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二章
霊力と呪力③
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「……呪いとは、何なのでしょうね」
突然、ポツリとつぶやくように彼女が言った。
「……えっ?」
思わず反応が遅れてしまう。
「呪いとは、一体何なのでしょう……」
彼女はもう一度そう言った。
俺がいる方とは反対側の、窓の外を見つめての言葉だった。
二階に位置するこの図書室には、グラウンドに面して大きな窓がいくつも取り付けられている。日差しを取り込み、薄暗くなりがちの室内を少しでも明るくしようという取り組みなのかもしれない。
夏の強い日差しがグラウンドを白く照らしている。表面にはゆらゆらと大きな陽炎が揺らめいており、そんな中を時折部活動に励む生徒たちが通り過ぎていく。
「急にどうしたんだ……?」
質問の意味がわからなかった俺は、彼女に訊き返した。
「………」
しかし彼女は何も答えない。
「呪いが何かって……そんなのお前の方が遥かに詳しいだろ……?」
俺に訊いてどうするんだと思った。逆に教えて欲しいくらいなのだ。こっちは今にもオーバーヒートしてしまいそうな頭の中を必死にまとめている最中だというのに………。
「………」
しかし、彼女は相変わらず窓の外を眺めたまま何も答えてくれない。
その視線の先にあるのは、白いグラウンド、幽霊のように揺れる陽炎、汗ふき出す生徒たちの黒い頭―――
だが、彼女の視点は、そのどれにも定まってはいないようだった。それよりも遠い、どこか違う場所を見つめているようだった。
「……あなたは……どう思いますか」
しばらく黙っていた彼女がおもむろに振り向いた。
気のせいだろうか。
心なしかその表情は暗い。薄い哀しみの色に縁取られているように見えた。
「どう思うって、言われても……」
そんな顔をされても、俺は何と答えたら良いのかわからない……。
「悪いもの、なんじゃないのか……? やっぱり呪いって、多かれ少なかれ人に害を与えるものだと思うし……使っていいものではないだろ……」
何となく抱いていたイメージからそう答えた。今の俺の知識量では、この程度の答えが限界だった。
さよはそんな俺の言葉を聞くと、また窓の外へと視線を移した。
「……悪いもの、ですか」
呟くように言った。
「そうですね……私も、そう思います」
「………」
なんとなく気まずい沈黙が落ちる。
俺はせめて自分の興味がある話題へ移ろうと考えた。
「そ、そう言えばさ。さよは他に何かできたりするのか? その、昨日やってた霊符で呪力を調べるとか以外に―――」
少し早口に、俺は彼女にそう訊ねた。
哲学チックな話よりは、こっちのオカルトじみた話の方がまだマシだと思った。俺の興味も少しは湧く。
「他に……ですか?」
「あ、ああ。何かすごい事できないのか?」
さよは少し考えた後、
「すごい事かどうかはわかりませんが……言霊は得意です」
「言霊……?」
その言葉に、俺は聞き覚えがあった。
少しだけ嬉しくなる。
「言霊ってあれだよな。人間の発する言葉には力が宿るっていう―――何度も何度も願い事を声に出していれば、いつかそれが叶うっていう、あの言霊だよな」
興奮気味に言った。彼女から発せられる奇怪な単語に、初めて確かな聞き覚えがあったからだ。
「……はい、まあ、大方その理解であってますが……」
「それで、さよはその言霊をどうすることができるんだ?」
「……言霊とは、自分の言葉に霊力を載せることで成り立つ術です。普通の人間にも微弱ながらに霊力は存在するので、何度も口に出し、言葉に霊力を載せることによって願い事が叶うというようなことは、あるにはあるでしょう」
そこで彼女は、一旦息を吐く。
「ですが、霊力が豊富に存在する私は、その言霊によって引き起こされる事象を操ることができます」
「操る?」
「つまりは、発した言葉通りのことを、現実世界に引き起こすことが可能だということです」
何でもないという風に、さらりと彼女が言った。
しかし俺は、
「そ、それってすごいことじゃないか……!」
と思わず声を上げた。
室内にいる数人の生徒からの視線が突き刺さったが、今はそれどころではなかった。
「自分の言ったことが現実になるってことだろ⁉ そんなの、もう魔法と一緒じゃないか……⁉」
さすがの彼女でも、そんなことまでできるとは思っていなかった。
「それってどこまで可能なんだ? 例えば宝くじに当たれって言ったら本当に当たるのか?」
「それは無理ですけど……例えば相手が人間であったならば、ある程度はその人の行動を操ることができます」
「操るって……例えば?」
「例えば……そうですね―――」
「あ、ていうか実際にその言霊ってやつで俺の身体を操ってみてくれよ」
彼女の言葉を待たずに俺はそう言った。
さよが怪訝そうな顔をする。
「あなたに……? 今、ここでですか?」
「言葉で説明するよりそっちの方が早いだろ?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「な、頼むよ」
大半は興味本位で、あと少しは怖いもの見たさ―――というより体験したさから、俺は彼女に頼んだ。
そんな魔法のような能力があるのならば、ぜひ一度この目で見たい、いや、この身で体験してみたいと思った。
さよは少し逡巡するような様子を見せた後、
「まあ、別に構いませんけど……」
と言って、俺の方へ身体を向けた。
そして彼女は可愛らしく、こほんと一つ咳払いをすると、透き通った瞳で俺の目を見つめてきた。
上目遣いの彼女に見つめられ、俺は少しだけ心臓を高鳴らせてしまう。
だが、次の彼女の一言で、俺は自分の軽はずみな言葉を激しく後悔することとなった。
さよはふっと、どこか不敵な笑みを浮かべると、
「―――跪いて下さい」
と、言った。
えっ―――と声を出す間もなく、次の瞬間には俺の身体に変化が現れていた。
ぐわん、と頭と体を同時に揺さぶられるような不快感に襲われたかと思うと、突然俺の両膝が、がくんと折れたのだ。
「―――ッ⁉」
決して俺の意思などではない。後ろから誰かに突かれたわけでも、目の前の彼女が俺の膝に触れたわけでもない。俺の身体が勝手に反応したのだ。俺の意思とは無関係に―――
変化はそれだけに収まらない。
今度は首が僅かに前方に傾き、左腕は膝の上へ、右手は真っ直ぐ彼女の方へと差し伸べられた。
そして、彼女が言葉を発してから数秒後―――俺の身体は、まるで子供の絵本の中に出てくるような―――王子様がお姫様に対して取るようなポーズで、彼女の前に跪いていた。
周りにいた生徒たちが、何事かと目を丸くしている。中にはクスクスと笑いながら、俺の奇妙奇天烈な姿を笑っている者もいた。
何だ……? 今、何が起こったんだ―――?
俺の頭はパニックに陥っていた。
身体にまるで力が入らない。いや、力は入っているのだが、動かすことができないのだ。
身体の自由が全く利かない。まるで見えない糸で、がんじがらめに縛られているようだ。
まさか、これが言霊の力なのか―――?
混乱する思考の中、俺はようやくその答えに辿り着いた。
つい今しがた、彼女は言った。
跪いて下さい―――と。
その言葉通り、俺は今、彼女の前で跪く格好を取っている。
彼女に操られたのだ。言霊の力によって―――。そう確信した。
抗うことなどできなかった。抵抗する術などなかった。身体そのものを操られたのだ。
最強の術だ。弱点など存在しない。どんな剛腕で屈強な男たちが束になっても、さよには指一本触れることはできないだろう。
そう思った。
それにしても……
なんて無様で、情けない格好なのだろうか。
俺は自らの姿を客観視して泣きそうになった。
昼休みの図書室でこんなポーズをしているなんて、完全に頭のいかれた人間である。こんな姿を誰かに写真にでも撮られ、校内にばら撒かれようものなら、俺は間違いなく明日から学校へ来ることができない。
何とかして今すぐに、この状況を打破しなければならなかった。
俺は両足に渾身の力を籠める。必死に立ち上がろうと抵抗する。
だがやはり、俺の身体はピクリとも動いてくれなかった。
「いい格好ですね、時坂優」
頭上からさよの声が降ってきた。
その声は、いつもよりも少しだけ高い。
「あなたはもう少し、自らの言動を見直すべきです。人のことを小さいと馬鹿にしたり、年上である私にため口を利いたり、挙句の果てには変な渾名までつけようとして……舐めているとしか思えない態度が多すぎです」
彼女の冷たい声が、容赦なく俺に降り注いでくる。
どうやら彼女は、昨日からの俺の態度を許したわけではなく、ずっと心の底で根に持っていたようだ。
その鬱憤を、今ここで晴らそうというのか……?
「反省し、改心してください。そしてもし、今この瞬間から態度を改めると誓えるのならば、あなたに掛けたその言霊を解いてあげましょう」
勝ち誇ったような声だった。
成す術なし―――。
そう思った。
彼女のローファーの先が、俺の肩を軽く小突く。その反動で、彼女の短いスカートがふわりと揺れた。
彼女の言う通り、ここは大人しく、改心を示しておくしかないと思った。俺に非があるのも確かだから……。
頭を上げることは無理だったので、目だけを動かして彼女を見ようとした。眼球は自由が利いた。
ゆっくりと目線を上げる―――
だがその時、
……俺は、あることに気が付いた。
それは真っ暗だった俺の目の前に、一筋の光が射した瞬間だった。隙のない彼女が犯した、たった一つのミスを、俺は見つけてしまったのだ。
思わず顔がにやけそうになってしまう。俺は確信した。今の彼女に打ち勝つにはこの方法しかない。
「なあ、さよ」
口も動かすことはできた。
「どうしましたか。心を入れ変えましたか?」
そうではない。
俺はたっぷりと間を持たせ、そして―――
「この位置からだと、下着見えるぞ」
と言った。
「―――ッ⁉」
次の瞬間、彼女は見たこともないような俊敏な動きで、自分のスカートを押さえた。
その途端、俺を拘束していた謎の力は嘘のように消え失せ、俺の身体はめでたく自由となる。
彼女が犯した、たった一つの過ち―――それは自らへの警戒心の薄さだ。先ほど、俺の目線はちょうど彼女の膝の所にあった。女子ならば自分がスカートを履いているという事実を忘れてはならない。
「……み、見ましたか?」
「ん、ちらっとな。それにしても少し背伸びし過ぎじゃないか? 黒なんて高校生にはまだ早いと思うぞ」
立ち上がり、俺はパンパンと膝をはたきながら言った。
「……ッ、ち、違います! 黒なんて履いていません! 白です、白!」
「そうか、白なのか」
実際には、俺は彼女の下着なんて見てはいなかった。
「―――ッ⁉」
鎌を掛けられたとわかった彼女は、唇を噛み締め、キッと鋭い眼光で俺のことを睨み付けてくる。
その気迫に、俺は思わず後ずさった。
あ、やばいこれ……殺される。
窮地を脱したはいいが、殺されてしまっては意味がない。
せめて逃げる算段を立ててから仕掛けるべきであった。
張り詰めた沈黙が、俺たちの間に流れる。
足元から這い上がってくるような焦燥感に駆られる。
と、その時、
キーンコーンカーンコーン―――
ちょうど間延びした予鈴のチャイムが校内に響き渡った。
空気が軽くなる。
さよが口を開いた。
「命拾いしましたね。あと少し遅ければ、あなたはここの床の一部となっていたところです」
「は、ははは……」
俺は引き攣った笑みを浮かべる。
恐らく彼女なりの冗談なのだろうが、それが冗談に聞こえないところが質が悪い。
いや、もしかすると冗談のつもりはないのかもしれない……。
「まあ、今回の件については私もやりすぎましたので大目に見ます」
ガタリ、とさよが立ち上がる。
そして、
「ですが―――」
ぐいっと、俺に距離を詰めてきた。
「次に同じようなことをすれば、殺しますからね」
俺の耳元で囁いた。背筋が凍りそうなほどの冷めきった声だった。
「……はい」
俺は素直に頷く。軽口が通じそうな雰囲気ではなかった。
彼女は俺の返事を確認すると、何事もなかったかのように、図書室から出て行った。
突然、ポツリとつぶやくように彼女が言った。
「……えっ?」
思わず反応が遅れてしまう。
「呪いとは、一体何なのでしょう……」
彼女はもう一度そう言った。
俺がいる方とは反対側の、窓の外を見つめての言葉だった。
二階に位置するこの図書室には、グラウンドに面して大きな窓がいくつも取り付けられている。日差しを取り込み、薄暗くなりがちの室内を少しでも明るくしようという取り組みなのかもしれない。
夏の強い日差しがグラウンドを白く照らしている。表面にはゆらゆらと大きな陽炎が揺らめいており、そんな中を時折部活動に励む生徒たちが通り過ぎていく。
「急にどうしたんだ……?」
質問の意味がわからなかった俺は、彼女に訊き返した。
「………」
しかし彼女は何も答えない。
「呪いが何かって……そんなのお前の方が遥かに詳しいだろ……?」
俺に訊いてどうするんだと思った。逆に教えて欲しいくらいなのだ。こっちは今にもオーバーヒートしてしまいそうな頭の中を必死にまとめている最中だというのに………。
「………」
しかし、彼女は相変わらず窓の外を眺めたまま何も答えてくれない。
その視線の先にあるのは、白いグラウンド、幽霊のように揺れる陽炎、汗ふき出す生徒たちの黒い頭―――
だが、彼女の視点は、そのどれにも定まってはいないようだった。それよりも遠い、どこか違う場所を見つめているようだった。
「……あなたは……どう思いますか」
しばらく黙っていた彼女がおもむろに振り向いた。
気のせいだろうか。
心なしかその表情は暗い。薄い哀しみの色に縁取られているように見えた。
「どう思うって、言われても……」
そんな顔をされても、俺は何と答えたら良いのかわからない……。
「悪いもの、なんじゃないのか……? やっぱり呪いって、多かれ少なかれ人に害を与えるものだと思うし……使っていいものではないだろ……」
何となく抱いていたイメージからそう答えた。今の俺の知識量では、この程度の答えが限界だった。
さよはそんな俺の言葉を聞くと、また窓の外へと視線を移した。
「……悪いもの、ですか」
呟くように言った。
「そうですね……私も、そう思います」
「………」
なんとなく気まずい沈黙が落ちる。
俺はせめて自分の興味がある話題へ移ろうと考えた。
「そ、そう言えばさ。さよは他に何かできたりするのか? その、昨日やってた霊符で呪力を調べるとか以外に―――」
少し早口に、俺は彼女にそう訊ねた。
哲学チックな話よりは、こっちのオカルトじみた話の方がまだマシだと思った。俺の興味も少しは湧く。
「他に……ですか?」
「あ、ああ。何かすごい事できないのか?」
さよは少し考えた後、
「すごい事かどうかはわかりませんが……言霊は得意です」
「言霊……?」
その言葉に、俺は聞き覚えがあった。
少しだけ嬉しくなる。
「言霊ってあれだよな。人間の発する言葉には力が宿るっていう―――何度も何度も願い事を声に出していれば、いつかそれが叶うっていう、あの言霊だよな」
興奮気味に言った。彼女から発せられる奇怪な単語に、初めて確かな聞き覚えがあったからだ。
「……はい、まあ、大方その理解であってますが……」
「それで、さよはその言霊をどうすることができるんだ?」
「……言霊とは、自分の言葉に霊力を載せることで成り立つ術です。普通の人間にも微弱ながらに霊力は存在するので、何度も口に出し、言葉に霊力を載せることによって願い事が叶うというようなことは、あるにはあるでしょう」
そこで彼女は、一旦息を吐く。
「ですが、霊力が豊富に存在する私は、その言霊によって引き起こされる事象を操ることができます」
「操る?」
「つまりは、発した言葉通りのことを、現実世界に引き起こすことが可能だということです」
何でもないという風に、さらりと彼女が言った。
しかし俺は、
「そ、それってすごいことじゃないか……!」
と思わず声を上げた。
室内にいる数人の生徒からの視線が突き刺さったが、今はそれどころではなかった。
「自分の言ったことが現実になるってことだろ⁉ そんなの、もう魔法と一緒じゃないか……⁉」
さすがの彼女でも、そんなことまでできるとは思っていなかった。
「それってどこまで可能なんだ? 例えば宝くじに当たれって言ったら本当に当たるのか?」
「それは無理ですけど……例えば相手が人間であったならば、ある程度はその人の行動を操ることができます」
「操るって……例えば?」
「例えば……そうですね―――」
「あ、ていうか実際にその言霊ってやつで俺の身体を操ってみてくれよ」
彼女の言葉を待たずに俺はそう言った。
さよが怪訝そうな顔をする。
「あなたに……? 今、ここでですか?」
「言葉で説明するよりそっちの方が早いだろ?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「な、頼むよ」
大半は興味本位で、あと少しは怖いもの見たさ―――というより体験したさから、俺は彼女に頼んだ。
そんな魔法のような能力があるのならば、ぜひ一度この目で見たい、いや、この身で体験してみたいと思った。
さよは少し逡巡するような様子を見せた後、
「まあ、別に構いませんけど……」
と言って、俺の方へ身体を向けた。
そして彼女は可愛らしく、こほんと一つ咳払いをすると、透き通った瞳で俺の目を見つめてきた。
上目遣いの彼女に見つめられ、俺は少しだけ心臓を高鳴らせてしまう。
だが、次の彼女の一言で、俺は自分の軽はずみな言葉を激しく後悔することとなった。
さよはふっと、どこか不敵な笑みを浮かべると、
「―――跪いて下さい」
と、言った。
えっ―――と声を出す間もなく、次の瞬間には俺の身体に変化が現れていた。
ぐわん、と頭と体を同時に揺さぶられるような不快感に襲われたかと思うと、突然俺の両膝が、がくんと折れたのだ。
「―――ッ⁉」
決して俺の意思などではない。後ろから誰かに突かれたわけでも、目の前の彼女が俺の膝に触れたわけでもない。俺の身体が勝手に反応したのだ。俺の意思とは無関係に―――
変化はそれだけに収まらない。
今度は首が僅かに前方に傾き、左腕は膝の上へ、右手は真っ直ぐ彼女の方へと差し伸べられた。
そして、彼女が言葉を発してから数秒後―――俺の身体は、まるで子供の絵本の中に出てくるような―――王子様がお姫様に対して取るようなポーズで、彼女の前に跪いていた。
周りにいた生徒たちが、何事かと目を丸くしている。中にはクスクスと笑いながら、俺の奇妙奇天烈な姿を笑っている者もいた。
何だ……? 今、何が起こったんだ―――?
俺の頭はパニックに陥っていた。
身体にまるで力が入らない。いや、力は入っているのだが、動かすことができないのだ。
身体の自由が全く利かない。まるで見えない糸で、がんじがらめに縛られているようだ。
まさか、これが言霊の力なのか―――?
混乱する思考の中、俺はようやくその答えに辿り着いた。
つい今しがた、彼女は言った。
跪いて下さい―――と。
その言葉通り、俺は今、彼女の前で跪く格好を取っている。
彼女に操られたのだ。言霊の力によって―――。そう確信した。
抗うことなどできなかった。抵抗する術などなかった。身体そのものを操られたのだ。
最強の術だ。弱点など存在しない。どんな剛腕で屈強な男たちが束になっても、さよには指一本触れることはできないだろう。
そう思った。
それにしても……
なんて無様で、情けない格好なのだろうか。
俺は自らの姿を客観視して泣きそうになった。
昼休みの図書室でこんなポーズをしているなんて、完全に頭のいかれた人間である。こんな姿を誰かに写真にでも撮られ、校内にばら撒かれようものなら、俺は間違いなく明日から学校へ来ることができない。
何とかして今すぐに、この状況を打破しなければならなかった。
俺は両足に渾身の力を籠める。必死に立ち上がろうと抵抗する。
だがやはり、俺の身体はピクリとも動いてくれなかった。
「いい格好ですね、時坂優」
頭上からさよの声が降ってきた。
その声は、いつもよりも少しだけ高い。
「あなたはもう少し、自らの言動を見直すべきです。人のことを小さいと馬鹿にしたり、年上である私にため口を利いたり、挙句の果てには変な渾名までつけようとして……舐めているとしか思えない態度が多すぎです」
彼女の冷たい声が、容赦なく俺に降り注いでくる。
どうやら彼女は、昨日からの俺の態度を許したわけではなく、ずっと心の底で根に持っていたようだ。
その鬱憤を、今ここで晴らそうというのか……?
「反省し、改心してください。そしてもし、今この瞬間から態度を改めると誓えるのならば、あなたに掛けたその言霊を解いてあげましょう」
勝ち誇ったような声だった。
成す術なし―――。
そう思った。
彼女のローファーの先が、俺の肩を軽く小突く。その反動で、彼女の短いスカートがふわりと揺れた。
彼女の言う通り、ここは大人しく、改心を示しておくしかないと思った。俺に非があるのも確かだから……。
頭を上げることは無理だったので、目だけを動かして彼女を見ようとした。眼球は自由が利いた。
ゆっくりと目線を上げる―――
だがその時、
……俺は、あることに気が付いた。
それは真っ暗だった俺の目の前に、一筋の光が射した瞬間だった。隙のない彼女が犯した、たった一つのミスを、俺は見つけてしまったのだ。
思わず顔がにやけそうになってしまう。俺は確信した。今の彼女に打ち勝つにはこの方法しかない。
「なあ、さよ」
口も動かすことはできた。
「どうしましたか。心を入れ変えましたか?」
そうではない。
俺はたっぷりと間を持たせ、そして―――
「この位置からだと、下着見えるぞ」
と言った。
「―――ッ⁉」
次の瞬間、彼女は見たこともないような俊敏な動きで、自分のスカートを押さえた。
その途端、俺を拘束していた謎の力は嘘のように消え失せ、俺の身体はめでたく自由となる。
彼女が犯した、たった一つの過ち―――それは自らへの警戒心の薄さだ。先ほど、俺の目線はちょうど彼女の膝の所にあった。女子ならば自分がスカートを履いているという事実を忘れてはならない。
「……み、見ましたか?」
「ん、ちらっとな。それにしても少し背伸びし過ぎじゃないか? 黒なんて高校生にはまだ早いと思うぞ」
立ち上がり、俺はパンパンと膝をはたきながら言った。
「……ッ、ち、違います! 黒なんて履いていません! 白です、白!」
「そうか、白なのか」
実際には、俺は彼女の下着なんて見てはいなかった。
「―――ッ⁉」
鎌を掛けられたとわかった彼女は、唇を噛み締め、キッと鋭い眼光で俺のことを睨み付けてくる。
その気迫に、俺は思わず後ずさった。
あ、やばいこれ……殺される。
窮地を脱したはいいが、殺されてしまっては意味がない。
せめて逃げる算段を立ててから仕掛けるべきであった。
張り詰めた沈黙が、俺たちの間に流れる。
足元から這い上がってくるような焦燥感に駆られる。
と、その時、
キーンコーンカーンコーン―――
ちょうど間延びした予鈴のチャイムが校内に響き渡った。
空気が軽くなる。
さよが口を開いた。
「命拾いしましたね。あと少し遅ければ、あなたはここの床の一部となっていたところです」
「は、ははは……」
俺は引き攣った笑みを浮かべる。
恐らく彼女なりの冗談なのだろうが、それが冗談に聞こえないところが質が悪い。
いや、もしかすると冗談のつもりはないのかもしれない……。
「まあ、今回の件については私もやりすぎましたので大目に見ます」
ガタリ、とさよが立ち上がる。
そして、
「ですが―――」
ぐいっと、俺に距離を詰めてきた。
「次に同じようなことをすれば、殺しますからね」
俺の耳元で囁いた。背筋が凍りそうなほどの冷めきった声だった。
「……はい」
俺は素直に頷く。軽口が通じそうな雰囲気ではなかった。
彼女は俺の返事を確認すると、何事もなかったかのように、図書室から出て行った。
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