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三章

溢れる感情

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 新緑が芽吹き始め、境内に降り積もっていた桜の花びらが目立たなくなり始めたある夜。トントンと控えめな音で、私の小屋の扉がノックされた。
 扉を開けると、そこにはスウェット姿の兄が立っていた。
「こんな時間にどうしたのですか?」
 兄が私の小屋を訪ねてくることなどこれまでになかったので、私は驚いた。
「ああ、いや……ちょっと、渡したい物があってな」
 私が訊ねると、兄は少し躊躇うような様子を見せてからそう言った。
「渡したい物、ですか?」
「ああ……これ、なんだけど」
 そう言うと、兄はズボンのポケットから、何やら小さな紙袋を取り出した。それはプレゼント用の紙袋のようで、白地に小さな水玉模様が等間隔に印刷されていた。
 兄が、それをおもむろに私に差し出してきた。
「……えっと、これは……?」
 兄の意図はわからなかったが、私は取りあえずそれを受け取った。
 袋の中には何かが入っているようで、僅かな重みがあった。
「今日な、お前が学校に行っている間に、隣町にまで買い物に行ってきたんだ」
 兄は、私から少し視線を逸らしながらそう言った。
「隣町に?」
 私は思わず訊き返していた。
「ああ、あいつと……美鈴と一緒に色々と見て回ってたんだ……」
「美鈴さんと……⁉」
 今度は少し前のめりになった。
 彼女と一緒に買い物をしたという事実にも、もちろん驚いたのだが、兄が彼女のことを名前で呼んだことに私は衝撃を受けたのだ。
 いつの間に、兄は彼女のことを名前で呼ぶようになったのか。
「いや、別にあいつが学校をさぼったとか、そういうわけではなくて……ただ、今日は学校が昼までだったみたいだから……それで、昼からは俺に町を案内してくれたんだ」
 私の驚きを少し見当違いの方向に捉えたらしい兄は、慌てて彼女の行動の正当性について述べ始めた。
「そ、そう……だったんですか」
 私はぎこちない動作で頷く。
「あ、ああ、それでな、美鈴と買い物してる時に、何かお前に、お土産でも買って帰ったらどうかって、話になってな……」
「私に、ですか……?」
 予想外の話の展開に、私は眉根を寄せる。
「ああ……で、色々と考えて、やっぱり女の子らしいものが良いんじゃないかってなって、あちこち見て回ったんだ。でも……中々これといったものが見つからなくてな……」
 兄が口をもごもごと動かしている。私はそんな兄を呆然と見つめていた。
「結局、全然大したものは買えなかったんだが……」
 そこで兄は、私が手に持っていた紙袋に視線を落とした。
「だから、まあ……あまり期待はしないでもらえると、有難いんだが……」
 兄が、私の顔と紙袋と交互に見る。
 開けてくれ、ということらしい。
 私は少しだけ躊躇した後、紙袋を止めてあったセロハンテープを丁寧に剥がし、中に入っていたものを掌の上に取り出した。
 ―――リボンだった。
 綺麗に蝶々結びにされた純白のリボンが二つ、私の手の上に乗っていた。両端は可愛らしくフィッシュテールにカットされている。
 さわりと杉の梢が揺れた。
 そこから漏れ出た僅かな月明かりがリボンに降り注ぎ、布の表面をきらきらと反射させた。まるで闇の中に浮かび上がる光の蝶のように見えた。
「これを……私に、ですか……?」
 声が少し震えていた。
「ああ。そんなものしか買ってやれなくて申し訳ないが……一応、俺が選んだんだ……」
「兄さんが、ですか……⁉」
 私は顔を上げる。
 兄が選んでくれた。兄からの初めてのプレゼント。
 これまでに味わったことのない感情が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。
「……多分、お前に似合うと思うんだが……」
 頭の後ろを掻きながら兄が言った。
「――――――!」
 気が付くと、私は兄の胸に、自分の顔をうずめていた。
「お、おい……」
 兄が驚いている様子が、声と呼吸でわかる。
 だが、今はそんなことには構っていられなかった。こうでもしないと、身体の奥から込み上げてくるこの訳のわからない感情を抑えられそうになかった。
 こんなにも嬉しくて幸せで、驚いて安堵して、例えようのない幸福感に包まれたことがこれまでにあっただろうか。
 私は兄から顔を離すことができなかった。自分がどんな顔をしているのかわからなかった。喉の奥が熱い。涙が込み上げてくる。
 私は歯を食いしばり、ぐっとそれを堰き止めようとしたが、それでも私の目からはいくつかの雫か零れ落ちて私の頬を伝った。それを、私はばれないように兄の服で拭った。
 と、不意に頭の上に温かな感触が広がった。
 兄が、私の頭に優しく手を乗せていた。よしよしとまるで赤子をあやすみたいに私の頭を撫でてくる。
 びっくりしたが、でもそれ以上に嬉しくて、私は兄を力いっぱいに抱きしめた。兄の身体は暖かく、私が知っているそれよりもずっと大きくなっていて、私に不思議な安心感を与えてくれた。
 また、涙が溢れてきた。
「……悪かったな」
 兄がぼそりと言った。
「………えっ?」
 そこで、私は顔を上げた。
 兄は、充血して真っ赤になっているであろう私の目を、じっと見つめてきた。
「これまで、辛い思いばかりさせて悪かった」
「…………?」
「ありがとう。お前には、本当に感謝している」
 その目には、確かな光が宿っていた。
「あの時、お前があの家から俺を連れ出してくれていなかったら、恐らく今の俺はここにはいなかっただろう」
 その声は柔らかくて、目は優しく笑っていた。月明かりに照らされた兄の顔が、闇の中に浮かび上がる。
「本当にありがとう」
 そう言って、兄は私の身体を静かに抱き締めてきた。
「…………ッ⁉」
 先ほどよりも深く、私の顔が兄の胸に埋められる。
 私はしばらく兄にされるがままになっていた。自分の身に何が起きているのか、兄が私になんと言ったのか、自分の中で上手く消化できていなかった。
 兄の体温が、身体全体を通して私に伝わってくる。兄の言葉が、私の胸の中に染み込んでくる。それらは長い時間をかけて私が築き上げてきた、我慢と執着と念望と諦念から構成される心の防波堤をじわじわと侵食していき、
 そして、
「お前のおかげだ。よく頑張ってくれた」
 ものの見事に決壊させた。
 初めてだった。初めて私は、人前で声を上げて泣いた。
 限界だった。
 涙も嗚咽も、押し殺すことは不可能だった。
 認めてもらえた気がした。これまでの私の努力は、無駄ではなかったのだと。
 殺されかけた兄を救ったこと、兄を連れて家を飛び出したこと、出口があるはずだと信じて走り続けてきたこと―――それら全ての努力が、無駄ではなかったのだと認められた気がした。
 涼しい夜風が頬を撫でていく。私の哭き声が夜空に吸い込まれていく。
 泣いて、哭いて、声を枯らして、慰められて―――
 その日、私は初めて兄と心を通わせることができた気がした。
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