白猫のことなら白猫に直接言ってよ。僕はきみとする話なんか……」
「お、おれはある。きみに決闘を申し込む」
「は?」
「今夜八時に亀の像がある公園のすべり台下に来い彼女をかけて勝負だいいかわかったなそれじゃあ」
早口に告げるやいなやすぐ逃げ出してしまったので、断ることもできなかった。あまりの面倒くささに目眩がする。バカだ。バカすぎる。バカの極み。行くはずがないだろう、そんなもの。
――そのはずだったのに。
うっぷん晴らしにブチ猫の決闘申し込みを笑い話として聞かせたはずが、白猫はちらりとも笑わなかった。
「……彼、こないだわたしが『もう近づかないで』と言ったから、本当に近づいてこなくなったわ。だけど、毎朝、わたしが通る小道で遠くから一言だけ『おはよう』って声をかけるの。わたしが無視しても、いつも」
「それで?」
「それだけよ」
「よくわからない。きみはあいつが好きなの?」
白猫は傷ついた顔をして、首を振った。
「ねえ、あなた、わたしの名前をちっとも呼んでくれないのね」
「……それ、今関係ある?」
猫の間では、特別な間柄の猫にだけ自分の名を教えるという謎の習慣がある。この間、白猫はしつこく自分の名前を聞きたがり、ないとわかると目に見えて落ち込んだ。黒猫には理解できない。名前なんて、そんな重要なことか?
「黒猫さんが好きよ。だから……彼をバカにしないで。彼の気持ちを、バカにしないで」
何を言っているんだか全然わからない。ああ、イライラする。むしゃくしゃする。
よっぽどすっぽかしてやろうかと思ったけれど、溜まりすぎたうっぷんを晴らすならいい機会じゃないかと思い当り、黒猫は結局公園に向かうことにした。
月夜の公園は、昼間とは打って変わったように静かだ。日中子どもに愛されているカメの銅像も、暗闇じゃただの不気味な影だ。木々が風に揺さぶられる音だけが響く。ブチ猫はすべり台の下で尻尾をぼわんと逆立てながら待っていた。体全体をぶるぶると震えわせながら。
「……寒いの?」
「ちがう! 武者震いだ!」
ブチ猫は自身を奮いたたせるような威嚇音をあたりに響かせた。
「黒猫、覚悟はいいな!」
実際のところ、黒猫の体はブチ猫と比べても小さく力も弱い。まともに戦えば、ブチ猫の勝利は難くないだろう。だが、そんなことはなんの問題にもならない。まともに戦う必要なんてないのだから。
にやり、口元をゆがめ、一歩間合いを縮めたその瞬間――黒猫は自分の誤算に気がついた。
魔法を使う必要なんてなかったのだ。ブチ猫はまた、腰を抜かしていたのだから。
ずっとうなだれているブチ猫を見るにつけ、白猫はこの情けなさすぎる猫の一体どこがよかったんだろうと考える。なにせ決闘相手の黒猫がだんだん不憫になってくるぐらいなのだ。
「……よく決闘しようと思ったね」
「わ、わかってるよ……おれは、ケンカなんか一度も勝ったことないし、蝉ですら怖いんだ。夏なんか地獄だよ」
すこしわかる、と黒猫が頷きかけた向こうで、「でも、」とブチ猫が鼻をすすった。
「彼女を取り戻すのにほかに方法が思いつかなかったんだ」
「あのさあ、言っておくけど白猫が自分で選んで僕の傍にいるんだよ。何もきみから力尽くで奪い取ったわけじゃない」
「わかってる……けど、けどあんなの何かおかしいよ! だってあの日、きみに出会うあの瞬間まで、おれたちは――」
「ねえ、それを一目惚れって言うんじゃないの」
ブチ猫はそれ以上何も言えなくなってしまった。実際は、一目見る前に惚れさせていたのだが。
話も終わりだろうと腰を上げかけたころ、
「なあ、きみは彼女が好きか」
ふいに投げかけられた問いに、黒猫はなぜかぎくりとした。
「……好きだよ」
「そうか」
ブチ猫はうつろな目で月を見上げる。しなやかな三日月のシルエットは、どこか少し白猫に似ていた。
「おれはね、すごくすごく好きなんだ」
「……にぼしより、かつおぶしより?」
「ああ、マタタビよりもさ」
ブチ猫は笑った。
「彼女はね、大人っぽく見えるけど、本当はすごく寂しがりやなんだ。素直じゃないから言わないけど……そんなときは尻尾で背中を撫でてあげて」
ブチ猫の足元にぽたぽたと滴が次々落ちる。
「彼女を……花を幸せにしてあげて」
黒猫は何も答えなかった。『花』――確かにそんな名前だったな、なんて今更思っていた。
間抜けな顛末に終わった決闘の帰り道、黒猫は少し遠回りをして寝床に戻ることにした。ほかの猫と違い夜目の利かない黒猫は、いつもなら夜はゆっくり休むことにしているのだが。
理由はわからない。ただ、なんだか落ち着かなくて、心を落ち着けたかった。アスファルトの舗装された道を歩いているはずなのに、泥の中をゆくような重たさ。
ふっと視界が開けた。空が広い。
同時に泥くさい水のなんとも言えない匂いが鼻に届く。足元は雑草たちの楽園だ。ハルジオンがあちこちで誘うように揺れて、たんぽぽの黄色が夜に浮かび上がっている。
目の前に広がるのは、あの河川敷だった。
黒猫は思い出していた。腰を抜かしたまま『花を幸せにしてあげて』と涙をこぼすみじめな猫。その姿を前に、なぜか三つ編みの女の子が頭をよぎった。無数の色が輝く、ひかりの絵。
そう、あの日から自分はずっとイライラしている。
願いがはじめて叶わなかった、あの瞬間から。
広がる世界を見渡した。それなりに晴れた夜空に、浮かぶ三日月。街灯を反射して揺れる水面。闇とかすかな光でできた、単なる景色。つまらない、ありふれた僕らの背景。
――だけど、あの三つ編みの瞳を通したら、きっとそれらは輝きだす。
胸が焦げつくような感覚に、黒猫は思わず鈴を鳴らした。ちりん、ちりりん。目をつむってつぶやく。
『あの子の瞳で世界が見たい』
目をおそるおそる開く。やっぱり、何も変わらなかった。
(どうして。この鈴は、なんでも願いを叶えてくれるはずじゃなかったのか)
ムキになってもう一度――鳴らそうとしたときだった。
「だから、そのお願いは無理なんだって。あきらめなよ」
すぐ後ろで、声がした。
ぎょっとして振り返る。男だ。人間の、若い男だった。
茶髪というよりは金に近い髪の毛を、無造作に頭のうしろでくくっている。よれよれのTシャツにジーパン。履きつぶしたサンダル。その男はどこからどう見てもふつうの男だった。それなのに――今まで出会ったどの人間とも明らかに違った。
まず最初に黒猫の頭をよぎったのは『まずい』ということだった。それから『やばい』。最後に『逃げろ』。
でも、そのどれもが意味をなさなかった。足がぴくりとも動かなかったから。
「あ、ごめんごめん。自己紹介しなきゃね。俺、山田太郎。この近くのアパートに一人暮らししてんの。大学二年、文学部所属。めずらしいっしょ、今時。まあ、猫だからわかんないっか」
一息にそこまで言ったかと思うと、軽薄な笑みを浮かべながらしゃがみこんで来た。
目線が近くなったことで、よりわけのわからない恐怖が増して後ずさる。
「そんな怯えないでよ~、俺は何も黒猫ちゃんをいじめにきたわけじゃないんだから。ただ何で願いが叶わないんだって不思議がってんだろうなって思ったから、親切にも解説に来ただけ」
「なんで……」
「俺はエキスパートだからね」
山田という男は黒猫のつぶやきに当たり前のように返事をする。猫の言葉を勘違いするでもなく理解する人間なんて、今まで会ったことがない。
こいつ、いったいなんなんだ。
黒猫の動揺ぶりを楽しげに見ていた山田が「まず、ひとつめ」とふいに切り出した。
「その鈴は、願いをすべて叶えてくれるわけじゃない」
「……え?」
「それはさ、外側のものに働きかけて、こう……」
男は指をくるくると回して、「内緒話するには明るすぎだから消しちゃおっか」となんともなしに口にした。黒猫は息を呑む。ふっと電源を落としたように黒猫たちの周辺の電灯だけが闇に落ちた。唖然とする黒猫を気にせず、男は続ける。
「意識や運動の方向を変えるっていうの? そうして願いを叶えるんだ。つまり、この場にりんごを突然出現させることはできない。ないものをあることにはできない。あるものをないことにもできない。黒猫ちゃんも無意識に使い方をわかってるんじゃない?」
「やっぱ暗すぎるかな」ぱちっと指を鳴らすと、ふたたび電灯が灯った。さすがに理解しないわけにはいかなかった。
目の前の男は、自分とおなじ力を持っている。
確かに何かが欲しいときにはそれが手に入るだろうところにまで出向いていた。たとえばスーパー、たとえば魚屋。空から降る花を願ったとき、本物の花ではなくて紙吹雪が降ってきたのは近くにその対象がなかったから?
「それから、この鈴は黒猫ちゃん自身を変えることもできない。君は今までその必要性を感じなかったから気づかなかったと思うけどね」
こんなうさんくさい男の言葉、信用できるはずがない。しかし、黒猫は山田の話に耳を傾けずにはいられなかった。少なくとも『鈴』に関して、記憶のない自分よりもずっと詳しいらしいのは間違いがなかったからだ。
「それが、僕があの子のように世界を見れない理由……?」
山田は口の端をにぃ、と持ち上げた。
「そう、それが半分」
「……半分?」
「さっき俺、ひとつめって言わなかった?」
あっという声も出ないうちに手が黒猫の額に伸びていた。
さっきとおなじだった。からだはすこしも動いてくれない。最初から、この絶対的な力の差を前に黒猫は屈していた。
「ふたつめは、あの時言ったはずなんだけど……忘れちゃったかな?」
山田の手が黒猫の頭を撫ぜる。
突然、猛烈な眠気に襲われた。
沈み込むような、落ちていくような、急速な睡魔につかまる。抗おうと首を振ろうとして失敗する。蜘蛛の巣にかかった虫みたいに、もがけばもがくほど、深みにはまってゆく。
よしよしと頭を撫で続ける山田が夢うつつをただよう耳元にささやいた。
「心配しなくていいよ。過去に降りてもらうだけだから」
なんとか半分までこじ開けた視界に、使い古されたサンダルが映り込む。
「……あんた……いったい何なんだ……」
「それも忘れちゃった? 山田太郎だよ。大学二年でー、文学部でー、一人暮らししててー、それからー」
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