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Day‘s Eye 芽吹いたデイジー

帰る場所【テオ視点】

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 贔屓にしてもらっている店に商品を卸し、受取書にサインを書いてもらう。それで完了である。

「ありがとうございましたー」
「あのっよかったら今晩一緒に夕飯でも…」

 村へ帰ろうと店の外へ一歩足を踏み出すと、横から若い女性に声を掛けられた。一瞬あの娼婦かと思ったけど全く違う子だった。今声をかけてきたのはこの店の近くの飯屋で働く女の子だ。

「あーごめんな、俺、嫁がいるから」
「…あ、そうでしたか…すみません…」

 俺が既婚者だと知らなかったらしい娘はがっくりと肩を落としてすごすご退いて行った。……普通はこうだよな、相手がいるとわかったら身を引くのが普通だ。ましてや結婚しているんだから。
 落ち込む女の子の後ろ姿を見て少しばかり申し訳ない気持ちに襲われながら、今度こそ店を出る。

 空を見上げれば夕暮れが広がっていた。夕暮れは好きだ。いつも仕事が終わって、家までの道を歩きながら見上げる空だから。でも今日の気分は少し違う……

「狼のにいちゃんだ!」

 その声に俺の耳がビクリと震えた。
 ちょっと身構えてその声の主を振り返る。

「……?」

 声の持ち主はあの娼婦の息子だった。──そのはずだが、一瞬人間違いかと思ってしまった。いつも同じ服を着て薄汚れていたはずの男児は新品の服を着せられて、初老の男性と手をつないで歩いていたのだ。
 ……この男は、誰だ?
 俺が男児と男性に視線を往復させていると、相手も同様に怪訝な表情をしていた。

「…あの、孫とはどういう?」

 相手から問われて、俺はハッとした。
 この男児にはあの母親の他にも肉親がいたのかと。

「…町で坊主がひとりでいたのを不審に思って、何度か声掛けたことがあったんです」

 言外に育児放棄にあっているのを見かけたと言えば、相手は苦い表情を浮かべていた。

「そうですか……私はこの子の父方の祖父でして…」

 父親。
 そう言えばあの女は父親に捨てられたとかボヤいていたな。

「あの女と駆け落ちした息子は苦労して……死んでしまったのです」

 ……逃げられたんじゃなくて、亡くなっていたのか。あの女、旦那が死んでるってのに逃げられたとかよくも言えたな。不仲だったのか?

「色を売るのを生業にしているあの女が相手じゃ苦労するとわかっていたから結婚に反対したのにと言うのは今更ですがね。息子の忘れ形見を放置できなかったんです」

 そう言って男児の祖父だという男性は孫の頭を優しく撫でていた。

「このままあの女のもとに置いておいても孫には悪影響なので、法的な手続きを経て、養子縁組をしてこの子を引き取ることにしました。時間を掛けてあの女とも話し合いをしてきましたが、あっちは要求ばかり。…もう無理だと判断したのです」

 男性は『母親と引き離すのはあれですが』と申し訳無さそうな顔をして男児を見下ろしていたが、赤の他人の俺からしてみたらこんな状況なら引き離すのが一番だと思う。でないと子どものためにならない。
 今後母親と遭遇することのないように、遠い町へ今晩引っ越すのだそうだ。これから馬車に乗ってこの町を離れるという。

「元気でな」

 膝を折った俺は男児と目を合わせて彼の頭を撫でた。

「うん!」

 笑顔で返事した男児は、祖父と手をつないで路地に止まっていた長距離用の馬車に乗っていた。初めて乗ったのだろう。楽しそうに瞳を輝かせていた。彼の手には大切そうに抱かれた木彫りのドラゴン。…なるほど、あれは祖父さんから買ってもらったんだろうな。
 ……あの坊主はこれから自分がどうなるのか今はまだよくわかっていないのかもしれない。もしかしたらしばらくして母親がそばにいないことに気づいて嘆くのかもしれない。
 だけどそのうち理解するのだろう。彼がなんとか人並みの幸せを得られたらいいと思う。

 動き始めた馬車は旅人を乗せて走り出した。
 ……この光景を見ているとデイジーを遠くから見送ったときのことを思い出す。彼女にバレないようにこっそり木々に隠れて馬車を見送った日を、もう二度と会えないのだと絶望したあの日々を。
 俺は何度も彼女を失いかけた。

 手の届かない貴族の姫さんになったデイジーはもう村に戻ってこないと思っていたのに、彼女は身分を捨てて帰ってきた。そして俺の手をとってくれた。
 やっとの思いで結ばれた俺の伴侶。俺の愛しい番。
 何度でも何度でも謝ろう。そして身の潔白を訴えよう!

 俺はやる気をみなぎらせて、村まで走って帰ろうと踵を返したのだが、真後ろに立っていた女の姿を見てギクリとした。
 ……今日は香水使ってないのか。あの悪臭がしなかったからわからなかった……

 もしかしたら坊主を見送っていたのだろうか。こんなんでも母親は母親なのかもしれない。

「あの後、奥さんとどうなった?」

 ニヤリと性格悪そうに笑った女の顔は醜かった。本能的に嫌な予感がしてぞわりと尻尾の毛が膨らんだ。
 まさかとは思うが……この女、人の家庭をめちゃめちゃにして楽しんでいるのか?

「あんたには関係ない」

 もうこれ以上関わってられん。俺は横をすり抜けていく。
 用事は終わったんだ、早く帰ろう。そう思って歩き始めたのだが、左腕に絡みついた手に俺はゾッと鳥肌を立てる。
 …香水の匂いはしないけど、相変わらず不特定多数の男の性の匂いがする。ほんときっつい。

「怖そうな奥さんだったもんねぇ…私ならもっと寛容に受け止めるけどなぁ」

 今しがた息子と引き離された母親の発言とは思えない。この女は腹を痛めて産んだ我が子より、赤の他人の男のほうが大事らしい。──心底軽蔑する。

「嫁を傷つけたくない。俺に構わないでくれないか」

 ブンッと腕を振り払うと、女がよろけていた。

「何するのよ!」
「俺の番はデイジーだけだ。迷惑だから俺に構わないでくれ」

 何をするはこっちのセリフである。
 そもそもこの女は獣人という生き物をよくわかっていないな。獣人は五感が人間よりも鋭いのだ。伴侶を選ぶ時も感覚を使って相手を探っている。
 そんな俺ら獣人が、他の男の種を複数抱え込む女を好き好んで抱くとでも思っているのだろうか。ましてや俺には唯一無二の伴侶がいる。粉をかけるには相手が悪すぎるぞ。

「不特定多数の男の匂いをプンプンさせる雌はゴメンだ。ましてや、我が子が取り上げられたのに発情しているような女なんかな」

 我が子を放置してあちこちの男に粉掛けているような女は論外だ。それが生きるための手段だとしても、やっていいことと悪いことがある。

「なにそれ!」

 俺が突き放したのが気に入らないのか、女は憤慨していた。
 なにやら後ろできーきー喚いていたが、俺は無視した。地面を蹴りつけて町を駆け出すと、村に向かって一直線だ。

 デイジーのところに行こう。
 彼女の機嫌が治らないなら、何度だって許しを乞うてみせよう。自分の身の潔白を訴えてやる。何度だって頭を下げて、俺が身も心も捧げているのはデイジーだけだって愛を囁こう。
 もしかしたら門前払いになるかもしれない。それでもいい。今の俺にできることは愛しのデイジーにまっすぐ愛を告げることだけだ。
 俺の嫁さんに敵う女なんかこの世のどこにも存在しないのだ。

 とっぷり真っ暗になった村の道を駆けていき、マック家の扉を叩くと、意外や意外。出迎えてくれたのはデイジーだった。

「仕事終わるの遅かったね、何してたの」

 彼女は不機嫌だった。ジト目で俺を見上げている。
 …もしかして俺が来るのを待っていたのだろうか。

「親方に配達頼まれていたから遅くなった」
「ふぅん?」

 デイジーはそう言うと踵を返して実家の中に戻っていく。俺はその後を追った。デイジーは振り返らずに部屋に入っていった。
 結婚するまでデイジーが使っていた部屋は以前と変わらないままにされていた。子どもの頃から使用していたベッドに腰掛けたデイジーはもの言いたげに俺を見上げていた。
 紫の宝石のように美しい彼女の瞳に自分が映ると胸が熱くなった。もっと俺を見てくれ。願わくば俺だけを見ていてほしい。彼女と目線を合わせるために床に膝をつくと、彼女の小さな手をそっと握った。

「…なぁデイジー、俺は物心がようやくついた頃からお前に夢中なんだぜ? 今更他の女になびくわけがないだろう?」
「……」
 
 機嫌悪く膨れるデイジー。
 だけど昨日の軽蔑の視線とは大違いだ。一日距離をおいて冷静になったのだろう。

「あの女は娼婦で、俺はその気はなくて引き剥がそうとしてたの」
「…でも抱き合っていたのは確か」
「俺は嫌だったんだぞ? あの女、香水と他の男の匂いプンプンさせて、俺鼻がどうかしちまうかと思ったし」

 鼻がもげそうで身体が固まっていたとも言う。俺には一切の下心はない。俺が抱きしめたいのはデイジーだけだ。信じてくれ。
 デイジーの白くて小さな手を壊れないように優しく握りながら、彼女に自分の無実を訴える。

「魔法を使って俺の本音を聞いてもいいぞ? なんなら薬でもいい」
「……」
「俺はお前を裏切ったりしない。俺がほしいと思った女はデイジーお前だけなんだ」

 どんな手段を使ってでもいい。お前が俺を信じてくれるならなんだってやる。
 彼女の手の甲に口づけを落とすと、デイジーの手がピクリと震えた。ちらりと彼女の顔色をうかがうと、不満そうに口元を歪めてはいるものの、白い頬が赤く染まっていた。
 はぁ、かわいい。不満そうな顔しながら照れてる……俺の嫁さんめちゃくちゃかわいい……

 あまりにも可愛かったので、ベッドに座っている彼女を抱き上げて、彼女の匂いを思い切り吸い込んだ。
 ……あぁ、心洗われる…めっちゃくちゃいい匂い……食べたい。

「…早く俺たちの家に帰ろう。…な?」

 俺が静かに問いかけると、まだ不機嫌そうなデイジーは唇を尖らせていた。その頬が赤いので全然怖くない。ただただかわいい。
 彼女の尖った唇が美味しそうだったのでかぶりついて貪ると、顔を先程よりもさらに真っ赤にしたデイジーに頭をぱしばし叩かれた。

「ここ実家!」

 実家じゃなかったら良かったらしい。危なかった。ここが家だったらそのままデイジーを頂いているところだった。だめだ。だめだぞ俺。デイジーは体調が悪いんだからな。

 結婚してだいぶ経つのに初心なところがある俺の大切な嫁さん。
 やっぱり俺の番は世界一可愛い。
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