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第20話

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 空の広い範囲が雲に覆われて青空が遮られている。
 雨が降り出しそうな気配はないけれど、どんよりとした重たい空気に包まれている。
「はあ……」
 今日は週に一度の定休日。
 普段ならベッドから起きてゆっくりとした時間を自室で過ごすのだけれど、今朝の私は日が昇る前にパティスリーへ行き、厨房で一心不乱に調理器具の点検をしていた。
 こうして手を動かしていなければ心が落ち着かない。
「はあ……」
 私は天井を見上げて何度目かになる溜め息を吐く。

「お嬢様、旦那様が心配なのは分かりますが、犯罪を犯して捕まったわけではないんですから、そう暗くならないでくださいませ」
 厨房の隅にある丸椅子に座って泡立て器やヘラの手入れをしていたラナが、私の様子を見かねて声を掛けてくれた。
「だけどお父様が屋敷に戻らなくなってから一週間が経つわ。連絡だって初日にあっただけでそれ以降は一度もない。……心配にもなるわ」
 お父様から暫く屋敷に帰れないと連絡が入ったのは一週間前。
 その時はちょっとしたトラブルが王宮で起きて、その処理に負われているのだと思っていた。これまでもそんな連絡は何度かあったし、数日帰らない日もあった。
 だから特に気にすることはないと高を括っていたのだけれど。


「……流石に一週間は長すぎるわよ。まあ、あんな大事件が起きたから帰れないのは分かるけど、お父様の身体が心配だわ」
「旦那様は仕事熱心ですからね。……一刻も早く犯人が見つかればいいんですけど」
 私はラナの言葉に同意するように眉根をぎゅっと寄せた。
 事件が起きたのは一週間ほど前。
 王家に代々伝わる秘宝――人魚の涙と言われるサファイアの指輪が何者かによって宝物庫から盗まれてしまった。その秘宝は初代国王の時代から受け継がれてきた非常に貴重な品で、どの国王陛下の肖像画に必ず描かれている。いわば王家の象徴だ。
 したがって、一刻も早く犯人を捕まえて指輪は取り戻さなければいけない。でなければ王家の面目が丸つぶれだ。
 王宮長官であるお父様は犯人逮捕に向けて、その捜査に加わっている。仕事熱心だから犯人が見つかるまでは寝る間も惜しんで手がかりや証拠集めに奔走しているだろう。

 それから余談だけれど私との婚約を解消したフィリップ様は宝物庫管理を担当している。
 連日蜂の巣をつついたような騒ぎになっている王宮の中を駆けずり回り、責任の所在を押しつけられて割を食っていると思う。
 王宮全体を管理するお父様が帰ってこられないのだから、きっと彼も伯爵家には戻れていないことだろう。
 カリナ様と盛り上げる時期に水をさされて可哀想だなと思いつつ、もしも自分がまだフィリップ様と婚約していたら大変な目に遭っていたから良かったと安堵する。
 だって、お父様が屋敷に帰ってこないだけで心配で胸が張り裂けそうになるのにそれがもう一人増えるなんて知恵熱を出しそうだ。
 今だってお父様を心配しすぎて頭が痛む気がする。


「お父様の様子を見に王宮へ行くのが一番手っ取り早いんだけど。今は厳重な警備体制が敷かれているから気軽に足は運べないだろうし……お店もあるから難しいわね」
 私が肩を竦めてみせるとラナはケーキの型を磨きながら言った。
「王宮の宝物庫から秘宝を盗み出すなんて大それたことをしたのはどこの誰なんでしょう。というか、人魚の涙を盗んだところで皆それが秘宝だって分かりますよう。まったく間抜けな物盗りがいたものですね。犯人は外国人でしょうか?」
 人魚の涙は雫型のブルーサファイアの指輪で、その中心には国花であるイベリスの花が象嵌されている。
 非常に特徴的な指輪であり、歴代国王陛下の肖像画で何度も登場しているため、メルゼス国の国民であれば誰でも指輪を思い浮かべることができる。ラナが言っているように、盗んだ秘宝を売ろうとすれば「自分が犯人です」というプレートを首から提げているようなもので、店側から警備隊に通報されて捕まってしまう。

 ――まだ見つからないってことは犯人が秘宝を持っているか、他国で取引されたかのどちらかだわ。早く事件が解決に向かってくれることを祈るばかりね。じゃないとお父様が過労で倒れてしまうわ。
 作業の手を止めて物思いに耽っているとラナが椅子から立ち上がった。
「さて私の方は手入れが済みましたので、貯蔵庫へ行って材料の在庫チェックをしてきます」
「分かったわ。よろしく頼むわね」
 中庭を抜けた先には事務室と貯蔵庫がある。ラナは引き出しから帳簿を取って小脇に抱えると厨房から出ていった。

 一人残された私は暫く経ってから小鍋の手入れを終えた。
「調理器具も綺麗になったし、次はカヌレのレシピを見直しましょう」
 私は最終段階に入っているカヌレのレシピが書かれたノートを作業台の上に広げた。
 いくら美味しいカヌレが作れても茶色い見た目のままだとお客様の食指は伸びない。
 うちのコンセプトである可愛いを体現するためにもトッピングは使いたい。だけど、トッピングした姿を想像すればするほど私の中でしっくりこなかった。
 その原因はこの間のアップルタルトにあるのかもしれない。

 私が食事のマナーで粗相をしてしまった時にアル様がアップルタルトは最初からシュトロイゼルがのっていたと言って助けてくれた。
 偶然の産物ではあったけれど、アップルタルトはシュトロイゼルをのせたことで売り上げが伸びた。わざと食べるのを難しくしたことで、万が一粗相をしても最初から食べにくいお菓子だから多少の粗相は仕方がないという認識が広まったのだ。
 そこから分かったことだけれど、食事のマナーを気にしている令嬢は意外と多いということだ。

 思い返してみると男女が出席する晩餐会の席で女性が選ぶお菓子といえば、ムースやフランといった液体を固めたお菓子が多い。パイ生地やクッキー生地、トッピングの多いお菓子は避けられる。
 反対に同性が集まるお茶会の席では食事のマナーはそこまで気にしなくてもいいのでシュークリームやタルトが選ばれやすい。
 同性の前だけでなく異性の前でも堂々と食べられるお菓子があれば楽しむ選択肢は広がる。
 カヌレはムースやフラン寄りの食べやすいお菓子なので粗相は少ない。しかしトッピングで可愛さを演出すれば粗相を起こす可能性を高くしてしまう。かといってこのままの見た目ではお客様からは見向きもされない。

 そこで私はカヌレのサイズを一回り小さくして提供することに決めた。一口サイズの小さなカヌレなら食べこぼす心配もないし、通常サイズのカヌレよりもカリッと感が増して美味しい。多少の堅さは出てしまうけれど、噛みごたえのある食感を楽しめるだろう。
 これはカヌレだからこそできる強みだ。
「分量もオーブンの温度もこれで大丈夫そうね。今度アル様に食べてもらいましょう」
 アル様がカヌレを食べて美味しいと言ってくれる姿を想像していると、不意に背後から聞き慣れない男性の声が聞こえてきた。
「今度は何のお菓子を作っているんだ?」
「……ひゃっ!?」
 驚いた私はぴゃっと跳び上がった。
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