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第38話

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 冷ましている間にケーキのデコレーションを考えることにする。
 やはり最後に残る課題はその見た目だ。エンゲージケーキとなれば可愛さだけでなく豪華さが必要になってくる。
 スポンジケーキの間にクリームを挟み、その表面をゼリー状にしたミックスベリージャムでコーティングするだけでは味気ない見た目になってしまう。
 さらに大きなケーキなので盛り付けに生クリームとアラザン、マカロンを使うだけは限界がある。かと言ってチョコレートをふんだんに使えばそれが邪魔をしてミックスベリーの良さが損なわれてしまう。

 他に方法はないか呻りながら思案しているとネル君がトンと優しく背中を叩いてくれた。
「お嬢様ならきっと大丈夫。だから落ち着いて。ケーキを盛り付けるお嬢様のスミレ色の瞳にはいつだって迷いはないから」
「ありがとうネル君。……うん、とスミレ? スミレ……」
 スミレという単語が頭の中で引っかかる。
 私の足は自然と中庭へと向かっていた。中庭の一角には小さな花壇があって、そこには多種多様のハーブや花を栽培している。

 ミューズハウスの権利書を見つけた時からここでお店を開くと決めた理由は、この小さな花壇も理由の一つに入っている。無農薬の植物を栽培して、将来的に健康思考のお菓子も作れたらと考えていた。
 お店を軌道に乗せるために必死で頑張っていたから当初の目的をすっかり忘れてしまっていたけれど。花壇の植物はラナが世話をしてくれているので青々と茂っている。
「お嬢様?」
 後を追いかけて来たネル君に、私は返事をする代わりに微笑んだ。
「ありがとう。ネル君のお陰で突破口が見つかったわ」
「突破口?」
 きょとんとした表情で尋ねてくるので私は花壇の植物を指さした。

「ここにある植物は食べられるように無農薬で栽培しているの。スミレやパンジー、ヴィオラだってそう。お花でケーキを飾り付ければ可愛くて華やかな見た目に仕上がるわ!」
 私の説明にネル君があっと声を上げて眉を上げる。
「僕、綺麗な花を選んで摘んできます。お嬢様は飾り付けの作業を進めていてください!」
「ありがとう。スポンジケーキの粗熱が取れる頃だし、お言葉に甘えさせてもらうわね」
 花壇の前にしゃがんで花を選び始めるネル君の隣で私は気合いを入れ直す。


 まずはスポンジの間に挟むクリーム作りだ。
 今回は濃厚だけど後味がさっぱりとした酸味が特徴のクリームチーズを使ってチーズクリームを作る。材料はクリームチーズに砂糖、生クリーム、そしてレモン果汁……なのだが、冷蔵室へ行ってみるとレモンの箱の中が空っぽになっていた。
「大変、レモンが切れてる!」
 ラナは買い出しからまだ帰ってこない。彼女が帰ってくるのを待っていては商会が閉まる可能性が出てくる。チーズクリームには絶対にレモン果汁が必要だ。
「暗くなる前にネル君には帰ってもらわないといけないからお遣いは頼めない。……やはりここは私がレモンを買いに行かないと」

 私はエプロンの紐を解いて脱ぐと買い出しへ行く支度をした。帽子を被って鞄を掛けると、花を摘むネル君に声を掛ける。
「レモンが切れてしまったから買いに行ってくるわね」
「それなら僕が代わりに……」
「大丈夫よ。暗くなると危ないからネル君はお花を摘み終えたらお家へ帰ってね。今日のおやつは戸棚に置いてあるから!」
「お、お嬢様!」
 私はネル君の制止を振り切って通りへと出た。侯爵家の馬車は送り迎えに使っているだけでそれ以外の時間は屋敷で待機してもらっている。今の時間はまだ馬車はお店に来ていないので移動手段は辻馬車を捕まえるか、自分の足を使うかのどちらかになる。

 この時間帯は仕事終わりの人や買い物を済ませた人で馬車道が混み合うので辻馬車を使うと商会に到着する時間が閉店時間を余裕で越してしまう。
 ここは自分の足で商会へ向かうのが一番手っ取り早い。
 ――出かけるときは絶対にお付きの者を連れて馬車で移動するようにとお父様から言われているけど……。
 ラナが帰ってくるのを待ってはいられないし、馬車を使えばもっと到着が遅れてしまう。そうなると目的のレモンは手に入らないし、エンゲージケーキは完成しない。
「ごめんなさいお父様。背に腹はかえられないの」
 私はぽつりと謝罪の言葉を口にすると、大勢が行き交う大通りを縫うようにして走った。


 夕方でお店が閉まるギリギリだったけれど、レモンは無事に手に入れることができた。茶色い包みの中身を確認した私は緊張の糸を緩めそうになったが、いけないと頭を振った。
 まだエンゲージケーキは完成していないから油断は禁物だ。
 茶色の包みを抱え直すと再び帰りを急ぐ。
 レモンが無事に手に入ったところで時間は待ってくれない。早く帰ってエンゲージケーキを完成させなければという焦りから、私は人通りの少ない裏路地を使ってお店に帰ることにした。けれどこの選択が間違いだったと、この後すぐに気づかされる。


「お嬢ちゃん、ちょっと財布をなくしちまったみたいでよ。お金を貸してくんねえかな?」
 早歩きで向かっていると、物陰からぬうっと現れた男に声を掛けられた。
 きつい体臭やくたびれた身なりからして彼が浮浪者でまともな暮らしをしていないことだけは容易く想像がつく。
 運の悪いことに路地にいるのは男と私の二人だけ。大通りを出れば人通りはあるけれど、そこにたどり着くまでに距離があるし、助けを求めようにも恐らく私の声は喧騒にかき消されて届かないだろう。
 ここは下手に浮浪者を刺激ないようにして、状況を切り抜けなくてはいけない。顎を引いた私は丁重かつ毅然とした態度で立ち向かった。

「申し訳ございませんが今は持ち合わせがありません。財布をなくしたのであれば、警備隊へ行かれた方が確実ですよ。急いでますので私はこれで失礼します」
「おいおい、つれないこと言うなよ」
「つれるつれないの問題ではありません。私は急いでいるのであなたの相手をしている暇はないんです」
 同じような応酬がその後何度も続く。これでは埒が明かないし、時間だけを無駄に消費してしまう。
 仕方がないけれど、ここは来た道を引き返した方が得策だと判断した私はくるりと踵を返す。
 だが、浮浪者は逃がすまいと私の腕を捻じり上げるようにして掴んできた。

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