竜の巣に落ちました

小蔦あおい

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60話

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 上げていた手を下ろした私は前を向いたまま、シンティオに気になっていたことを尋ねる。
「あんな簡単に黄金のリンゴを渡して大丈夫だった?」
 実のところ、アンソニー様がどんな研究でリンゴを使うのか気がかりだった。
 研究したいと言っていたけれど、それを何かに利用しないとは言っていない。本人が悪用しないつもりでも、見方を変えれば善は悪にだってなり得る。
 被害者が出ない保障はどこにもない、と私の中で懸念だけが残っていた。

「案ずるな。黄金のリンゴは果肉が空気に触れると急速に腐敗する。あれは既に欲まみれの女に齧られた。領都に着く頃には腐り果てた姿になっておろう」
「ああ。だからリンゴを食べる時丸呑みしていたんだ。でも彼女が来るかどうかなんて、なかなかの賭けじゃない?」

 ブルネット女が広場に現れる確証はなかった。
 私の中では虫も触れられない、か弱い女性のイメージがある。昨日クモまみれになった彼女の心情を考えれば、ショックで寝込んでいる可能性が大きいように思えた。

「水車小屋で会った時、あの女の心に巣食う野望が思念となって、我に伝わってきた。まったく、随分と妄想を膨らまして美化した我に執着しおって。思い出すだけで反吐が出る」
 シンティオは心底げんなりしている。深い溜息を吐くと話を続けた。
「ニコラが言っていたように、あの女はどんな手を使ってでも欲しいものを手に入れようとする利己主義者だ。ルナが賭けで広場に現れるとなれば、我もここにいると察しがつく。それに黄金のリンゴが存在するなら、あの女にとっては喉から手が出る代物だ。来ないわけがないであろう」

 シンティオは側頭部を掻きながら歩き始めた。やがて、くるりとこちらに向くと、腰の後ろで手を組んで前屈みになる。
「これで全てのけりはついた。我らも店に戻ろう」
 確かに、黄金のリンゴの賭けも、アンソニー様と教会の問題もけりはついた。
 全て望ましい方向へと話は進んだ。

 だけど――私はもうシンティオと一緒にはいられない。
 サンおばさんが言っていたように彼は竜王様のいる竜の国へ帰らなくてはいけない。

 私は自分の胸に手を当てると視線を落とした。
 相変わらず足先まで見通せる絶壁だ。見た目はどうみても通常運転。なのにその奥でじりじりと焼かれるような嫌な感じがする。

 私は振り払うように頭を振ると、前を行くシンティオの背中について歩いた。それでも、焼かれるような感覚は決して消えることはなかった。


 店に帰ると私はシンティオをソファに座らせた。
 お茶を飲もうと提案し、台所の竈に火を入れてお湯を沸かす。棚に並んだ数種類の茶葉のうち、どれを淹れようか悩んでいると、背後からシンティオの気配がする。
 振り向くと、彼の隣にはサンおばさんも立っていた。

「ルナ」
 眉を下げるシンティオの声が掠れている。それは悲壮感に滲んだ声だった。
 胸の奥が一際焼かれるように熱くなる。この感覚が何かなんてもうとっくに理解している。
 だけど、恋愛下手な私にはこの気持ちをどう表現していいのか分からない。

「お茶を飲んで休憩したら、賭けのお祝いに美味しいものを買いに行こう。シンティオの大好きな白パンも買うよ。うーん、茶葉はどれが良いかな」
 再び二人に背を向けて、明るい風を装おう。
「これだ!」と妙に元気な声を上げ、棚から茶葉の入った掌サイズの木箱を下ろすと、テーブルに置く。序にシンティオは視界に入れないようにする。

 すると、今まで黙っていたサンおばさんが口を開いた。
「ルナ、約束は約束だ。アタシはこの子を連れて帰るよ」
 サンおばさんに話しかけられて、反射的に応えてしまう。
「いやだ! ……あっ」
 顔を上げた途端、シンティオの悲し気な表情が視界に入ってしまった。

 胸の奥が、急に握り潰されるように苦しくなった。
 無抵抗な私の心臓が見えない何かに容赦なく圧迫されていく。苦しい。
 それは母を失った時に感じた苦しさとはまた違う、別のもの。
 分かっている。私はシンティオに恋い焦がれてしまっているのだ。

「……シンティオ。その、今更こんなこと言うのずるいかもしれないけど。竜の国へ戻って欲しくない」
 私の言葉が意外だったのか、シンティオは目を見開く。
「それは……誠か?」
 やっぱりこの竜は鈍いのかもしれない。
 私のポジションは最後の最後まで餌やり係か!?
 さっきの胸の苦しさを通り越して、腹底から沸々と怒りが込み上げてくる。
 こっちは勇気を出して言ったというのに。
 この竜はどうして間抜けな顔ができるのだろうか。肝心な時に心を読めないでどうするんだ!!

「だーかーらー、行かないでって言っている。私の傍にいて欲しい! だって私、シンティオのことが……」
 好きだから――という告白の言葉は最後まで言えなかった。
 シンティオの手が私の口元を覆う。目を剥いて口を塞がれても尚、反論する私に対して、彼は俯いたままだった。
 やがて、消え入るような小さな声が聞こえてきた。


「――――すまぬ」
 それだけ告げると私に背を向ける。
 すまぬ? すまぬって何? 私、まだ何も告白してませんけど!?
「シンッ……」
「行こうサンドラ」
 シンティオは私から離れると大股でサンおばさんの元へ戻る。サンおばさんはこっくりと頷くと持っていた自分よりも背の高い杖を振り上げて床に打ちつけた。

 カンッと床と杖のぶつかる音が室内に響く。
 二人は一瞬で私の目の前から姿を消してしまった。
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