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第22話
しおりを挟む「あらっ、ネル君!」
頭を動かしてみると、勝手口の前でネル君が仁王立ちになっている。
ネル君はお休みの日でも手伝いに来てくれる。本当に良い子だし、ありがたいと思う。
だけど今日の彼はいつもと違う雰囲気を纏っていた。
にこにこと微笑んでくれているのに目が笑っていないような気がするし、発せられた声はいつもより低いような気もする。……これは単なる気のせいだろうか。
ネル君は大股でこちらまでやって来ると、私の手を掬いとっているエードリヒ様の手首を掴み、ぺいっと引き剥がした。
「君は……」
目を見開くエードリヒ様は何かを言いかけたが最後までは言葉を紡がずに噤んでしまった。顎を引いてじっと考え込むようにネル君を見つめている。
「どうしたの? エードリヒ様?」
私が小首を傾げて尋ねると、エードリヒ様は私に向かって微笑んだ。
「……いや、何でもない」
一方ネル君はというと、私の隣でずっとエードリヒ様を睨めつけて警戒していた。
その様子は全身を逆立てて警戒している猫みたいで……不謹慎だけどちょっと可愛い。普段パティスリーに来るのは女性のお客様が多いから男性がお店にやって来て緊張しているのかもしれない。
私が頬に手を当ててへにゃりと頬を緩めていると、エードリヒ様がネル君を見てフッと笑みを零した。
「随分と可愛い護衛がいるのだな」
「護衛じゃないわ。ネル君はお店を手伝ってくれているのよ」
私は二人にそれぞれ紹介する。
話を聞いていたエードリヒ様は眉を上げると、続いて感心したようにネル君を眺めた。
それに対してネル君はより一層エードリヒ様に警戒心を強めていて、目の鋭さが増している。
紹介し終えたところで、私はエードリヒ様にお茶を出していないことに気がついた。
――エードリヒ様と久しぶりに話ができたのが嬉しくて。つい立ち話をさせてしまったわ。このまま帰ってもらうなんて失礼だし、是非お茶を飲んでいってもらいたいわ。
そしてお茶を出すならそのお供に彼の好きなお菓子を食べてもらいたい。
幼い頃の記憶を思い出していると、ある一つの情景がぱっと脳裏に浮かび上がる。
「エードリヒ様、もしまだ時間があるならオレンジソース添えのクレープを食べて行かない?」
私の提案を聞いた途端エードリヒ様は顔を綻ばせた。精悍な顔つきが一気に子供っぽいものへと変化する。
「それは嬉しい。君のお菓子が食べられるなんてファン第一号としてこれ以上嬉しいことはないし……実を言うと私は君に飢えていた」
私に向けた言葉のはずなのに、エードリヒ様はネル君を眺めながら言葉を紡ぐ。しかも口端を吊り上げて何だか楽しそうだ。
ネル君はというと、ギリリと奥歯を噛みしめてエードリヒ様を睨んでいた。
――もしかしてネル君は自分の分がないと思っているのかしら? ふふっ、可愛いわね。
私はネル君の側に寄ると彼の肩にぽんと手を置いた。
「大丈夫よ、ネル君。あなたの分もちゃんとあるから。貯蔵庫にいるラナの分も用意するし。一緒に食べましょうね」
私が声を掛けるとネル君は頬を膨らませる。
「お嬢様が僕の分もきちんと用意してくれることは分かってます。ただ……」
「ただ?」
その先を促すとネル君は私を一瞥してから溜め息を吐く。
「……なんでもないです。クレープができあがるまで僕は王子様の話し相手をしています。イートインスペースで待っていますね」
「ありがとう、お願いするわね」
私がネル君に笑顔を向けると、ネル君は私に笑みを返す。が、王子様へと頭を動かした途端に真顔になった。
「……こっちですよ、王子様。僕についてきてください」
素っ気ない声で言うとエードリヒ様に背中を向けて歩き始める。
――やっぱりエードリヒ様のことを警戒しているの? こんな状況で二人きりにして大丈夫かしら?
頬に手を当てて不安を抱いていると、エードリヒ様が口をぱくぱくと動かして『心配いらない』と合図を送ってくれる。
彼の言うとおり、小さい頃は年下の私の面倒を見てくれていたから、子供の扱いは慣れている。ネル君も今は警戒しているけれど、そのうち打ち解けてくれると信じよう。
私が『お願いします』と頷くと、エードリヒ様はネル君の後を追いかけていった。
二人が厨房からいなくなると、早速クレープ作りに取り掛かった。
エードリヒ様は手の込んだ料理よりも家庭的なものが大好きだ。中でもオレンジソースで煮詰めたクレープには目がない。
オレンジソース添えのクレープはメルゼス国の庶民の間で広く親しまれているお菓子の一つ。オレンジは季節になると安価で売られているし、クレープのもとになる材料も手に入れやすいものばかりなので庶民の間でよく食べられているのだ。
私もオレンジソース添えのクレープは好きで、小さい頃はよくお母様に作って欲しいと強請ったものだ。
お母様が作るクレープは一瞬で生地がきつね色に変わって、まるで魔法みたいだった。
次第に私も作りたくなって教えを請うようになり、気がつけばお菓子の世界にどっぷりと浸かってしまっていた。
そしてすっかり忘れてしまっていたけれど、初めてうまくできたクレープを食べてもらった相手はエードリヒ様だった。
当時の私は美味しいかどうかが知りたくて、エードリヒがクレープを食べ終えるまで無言で眺めていた。今思うと非常に食べづらかっただろうし、口が裂けても不味いとは言えない状況だったと思う。
私の無言の圧力に怯むことなく、エードリヒ様はクレープをじっくりと堪能した後、朗らかな笑みを浮かべて「美味しかったからまた食べたい」と絶賛してくれた。
エードリヒ様が言っていた通り、私のお菓子のファン第一号は彼で間違いない。
昔のことをいろいろ思い出し終えたところで、クレープの生地ができあがる。
あとは温めておいたフライパンにバターを加えて溶かしたら、生地を流し込んで薄くなるように伸ばして焼くだけだ。これが意外と難しくて小さい頃は四苦八苦させられた。
お玉に半分くらいの生地を掬うとフライパンへと流し込む。手際よくフライパンを回して伸ばせば、生地に気泡ができるまで暫し待つ。生地にふつふつと穴ができ、固まってきたら優しくヘラでひっくり返す。裏面も軽く火を通し終えたら四つ折りにしてお皿の上にのせていく。これでクレープはできあがり。
別のフライパンに絞っておいたオレンジの果汁と砂糖を入れて煮詰めていき、そこに四つ折りにしたクレープを浸して少しだけ煮る。
それをお皿に盛り付けてオレンジの果肉と生クリームを盛り付ければ完成だ。
最後にお茶に使うお湯を沸かしているとラナが貯蔵庫から戻ってくる。
「お嬢様、在庫の確認が終わりましたよう」
「お疲れ様。今イートインスペースにエードリヒ様とネル君がいるの」
「エードリヒ様が? お会いするのは久しぶりですね。というか今は視察で国中を回られているのではなかったのですか?」
ラナが怪訝な表情で尋ねてくるので私はことの経緯を説明する。
「――というわけなの。エードリヒ様の大好きなクレープが完成したところよ。あなたの分も作ってあるわ」
「ありがとうございます。嬉しいですよう。ささ、後は私がお茶の準備をして持って行きますのでお嬢様はイートインスペースへ向かってください」
「ありがとう。お願いするわね」
私はエプロンを取って壁のフックに掛けると、二人がいるイートインスペースへ向かった。
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