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第18話
しおりを挟むその日の夕方、いつものように閉店時間のギリギリにアル様はお店にやって来た。
「いつもお仕事お疲れ様です。お茶とケーキの準備ができています!」
ネル君から元気をもらった私は溌剌とした声でアル様に話しかける。
するとアル様は私と目が合うと何故か視線を泳がせる。よく見ると頬も赤いし、もしかして熱でもあるのかもしれない。
「アル様、体調が優れないのですか?」
心配になった私は距離を詰めると、腕を伸ばしてアル様の額に手を付けた。
「うーん。少し熱っぽいような。もしかして風邪、でしょうか?」
私が眉根を寄せるとアル様が優しい手つきで私の手首を掴んで額から引き剥がす。
「心配無用です。今日はちょっと暑くて、体温が上がっているだけだから」
きらきらしい笑顔を向けられ、そこで私は漸く彼に近づきすぎていることに気づいた。
慌ててアル様から離れる。
「ごめんなさい。馴れ馴れしかったですね」
アル様の雰囲気がネル君と似ているから、ネル君と同じ態度で接してしまう。
「それで今日はどんなケーキが食べられるのかな?」
気まずくならないようアル様が話題を振ってくれたので、私はここぞとばかりに食いついた。
「ア、アップルタルトと、あと改良したカヌレです! どうぞ、いつもの席へ!」
アル様をいつものテーブル席に案内すると用意していたケーキとお茶のセットを取りに行く。
――嗚呼、距離感を見誤ってしまったわ。アル様は大事なお客様でネル君じゃないのに私ったら……。
ネル君と同じような態度で接してしまったことが恥ずかしくて、私は手でぱたぱたと扇ぎながら顔の熱を取ろうとする。
顔の熱が落ち着きはじめたところで私はアル様の方をちらりと見た。
テーブル席の二人がけのソファに腰を下ろすアル様はやはり、ネル君と雰囲気がどこか似ている。きっとそのせいで私はアル様に接する距離感がおかしくなってしまっている。
「大事なお客様なんだからこれ以上粗相しないように気をつけないと」
落ち着きを取り戻した私は呼吸を整えると、お盆の取っ手を掴んだ。
アル様のもとに向かった私は早速テーブルの上にケーキとお茶のセットを並べていく。
向かい席にも同じものを置いて私はそこに座った。
「お待たせしました」
皿の上にのっているのはバターと砂糖で煮詰めたリンゴをくるくると巻いて薔薇の形にしたアップルタルトだ。縁や隙間には生クリームとミントで飾り付けをしている。
今回は見た目が華やかだし、リンゴの美味しさを存分に楽しめるよう、アラザンやチョコレートなど主張の強いトッピングはしていない。
そしてアル様のアップルタルトの横には、改良したカヌレがちょこんとのっている。
カヌレは十度ずつオーブンの温度を上げて焼いた後、私の方で試食をして一番手応えを感じたものを出した。
個人的にうちのオーブンだと二百度の温度で焼成するのが一番カリッとしていて美味しかった。それ以下だとカリッと感にパンチが足りず、それ以上だと固くなりすぎてしまう。
アル様はお茶を口に含むと試作品のカヌレから食べ始めた。
お出しする前にカヌレを最終確認したけれど、表面の茶色い部分は指で叩くとコンコンと音がするくらい焼き上がっていて、囓ってみると理想的なカリカリ具合だった。中の生地はしっとり柔らかで弾力があり、ラム酒とバニラの香りが鼻を抜けていく。
今回は自信があるのできっとアル様も認めてくれるはずだ。
固唾を飲んで見守っていると、食べ終えたアル様が真面目な顔で私を見る。
膝の上に拳を置いて背筋を伸ばすと私はアル様を見つめ返した。
緊張が走る瞬間だった。
「…………この前と比べて今回のカヌレは凄く美味しい。南西地方で食べた味によく似ているから出しても問題ないと思う」
「本当ですか? 嬉しいです!!」
私は心の中で拳を掲げた。これで満を持してカヌレをお店に出すことができる。
カヌレは形を変えることができないから、可愛さを出すならやはりトッピングだろうか。
とにかく、今は合格をもらえた喜びに浸っていた。
アル様はカヌレを食べ終えると、アップルタルトを一瞥してから私の方を見た。
「シュゼット令嬢は僕がクッキーやタルトが好きってこと、覚えててくれたんだね。とても嬉しいよ」
「……っ!」
ただ好物のタルトを出しただけなのにこの世にこれ以上の幸せはないというような、きらきらしい笑みを向けられる。
ネル君も好物を出すと同じような笑みを浮かべるけれどアル様は青年である分、何倍も、何十倍も破壊力がある。
ネル君の笑顔が天使なら、アル様の笑顔は魔性だ。気を抜いたらうっかり目が眩んでそのまま倒れそうになってしまう。
私は負けるまいとお腹の底にぐっと力を入れた。
「もちろん覚えています。だってアル様は私にとって特別ですから」
「特別? それは本当?」
ガタリを音を立てて勢いよく椅子から立ち上がるアル様は、前のめりになって尋ねてくる。その食いつきぶりに戸惑いつつも私は訥々と答える。
「え? はい、特別ですよ。だってアル様はうちのお得意様ですし」
アル様は毎日うちへ足を運んでくれている。
お得意様の趣味・嗜好を把握して心が離れないようがっちりと繋ぎ止めておくことは、パティスリーの店主として、経営者として大事な心得だ。
これからも彼好みの美味しいお菓子を提供するつもりでいる。
アル様は私の返事を聞いて明らかに落胆した様子を見せた。その物憂げな表情ですら一枚の絵画になってしまいそうなほど美しい。
「あー……そっちの意味かあ」
あまりの美しさに見入っていたせいでアル様のぼやく声は私の耳には届かなかった。
アル様は小さく溜め息を吐いて微苦笑を浮かべた後、ゆっくりと席に着く。
遠くを見るような目で天井の一点を見つめ、テーブルの上に手を置いて人差し指をトントンと叩きながら思案深げにしている。やがて視線を私の方に戻すと、少し困った様な表情を浮かべてから言った。
「シュゼット令嬢の作るお菓子は大好きだよ。だからこれからも僕のために美味しいお菓子を作って欲しいな」
「もちろん。アル様のためならなんでも作りますよ!!」
アル様はこのパティスリーのお得意様で特別な存在だ。
これからもお菓子の試作品を食べて感想を言ってもらいたいし、ここに足を運んで欲しい。
私の返事を聞いたアル様はこっくりと頷いた。
「今はその返事が聞けただけ幸せかな。……それじゃあ改めてアップルタルトをいただくよ。シュゼット令嬢も自分の分を用意しているんだから一緒に食べよう」
アル様はカトラリーを手に取ってアップルタルトを食べ始める。
私もそれに倣ってカトラリーを手に取ると、アップルタルトを一口サイズにカットして味を確かめた。
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