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公妃になるなんて無茶難題過ぎます。
おみかん美味しゅうございますわ。
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「お休みのところ失礼いたしますリゼット様、リゼット様にお目通り願いたいという商人が訪ねてきたのですが…」
毎日の習い事の休憩時間に執事さんが私に声をかけてきた。なにも異国の商人が商品を売りに来たとかなんとか。私はてっきりいつものあのお人好し商人のおじさんだと思ったので軽い気持ちで商人が待っているという応接間にやってきた。
メイドさんが開けてくれた扉の向こうに異国の風を感じるあのおじさんがいるのだろうと思い込んでいたのだが、部屋の中にいた見知らぬ人物だった。私は怪訝に眉をしかめてしまう。その人物は確かに異国の風を感じる人だった。肌は浅黒く、髪の色もこっちの人とは違う。顔立ちだってそうだ。だけど私の知っているさつまいも苗の商人ではなかったのだ。
しかも、その人物はこのお城の美術品を物色しては無遠慮に素手で触れている。……持ち主に聞かずにそれはちょっと失礼に値すると思うんだな。
「…あなたが私との面会を望んだ商人さんですか?」
私が背後から声をかけると、相手はギクリとしていた。
くるりと振り返ってきたその顔はやっぱり知らない人である。年齢は……私の倍くらいは年齢差がありそうな人である。年相応の色気を持ったオリエンタルなイケメンだ。中東の石油王みたいな雰囲気がある。
「あっ! あなたがエーゲシュトランド大公様のご寵姫様であられる! はじめまして、私はハイドラート国の商人です。ぜひとも貴方様に紹介したい商品がございまして」
「…ヴィクトル大公殿下を差し置いて私にですか?」
媚びを売るならこの国の主にするべきじゃないかと思うんだけど。
ハイドラート国ねぇ。地理の勉強で習ったけど、襲撃を受ける前に貿易してたんだっけな。……なんかしょっぱなから胡散臭い人である。
私が胡乱な視線を投げかけると相手はひくりと口元を引きつらせていたが、なんかそれらしいことを言いながら遠い異国から持ってきたという品を広げていた。
刺繍が素晴らしい布地に、こっちの国ではお目にかからない光沢のある布、デザインが珍しい腕輪や首輪、なんか怪しげな呪術人形……広げられた品々の数々に私は目を細める。確かにこの国じゃ珍しい。だけどいつもの商人のおじさんが以前見せてくれた商品と同じなのでそこまで目新しいわけでもない。
それに私は必要以上の買い物はしたくないのだ。タダでさえ私には少なくないお金を使われている。衣類品に関しては今の状況で事足りているので欲しいものも大してないのだ。むしろ珍しい野菜や果物が実る苗とかのほうが欲しい。そういえばそれをあの商人にそんなことを言ったら「よっしゃ今度持ってきてやるよ!」と意気揚々と去っていったんだよな……
「どうぞお手に取りになってご覧になってください」
そうすすめられるも、興味のないものには手が伸びない。
「こちら砂漠の民が機織りして作った布でして、シルクというものです。蚕という虫が作った繭の糸を…」
なんか無理やり押し付けるような感じで絹布地を持たされた。
うん、綺麗ね。すごく綺麗。
布について横でペラペラ説明されるが、前世で見たことあるし、貴重なのも知ってる。何で作られているのか習ったことあるので知ってるんだなぁ…とそこまで感動しなかった。この商人には申し訳ないがちょっと胡散臭いし帰ってもらおうか……幸せになれる壺とか売られそう。
「寵姫さま、城の中は退屈でしょう。…他国に興味はありませんか?」
ひそりと耳元で私にだけ聞こえるように囁いた声に私は眉をひそめた。馴れ馴れしく近づいてきた商人はヘーゼルの瞳を細めている。その目にはなんというか傲慢さが隠しきれていない。
……なんかこの人、労働者階級には見えないんだよなぁ。商人とは思えないくらい無駄に顔が整っているし……貴族であるヴィックのように人を使うことに慣れている上流階級に見える。ますます相手に不信感が深まる。私の中の野生の勘が訴えているぞ。結構ですと断れば帰ってくれるだろうかと考えていると、応接室の外から「リゼット様、馴染みの商人様がお見えです」と別の使用人が呼びかけてくる声が聞こえた。
「ここに入って貰ってください」
待たせるのも何なので私のもとに直接来てもらおう。
私に怪しい誘いを持ちかけていたこっちの商人は「は?」と困惑した声を漏らしていたが、複数の商人を招くことは何も珍しいことじゃない。そもそもこの商人はアポなし訪問だし。
「よぅ嬢ちゃん! すっかり姫様らしくなったなぁ!」
「おひさしぶりですイハーブさん」
何度目かの再会でようやく名前を知ったのだが、顔なじみの商人のおじさんはイハーブさんというのだ。私と同じ年頃の娘さんがいる、単身赴任商人である。彼は気のいい笑顔で私に声を掛けながら応接室に入ると、私の他に見知らぬ人間がいることに気づいたようで器用に色の濃い眉を動かしていた。
「先客がいたのか」
「ハイドラートからいらしたそうで。商品を見せに来てくれたそうです」
「ハイドラートから? そりゃぁ珍しいな。あの国は王位継承争いが絶えないとか聞くぞ」
胡散臭いハイドラート商人を見ると、相手はなんとなく渋い顔をしているように見えた。
「砂漠ばかりで物資に乏しいって聞くけどどんな品持ってきたんだ?」
商人の血が騒ぐのか、どれどれと同業者の品を見定めるイハーブさん。その目は真剣である。
「物はいいけど……この国の女が着る服にはちょっと合わないな。シルクにしたって、若い嬢ちゃんが使う代物じゃない。腕輪や首輪もこの国の女が着ている服には合わないだろう」
とやや厳しめの意見を言い終わると、イハーブさんはハイドラートの商人の肩をポンポン叩いていた。まるでどんまいと同業者をねぎらっているようである。
「商人やるなら、その国が何を必要としてるか考えて売りに行ったほうがいいぜ。でないと無駄足になっちまうから」
イハーブさんは出入り口に向かってなにか合図した。部下の数名に荷物を運ばせてきたらしく、あいたスペースに布を敷くと次々に商品を並べ始めた。
「ちょうど俺も持ってきたんだよ。嬢ちゃんのドレスに使えそうな布地や宝石飾り、刺繍糸とかな」
姉さん方もどうだ? まとめて購入してくれたら安くしとくぜ。とイハーブさんがメイドさん達に声をかけると、彼女たちは目を輝かせてソワソワしていたので、私は見てきてもいいと頷いてあげる。「まとめて購入で安くなる」ってのはバーゲンセールのような響きがあるのかな。みんな早足で商品を物色しに行った。
レース仕立ての布地、この国にはない柄、カラフルな色彩、華やかな布地…布には詳しくないが、こちらの衣類事情を考えた商品が並べられていた。──きれいなんだけど、やっぱり私はそこまで…今持ってる分で十分と言うか、お金のこと考えちゃってそんなにはしゃげなかった。
「嬢ちゃんはこっちのほうが喜ぶかな?」
私の反応が鈍くなるのはわかっていたとばかりにイハーブさんは私に布袋を突き出し、その中身を見せてきた。
中に入っていたのは橙色の小さな果実。懐かしく感じて私の目は輝いた。
「みかんだ!」
「手で剥ける果物だ。隣の港町で見つけたんだ。あとこの国の気候に合いそうな作物苗も持ってきたぞ。外の荷馬車に乗っけてる」
「わぁい! ありがとう!」
私の喜ぶポイントが面白いのか、イハーブさんはくっくっと笑っていた。笑ってくれるな。私は生まれてからこれまでハングリー人生を送ってきたから布地よりも食べ物のほうが嬉しいのだ。
お行儀悪いと眉をしかめられるかもしれないが、懐かしいみかんを前にした私は止まらなかった。一つ手にした私はソファに座って膝の上にハンカチを敷くとその上で皮をむいた。見れば見るほどみかんである。一房もいで口の中に入れると甘酸っぱい果汁が口の中でひろがる。
これは…さつまいもの時並の感動である。私は頬を緩めてみかんを頬張っていたが、ふと気づけばハイドラートの商人の姿が消えていた。
あれ? いつの間にいなくなった?
私がキョロキョロあたりを見渡していると、開けっ放しになった応接間にヴィックが入室してきた。
「リゼット、商人と名乗る見知らぬ男がやってきたと聞いたけど…」
警戒するようにあたりを見渡したヴィックはイハーブさんを見て、私を見て怪訝な顔をしていた。
「その商人なら入れ違いで出ていったぜ」
「いつの間に」
「だって嬢ちゃん食うのに夢中になってたし」
私がみかんに夢中になっている間に撤退したらしい。
イハーブさんに色々指摘されて恥ずかしくなっちゃったのだろうか。私としても胡散臭いから帰ってもらおうと考えていたので別にいいけど。
「リゼットは何食べているの?」
「みかん。美味しいよ、食べる?」
一房を持ち上げて食べるかと問えば、ヴィックは躊躇いなく口にした。あまりお行儀よくないけど、大公様が許してくれているのでいいのだ。
「ちょっと、私の指食べてるよ!」
わざとなのか私の指をヴィックの形のいい唇が包み込んだ。
指から口を離すと手首をそっと掴んできた。彼は私の手のひらに口づけを落とし、薄水色の瞳を細める。その目は甘さしかない。
私は恥ずかしくて手を引っ込めようとしたが、「もっと食べたいから食べさせて?」とおねだりされたので、新しくもいだみかんを彼の口に運んであげた。
「おいしいよ、リゼット」
ご両親亡き今、きっと彼が甘えられるのは私くらいなのだろう。隣国はアレだし、周辺国は中立なだけで味方であるわけではない。肩肘張らせてエーゲシュトランド公として務める彼の安らげる場所になれるなら、みかんを食べさせるくらいなんてことない。
「兄さんや、俺の存在忘れてない?」
「……来ていたのか」
いや、気づいていたでしょ。なんで今気づきましたって反応するのヴィックってば。
「嬢ちゃんに見せる優しさを俺にも分けてくれてもいいんじゃねぇの?」
「気色悪いことをいうな」
イハーブさんの冗談に淡々と返すヴィック。
ヴィックは基本物腰柔らかいけど、やっぱり上流階級の人間らしく上下関係をはっきりさせている面があるよね。例外として私には優しいし、私の家族には丁寧に接してくれるけどね。
イハーブさんから目をそらしたヴィックは私に目を向けると、両頬をそっと包み込んで唇が近づきそうな距離まで近寄って目を覗き込んできた。
「…それで、リゼットは何もされていない? 見知らぬ商人とやらに」
「私の反応が薄いからか商品を押し付けられそうになったけど…」
危害という危害はないかな? と私が答えると、横からイハーブさんが口を挟んできた。
「あの男はただの商人ではなさそうだ。ゆったりした服で隠れて見えないが、肩を叩いたら筋肉の付き方が戦士のそれだったからな。身のこなしも素人じゃねぇ」
その発言に、ヴィックの目が鋭くなった。
「持っていた品は確かに良かったけど、なんか怪しいんだよなぁ。ここのもの盗まれてないよな?」
「そういえば…私がこの部屋来た時、あの人ここの美術品物色してた」
私の言葉に反応したヴィックは使用人を集め、城の中から盗難されたものはないか手分けして確認するようにと指示を飛ばしていた。確認された結果、盗まれたものはないが不自然にものが移動している形跡があちこち見られたとの報告が上がった。
そしてあの怪しい男の行方はしれぬまま。
なんとなく、私は不穏な空気を感じ取ったのである。
毎日の習い事の休憩時間に執事さんが私に声をかけてきた。なにも異国の商人が商品を売りに来たとかなんとか。私はてっきりいつものあのお人好し商人のおじさんだと思ったので軽い気持ちで商人が待っているという応接間にやってきた。
メイドさんが開けてくれた扉の向こうに異国の風を感じるあのおじさんがいるのだろうと思い込んでいたのだが、部屋の中にいた見知らぬ人物だった。私は怪訝に眉をしかめてしまう。その人物は確かに異国の風を感じる人だった。肌は浅黒く、髪の色もこっちの人とは違う。顔立ちだってそうだ。だけど私の知っているさつまいも苗の商人ではなかったのだ。
しかも、その人物はこのお城の美術品を物色しては無遠慮に素手で触れている。……持ち主に聞かずにそれはちょっと失礼に値すると思うんだな。
「…あなたが私との面会を望んだ商人さんですか?」
私が背後から声をかけると、相手はギクリとしていた。
くるりと振り返ってきたその顔はやっぱり知らない人である。年齢は……私の倍くらいは年齢差がありそうな人である。年相応の色気を持ったオリエンタルなイケメンだ。中東の石油王みたいな雰囲気がある。
「あっ! あなたがエーゲシュトランド大公様のご寵姫様であられる! はじめまして、私はハイドラート国の商人です。ぜひとも貴方様に紹介したい商品がございまして」
「…ヴィクトル大公殿下を差し置いて私にですか?」
媚びを売るならこの国の主にするべきじゃないかと思うんだけど。
ハイドラート国ねぇ。地理の勉強で習ったけど、襲撃を受ける前に貿易してたんだっけな。……なんかしょっぱなから胡散臭い人である。
私が胡乱な視線を投げかけると相手はひくりと口元を引きつらせていたが、なんかそれらしいことを言いながら遠い異国から持ってきたという品を広げていた。
刺繍が素晴らしい布地に、こっちの国ではお目にかからない光沢のある布、デザインが珍しい腕輪や首輪、なんか怪しげな呪術人形……広げられた品々の数々に私は目を細める。確かにこの国じゃ珍しい。だけどいつもの商人のおじさんが以前見せてくれた商品と同じなのでそこまで目新しいわけでもない。
それに私は必要以上の買い物はしたくないのだ。タダでさえ私には少なくないお金を使われている。衣類品に関しては今の状況で事足りているので欲しいものも大してないのだ。むしろ珍しい野菜や果物が実る苗とかのほうが欲しい。そういえばそれをあの商人にそんなことを言ったら「よっしゃ今度持ってきてやるよ!」と意気揚々と去っていったんだよな……
「どうぞお手に取りになってご覧になってください」
そうすすめられるも、興味のないものには手が伸びない。
「こちら砂漠の民が機織りして作った布でして、シルクというものです。蚕という虫が作った繭の糸を…」
なんか無理やり押し付けるような感じで絹布地を持たされた。
うん、綺麗ね。すごく綺麗。
布について横でペラペラ説明されるが、前世で見たことあるし、貴重なのも知ってる。何で作られているのか習ったことあるので知ってるんだなぁ…とそこまで感動しなかった。この商人には申し訳ないがちょっと胡散臭いし帰ってもらおうか……幸せになれる壺とか売られそう。
「寵姫さま、城の中は退屈でしょう。…他国に興味はありませんか?」
ひそりと耳元で私にだけ聞こえるように囁いた声に私は眉をひそめた。馴れ馴れしく近づいてきた商人はヘーゼルの瞳を細めている。その目にはなんというか傲慢さが隠しきれていない。
……なんかこの人、労働者階級には見えないんだよなぁ。商人とは思えないくらい無駄に顔が整っているし……貴族であるヴィックのように人を使うことに慣れている上流階級に見える。ますます相手に不信感が深まる。私の中の野生の勘が訴えているぞ。結構ですと断れば帰ってくれるだろうかと考えていると、応接室の外から「リゼット様、馴染みの商人様がお見えです」と別の使用人が呼びかけてくる声が聞こえた。
「ここに入って貰ってください」
待たせるのも何なので私のもとに直接来てもらおう。
私に怪しい誘いを持ちかけていたこっちの商人は「は?」と困惑した声を漏らしていたが、複数の商人を招くことは何も珍しいことじゃない。そもそもこの商人はアポなし訪問だし。
「よぅ嬢ちゃん! すっかり姫様らしくなったなぁ!」
「おひさしぶりですイハーブさん」
何度目かの再会でようやく名前を知ったのだが、顔なじみの商人のおじさんはイハーブさんというのだ。私と同じ年頃の娘さんがいる、単身赴任商人である。彼は気のいい笑顔で私に声を掛けながら応接室に入ると、私の他に見知らぬ人間がいることに気づいたようで器用に色の濃い眉を動かしていた。
「先客がいたのか」
「ハイドラートからいらしたそうで。商品を見せに来てくれたそうです」
「ハイドラートから? そりゃぁ珍しいな。あの国は王位継承争いが絶えないとか聞くぞ」
胡散臭いハイドラート商人を見ると、相手はなんとなく渋い顔をしているように見えた。
「砂漠ばかりで物資に乏しいって聞くけどどんな品持ってきたんだ?」
商人の血が騒ぐのか、どれどれと同業者の品を見定めるイハーブさん。その目は真剣である。
「物はいいけど……この国の女が着る服にはちょっと合わないな。シルクにしたって、若い嬢ちゃんが使う代物じゃない。腕輪や首輪もこの国の女が着ている服には合わないだろう」
とやや厳しめの意見を言い終わると、イハーブさんはハイドラートの商人の肩をポンポン叩いていた。まるでどんまいと同業者をねぎらっているようである。
「商人やるなら、その国が何を必要としてるか考えて売りに行ったほうがいいぜ。でないと無駄足になっちまうから」
イハーブさんは出入り口に向かってなにか合図した。部下の数名に荷物を運ばせてきたらしく、あいたスペースに布を敷くと次々に商品を並べ始めた。
「ちょうど俺も持ってきたんだよ。嬢ちゃんのドレスに使えそうな布地や宝石飾り、刺繍糸とかな」
姉さん方もどうだ? まとめて購入してくれたら安くしとくぜ。とイハーブさんがメイドさん達に声をかけると、彼女たちは目を輝かせてソワソワしていたので、私は見てきてもいいと頷いてあげる。「まとめて購入で安くなる」ってのはバーゲンセールのような響きがあるのかな。みんな早足で商品を物色しに行った。
レース仕立ての布地、この国にはない柄、カラフルな色彩、華やかな布地…布には詳しくないが、こちらの衣類事情を考えた商品が並べられていた。──きれいなんだけど、やっぱり私はそこまで…今持ってる分で十分と言うか、お金のこと考えちゃってそんなにはしゃげなかった。
「嬢ちゃんはこっちのほうが喜ぶかな?」
私の反応が鈍くなるのはわかっていたとばかりにイハーブさんは私に布袋を突き出し、その中身を見せてきた。
中に入っていたのは橙色の小さな果実。懐かしく感じて私の目は輝いた。
「みかんだ!」
「手で剥ける果物だ。隣の港町で見つけたんだ。あとこの国の気候に合いそうな作物苗も持ってきたぞ。外の荷馬車に乗っけてる」
「わぁい! ありがとう!」
私の喜ぶポイントが面白いのか、イハーブさんはくっくっと笑っていた。笑ってくれるな。私は生まれてからこれまでハングリー人生を送ってきたから布地よりも食べ物のほうが嬉しいのだ。
お行儀悪いと眉をしかめられるかもしれないが、懐かしいみかんを前にした私は止まらなかった。一つ手にした私はソファに座って膝の上にハンカチを敷くとその上で皮をむいた。見れば見るほどみかんである。一房もいで口の中に入れると甘酸っぱい果汁が口の中でひろがる。
これは…さつまいもの時並の感動である。私は頬を緩めてみかんを頬張っていたが、ふと気づけばハイドラートの商人の姿が消えていた。
あれ? いつの間にいなくなった?
私がキョロキョロあたりを見渡していると、開けっ放しになった応接間にヴィックが入室してきた。
「リゼット、商人と名乗る見知らぬ男がやってきたと聞いたけど…」
警戒するようにあたりを見渡したヴィックはイハーブさんを見て、私を見て怪訝な顔をしていた。
「その商人なら入れ違いで出ていったぜ」
「いつの間に」
「だって嬢ちゃん食うのに夢中になってたし」
私がみかんに夢中になっている間に撤退したらしい。
イハーブさんに色々指摘されて恥ずかしくなっちゃったのだろうか。私としても胡散臭いから帰ってもらおうと考えていたので別にいいけど。
「リゼットは何食べているの?」
「みかん。美味しいよ、食べる?」
一房を持ち上げて食べるかと問えば、ヴィックは躊躇いなく口にした。あまりお行儀よくないけど、大公様が許してくれているのでいいのだ。
「ちょっと、私の指食べてるよ!」
わざとなのか私の指をヴィックの形のいい唇が包み込んだ。
指から口を離すと手首をそっと掴んできた。彼は私の手のひらに口づけを落とし、薄水色の瞳を細める。その目は甘さしかない。
私は恥ずかしくて手を引っ込めようとしたが、「もっと食べたいから食べさせて?」とおねだりされたので、新しくもいだみかんを彼の口に運んであげた。
「おいしいよ、リゼット」
ご両親亡き今、きっと彼が甘えられるのは私くらいなのだろう。隣国はアレだし、周辺国は中立なだけで味方であるわけではない。肩肘張らせてエーゲシュトランド公として務める彼の安らげる場所になれるなら、みかんを食べさせるくらいなんてことない。
「兄さんや、俺の存在忘れてない?」
「……来ていたのか」
いや、気づいていたでしょ。なんで今気づきましたって反応するのヴィックってば。
「嬢ちゃんに見せる優しさを俺にも分けてくれてもいいんじゃねぇの?」
「気色悪いことをいうな」
イハーブさんの冗談に淡々と返すヴィック。
ヴィックは基本物腰柔らかいけど、やっぱり上流階級の人間らしく上下関係をはっきりさせている面があるよね。例外として私には優しいし、私の家族には丁寧に接してくれるけどね。
イハーブさんから目をそらしたヴィックは私に目を向けると、両頬をそっと包み込んで唇が近づきそうな距離まで近寄って目を覗き込んできた。
「…それで、リゼットは何もされていない? 見知らぬ商人とやらに」
「私の反応が薄いからか商品を押し付けられそうになったけど…」
危害という危害はないかな? と私が答えると、横からイハーブさんが口を挟んできた。
「あの男はただの商人ではなさそうだ。ゆったりした服で隠れて見えないが、肩を叩いたら筋肉の付き方が戦士のそれだったからな。身のこなしも素人じゃねぇ」
その発言に、ヴィックの目が鋭くなった。
「持っていた品は確かに良かったけど、なんか怪しいんだよなぁ。ここのもの盗まれてないよな?」
「そういえば…私がこの部屋来た時、あの人ここの美術品物色してた」
私の言葉に反応したヴィックは使用人を集め、城の中から盗難されたものはないか手分けして確認するようにと指示を飛ばしていた。確認された結果、盗まれたものはないが不自然にものが移動している形跡があちこち見られたとの報告が上がった。
そしてあの怪しい男の行方はしれぬまま。
なんとなく、私は不穏な空気を感じ取ったのである。
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