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第39話
しおりを挟む「この俺を置いてどこに行こうとしてるんだよ?」
「あなたには関係ないでしょう? 痛い、離して!」
力任せに掴まれた腕は悲鳴をあげ、私は表情を歪ませる。
抱えていた茶色い包みが地面に落ち、中に入っていたレモンが飛び出して明後日の方向へと転がっていく。
抵抗して腕を動かしていると、肘が男のお腹の辺りに当たってしまった。
怯んだ男は、私の腕を放してお腹を擦ると激昂した。
「こっちが下手に出りゃ生意気な態度取りやがって!」
もう片方の手を上着の内ポケットに突っ込むと、折りたたんでいたナイフを開いて刃先を私の方へ向けてくる。
「ひぃっ」
逃げようと試みるも、あっという間に壁際へと追い詰められる。被っていた帽子がはらりと地面に落ちれば、陰気な空気に包まれた薄暗い路地に私の顔が露わになる。
浮浪者は私の顔を見るなり、ヒュウと口笛を吹いた。
「へえ、まあまあ綺麗な顔してるじゃないか」
「こっちに、来ないで!」
「はんっ。威勢が良いのも今のうちだぞ。痛い思いをしたくなかったら大人しく言うことを聞け」
浮浪者がこれから何をしようとしているのかなんて、いくら侯爵令嬢の私でも充分理解はしている。
財布や金目のものだけを奪うだけなら御の字だけれど、果たしてそれだけで済むだろうか。路地は相変わらず人一人通らない。
隙を突いて全力で体当たりをすればなんとか逃げ切れるかもしれない。しかし実際に成功する可能性は極めて低いように思う。
何故なら、困ったことに私の足は恐怖で竦んでしまっていて、思うように動かすことができないからだ。
退路を断たれてしまった私は動揺して新たな打開策を考えることができないでいた。
――助けて。助けて誰か……。
心の中で助けを求めると、ある人物の姿が思い浮かぶ。
白金色の髪に紺青色の瞳。いつも夕方に私のパティスリーに足を運んでくれるあの人。
「たす、け……て」
擦れた声で呟くと、浮浪者はそれが面白いのかガハハと笑った。
「急に塩らしい態度を取ったって遅いぞ。最初から大人しく金を出してれば怖い目になんて遭わなかったのによ」
浮浪者が下卑た笑いをしながらにじり寄ってくる。
――嗚呼、私は何をしているんだろう。ここで酷い目に遭っている場合じゃないのに。
早く帰らないとエンゲージケーキの完成が間に合わない。明日の婚約式に間に合わなければパティスリーの名に傷がついてしまう。それに午後には王妃殿下のバザーに出す野菜のお菓子の監修だってある。
どちらも今後の人生を大きく左右する依頼だから必ず成功させたい。なのに私はここで浮浪者に暴行され掛かっていて……きっと明日はどちらも出席できそうにない。
足はどんなに頑張っても力が入らないし、口の中は干上がっていて一言も大声を上げられない。
このままでは悪い意味で明日の朝刊の一面を独占することになるだろう。
私は自分自身を守れなかったどころかパティスリーも、そこで働くラナやネル君、そして侯爵家も守ることができないみたいだ。
――守らなくちゃいけないものがたくさんあるのに。心は怒りや悲しみで渦巻いているのに。私の身体は恐怖に支配されて言うことを聞かない。
浮浪者は愉しそうにナイフで私の頬を撫でてくる。冷たい金属が頬に触れる度に私の身体は震え上がった。
「そんなにガタガタ震えてると顔に傷をつけちまうぞ。まあ、まずは俺の腕で二度と外へ出歩けない顔にしてやるんだけどよ」
宣言通り、頬にぴったりとナイフが当てられる。
「……っ」
やめてと首を振りたいけれど、動けば頬にナイフが食い込んで肌が切れてしまうのでそれすらも叶わない。
もう私にできることは何もない。
未だ渦巻いている感情の中に諦観が生まれ、絶望の底へと落ちていく――。
絶望に浸っていると、目の端の方で急に辺りがぱあっと明るくなった。薄暗い路地で何かが光っている。
一体何だろう?
頭のすみで疑問を抱いた次の瞬間、目の前に立っていた浮浪者が音もなく忽然と姿を消した。
程なくして、遠くの方で衝撃音とぎゃああっという情けない声が聞こえてくる。
視線を向けると、浮浪者が地面の上で白目を剥いて伸びていた。何が起こったのかさっぱり分からなくて瞬きしていると、誰かに両肩を掴まれた。
「シュゼット令嬢っ」
「ア……ル……?」
顔を上げると息を切らし、血相を変えたアル様が私の視界に入ってくる。
「怪我は? 酷いことはされてない?」
アル様に優しく尋ねられた途端、安心したのか私の視界はみるみるうちにぼやけていく。
――来てくれた。アル様が助けに……。
気が抜けてその場に崩れ落ちそうになると、アル様の腕がしっかりと身体を抱き留めてくれる。
「もう心配いらないから」
アル様はそのまま私を抱き寄せると腕に力を込めた。
「う、ううっ……」
みっともないという言葉が頭を過ったけれど、私はアル様にしがみついて子供のように嗚咽を漏らした。
アル様は何も言わずにただじっと私を抱き締めて頭を撫で続けてくれる。その手つきはどこまでも優しく温かくて、恐怖を拭い去ってくれているようだった。
一頻り泣いて落ち着きを取り戻た私は目尻に溜まった涙を拭う。
「落ち着いた?」
「はい。おかげさ……」
おかげさまでと言い切る前に、はたと私は自分の置かれた状況に気がついた。
泣いている間、私はアル様の腕の中にいてそれは今も進行中だ。
「た、たた助けてくれてありがとうございますっ! それで、ええと……」
上擦った声で狼狽えているとアル様がくすりと笑う。
「どうして僕がここにいるかってこと?」
こくこくと頷けばアル様は頬を掻きながらネル君に頼まれたからだと答えてくれた。
ネル君はアル様が来る前にいつも帰って行くからどんな人なのか知らないはずだけど、私がいつも話をしていたから、夕方に来た彼がアル様だとすぐに分かったのかもしれない。
そして戻ってこない私を心配して、アル様に迎えを頼んだのだろう。
そう納得して頷きかけたところで私は動きを止めた。
――違う。そうじゃなくて! いいえ、アル様が助けに来てくださった理由が知れて良かったのは確かだけど。……問題はこの現状!!
腕を放してくれないかと頼もうとしたのに、アル様はこの場に現れた理由を説明してくれた。お陰で私は未だに彼の腕の中にすっぽりと収まったままになっている。
ここで私はとうとう認めてしまった。
私がアル様のことをどうしようもなく好きだということを。
助けを求めた時、真っ先に頭に浮かんだのはネル君でもエードリヒ様でもなく、アル様だった。
アル様を一瞥すれば、これまで押しとどめていた感情が溢れてきて今まで以上にほわほわとした綿あめのような甘い感情に包まれる。
――これ以上自分の感情を無視して、蓋するなんてできそうにないわ。
黙り込んでじっと見つめていたせいだろう。眉尻を下げたアル様が覗き込むようにして大丈夫か尋ねてくれる。
ただでさえ溜め息が出るほど美しいアル様に至近距離で見つめられて、私は呼吸をするのも忘れて見入ってしまう。このままずっと眺めていたい。
そう思ったところで、足下に何かが当たって下を向く。
そこには黄色いレモンが転がっていて、私は漸く差し迫った状況を思い出した。
「早くパティスリーに戻らないと! エンゲージケーキを完成させるのに時間がないんです」
「そうだね。それじゃあ一緒にお店まで戻ろうか」
アル様は私を解放すると地面に転がっているレモンを拾い集め始める。私も一緒にレモンを拾う。
今は目の前のことに集中して明日を乗り切らなくてはいけない。
私は気を引き締め直すと急いでアル様とパティスリーに帰った。
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