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Day‘s Eye デイジーの花が開くとき
仕込まれた媚薬【テオ視点】
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レイラと会うと、自分が自分でなくなる感覚に襲われる。頭がぼうっとして、体温が上がり、俺の中の獣が騒ぐんだ。感情などそこにはない。性欲だけが全面に押し出されたような感覚。
俺はそれが恐ろしくてたまらなかった。
運命の番なんか求めていない。自分の番は自分で決めたい。それなのに運命の存在が足枷のように俺の足を引っ張って来るのだ。
レイラの泣き顔を見ると良心の呵責を覚えたが、俺には彼女を選べない。俺が選んだのはデイジーなんだ。ようやく手に入れた唯一。
衝動を抑えるためにデイジーの唇を求め、彼女の甘い香りを肺いっぱいに吸い込む。そのまま彼女の服を剥いで自分の欲をぶつけてしまいたい衝動にも襲われたが、俺は絶対にデイジーを傷つけたくない。
大切なんだ。彼女を何よりも大切にしたい。運命の番への衝動をデイジーにぶつけるなんて真似絶対にしたくない。
……デイジーはその気になればあっさり俺の元から離れていくだろう。
そんなの嫌だ。ずっとずっと俺のそばにいてほしいのに。
■□■
「テオ」
「……レイラ」
あの甘ったるい匂いが近づいてきた時点でわかっていた。頭では何も指令していないのに身体が勝手に動いて彼女に近づいていく。喉が渇いて仕方ないところにオアシスを見つけたそんな歓喜に似ている。
レイラの顔を見ると、どくどくと力強く心臓が鼓動し、俺の中のケモノが暴れだそうとした。
だけど俺は首に下げた、デイジーのペンダントを握りしめて自分の心を制した。
そんな俺を彼女は静かな眼差しで見上げていた。──なんだかそれが異様にも感じた。
「…お弁当作ってきたの」
掲げられたバスケットを見て俺は渋い顔をしてしまった。こうしてレイラが手作りの食事を差し入れに来たことは何度もあった。
頭の中はデイジーのことで一杯で不安で食欲が失せて、食事を一切受け付けなかった俺はその弁当に口をつけたことはついぞなかったが。
彼女の好意に対して俺は正面から向き合わず、いつも曖昧な態度しかとらなかった。
俺はずるい男だ。もっと早く、最初から。出会った時から断ればよかったのに。本当に申し訳ない。レイラほどの女ならきっと引く手数多だったろうに…
「断ったはずだ。もう来ないでくれ」
俺は冷たく彼女を拒絶した。
彼女に嫌われる覚悟で接しないと、彼女はいつまで経っても諦めきれない。
俺たちの間にあるのは運命の番という名の執着だけだ。
そこには飢餓に似た性欲のようなものがあるが、愛情は一切ない。お互いのことは全く知らないも同然。
「テオッ」
──バサリ
レイラが俺の腕を掴んだその時、空からビュオッと強い風が吹いてきた。
太陽の光が遮られて目の前が陰る。大きな翼が風を切るような音が聞こえてきた。視線を空へ向けると、見慣れた金色の巨体が大きな翼を動かして宙を浮いていた。
「ひっ…! ど、ドラゴン!?」
レイラは生のドラゴンの姿に怯えて俺の背中にピッタリくっついて怯えていた。このドラゴンはこの間の話し合いの席に同席していたが、あの時はヒト型を保っていたからな……レイラにとっては初対面になるのか。
『どこぞの発情期のオスメスがいちゃついてると思ったらお前か。犬っころ』
「…いちゃついてねぇよ」
もはやわざとだろう。
……こいつには感謝していることがある。
つい先日の例の話し合いの際、俺が運命の番への衝動に襲われているときに、こいつの他人事な発言で冷静さを取り戻せたのだから。今もデイジーと恋仲でいられるのはこのドラゴンのおかげでもあるんだ。
話に聞くと、このドラゴンは運命の番を見つけた父親に捨てられ、母親が衰弱死して、自身も育児放棄で死にかけた過去を持つのだという。そのため【運命の番】を心の奥底から嫌悪しているのだとデイジーが言っていた。
金色に輝く瞳がこちらをぎょろりと睨みつけてきた。まるで視線だけで非難されているような気持ちに陥る。縦に裂けた瞳孔を俺は黙って見上げた。
現在は元のドラゴンの姿だがデイジーの魔術により、俺ら獣人とも意思疎通が出来るそいつはのしん、と地面に着地すると、ぐっとこちらに顔を近づけてきた。喉奥をグルグル鳴らす音が耳に響いてくる。
『──はっきりしろ、まだ間に合う』
生意気なドラゴンの言葉に俺はビクリと肩を揺らした。
『主はあの貴族の若僧から求婚されていた。それと、シュバルツの王太子とやらの婚約も復活しそうになっていたんだぞ』
──後者は聞いていたけど、前者は聞いていない。俺は苛立って無意識に眉間にシワを寄せていた。
俺の反応を見たドラゴンは小馬鹿にするように目を細めていた。
『知らんのか? フォルクヴァルツにいた頃、主にはたくさんの縁談が舞い込んできたんだぞ。この間の帰省では既成事実を作ろうとする不届き者もいた』
……デイジーのやつ、言うのが面倒だからって黙っていたな? あいつそういう所あるよな…
俺は嫉妬でムカムカして、目の前のドラゴンに殺気を飛ばしていた。普通に考えたらドラゴンは教えてくれているのだ。殺気を飛ばす理由などない。
だけどデイジーのことになるとどうにも抑えられないのだ。
『若くて多才で美しき主はその気になれば人間の伴侶を作れる。シュバルツ勢は主の才能を狙っているんだ。結婚なりなんなりすれば、貴族籍に戻るのは簡単なことだろう』
それだ。俺はそれを恐怖している。
次にその道へ戻ったらもうあいつは戻ってこないだろう。
そうなれば俺は一生胸にぽっかり穴が開いたまま生きていかなくてはならなくなる。あいつの甘い香りを嗅ぐことも、華奢で柔らかい身体を抱きしめることも、きれいな黒髪を指で遊ぶことも出来ない。落ち着いた声も、心も身体も、何もかも別の男のものになってしまう。吸い込まれそうな紫の瞳は別の男へ向けられる。
それだけはなんとしてでも止めなくてはならない。
──デイジーは俺の番だ。
『いいか、主の手を取るなら裏切らないと約束しろ』
なるほど、ドラゴンは俺に念押しに来たのか。
言われなくても、と言ってやりたいが、今の俺は理性と本能の間でフラフラしている。信用なんてとても得られないであろう。
『その雌に走ることがあれば、その時は私が貴様を喰い殺す。ボロ雑巾のように引き裂いてその雌の前に捨ててやる』
そう言うと、口を開いて牙を見せてきた。その歯に噛みつかれたら即死もいいところだろう。ドラゴンであるこいつなら俺のことなんか簡単に仕留めてしまうだろう。
デイジーの手前だから抑えているが、本性は獰猛なドラゴンだ。その気になればいつだって……
『──父に捨てられた母のように苦しむ主を私は見たくないんだ』
その言葉に俺は目を見張った。
あぁ、そうか。こいつはデイジーのために。
だからあの話し合いの場にも同席していたのか。自ら憎まれ役を買って出るとは、意外と人間味のあるドラゴンなのかもしれない。
「わかってる。…覚悟は出来てる。その時はそうしてくれ」
俺はドラゴンの目をしっかり見て、頷いた。
俺はこの本能と向き合い、戦ってみせる。俺はデイジーしか選ばない。たとえ運命の番に想いを寄せられても、抗ってみせると。
俺の決意を聞いたドラゴンがどう思ったのかはわからない。彼女は俺とレイラを見比べ、森の奥の方へと視線を向けた。
そして、こう言った。
『おやつの時間だから魔獣食ってくる』
翼を大きく広げ、バッサバッサと音を立ててどこかへと飛んでいくドラゴン。
急におやつの時間かよ。昼飯じゃないのか。そもそもおやつに魔獣…? おやつで軽く食べるような代物か? この間はホースラディッシュをそのままバリボリ食べていた。
俺の中のドラゴンの印象がドンドン改変していく……デイジーのせいだろうか。
よくわからんドラゴンである……
ドラゴンが飛び去っていくのを見送っている俺をレイラがじっと見つめていた。
俺はハッとして彼女に向き直ると、そういうことだからと彼女を帰そうと口を開いた。俺たちはもう会わないほうがいい。レイラにはもっと優しい男が合っている。俺のことなんか最低野郎だと見下して見切りをつけて欲しいと言おうとした。
「レイラ」
「ねぇテオ……これで最後にするから、私のお弁当を一口でいい、食べて?」
しかし彼女に先を越され俺は言おうとした言葉を飲み込む。
……レイラは弁当を差し出して、これを食べたら『最後にする』と言ったのだ。彼女は理解を示してくれたのだ。レイラの言葉に俺はホッとした。
俺に愛想尽きたのか、それともドラゴンの言葉で萎縮したのか。どっちにしろ諦めてくれるなら、このまま円満に終われそうだ。
食べるだけで済むなら、全然食べる。それがけじめになるのであれば。
バスケットを開くと、サンドイッチが入っていた。ロースト肉のサンドに赤いソースがかかっている。…一瞬トマトソースかなにかと思ったが匂いが違う。今まで嗅いだことのない匂いだ。
「…変わった匂いだな」
「……お肉を柔らかくするソースなんですって……美味しく出来たの。…食べて?」
なんだか不気味だ。レイラは嗅覚が狂ってしまったのだろうか。おかしな匂いのするサンドイッチを食べるようにすすめてくるのだから。
変わった匂いだ。肉を柔らかくするにも素材を駄目にしそうな匂いがするんだが。それでも食べると決めたからにはサンドイッチ一切れを完食してみせる。サンドイッチにかぶりついて、むぐむぐと口を動かすがやっぱり変な味がした。素材を殺してしまっている。
彼女から視線が突き刺さってきた。
やっぱりなんか様子がおかしい気がする。……俺のことを観察するようにレイラが目をカッ開いてじっと見つめてくるのが怖かった。
「…なに?」
「うぅん何でも。…おいしい?」
その問いかけに俺は返答に困った。お世辞で美味いと言うべきかと思ったが、美味いと言えばもう一切れすすめられそうだったので口を閉ざすことで返事とした。
もう変な匂いのするサンドイッチは食べたくない。バスケットの中でも無難なサラダを無心でもしゃもしゃ食べていた俺は自分の体の異変を感じた。
感じたことのない渇望、下半身に集まる衝動。それは抗えられない激しい性衝動に思えた。
「…!?」
俺はハッとした。さっとレイラを見ると、彼女は笑っていた。
様子のおかしかったレイラ。変な匂いのするサンドイッチ。
何故俺は見過ごしたのだろう。俺は馬鹿か。
「テオ、私達は運命の番なんだよ? ……一度身体を重ねたらテオもすぐに思い直す」
「……レイラ?」
レイラは何をトチ狂ったことを。
俺にジリジリと近づいてくる彼女。俺は恐ろしくなって後ずさる。
あぁ畜生。どうして俺の身体は目の前のレイラを求めているのか。
俺が求めてやまないのはデイジーのはずなのに。小さくて華奢で柔らかい白い肌をした彼女。俺が求めるのは彼女でなくてはならないのに。
「好きにしていいんだよ? …私達は運命の番なんだもん」
レイラに手を掴まれると、ぞわりと血液が泡立った。耳の先から尻尾まで毛が逆立ち、感覚が鋭敏になる。
……恐らくこれは媚薬の類いだ。レイラは俺と既成事実を作って無理やり番おうとしているんだ。
俺は目の前が真っ赤になるのを感じ取っていた。理性や思考が全て奪われて獣に成り下がろうとしていた。
冗談じゃねぇ。こんなのでデイジーを裏切ってたまるかってんだ…!
ぎりぎりと歯を噛み締めると俺は自分で自分の頬をぶっ叩いた。ぱぁんと破裂音が響くと、レイラがビクリと震えていた。
彼女が怯んだ隙に手を振り払うと、俺は踵を返して勢いよく駆け出した。
「て、テオッ待ってよ、どこにいくの!」
レイラの声が頭の中をザワザワさせるが、俺は運命なんかに負けない。
「私は運命の番なのに、どうして人間なんかを選ぶの…!」
レイラには好きな男はいなかったのだろうか。そんなあっさり運命の番を受け入れられるものなのだろうか。
悪いが、俺はそこまで器用な男じゃないらしい。
貴族になったデイジーと離れ離れになった時、諦めたほうがいいのかと頭をよぎったことがある。だけど駄目だった。
俺には無理だ。俺が求めるのは今も昔もデイジーだけ。
あいつの甘い香りを辿って走っていると、デイジーは村の婆様に捕まっていた。今日は森に薬草を摘みに出かけていたのか、カゴの中にはもっさりと薬草が詰まっていた。
「これは美容クリームの保湿成分になるんです」
「あぁ…村の女達がかしましく騒いでるやつかい」
薬の説明をしているのだろうか。
だけど俺には気遣いしてやる余裕すらない。背後からデイジーに迫ると、彼女を抱き上げた。
デイジーと今しがた話していた婆様が目を丸くして固まっているが、俺は挨拶も何もせずに、デイジーをその場から連れ去った。
「なに!?」
デイジーが驚きに悲鳴を上げたが、俺は構わず彼女を連れ去る。勢いよく抱き上げたせいで、デイジーが持っていた薬草の入っていたかごが地面に転がっていた。
「これっテオ! お前さん、デイジーをどうするつもりだね!」
婆様が怒鳴ってくるが、それどころではないのだ。
俺はデイジーに救いを求めた。
この乾きや飢えを満たしてくれるのはデイジーただひとりなのだ。
俺はそれが恐ろしくてたまらなかった。
運命の番なんか求めていない。自分の番は自分で決めたい。それなのに運命の存在が足枷のように俺の足を引っ張って来るのだ。
レイラの泣き顔を見ると良心の呵責を覚えたが、俺には彼女を選べない。俺が選んだのはデイジーなんだ。ようやく手に入れた唯一。
衝動を抑えるためにデイジーの唇を求め、彼女の甘い香りを肺いっぱいに吸い込む。そのまま彼女の服を剥いで自分の欲をぶつけてしまいたい衝動にも襲われたが、俺は絶対にデイジーを傷つけたくない。
大切なんだ。彼女を何よりも大切にしたい。運命の番への衝動をデイジーにぶつけるなんて真似絶対にしたくない。
……デイジーはその気になればあっさり俺の元から離れていくだろう。
そんなの嫌だ。ずっとずっと俺のそばにいてほしいのに。
■□■
「テオ」
「……レイラ」
あの甘ったるい匂いが近づいてきた時点でわかっていた。頭では何も指令していないのに身体が勝手に動いて彼女に近づいていく。喉が渇いて仕方ないところにオアシスを見つけたそんな歓喜に似ている。
レイラの顔を見ると、どくどくと力強く心臓が鼓動し、俺の中のケモノが暴れだそうとした。
だけど俺は首に下げた、デイジーのペンダントを握りしめて自分の心を制した。
そんな俺を彼女は静かな眼差しで見上げていた。──なんだかそれが異様にも感じた。
「…お弁当作ってきたの」
掲げられたバスケットを見て俺は渋い顔をしてしまった。こうしてレイラが手作りの食事を差し入れに来たことは何度もあった。
頭の中はデイジーのことで一杯で不安で食欲が失せて、食事を一切受け付けなかった俺はその弁当に口をつけたことはついぞなかったが。
彼女の好意に対して俺は正面から向き合わず、いつも曖昧な態度しかとらなかった。
俺はずるい男だ。もっと早く、最初から。出会った時から断ればよかったのに。本当に申し訳ない。レイラほどの女ならきっと引く手数多だったろうに…
「断ったはずだ。もう来ないでくれ」
俺は冷たく彼女を拒絶した。
彼女に嫌われる覚悟で接しないと、彼女はいつまで経っても諦めきれない。
俺たちの間にあるのは運命の番という名の執着だけだ。
そこには飢餓に似た性欲のようなものがあるが、愛情は一切ない。お互いのことは全く知らないも同然。
「テオッ」
──バサリ
レイラが俺の腕を掴んだその時、空からビュオッと強い風が吹いてきた。
太陽の光が遮られて目の前が陰る。大きな翼が風を切るような音が聞こえてきた。視線を空へ向けると、見慣れた金色の巨体が大きな翼を動かして宙を浮いていた。
「ひっ…! ど、ドラゴン!?」
レイラは生のドラゴンの姿に怯えて俺の背中にピッタリくっついて怯えていた。このドラゴンはこの間の話し合いの席に同席していたが、あの時はヒト型を保っていたからな……レイラにとっては初対面になるのか。
『どこぞの発情期のオスメスがいちゃついてると思ったらお前か。犬っころ』
「…いちゃついてねぇよ」
もはやわざとだろう。
……こいつには感謝していることがある。
つい先日の例の話し合いの際、俺が運命の番への衝動に襲われているときに、こいつの他人事な発言で冷静さを取り戻せたのだから。今もデイジーと恋仲でいられるのはこのドラゴンのおかげでもあるんだ。
話に聞くと、このドラゴンは運命の番を見つけた父親に捨てられ、母親が衰弱死して、自身も育児放棄で死にかけた過去を持つのだという。そのため【運命の番】を心の奥底から嫌悪しているのだとデイジーが言っていた。
金色に輝く瞳がこちらをぎょろりと睨みつけてきた。まるで視線だけで非難されているような気持ちに陥る。縦に裂けた瞳孔を俺は黙って見上げた。
現在は元のドラゴンの姿だがデイジーの魔術により、俺ら獣人とも意思疎通が出来るそいつはのしん、と地面に着地すると、ぐっとこちらに顔を近づけてきた。喉奥をグルグル鳴らす音が耳に響いてくる。
『──はっきりしろ、まだ間に合う』
生意気なドラゴンの言葉に俺はビクリと肩を揺らした。
『主はあの貴族の若僧から求婚されていた。それと、シュバルツの王太子とやらの婚約も復活しそうになっていたんだぞ』
──後者は聞いていたけど、前者は聞いていない。俺は苛立って無意識に眉間にシワを寄せていた。
俺の反応を見たドラゴンは小馬鹿にするように目を細めていた。
『知らんのか? フォルクヴァルツにいた頃、主にはたくさんの縁談が舞い込んできたんだぞ。この間の帰省では既成事実を作ろうとする不届き者もいた』
……デイジーのやつ、言うのが面倒だからって黙っていたな? あいつそういう所あるよな…
俺は嫉妬でムカムカして、目の前のドラゴンに殺気を飛ばしていた。普通に考えたらドラゴンは教えてくれているのだ。殺気を飛ばす理由などない。
だけどデイジーのことになるとどうにも抑えられないのだ。
『若くて多才で美しき主はその気になれば人間の伴侶を作れる。シュバルツ勢は主の才能を狙っているんだ。結婚なりなんなりすれば、貴族籍に戻るのは簡単なことだろう』
それだ。俺はそれを恐怖している。
次にその道へ戻ったらもうあいつは戻ってこないだろう。
そうなれば俺は一生胸にぽっかり穴が開いたまま生きていかなくてはならなくなる。あいつの甘い香りを嗅ぐことも、華奢で柔らかい身体を抱きしめることも、きれいな黒髪を指で遊ぶことも出来ない。落ち着いた声も、心も身体も、何もかも別の男のものになってしまう。吸い込まれそうな紫の瞳は別の男へ向けられる。
それだけはなんとしてでも止めなくてはならない。
──デイジーは俺の番だ。
『いいか、主の手を取るなら裏切らないと約束しろ』
なるほど、ドラゴンは俺に念押しに来たのか。
言われなくても、と言ってやりたいが、今の俺は理性と本能の間でフラフラしている。信用なんてとても得られないであろう。
『その雌に走ることがあれば、その時は私が貴様を喰い殺す。ボロ雑巾のように引き裂いてその雌の前に捨ててやる』
そう言うと、口を開いて牙を見せてきた。その歯に噛みつかれたら即死もいいところだろう。ドラゴンであるこいつなら俺のことなんか簡単に仕留めてしまうだろう。
デイジーの手前だから抑えているが、本性は獰猛なドラゴンだ。その気になればいつだって……
『──父に捨てられた母のように苦しむ主を私は見たくないんだ』
その言葉に俺は目を見張った。
あぁ、そうか。こいつはデイジーのために。
だからあの話し合いの場にも同席していたのか。自ら憎まれ役を買って出るとは、意外と人間味のあるドラゴンなのかもしれない。
「わかってる。…覚悟は出来てる。その時はそうしてくれ」
俺はドラゴンの目をしっかり見て、頷いた。
俺はこの本能と向き合い、戦ってみせる。俺はデイジーしか選ばない。たとえ運命の番に想いを寄せられても、抗ってみせると。
俺の決意を聞いたドラゴンがどう思ったのかはわからない。彼女は俺とレイラを見比べ、森の奥の方へと視線を向けた。
そして、こう言った。
『おやつの時間だから魔獣食ってくる』
翼を大きく広げ、バッサバッサと音を立ててどこかへと飛んでいくドラゴン。
急におやつの時間かよ。昼飯じゃないのか。そもそもおやつに魔獣…? おやつで軽く食べるような代物か? この間はホースラディッシュをそのままバリボリ食べていた。
俺の中のドラゴンの印象がドンドン改変していく……デイジーのせいだろうか。
よくわからんドラゴンである……
ドラゴンが飛び去っていくのを見送っている俺をレイラがじっと見つめていた。
俺はハッとして彼女に向き直ると、そういうことだからと彼女を帰そうと口を開いた。俺たちはもう会わないほうがいい。レイラにはもっと優しい男が合っている。俺のことなんか最低野郎だと見下して見切りをつけて欲しいと言おうとした。
「レイラ」
「ねぇテオ……これで最後にするから、私のお弁当を一口でいい、食べて?」
しかし彼女に先を越され俺は言おうとした言葉を飲み込む。
……レイラは弁当を差し出して、これを食べたら『最後にする』と言ったのだ。彼女は理解を示してくれたのだ。レイラの言葉に俺はホッとした。
俺に愛想尽きたのか、それともドラゴンの言葉で萎縮したのか。どっちにしろ諦めてくれるなら、このまま円満に終われそうだ。
食べるだけで済むなら、全然食べる。それがけじめになるのであれば。
バスケットを開くと、サンドイッチが入っていた。ロースト肉のサンドに赤いソースがかかっている。…一瞬トマトソースかなにかと思ったが匂いが違う。今まで嗅いだことのない匂いだ。
「…変わった匂いだな」
「……お肉を柔らかくするソースなんですって……美味しく出来たの。…食べて?」
なんだか不気味だ。レイラは嗅覚が狂ってしまったのだろうか。おかしな匂いのするサンドイッチを食べるようにすすめてくるのだから。
変わった匂いだ。肉を柔らかくするにも素材を駄目にしそうな匂いがするんだが。それでも食べると決めたからにはサンドイッチ一切れを完食してみせる。サンドイッチにかぶりついて、むぐむぐと口を動かすがやっぱり変な味がした。素材を殺してしまっている。
彼女から視線が突き刺さってきた。
やっぱりなんか様子がおかしい気がする。……俺のことを観察するようにレイラが目をカッ開いてじっと見つめてくるのが怖かった。
「…なに?」
「うぅん何でも。…おいしい?」
その問いかけに俺は返答に困った。お世辞で美味いと言うべきかと思ったが、美味いと言えばもう一切れすすめられそうだったので口を閉ざすことで返事とした。
もう変な匂いのするサンドイッチは食べたくない。バスケットの中でも無難なサラダを無心でもしゃもしゃ食べていた俺は自分の体の異変を感じた。
感じたことのない渇望、下半身に集まる衝動。それは抗えられない激しい性衝動に思えた。
「…!?」
俺はハッとした。さっとレイラを見ると、彼女は笑っていた。
様子のおかしかったレイラ。変な匂いのするサンドイッチ。
何故俺は見過ごしたのだろう。俺は馬鹿か。
「テオ、私達は運命の番なんだよ? ……一度身体を重ねたらテオもすぐに思い直す」
「……レイラ?」
レイラは何をトチ狂ったことを。
俺にジリジリと近づいてくる彼女。俺は恐ろしくなって後ずさる。
あぁ畜生。どうして俺の身体は目の前のレイラを求めているのか。
俺が求めてやまないのはデイジーのはずなのに。小さくて華奢で柔らかい白い肌をした彼女。俺が求めるのは彼女でなくてはならないのに。
「好きにしていいんだよ? …私達は運命の番なんだもん」
レイラに手を掴まれると、ぞわりと血液が泡立った。耳の先から尻尾まで毛が逆立ち、感覚が鋭敏になる。
……恐らくこれは媚薬の類いだ。レイラは俺と既成事実を作って無理やり番おうとしているんだ。
俺は目の前が真っ赤になるのを感じ取っていた。理性や思考が全て奪われて獣に成り下がろうとしていた。
冗談じゃねぇ。こんなのでデイジーを裏切ってたまるかってんだ…!
ぎりぎりと歯を噛み締めると俺は自分で自分の頬をぶっ叩いた。ぱぁんと破裂音が響くと、レイラがビクリと震えていた。
彼女が怯んだ隙に手を振り払うと、俺は踵を返して勢いよく駆け出した。
「て、テオッ待ってよ、どこにいくの!」
レイラの声が頭の中をザワザワさせるが、俺は運命なんかに負けない。
「私は運命の番なのに、どうして人間なんかを選ぶの…!」
レイラには好きな男はいなかったのだろうか。そんなあっさり運命の番を受け入れられるものなのだろうか。
悪いが、俺はそこまで器用な男じゃないらしい。
貴族になったデイジーと離れ離れになった時、諦めたほうがいいのかと頭をよぎったことがある。だけど駄目だった。
俺には無理だ。俺が求めるのは今も昔もデイジーだけ。
あいつの甘い香りを辿って走っていると、デイジーは村の婆様に捕まっていた。今日は森に薬草を摘みに出かけていたのか、カゴの中にはもっさりと薬草が詰まっていた。
「これは美容クリームの保湿成分になるんです」
「あぁ…村の女達がかしましく騒いでるやつかい」
薬の説明をしているのだろうか。
だけど俺には気遣いしてやる余裕すらない。背後からデイジーに迫ると、彼女を抱き上げた。
デイジーと今しがた話していた婆様が目を丸くして固まっているが、俺は挨拶も何もせずに、デイジーをその場から連れ去った。
「なに!?」
デイジーが驚きに悲鳴を上げたが、俺は構わず彼女を連れ去る。勢いよく抱き上げたせいで、デイジーが持っていた薬草の入っていたかごが地面に転がっていた。
「これっテオ! お前さん、デイジーをどうするつもりだね!」
婆様が怒鳴ってくるが、それどころではないのだ。
俺はデイジーに救いを求めた。
この乾きや飢えを満たしてくれるのはデイジーただひとりなのだ。
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