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五章

交差する想い

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 小さな滴がちらちらと宙を舞う。かがり火の灯りを受けて、無数の飛沫が赤黒く輝く。彼女の肩口から迸った血液は、ぱたぱたと俺の服の上に降り注いできた。
 彼女の身体がゆっくりと前方に傾いでいく。落下軌道をずらされたイヤリングが俺の靴先に当たる。
 俺は呆然とその光景を眺めていたが、はっと我に返って、慌てて彼女に手を伸ばした。
「さよ!」
 地面に倒れる寸前で彼女を抱きとめる。
「おいっ! さよ!」
 耳元で彼女の名前を叫ぶ。だが反応がない。息はしているようだったが、意識を失っているみたいだった。彼女の肩からは、濃い血液が止めどなく流れ出ており、見る見るうちに白衣を赤黒く染め上げていく。
 俺は彼女を仰向けに寝かし、服の上から傷口を押さえた。しかし、溢れる彼女の血は止まる気配を見せない。
「触るなと、言ったはずだ」
 突如、地獄の底から響いてくるような低い声が地面を震わせた。
 はっとして見ると、霊符に拘束されていた男が、うつぶせの状態から、立ち上がろうとしているところだった。
 そんな男の顔横には先ほどよりも小さい―――豆粒ほどの大きさの氷塊が幾つか浮いている。
 彼女の肩を穿ったのはどうやらその内の一つのようだった。
「おおおおおぉぉぉぉおおおお!」
 男が獣のような雄叫びを上げた。
 途端、男の背中から青白い炎のようなものが噴き出した。その炎は瞬く間に全身に広がり、男の身体に張り付いていた彼女の霊符をあっという間に燃やし尽くした。
「はあ、はあ……」
 拘束から逃れた男が、肩を上下させながら立ち上がる。
 息を整え終えると、男は爛々と光る大きな目玉をぎょろりと動かして俺を見据えた。
 ひっと、喉から短い悲鳴が漏れる。
 男が、身体を揺らしながらこちらに近付いてくる。俺は恐怖で動けなかった。かがり火に染められた灰色の双眸が、まるで人魂のようになって暗闇の中を進んでくる。
 男が俺の前に立った。
 殺される。
 本能的にそう思った。
 しかし男は、俺とさよのことは一瞥しただけで、落ちていたイヤリングだけを拾うと静かに踵を返していった。
 思わずため息が漏れてしまう。
 その時、
 地面に寝かせていたさよが、もぞりと身体を動かした。
 反射的に視線を下ろすと、彼女は細い腕に力を入れて華奢な身体を起こそうとしていた。傷口からは依然、大量の血が流れ出ている。
「よせ、さよ! 死ぬぞ⁉」
 俺は慌てて彼女の身体を抑えた。しかし、彼女が身体を起こす力の方が強かった。
 顔面は蒼白で、目も虚ろだ。意識を保っているのがやっとだろう。こんな状態で動けば、本当に命を落としかねない。
 しかし彼女は、そんなことはどうでもいいと言うように俺の手を押し退け、血の気を失った足に力を入れて立ち上がった。
 すでに装束の右半分は、彼女の血液でべっとりと濡れている。
「兄さん……」
 消え入りそうな声で呟いて、彼女が男に向かって一歩踏み出した。
「やめろって! 本当に死ぬぞ!」
 声を張り上げて、俺はさよの手を掴んだ。
 だが彼女は、構わずに前に進み続けようとする。その力は予想以上に強く、本気で力を入れておかないと、俺の方が引きずられそうだった。
「兄さん、兄さん……」
 うわ言のように、その言葉を繰り返す。
 彼女の目にはもう、男の姿しか映っていないようだった。
「兄さん……!」
 彼女の声が少し大きくなった。
 祭壇を修復していた男の手が、ピタリと止まった。
 しかしそれだけで、数秒後には、男はまた作業に戻ってしまう。彼女の方を見ようともしなかった。
「お前、本当にこれでいいのかよ……」
 見かねた俺が、男に問いかけた。
「ここまでして、一体何になるって言うんだ?」
 だが男は黙々と作業を続けている。俺の声など聞こえていないようだった。
「これで美鈴さんが生き返ったとして、お前はそれで満足なのか?」
 男は答えない。
「そんな未来に価値があるって、本気で思ってるのかよ⁉」
 そこまで言った時、男はようやく作業の手を止めて、こちらを振り返った。
 濁った瞳が、冷ややかに俺を見下ろす。
「最後まで甘いな。そんなことだから大切な人を護れないんだ」
「何⁉」
「言ったはずだ。俺は目的のためならば手段を選ばない」
「…………ッ、それでも! さよをこんな目に遭わす必要はなかったはずだ!」
「自業自得だ。俺の邪魔をしなければ、こんなことにはならなかった」
「お前―――」
「非情になれ」
 男が俺の言葉を遮って言った。
 真っ直ぐに、俺の目を見ての言葉だった。
「心など捨てろ。中途半端な情けなど無意味だ」
 そこには強制に近い説得力があった。
「所詮俺とお前では、見ている世界が違う。覚悟の重さが違うんだ。俺は全てを犠牲にしてここまで来た。お前はどうだ?」
「…………」
「本当に命を投げ出す覚悟があったか? 情に流されて決意を変えることはなかったか? 大切な人に怨まれ、赦されなくても、それで本望だと腹を括れたか?」
「…………」
「だからお前は、何も成し遂げられないんだ」
 その言葉に対し、俺は何も言い返せなかった。重みを感じた。
「真に変えたい現実があるのなら、それ以外のものは全て手放せ。自分を殺せ。人であることに囚われるな」
 男の言葉一つ一つが、俺の胸に突き刺さってくる。
「利用できる奴は利用しろ。邪魔をする者は容赦なく切り捨てろ。世界全部を敵に回す覚悟で前へ進め。それでようやくスタートラインに立てる」
 そう言う男の言葉には熱が籠っていた。吸い込まれそうな雰囲気さえ感じた。
 恐らくこれは、男の本心なのだろう。この男なりの覚悟なのだろう。
 目的に不必要なものを迷いなく捨てることができたからこそ、男はここまで進んで来ることができた。善悪は別とし、その気魂には感服する。
 だけど、
 それでも―――……
「さよは、お前の妹だろ」
 静かな俺の言葉に、男の頬がピクリと動いた。
「お前のことを想ってくれている、たった一人の妹だろ。どうして大切にしてやれなかったんだ」
 何故だか、無性に悲しくなってきた。
「もっといい方法があったはずだ。対立し合わなくても、二人で一緒に歩んでいける道が、きっとあったはずなんだ」
 声に嗚咽が入り混じる。
「何でこんなことになってんだ。どうして兄妹同士で傷つけ合ってんだよ。こんな未来は、お前も望んでいなかったはずだろ?」
 自分の感情がわからなかった。目の前の男は、これ以上ない程に憎い相手のはずなのに、どうしてだか溢れてくる涙を抑えられない。哀しみの感情を止められない。
 こんな結末しか迎えられなかった二人のことが、どうしようもなく不憫でたまらなかった。
「……ふん」
 男が鼻を鳴らした。
「やはりお前は甘すぎる。仇の俺に情を移しているようでは話にならない」
 溜息交じりにそう言った。
「お前の哀れみなど不要だ。虫唾が走る。早く俺の前から消えろ」
「…………ッ」
「もう誰の協力も必要ない。一人でやる。これ以上、俺の邪魔をしてくれるな」
 そう吐き捨てるように言うと、男はまた背を向けて作業を再開した。
 ビュウと冷たい風が吹き、男の黒い狩衣がバタバタとはためく。
 かがり火の炎は小さくなり、今にも消えてしまいそうだった。
「所詮お前たちには無理な話だったんだ」
 倒れた棚を元に戻し、地面に落ちた三方を拾いながら、男が独り言のように呟いた。
「つまらない常識や倫理観に囚われているお前たちに、俺の気持ちなどわかるはずもない」
 訥々と男は言葉を紡ぐ。
「共に歩んでくれる者など、いるわけがない。俺とお前たちとでは住む世界が違うんだ。俺は、ずっと独りだった」
「…………」
「それに俺には―――」
 しかしそこまで言って、男は急に言葉を詰まらせた。
 男の動きがピタリと止まる。ふうと風が吹き、申し訳程度だったかがり火が掻き消された。
 視界が暗くなる。雲の間から顔を覗かせた満月だけが、境内を淡く照らしていた。
 男が小さく息を吐いたのが、微かな音でわかった。
「それに俺には、妹なんていないからな」
 言った。
 世界から音が消えた、気がした。
 しかしそれはほんの一瞬のことで、次には、悲鳴にも似たさよの叫声が静寂を切り裂いた。
「いやあああああああぁぁぁぁぁああああああっ――――――!」
 思わず掴んでいた彼女の手を放してしまう。
 膝の痛みも、肩からの出血も、全部忘れたみたいに、さよが男に向かって突進した。
 男と彼女の距離が一瞬で縮まる。
「邪魔をするなと言ったはずだっ!」
 男が身を翻し、持っていた三方を投げつけた。
 しかし、さよは空中で身体をひねり、顔面の横すれすれでそれを回避すると、一気に男の懐へと潜り込んだ。
 鋭い槍のごとき速さで男に手を伸ばす。
 バチンッ―――!
 だが無情にも、男の身体表面に張り巡らされた結界によって彼女の手は弾き返されてしまう。
 反動で彼女の身体が後ろに傾ぐ。手からリボンが舞った。
「いい加減諦めろっ!」
 男が吼える。
「あああああぁぁぁぁぁああああああっ!」
 それに対抗するように、再び彼女が絶叫した。魂の悲鳴だった。
 途端、宙を舞っていたリボンが淡い輝きを放った。それはまるで矢のごとき形状に姿を変えると、空気を切り裂き、男の右太ももに深々と突き刺さった。
 月明かりの中に、男の鮮血が迸る。
 男がガクリと膝を折り、さよが背中から地面に落ちた。
 一瞬の出来事だった。
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