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第19話
しおりを挟むバターと砂糖で煮詰めたリンゴはしんなりとした中に確かな甘みがあり、その下のクレームダマンドとよく合っている。クッキー生地のタルトは舌の上でほろほろとほどけ、隠し味に入れていたクルミの食感がまた楽しい。
――うん。やっぱりアップルタルトはこのレシピが一番好き。
いつも通りの仕上がりに満足していると、アル様からの視線を感じた。
「どうしました?」
真剣な眼差しを受けて私は小首を傾げる。
すると不意にアル様の手が伸びてきて私の頬に触れた。白くて細長い指からは温もりがじんわりと伝わってくる。
「ア、アル様?」
私の心臓は一度大きく跳ねると、急速に脈打ち始めた。
だって、アル様の熱を孕む双眸が私を捉えて離さないから。じっと見つめられてドキドキしない方がおかしい。
――ううっ、このままだと心臓が持ちそうもないわ。何か別のことを考えないと……!
私が必死に別のこと――カヌレのトッピングは何にしようかとか、アップルタルトもいいけどファーブルトンも美味しいわよねとか、どうでもいいことばかり――に意識を集中させていると不意に声を掛けられる。
「シュゼット令嬢」
「……ひゃいっ!?」
内心パニックに陥ってしまった私は上擦った声で返事をする。
意識を現実に引き戻せばいつの間にかゾッとするほど美しく整った彼の顔が間近に迫っていた。
私の心臓はさらに激しく脈打った。
これでは何のために意識を別のところにやっていたのか分からない。
――とにかく、私から離れて! 至近距離のままでいたら今度こそ気絶しちゃう!
私の心の叫びなど知るよしもないアル様は目を細めてくる。
「じっとして。口の端にタルトの欠片がついてるから」
アル様は頬に触れていた手を滑らせてから、食べこぼしたタルトの欠片を指の腹で払ってくれる。そうしてやっと離れてくれたアル様にホッとしたのも束の間、口端にタルトの欠片が付いていたことを知った私は顔を青くした。
「はしたないところを見せてしまって申し訳ございません!」
食事のマナーは淑女が身につけるべき行儀作法の必須項目だ。
何故なら食事の様子を一目見るだけでその人の品格や家柄がどの程度なのか分かってしまうから。
結婚相手を探している令嬢はより良い家柄の相手と結ばれるために食事のマナーには細心の注意を払っている。
きちんとできていない令嬢は周りから白い目で見られ、最悪の場合は異性に見向きもされなくなるし、家の名誉を傷つけることにもなる。
だからこそ令嬢にとって異性との食事はお互いを知る楽しい場所と言うよりも、試験を受けるような恐ろしい場所になっている。
侯爵令嬢である私も例に漏れず食事のマナーには充分気をつけているつもりだった。けれど、今回は失態を犯してしまった。
結婚を諦めてお店の経営にばかり意識が向けていたから、侯爵令嬢という立場を忘れかけていたのかもしれない。とにかく、私は醜態を晒してしまい言葉を失っていた。
――嗚呼、アル様に軽蔑されてしまったかも。もう口を利いてくれなかったらどうしよう。
既に社交界で私の悪評が広まっている。
アル様が貴族かどうかは分からないけれど、王宮に勤めているから貴族筋であることは間違いない。私の醜聞はどこかで耳にしているはずだ。
これまで気さくに接してくれていたのに、きっと醜聞通りの品のない人間だと幻滅したはずだ。
不安で胸がいっぱいになって涙ぐんでいると、アル様は席から立ち上がる。そして私の隣に座ると、懐からハンカチを差し出してくれる。
「大丈夫。僕しか見ていないし、このことは誰にも言わないから。というか誰にだってし失敗はあるんだからそこまで自分を思い詰めないでよ」
「で、でも……」
食事のマナーが完璧じゃないのは令嬢にとって死活問題だ。
私が尚も食い下がろうとするとアル様がハンカチで目尻に溜まった涙を優しく拭いてくれた。
「泣かないで。シュゼット令嬢は完璧だから。それにこのアップルタルトにはもともとそぼろ状のクッキーがトッピングされていて食べるのが至難の業だった……そうだよね?」
「へ?」
一瞬何を言われたのか分からずキョトンとしてしまったけれど、私はすぐにその内容を理解して目を見開いた。
アル様は軽蔑するどころかアップルタルトには初めから食べるのが難しいクッキーがのっていたと主張してくれたのだ。
そんな発想は私の頭にはなかったし、その心遣いがとても嬉しい。
不安で冷え切った心がじんわりとした温もりに包まれていく。
私はアル様の問いに対してしっかりと頷いた。
「そうです。……このケーキにはそぼろ状のクッキーをわざとトッピングしていました」
同調するとアル様は目を細めてからぽんぽんと私の頭を優しく叩いてくれる。気持ちが落ち着くまでの間、アル様のされるがままだった。
暫くして心が平常心を取り戻すと、私は段々恥ずかしくなってきた。
「あの、アル様」
「なんだい?」
「……そろそろ頭をぽんぽんするのはやめていただけないでしょうか?」
私がおずおずとお願いするとアル様は楽しげに目を細める。
「うーん、どうしようかな?」
「お願いですから子供扱いしないでください。私はアル様と歳だってそこまで変わらない……もう二十歳なんです!」
叫んだ途端、私は顔を真っ赤にして俯いた。
自分から年齢を言っておきながら男性に知られるのはやはり恥ずかしい。
それが特別なお客様のアル様となればより一層のこと不安になる。彼とは良好な関係を築いていたいし、もっと仲良くなりたい。
私の年齢を知って年相応と思ってくれたならいいけど、さっきの扱いを考えるに十代の女の子だと思っていたはずだ。
変に気まずい空気を作り出してしまったことに私は深く反省する。だけど、アル様には私の年齢を知っていてもらいたいし、嘘偽りの関係でいたくなかった。
どうにかして話題を変えて話を逸らしたいのに何にも思い浮かばない。
私が言葉を詰まらせていると、アル様が目を細めてこう言った。
「だけど僕からしたらシュゼット令嬢はまだまだ可愛い女の子だよ」
アル様は私に微笑んだ。それがまた美しすぎて私は魔性に目が眩んで倒れそうになる。
「……あれ?」
突然視界がぐらりと揺れた。本当に倒れてしまったのかと一瞬驚いたけれど、続いて身体が浮いた感覚を覚える。アル様の顔が目と鼻の先まで迫っていて、私は漸く彼の膝の上にのせられていることに気がついた。
「ええっ!?」
私が狼狽えていると、アル様がくすくすと楽しげに笑う。
「やっぱり、シュゼット令嬢は可愛い女の子だ。膝にのせて顔を真っ赤にさせているんだから」
アル様に可愛いと言われて嬉しいと思う気持ちと女の子ではなく、大人の女性として扱って欲しいという感情がせめぎ合う。
私は怒るべきなのか恥ずかしがるべきなのか収集がつかなくなっていた。
すると急に頭の中にネル君の姿が浮かぶ。
――もしかして、ネル君も私の膝の上にのせられてこんな気持ちだったのかしら。
私も幼い子供扱いのようにあやされるのには納得がいかない。
今なら膝の上にのせられたネル君の気持ちが分かるような気がした。
「ごめんごめん。謝るからそんな顔をしないで」
アル様は私を膝の上から降ろすともとの席に戻って仕切り直しだというように空になっていたカップにお茶を注いでくれる。
「いつもみたいに僕はシュゼット令嬢といろんな話を楽しくしたいな」
「は、はい。私もアル様といつものように他愛もないお話がしたいです。特に先程のそぼろ状のクッキーについて詳しい意見が聞きたいです」
「いいね。僕個人の意見なんだけど――」
私は新しいお茶が入ったカップを受け取るとそれを口にしながらお菓子の話に花を咲かせた。
数日後、バラの花の形をしたリンゴの間にはそぼろ状のクッキー――シュトロイゼルがたっぷりとのったアップルタルトが店頭に並んだ。名札の下には『これは食事のマナーを気にしないためにわざとシュトロイゼルをたくさん使っています』という説明書きを入れている。
もとからクッキー生地が崩れていることもあり、食事のマナーを恐れていた令嬢たちの間でこのアップルタルトは、気兼ねなく食べられるケーキとして話題になるのだった。
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