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第1話
しおりを挟むプラクトス伯爵家の豪華絢爛なサロンの中央にて。
私は婚約者であるフィリップ・プラクトス様から婚約破棄を告げられた。
「シュゼット・キュール侯爵令嬢! おまえとの婚約は破棄する!!」
予想もしていなかった展開に私は目を白黒させていた。
彼の隣には可憐で儚げな少女――カリナ・ライオット男爵令嬢が寄り添っていて、怯えた小動物のような瞳で私を見つめている。
今夜は婚約者であるフィリップ様の伯爵就任を祝う式典が開かれていて、サロンには招待された貴族が大勢集まっていた。周囲は衝撃的な内容に動揺を隠しきれず、さざ波のようなざわめきが室内に広がっていく。
渦中の私も例に漏れず動揺し、ただ呆然とその場に立ち竦んでいた。
「……どうして婚約破棄されるのか理由をお聞きしてもよろしいですか?」
上擦った声で尋ねるとフィリップ様は煩わしそう答えた。
「分かりきったことを尋ねるな。おまえとの婚約は親同士が決めた政略結婚だからに決まっているだろ。キュール家と結ばれたところでこちらにメリットなんて何もない。そして、父上が亡くなり結婚の書面もない以上、守る義務などどこにもない」
フィリップ様の意見はもっともなことばかりで私には反論の余地もなかった。
我がキュール家は由緒正しい家柄ではあるものの、ここ数年は権威が失墜の一途を辿っている。家計は火の車状態ではっきり言えば首が回らなくなっているのだ。
キュール家はいくつもの鉱山を所有していて、そこから収入を得ていたのだが、七年前から鉱物石が採掘されなくなってしまった。そこに追い打ちを掛けるように五年前には領地が水害に見舞われ、その復興や治水整備に莫大な費用が掛かってしまった。
結果として借金を負う羽目になり我が家は没落しかけている。
鉱物石さえ採掘できていれば復興や治水整備の費用を賄うことができただろう。しかし、いくら鉱山内を隈なく探索しても鉱物石は見つからない。可能性のある場所に新たな坑道を設けようにも巨大で頑丈な岩壁によって開拓することもできない。手の施しようがない状態だった。
フィリップ様との婚約はそんな状況下でありながらも着々と進められていた。お父様と先代プラクトス伯爵は親友で、うちが困窮する前からお互いの子供を結婚させようと約束していたのだ。
メルゼス国は恋愛結婚が普及しつつあるけれど、貴族間の政略結婚は未だに根強い。だから私自身はフィリップ様との婚約に何の不平不満もなかったし、当たり前のことだと思っていた。
それに首が回らない爵位だけが取り柄になりつつあるキュール家の娘をもらってくれる殿方がいるのならありがたいとさえ感じていた。彼と一緒になったら足手まといにならないよう、女主人として屋敷の管理はしっかりしようと勉学にも励んでいた。
ところが、この婚約には一つだけ欠点があった。
それはお父様と先代が私とフィリップ様との婚約を書面に一切残していなかったこと。親友で長年付き合いがある二人は互いに信頼し合っていたためそんなものは必要ないと思っていた。
その判断は非常に甘かったと今ならはっきりと言える。
何故なら結婚する前に先代が急逝してしまい、フィリップ様がプラクトス伯爵になったその日――つまり今夜、私は彼に婚約破棄を告げられたからだ。
――フィリップ様が伯爵になった以上はただの口約束に過ぎないこの婚約を守る必要はどこにもないわ。書面を残していなかったばかりに私は手も足も出ない。
黙り込んでいるとフィリップ様は隣にいるカリナ様の肩を抱いて自分の方へと引き寄せた。
「俺はカリナという真実の愛を見つけたんだ。伯爵に就任して最初の仕事が婚約破棄なのはどうかとは思うが、おまえのような性格の卑しい女との婚約が破棄できて清々している」
「性格が卑しい……ですか?」
唐突に悪口を言われたので私は面食らってしまう。
首を傾げて聞き返しているとフィリップ様は私が惚けていると判断して、しらばっくれるなと鼻を鳴らした。
「おまえはカリナが俺と親しくしていることに嫉妬して、陰湿な虐めを繰り広げていたらしいな」
「え?」
初めて聞く内容に私は目を見張った。
私は二人が親しい間柄であることは知っていたけれど、そこに恋愛感情があっただなんてちっとも知らなかった。彼女に嫉妬して虐めたことなんて一度もない。
というより、もともと私に対して冷淡だったフィリップ様の態度が半年前からさらに加速したのはカリナ様との仲が深まったからだと今更気づく。
正直な話、私にとってフィリップ様の浮気も婚約破棄も青天の霹靂だった。
「フィリップ様、私はカリナ様を虐めたことなど一度もございません。事実無根です」
「はっ、嘘を吐くな。おまえが図書館でわざとカリナを突き飛ばしたり、毒入りの茶葉を贈ったりしたことをカリナ本人から直接聞いている。白を切っても無駄だぞ!」
「それは突き飛ばしたのではなく、たまたまぶつかってしまったんです。それに茶葉もぶつかったお詫びに贈った普通の品ですわ」
弁解したところでフィリップ様は私の話を信じてくれなかった。
寧ろ御託を並べていると判断されて、ますます目が鋭くなっていくばかりだ。
「前から侯爵家を笠に着て高飛車で可愛げがないと思ってはいたが、ここまで性根の腐った悪辣な女だとは。おまえなど未来の妻に相応しくない。相応しいのはこのカリナだ! とっとと失せろ!」
フィリップ様の言葉を合図に私は執事と下僕に腕を掴まれて、そのまま屋敷の外へとつまみ出されてしまった。
◇
屋敷から追い出された私は馬車に乗って帰路についていた。
「まさか大勢の前で婚約破棄されるなんて思いもしなかったわ。それに浮気までされていたなんて……」
頭の中を整理したいのに全然思考がまとまらない。
これまで立派な女主人になるために必死になって勉強していたのに無駄になってしまったとか、彼の好きな色糸で刺していた刺繍が途中までだったとか、重要なことから些末ごとまでいろんなことが頭の中を通り過ぎていく。そしてすべての思考が通り過ぎた後、最後に残ったのは『婚約破棄された侯爵令嬢』という事実だけだった。
現実を漸く受け入れた私の瞳からはぽろりと涙が零れ落ちる。
この涙が何の涙なのか私にはよく分からなかった。政略結婚だったから身を切るような失恋ではないと思う。彼への好意はあったけれどそこまで強くない。一般的な恋愛と比べて傷は浅いはずだ。
――だけど浮気されて婚約破棄された挙げ句、悪女に仕立て上げられたんだもの。完膚なきまでに侮辱されて傷つかないわけないわ。
私は零れた涙を人差し指で払うと、車内の天井を見上げた。
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