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乱れる乙女心

母としての本能

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 ドロテアさんの呼びだしで通されたのは貴族塔の一室だ。
 そこは談話室といって予約すれば利用できる場所らしいけど、当然ながら一般塔所属の私は本来であれば入ってはいけない。

 私はいろんな意味で冷や汗を流していた。
 お腹の子の事もだけど、ルーカスと一線を超えた部屋がある特別塔の敷地内にいると、あの晩のことを思い出すから。
 ……元はと言えば、この人がルーカスに媚薬を盛ったりするから私がこんな目に遭っている訳で……だけど口に出せないので一人でもやもやする。

 カチャリと陶器が小さく音を立てた。メイドらしき女性にお茶を出されたのだ。特別塔にはメイドさんがいるのか……私は小さくお礼を言った。出されたものを飲む気は一切ないけど。

 目の前では優雅にお茶を飲んでいるドロテアさん。
 この人が私と楽しくおしゃべりするために呼びだした訳じゃないのはわかっている。ここで自殺に見せかけて殺される可能性も考えて、私は襲われた場合どうやって逃げるかを考えた。

「単刀直入に申しますわね、わたくしとルーカスの婚約話が持ち上がってますの」
「え……?」

 私の口から漏れた言葉が疑問風だったのは、言われた言葉が理解できなかったからではない。
 彼らは血が濃い間柄だから結婚することはありえないとルーカスやクライネルト夫妻から聞かされていた事だったので、どういうことだ? と思ったのだ。ルーカスはあんなにもドロテアさんを拒絶していたのに……ここにきて婚約って流れは不自然にも思えた。

「その顔じゃ信じていないようですわね」

 ドロテアさんは馬鹿を見下すような高圧的な態度を見せると、メイドに視線で何かを命じていた。
 メイドさんは事前に用意していたらしい何かの冊子をサッと私の前に差し出した。私は反射的にそれを受け取り、そして開かれていたページを見て目を見開いた。【婚約!】の太い文字が踊るその雑誌の中で、ルーカスとドロテアさんの写真がでかでかと飾られていたからだ。
 それは上流階級向けの社交雑誌らしい。
 記事をざっと読むと、やはり彼らの婚約が決まった的な内容だった。貴い血を持った歴史ある家門のふたりが結ばれるのは必然であると称賛が混じった文体で彼らの婚約を祝う言葉が連なっていた。

 私の手は無意識に雑誌を握り締めていたらしい。冊子の両端にシワを作ってしまっており、慌てて力を抜いたが、ぐちゃっとなってしまった。
 そんな私の反応に満足したのか、ドロテアさんは赤い口紅を引いた唇に弧を描いた。

「これ見て、彼にもらったのよ」

 ドロテアさんは左手を掲げて、私に高そうな指輪見せてきた。大きな宝石の付いた指輪だ。……私がルーカスにもらった雫型のネックレスよりも大きい群青色の宝石。
 彼女はそれを愛おしそうに指でなぞり、ふふふと笑った。

「ルークがあなたによくしてるのは、彼が責任感ある殿方だからですのよ? そもそもあなたのような平民が選ばれるわけがないの。いい加減に自惚れはよして身の振り方を学ばれたら?」

 彼女の厭味に私は自嘲してしまった。
 ……本当にね。あの晩まで私は自惚れた馬鹿な女だった。
 あれだけドロテアさんとの関係を否定しておいて、結局は……良いお家の娘さんを選ぶんだよね。平民の私は利用されただけなんだ。本当お笑いものだよ。

「……ぐっ」

 突如込み上げてきた胃液が飛び出してきそうになり、私は口元を抑えた。
 それにドロテアさんは怪訝な表情を浮かべていた。
 まずい。香水と紅茶、お茶菓子類の香りで気分が悪くなってきた。
 ここにいると私の体調のことを気取られてしまう。理由をつけて逃げなくては。手の平で隠した口元。なんとか飲み込んで息を吸う。

 落ち着け、ここで異変を見せたらダメだ。彼女に気付かれてしまうかもしれない。

「わかりました、どうぞお幸せに。…お話がそれだけなら失礼します」
「えっ? えぇ……」

 私があっさり納得したから拍子抜けしたのだろうか。
 私は慇懃無礼に頭を下げると、席を立ってすたすたと退室した。

 不自然に思われぬよう早歩きで逃げると、女子トイレに駆け込んで便器に向かって胃の中身を吐き出した。
 医務室で食べやすいものを用意してもらって食べたものが消化途中で吐き出されていく。
 こみ上げてくる吐き気がすっきりするまで全て吐き出してしまおうとするけど、吐き出すものが胃液だけになっても不快感はなくならなかった。
 苦しすぎて涙まで溢れてくる。

 苦しい、苦しい。
 身体も心も苦しい。逃げ出してしまいたい。

 ルーカスは私がこんなに苦しんでいることなんか知らないよね。これから先もずっと知らないで終わるんだ。
 だってドロテアさんと結婚するんだもの。
 私にはこんなに苦しい思いをさせて本当に最低な人。

 ……嫌いになれたらいいのに。
 彼が本当に心の底から嫌な人なら、私だってこんなに苦しくなかったかもしれないのに。

 入学式の時に出会ってから、たくさん親切にされてきたことを思い出すと、どうしても嫌いになれなかった。

「うっ……うぇぇ……」

 涙なんかもうとうに枯れ果てたと思ったのに、私は泣いた。
 放課後でよかった。放課後ならそんなに人が来ないだろう。

 私はしばらく悪阻に苦しみながら、わんわん泣いていた。


◇◆◇


 ルーカスとドロテアさんの婚約話は一般塔でも話題になった。
 貴族向けの雑誌を好んで読む人がいるのか、一人が語り出すと一気に学校中に話が広まってその話題を知らない人はどこにもいない状況になった。

 ルーカスのことをよく知らない人は、旧家出身の人で貴族の血を受け継いでいるから、そうなるのは当然なんだろうねと違和感なく話題を受け入れて祝福していた。好意を抱いていた女子生徒は悔しがりながらも貴族相手じゃ勝ち目はないと諦めていた。
 ルーカスと親しい人は騒ぐことなく、静観していた。
 そして私は完全に無視していた。

 さすがに異変に気づきはじめたイルゼとニーナが
「クライネルト君と話したほうがいいよ」
「ふたりとも最近どうしちゃったの? なにかあったの?」
 …と、忠告してきたけど、私はそれに否の返事を突きつけた。

「ルーカスとは話したくないの」

 その時、私がどんな顔をしていたかは鏡を見ていないのでわからない。
 だけどイルゼとニーナが怯えた表情を浮かべていたので余程怖い顔をしていたんだろうなと後で反省した。

 そのうち、私は得意魔法になった幻影術を操って自分の存在を消すようになった。



 どんどん膨らんでいくお腹の中で育っていく命。
 私にはこの子を殺せない。

 妊娠していることは誰にも言えない。
 言ったらこの子は殺されてしまう。
 何もルーカスや友達だけじゃない。彼らに知られたら、どこからか彼女に情報が伝わる可能性だってある。

 ルーカスと結婚するのだと恍惚の表情を浮かべていた姿と、創立記念パーティの晩でルーカスを探していた彼女の危うい言葉を思い出すと、どうにも不気味なのだ。

 ──ドロテアさんは危険だ。

 ルーカスを病的に愛している彼女は嫉妬に狂って何をしてきてもおかしくない。子どももろとも私を殺すに違いない。
 それがたとえ、自分がしたことが原因で私達に過ちが起きたのだと知っても、彼女は自省するような人じゃない。なにがなんでも私のせいにする。

 婚約になったのなら尚更、平民の私は簡単に貴族の権力で消されてしまう。それこそ彼女の立場なら、他殺に見えないように殺すことは容易いことであろう。

 この子を守るためには隠し通さなきゃ。
 誰にもバレないように、隠すんだ。
 私にしかこの子を守れない。

 しっかりしろ、私はこの子のお母さんなのだから。
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