竜の巣に落ちました

小蔦あおい

文字の大きさ
上 下
47 / 64

47話 ブルネット女4

しおりを挟む

「今、なんて言ったかしら? それは本気なの?」
 婚約者からとんでもないことを告げられて、私は耳を疑った。
 悪い冗談でしょ? という確認も込めて、頼りない儚げな瞳を婚約者へ向ける。
 こうすればこの男は私に甘くなるって知っているもの。だけど、今回は通用しなかった。

「だから、贈った今までの高価な宝石やアクセサリーを質入れしてもいいかと訊いたんだ」
「どうして?」
「教会の司祭様から荒らされた墓地の修繕費を請求された。……あいつら相当派手に荒らしたらしい」

 だったら組合の資産で何とかすればいいでしょ? 反論する前に彼は持っていた書状を私に渡した。訝しみながら受け取って中を確認する。
 まず、目に飛び込んできた文字は請求書。それから……その下の数字に瞠目した。

 貴族の帳簿にすらなかったような金額が書き記されている。これは組合の資産では到底支払えない額だった。
 少しでもお金の足しにするために、私の宝石やアクセサリーを売れっていうの?
 冗談じゃないわ! 私を何だと思っているの?

 今の華々しい生活からあの装飾品も宝石もない質素な生活に逆戻りなんて、想像しただけで屈辱だった。私はわなわなと身体を震わせる。
 このままだと、ニルヌの香水を買うお金も出せない。やっと貴公子をものにできる絶好のチャンスなのに。……棒に振ってなるものですか。

 私は婚約者に詰め寄ると、沢山のゼロが付いた金額を指さした。
「こんな金額を提示してくるなんて教会はいつから取り立て屋になったの? 修繕費でどうしてこんなにお金が掛かるのかしら?」
「それが墓地には前大司教様が眠る墓があって、その墓石が割れてしまったんだ。その使われている墓石はとても珍しい素材らしい。生涯神に仕えた偉い方だから彼に謝罪の意を込めて新たに墓を建て直したいんだとよ」
 私は露骨に顔を歪めると、生返事をした。

 もともと教会は大嫌い。だって、神様なんてこの世には存在しないもの。
 見えない存在に助けを求めても救いの手なんか差し伸べてくれない。
 祈って救われるなら私は今頃貴族の屋敷に戻って、煌びやかな夜会で大輪の花として令息たちからもてはやされているもの。
 愚かな信者たちは寄付金を渡せば助かるだの、祈り続ければ救われるだの。全部教会権力者の私腹を肥やすための口実なのにその意図に気づきもしない。
 私がここまでのし上がって来たのは、全部自分の力よ。神様なんて関係ないわ。だから今更、教会に屈してたまるものですか!

 私は書状を握り潰すと何事もなかったように美しく微笑んだ。
「心配しないで。私が話をつけてくるわ」
「いや。そうはいっても……って、おい待て!」
 婚約者の制止を振り切り、踵を返すとすぐに馬車に乗り込んだ。御者に行き先を告げると、馬が緩やかに走り出す。到着するまでの間、私は無意識に指の爪をずっと噛んでいた。



 教会に乗り込むとすぐにシスターが司祭の部屋へ案内してくれた。私がハンカチを携えて涙を流す様子を見て胸が痛んだのだろう。
「只今他の方とお話をなさっていますので少しお待ちください」
 部屋の前で待機することになった。私が小さく頷くと、シスターは違う部屋から椅子を出してくれた。
 これは時間が掛かるということかしら? シスターの真意を探っていると、扉の向こうから懇願の声が聞こえてきた。

「司祭様、どうか。どうか俺の村を助けてくだせえ。十分な寄付金は今支払えねえけど、必ず全部用意しますんで。だから、どうか。どうかっ……!」
「いやはや。こんなはした金では困りますな。神の救いを求めるのなら、まずはこれの五倍の寄付金が必要ですぞ。奇跡は、そう簡単には起こせないのですから」
 今日はもうお引き取りを、という言葉と同時に部屋の扉が開く。

 扉を開けたのは勿論司祭だ。想像通りの丸々とした、どうしようもない体たらくの男だった。高価な宝石のついた金の指輪や腕輪を何本も嵌めているけれど、豚に真珠そのもの。
 中央の椅子には項垂れる年老いた農夫が腰を下ろしている。酷くやつれて頬がこけていて、目の前の豚とは対照的だ。

 農夫は諦めていないようで、尚も司祭の腕に縋りついた。
「司祭様、ワシはどうなってもええんです。だけど、村のもんを救ってくだせえ。悪魔の爪が宿った麦なんか商人は買い取ってくれねえ。そしたら村は冬を越せなくなっちまう」

 悪魔の爪、という言葉は農村にいた時によく耳にした。養父がよく言っていたわ。
 それが宿る麦を食べると恐ろしい病に罹って苦しみながら死ぬ。
 見つけ次第、必ず村の全ての麦を焼却処分しなくてはいけない。これは領主様からの決まりごとだった。

 この農夫の村の麦は悪魔の爪が宿ってしまったために収穫ができなくなってしまったのね。
 司祭は優しい手つきで農夫のか細い手を引き剥がした。
「今の苦境は神があなたがたに与えた試練ですぞ。どうすべきか、よく考えなさい。……とはいえ、私ももう少し何かできないか考えてみましょう」
「ほ、本当ですか! 嗚呼、これぞ神のお導き。ありがとうございます、ありがとうございます!!」

 この豚、神妙な顔つきで喋っているけどそんなこと微塵も思っていないわ。農夫は感激して司祭の顔を見ていないから、彼が虫けらを見るような目をしているのに気づかない。嗚呼、愚かな農夫。

 彼は涙ぐみながら慇懃に礼をして去っていった。その姿が見えなくなると司祭は掴まれていた服の部分を汚らわしそうに振り払い、襟を正す。
「司祭様、お時間はございますか?」
 しっとりとした澄んだ声で話しかけると、豚は私を一目見て目の色を変えた。
 神様を盾にして権力を振りかざす聖職者だとしても所詮ただの男。私の美貌を前にすればたちまち鼻息が荒くなる。
「ええ勿論ですとも。さあこちらへ」
 豚に促されて部屋に入ると、私は先程の農夫が座っていた椅子に腰かける。

「いやはや、このような美しいお嬢さんが一体何の用でしょう?」
「こちらの書状に手違いがあったのではと、確認のために訪問させて頂きました」
 私は書状を豚に渡す。すると途端に私の身体を舐めまわすように見てはデレデレしていた空気がピリッとしたものに変わった。

「嗚呼、こちらは組合に請求した修繕費のことですね。一文字たりとも間違いなどありません。新しい墓を作るのできっちり払って頂かないと。前大司教様の眠る墓です。このままの割れた状態にしておくことも、質の劣る墓石を使うことも私にはできませんな。前大司教様の面子を潰すことになりますから」
「だけどこんな大金、すぐには用意できないわ」
「いえいえ、できますとも」
 豚は顎を撫でながらニヤニヤと笑う。
「あなたの組合は領主様から特別に付与された自治権がある。それにはこの請求額と同じだけの価値があると踏んでいます。私の方に譲渡して頂ければ、今回の請求は取り下げましょう」

 ……腐っても教会権力者ってわけね。今現在、領主様は行方不明。自治権を渡してしまえば、組合の資産もその運営もこの豚のいいようにされてしまうわ。そうなると私が自由に使えるお金がなくなる。
 司祭という肩書は伊達じゃないようね。だけど、私には男という生き物がどういうものなのかよく分かっているわ。

「司祭様はっ……なんて酷い方なの」
 私は大粒の涙を流して泣き始めた。美しく儚げに泣けば、どんな男も毒気を抜かれる。
 そしてものの見事に豚は慌てふためいた。
「嗚呼、泣かないで下さい。私は別にあなたを虐めているわけでないのですよ」
「ではどうして……どうしてこんな酷い仕打ちをなさるの? 先ほどの方の時もそう。司祭様は神様に仕える身でありながら私たちから苦しみを取り除いて下さらない。神様の奇跡の力を持っていると仰りながら一度だって奇跡を起こして下さらない。……もしかして、本当は神の奇跡なんて司祭様には起こせないのではないですか?」
 純粋無垢な潤んだ瞳で司祭を見つめる。神に仕える迷える従順な子羊であるかのように。

「な、何を言い出すかと思えば……」
 ムッとする司祭に透かさず私は謝った。
「あっ、申し訳ございません! 私ったらなんてことを……。司祭様は素晴らしい方なのに。いなくなった領主様と違って私を助けて下さるお方なのに!」
 両手で顔を覆ってすすり泣いていると、豚が私の両肩に分厚い手を置いて宥めてくる。尚も謝りながら泣いていると彼は耳元で囁いた。

「そういえば領主様はまだ見つかっていないようですね。あなたの言葉で目が覚めましたよ。請求のやり方を変えましょう。何、お金はもう必要ありません。上手くいけば先ほどの村も救えますよ」

 お金が必要ないと聞いて私は上手くいったと確信する。これで予定通り、ニルヌの香水が買える。
 私は豚に気づかれないようにしたり顔をする。
 やがて、椅子から立ち上がると司祭の手を取った。わざと私の胸元に持っていき、嬉し涙を流して優しく微笑んだ。

「嗚呼、ありがとうございます。司祭様」
 こうして豚は至極ご満悦で新たな書状を発行し、これを婚約者に渡すように伝えた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

【完結】いいえ。チートなのは旦那様です

仲村 嘉高
恋愛
伯爵家の嫡男の婚約者だったが、相手の不貞により婚約破棄になった伯爵令嬢のタイテーニア。 自分家は貧乏伯爵家で、婚約者の伯爵家に助けられていた……と、思ったら実は騙されていたらしい! ひょんな事から出会った公爵家の嫡男と、あれよあれよと言う間に結婚し、今までの搾取された物を取り返す!! という事が、本人の知らない所で色々進んでいくお話(笑) ※HOT最高◎位!ありがとうございます!(何位だったか曖昧でw)

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

お姉さまが家を出て行き、婚約者を譲られました

さこの
恋愛
姉は優しく美しい。姉の名前はアリシア私の名前はフェリシア 姉の婚約者は第三王子 お茶会をすると一緒に来てと言われる アリシアは何かとフェリシアと第三王子を二人にしたがる ある日姉が父に言った。 アリシアでもフェリシアでも婚約者がクリスタル伯爵家の娘ならどちらでも良いですよね? バカな事を言うなと怒る父、次の日に姉が家を、出た

処理中です...