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外伝・東で花咲く菊花
囚われた心
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あたしの兄さんは、クソ親父の暴力から守ろうとして身体を悪くした母さんに負い目を感じている。母さんが「気にしなくていいのよ」と言っても兄さんとしてはそうは行かなくて、当時寝たきりだった母さんの介護を率先してやっていた。
そのため、足が悪い人の介助を得意とした。助けてやるのが当然で、それが彼の日常で当たり前だった。
だけどそれがちょっとした誤解を産んで騒動となった。
ある日、伯父さんに隣町までのお使いを頼まれたので兄さんと一緒にでかけた帰りに通り雨にぶち当たった。先程まで晴天だったので傘なんか持ってきていないし、どうしたものかとその辺にあったお堂の軒下で雨宿りしていた。
「…雨、やまねぇなぁ」
「こっちの天気ってよくわからないよね」
こっちに来て早くも半年くらい経過したが、天気の移り変わりがよくわからない。なんせここには四季があるのだ。季節の大半が冬だったハルベリオンとは全く気候が違う。
あたしと兄さんはザバザバ降り注ぐ雨を見上げてため息をつく。最悪ここで一晩明かすってこともありそう。
「ん?」
ぼーっと降りしきる雨を眺めていると、兄さんが怪訝な声を漏らした。
どうした、と思って視線を動かすと、兄さんの視線の先に、傘を差した女が杖をついてよたよたしながら歩いているのが見えた。どうやらどこかで転倒してしまったらしく、服が泥まみれになっていた。足の悪いお年寄りかな。
母さんと同じく身体が不自由な人を見るとどうにも気になる性分らしい兄さんは雨に濡れるのもいとわずにその人のもとに駆け寄った。
何やらやり取りをしているなと思ったら、兄はその女性をひょいっと横抱きにしたではないか。なるほど、運んでやるのか。仕方がないので兄さんのもとに駆け寄ると意外や意外。足を悪くしている女性は、思っている以上に若かった。…こっちの人は童顔だからそれを抜きにしても、多分兄さんより少し年上か同い年くらいかな。
「あの、でも、申し訳ないです…」
「いいから。傘をしっかり持ってろ」
顔を真っ赤にして恥じらう女性の様子を気にすることもなく、兄さんは彼女を家まで送ると申し出ていた。あたしは濡れ鼠になることを覚悟で後ろをついていく。
彼女の道案内に沿って歩いていくと、彼女の家が見えた。そこそこ大きなお宅で、いいところの娘なんだとすぐに察せた。
「まぁまぁお嬢様! お怪我をなさったんですか!? 泥だらけになって!」
奥からやってきた老婆が大げさな声を上げながらやってきた。これまた奥からやってきた使用人っぽい男が腕を差し出してきたので、兄さんは女性を落とさないように相手に託した。
「じゃ、俺達はこれで」
「あ。あの」
女性はなんだか名残惜しそうな顔をして兄さんの服の袖を掴んだ。
「お名前を。お礼をさせてもらいたいのでお住まいもお聞きしたいのですが…」
「いや、大したことしてねぇから礼なんかいらねぇよ」
「ならばせめて! おふたりともずぶ濡れですので暖まっていってください」
兄さんは遠慮していたが、正直あたしは寒かったので、その申し出はありがたかった。
「いいじゃん、兄さん。甘えちゃおうよ」
そんなわけでお風呂と服を借りて、ご飯までごちそうになった。
髪を手ぬぐいで拭いながら、窓の外を見上げると、雷が空を切り裂くように空中を走っていた。厚い雲に覆われた空は真っ暗になって、夜の闇が迫ってきている。
これは一晩雨が振り続けるかもしれないなぁ……
「あの、あの、申し訳ないです…」
「気にすんな。うちの母さんも足が悪くてこうしてよく揉んでやったんだ」
充てがわれた客室に向かっていると、恥じらう女の声と兄さんの声が聞こえた。開けっ放しの襖から顔を覗かせると、そこには顔を真っ赤にした女の足の上に手ぬぐいを載せて、手のひらで揉み込んであげている兄さんの姿があった。
マッサージしてあげているのは見ていたらわかるんだけど……見る人によっては誤解されちゃいそうな光景である。ここの娘さんであるミワさんは恥ずかしそうにしていたが、嫌がっているわけではなさそうだ。
ここのばあやさんいわく、この女性は生まれつき足が悪いお嬢様なのだという。こんな天気の日は足が痛むのであろう。きっと兄さんは母さんと重ねてしまって放っておけなかったんだろうな。
その日、結局雨は止まず。一晩泊まらせてもらい、朝イチであたしたちは帰宅したのだが……お屋敷の玄関でお見送りしてくれたミワさんの視線が兄さんにだけ注がれており、その瞳は熱く濡れていた。
一宿一飯お世話になったから、お礼は十分に受け取ったと思うのだが、ミワさんはお礼だと言って重箱を持って家までやってきた。あ、重箱はお付きの下男が運んできたみたいだけど。
どうやら親切にしてくれた兄さんに好意を抱いたようで、それを一切隠さなかった。何度も理由をつけては会いに来るミワさんが自分に好意を持ってくれていると気づいた兄さんは始め戸惑っている様子だったが、応える気は一切なかったようである。
「ミワさん、もしも俺のことを男として好いているとかそういうのであれば、申し訳ねぇけど俺には応えられない」
何度も足を運ばせて、変な期待をさせるのも悪いと思ったのだろう、ミワさんに好意を告げられる前に兄さんは彼女を振った。
それに対してミワさんはひどく傷ついているようだった。奥二重の涼しげな瞳に涙が浮かび、それが静かに頬を伝ってこぼれ落ちる。
「他の人は、私を出来損ないのかたわだと嫌がるのに、あなたは違った。私、よその男の人に初めて優しくされたんです。…やっぱり、私がかたわだからお嫌なのですか? 健康な女性がお好きなんですか?」
そう言われると返事に困ると思うんだけど…とは口を挟まなかった。これは兄さんとミワさんの話だ。あたしが口出しすることじゃない。
兄さんは涙を流すミワさんをみて動揺していたが、フッと視線をそらして、苦々しげな表情を浮かべていた。
「別に、あんたがどうとか言う問題じゃない」
「ではなぜ! お好きな女性がおられるのですか!?」
はじめは控えめな女性だなと思っていたが、結構グイグイ来るなこの人。兄さんは彼女の勢いにちょっと押されつつあるが、同情とかで流されないように耐えていた。
「……俺のオヤジは暴力的な男だったんだ。俺はその暴力を受けたし、目の前で母さんやキッカに暴力をふるう姿を見ながら育ってきた」
あたしたちは弱いこどもだった。
だから、暴力には必死に耐えるしかなくて、いつも母さんに守られるばかりだった。兄さんの心の傷は、あたしの傷でもある。だからそれを理由に女性を振る兄さんのことを責められない。
「鏡を見ると、似ていなかったはずのオヤジに似てきている気がするんだ。…俺は父親みたいに女に暴力振るう男になるかもしれないから…ごめん」
「そんな、あなたとお父様は別人ではありませんか。あなたは優しい人です、そんなことは」
「俺は嫁を娶る気はない。もちろん子どももだ。本当にごめん」
ミワさんの好意に壁を作って遮る。彼女も拒絶を感じ取ったのだろう、目を大きく見開いてフルフルと小さく震えている。
兄さんは自分にはその気がないことを告げると背中を向けて歩き始めた。
拒絶されたミワさんは泣き始めてしまった。
だけどあたしは何も言えずに、彼女が泣いている姿を隠れて見守るしか出来なかった。
あたしも、兄さんも、そういったことに恐怖を抱いている。
もともとはあの地獄のような国で朽ち果てる運命だったあたしたち。暴力と恐怖が全てだった世界で生きてきたあたしたちにはそういった幸せを思い描くことが出来ないのだ。
そのため、足が悪い人の介助を得意とした。助けてやるのが当然で、それが彼の日常で当たり前だった。
だけどそれがちょっとした誤解を産んで騒動となった。
ある日、伯父さんに隣町までのお使いを頼まれたので兄さんと一緒にでかけた帰りに通り雨にぶち当たった。先程まで晴天だったので傘なんか持ってきていないし、どうしたものかとその辺にあったお堂の軒下で雨宿りしていた。
「…雨、やまねぇなぁ」
「こっちの天気ってよくわからないよね」
こっちに来て早くも半年くらい経過したが、天気の移り変わりがよくわからない。なんせここには四季があるのだ。季節の大半が冬だったハルベリオンとは全く気候が違う。
あたしと兄さんはザバザバ降り注ぐ雨を見上げてため息をつく。最悪ここで一晩明かすってこともありそう。
「ん?」
ぼーっと降りしきる雨を眺めていると、兄さんが怪訝な声を漏らした。
どうした、と思って視線を動かすと、兄さんの視線の先に、傘を差した女が杖をついてよたよたしながら歩いているのが見えた。どうやらどこかで転倒してしまったらしく、服が泥まみれになっていた。足の悪いお年寄りかな。
母さんと同じく身体が不自由な人を見るとどうにも気になる性分らしい兄さんは雨に濡れるのもいとわずにその人のもとに駆け寄った。
何やらやり取りをしているなと思ったら、兄はその女性をひょいっと横抱きにしたではないか。なるほど、運んでやるのか。仕方がないので兄さんのもとに駆け寄ると意外や意外。足を悪くしている女性は、思っている以上に若かった。…こっちの人は童顔だからそれを抜きにしても、多分兄さんより少し年上か同い年くらいかな。
「あの、でも、申し訳ないです…」
「いいから。傘をしっかり持ってろ」
顔を真っ赤にして恥じらう女性の様子を気にすることもなく、兄さんは彼女を家まで送ると申し出ていた。あたしは濡れ鼠になることを覚悟で後ろをついていく。
彼女の道案内に沿って歩いていくと、彼女の家が見えた。そこそこ大きなお宅で、いいところの娘なんだとすぐに察せた。
「まぁまぁお嬢様! お怪我をなさったんですか!? 泥だらけになって!」
奥からやってきた老婆が大げさな声を上げながらやってきた。これまた奥からやってきた使用人っぽい男が腕を差し出してきたので、兄さんは女性を落とさないように相手に託した。
「じゃ、俺達はこれで」
「あ。あの」
女性はなんだか名残惜しそうな顔をして兄さんの服の袖を掴んだ。
「お名前を。お礼をさせてもらいたいのでお住まいもお聞きしたいのですが…」
「いや、大したことしてねぇから礼なんかいらねぇよ」
「ならばせめて! おふたりともずぶ濡れですので暖まっていってください」
兄さんは遠慮していたが、正直あたしは寒かったので、その申し出はありがたかった。
「いいじゃん、兄さん。甘えちゃおうよ」
そんなわけでお風呂と服を借りて、ご飯までごちそうになった。
髪を手ぬぐいで拭いながら、窓の外を見上げると、雷が空を切り裂くように空中を走っていた。厚い雲に覆われた空は真っ暗になって、夜の闇が迫ってきている。
これは一晩雨が振り続けるかもしれないなぁ……
「あの、あの、申し訳ないです…」
「気にすんな。うちの母さんも足が悪くてこうしてよく揉んでやったんだ」
充てがわれた客室に向かっていると、恥じらう女の声と兄さんの声が聞こえた。開けっ放しの襖から顔を覗かせると、そこには顔を真っ赤にした女の足の上に手ぬぐいを載せて、手のひらで揉み込んであげている兄さんの姿があった。
マッサージしてあげているのは見ていたらわかるんだけど……見る人によっては誤解されちゃいそうな光景である。ここの娘さんであるミワさんは恥ずかしそうにしていたが、嫌がっているわけではなさそうだ。
ここのばあやさんいわく、この女性は生まれつき足が悪いお嬢様なのだという。こんな天気の日は足が痛むのであろう。きっと兄さんは母さんと重ねてしまって放っておけなかったんだろうな。
その日、結局雨は止まず。一晩泊まらせてもらい、朝イチであたしたちは帰宅したのだが……お屋敷の玄関でお見送りしてくれたミワさんの視線が兄さんにだけ注がれており、その瞳は熱く濡れていた。
一宿一飯お世話になったから、お礼は十分に受け取ったと思うのだが、ミワさんはお礼だと言って重箱を持って家までやってきた。あ、重箱はお付きの下男が運んできたみたいだけど。
どうやら親切にしてくれた兄さんに好意を抱いたようで、それを一切隠さなかった。何度も理由をつけては会いに来るミワさんが自分に好意を持ってくれていると気づいた兄さんは始め戸惑っている様子だったが、応える気は一切なかったようである。
「ミワさん、もしも俺のことを男として好いているとかそういうのであれば、申し訳ねぇけど俺には応えられない」
何度も足を運ばせて、変な期待をさせるのも悪いと思ったのだろう、ミワさんに好意を告げられる前に兄さんは彼女を振った。
それに対してミワさんはひどく傷ついているようだった。奥二重の涼しげな瞳に涙が浮かび、それが静かに頬を伝ってこぼれ落ちる。
「他の人は、私を出来損ないのかたわだと嫌がるのに、あなたは違った。私、よその男の人に初めて優しくされたんです。…やっぱり、私がかたわだからお嫌なのですか? 健康な女性がお好きなんですか?」
そう言われると返事に困ると思うんだけど…とは口を挟まなかった。これは兄さんとミワさんの話だ。あたしが口出しすることじゃない。
兄さんは涙を流すミワさんをみて動揺していたが、フッと視線をそらして、苦々しげな表情を浮かべていた。
「別に、あんたがどうとか言う問題じゃない」
「ではなぜ! お好きな女性がおられるのですか!?」
はじめは控えめな女性だなと思っていたが、結構グイグイ来るなこの人。兄さんは彼女の勢いにちょっと押されつつあるが、同情とかで流されないように耐えていた。
「……俺のオヤジは暴力的な男だったんだ。俺はその暴力を受けたし、目の前で母さんやキッカに暴力をふるう姿を見ながら育ってきた」
あたしたちは弱いこどもだった。
だから、暴力には必死に耐えるしかなくて、いつも母さんに守られるばかりだった。兄さんの心の傷は、あたしの傷でもある。だからそれを理由に女性を振る兄さんのことを責められない。
「鏡を見ると、似ていなかったはずのオヤジに似てきている気がするんだ。…俺は父親みたいに女に暴力振るう男になるかもしれないから…ごめん」
「そんな、あなたとお父様は別人ではありませんか。あなたは優しい人です、そんなことは」
「俺は嫁を娶る気はない。もちろん子どももだ。本当にごめん」
ミワさんの好意に壁を作って遮る。彼女も拒絶を感じ取ったのだろう、目を大きく見開いてフルフルと小さく震えている。
兄さんは自分にはその気がないことを告げると背中を向けて歩き始めた。
拒絶されたミワさんは泣き始めてしまった。
だけどあたしは何も言えずに、彼女が泣いている姿を隠れて見守るしか出来なかった。
あたしも、兄さんも、そういったことに恐怖を抱いている。
もともとはあの地獄のような国で朽ち果てる運命だったあたしたち。暴力と恐怖が全てだった世界で生きてきたあたしたちにはそういった幸せを思い描くことが出来ないのだ。
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