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50話
しおりを挟む火照った頬を両手で押さえながら急ぎ足で放牧区域を歩いて行く。
初夏の太陽から降り注ぐ日射しのせいではない。もっぱらの原因はシンティオである。
人目がないからってあんなことをされるとは思ってもいなかった。マーキングとか言っているけれど、あれはただのセクハラだ。
彼から受けた触れ合いの嵐を思い出せば顔に熱がいっそう集中する。きっと今の私は耳の先まで真っ赤だろう。
「待つのだルナ。歩くのが早いのだ」
少し離れたところからシンティオに呼び止められる。
歩みを止め、振り返るとシンティオが駆け寄って来た。
竜の鱗の様にキラキラと輝いたオーラを放ち、さらに纏う空気は甘い。
「恥じらう其方も可愛いが、もうすぐ町に入る。いつものルナに戻ってくれ。他の雄どもにその顔は見せられぬ」
クスクスと笑いながらとろりとした瞳を向けられる。
あまりにも聞き慣れない甘ったるい言葉に、私は露骨に口元を歪めた。
「……悪い冗談言うのやめてくれる?」
胡乱な目を向けると、今度は彼の両手に顔を挟まれる。やがて顔が近づいてきて、鼻先が触れるか触れないかのところで見つめあう状態になった。
視線を逸らしたいのに、黄金の神秘的な瞳に魅了されて吸い込まれていく――
「冗談? 我は冗談など言っておらぬぞ。ルナは可愛い。これは世辞ではなく、我の本音だ」
私は目を瞬かせて今の発言を頭の中で繰り返す。
ダメだ。頭の処理が追いつかない。
私が可愛い? 本音ってなんだっけ?
だって小さい頃から男の子たちに死骸と揶揄われてきた私ですよ?
母からは愛情をもって育ててもらったし、可愛いと言ってもらった。だけどそれは単なる身内びいきで……世間の評価は違う。だから現実はよく分かっている。
性格や容姿をみても私には可愛い要素がどこにもない。それを補うように私はずっと強気な態度を取ってきた。
そうすれば男の子たちから何を言われようと平気でいられるから。
「ところでルナは先日食べた白パンとオレンジのマフィン、どちらが優れていると思う?」
「……へ?」
唐突な質問に戸惑いながらも私は二つのパンを比較する。
白パンは上等な小麦粉で作られていて、表面は空に浮かぶ雲みたいにふわふわしているのに、中はしっかり弾力がある。
オレンジマフィンは果汁が使われているから生地はしっとりしていて、柑橘系のすっきりした香りは日頃の疲れを癒してくれる。
どちらが優れているかなんて比べられない。どちらも個性があって、美味しいのだから。
するとシンティオが「そうだな」と頷いた。
「白パンやオレンジマフィンと同じで、ルナは他の誰かと比べられない。其方はその誰かではないからな。つまり、ルナはルナにしかない良さを持っておる。それを否定し、ないもの強請りをしていては、却って自分が苦しいだけ。向けるべきは自分の長所、比べるべきは過去の自分ではないか?」
私は言葉を詰まらせた。
自分には他人と比べてしまう部分があると薄々気がついていた。そんな自分に嫌気がさしていることも分かっていた。
「ルナ」
力強く名前を呼ばれる。
「誰かと比べなくていい、そのままで十分だ。我は今のルナが好きなのだ。だから自信を持って欲しい」
胸の奥がむず痒くて、熱い何かが込み上げてくる。
私はシンティオの両腕を掴んで解くと、額を彼の胸につけた。
シンティオは私に優しい言葉も、勇気づける言葉も掛けてくれる。そればかりか私の価値観まで変えてしまうような言葉まで言ってくれて。
目頭が熱くなるのを感じて、私は瞳を閉じた。
「……ありがとう、シンティオ」
「我はルナにはもっと自分を大事にして欲しいだけなのだ。誰かと比べて生きるのは苦しいし、終わりはないからな。特に明日は何があっても自分を信じてあげるのだ。……これはお守りとして肌身離さずつけておれ」
そう言うと、シンティオが私の左手の薬指に月長石の指輪を嵌めた。不思議なことに指輪のサイズは私の薬指にぴったりだった。
「え、でもこれがないとシンティオは……」
「黄金のリンゴを食べた我は指輪がなくても欲にのまれないから平気だ」
そうきっぱり言うと、シンティオは私の手をしげしげと見つめる。
「我は件の関係者ではないから明日は傍にいられない。だからつけていて欲しいのだ。勿論、陰からルナを見守っている」
「分かった。ありがとう」
いよいよ明日は決着の時。アンスさんの計画を成功させるためにも、店のためにもシンティオの言う通り、自分を信じて臨まなければ。
私は強く拳を握り締めると眼下に広がる町を見据えた。
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