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7話
しおりを挟む「ルナ、そんなことをしたら我の折角のマーキングが取れてしまう!!」
シンティオの狼狽する声が聞こえてきても、私はそれを無視して水筒の水を含ませたハンカチで右頬にへばりついた竜の体液を拭き取っていた。
尿をひっかけられなかっただけマシなのかもしれない。しかし、色が透明でも粘り気のある変な汁をつけたまま山を下りるのは嫌だった。
「本来ならば身体を擦り付けるのが一般的で最も効果があるのだが、ルナは我の鱗が苦手であろう? だから怖がらせないようにと思って舌で舐めたのだ……」
組んだ指をもじもじさせながら弁解の言葉を口にするシンティオはしょんぼりと俯いた。ピンと立っていた尻尾は萎れた植物のように元気をなくし、いつの間にか地に横たわっている。
……シンティオの身体を擦り付けられでもしたら私は発狂するわ、絶対。でも気を利かせてくれたんだとしても体液も嫌だ。とどのつまりどっちも嫌だ!!
私はハンカチをポケットにしまうと、深いため息を吐いて頬に張り付いた髪を耳に掛ける。
「さっきも言ったけど、巣に通じる穴があるんだから、マーキングなんてしなくてもそこから叫べばいいと思うの。 聞こえるよう大声で叫ぶし」
しかし、シンティオはいつになく真剣な顔つきでそれではダメだと言った。万が一私の身に何かあったら駆けつけられないからだと。自分の匂いをつけておけば、数キロ離れていても私を感じ取れるらしい。
いつになく過保護なシンティオに驚くと同時に不覚にも嬉しさが溢れる。母が他界して、誰も私の帰りを待ってくれる者なんていなかった。心の奥底から熱い何かが込み上げてくるのを感じていると、シンティオが次の言葉を口にする。
「ルナが帰って来ないということは、白くて柔らかい小麦のパンを拝めないことを指す。……ついでにあの噛みごたえのある美味い羊の干し肉も。それは困る」
……あなた今、結構酷いこと言ってるって気づいてますか!?
嗚呼、少しでも嬉しくなった私がバカだった。そして私の気持ちを返して。
色気より食い気はどの生き物にも共通なのかもしれない。いや、そもそも私はシンティオと種族が違うし、少々爬虫類嫌いがマシになったところで人語が喋れるだけの爬虫類を好きになるわけがない。断じて。
したがって変な好意を持たれても困るからこれで良い。シンティオの中で私は単なる餌やり係とでも言うべき立ち位置であることはよく理解した。
「ちゃんと食料を持って帰って来るから、大人しく待っていて」
「うむ。多少我の匂いが取れてしまったが感じ取れないわけでもないな。では気をつけて、道草などせず真っ直ぐ帰って来るのだぞ!」
私は手を振ってシンティオと別れると、白霧山を下山した。
*****
約十日ぶりに町に帰って来ると、変わらない風景がそこにある。
大通りは行商人と思わしき人々が自身の荷馬車を走らせ、目的の商館へと向かっている。軒を連ねる店々では住人が食品や雑貨を吟味しては店員と楽しげに話をしていた。
いつも通りの賑やかな雰囲気を感じながら自分の店まで歩いていると、何人かのご近所さんや薬を買いに来るお客さんに声を掛けられた。
私の事情を知っているようで優しい言葉を掛けてくれる。皆の気持ちが嬉しくて丁寧に礼を言ってから再び歩き始めた。
すると、少し離れた酒屋から元恋人の友人二人が丁度外に出てきた。二人と目が合うと、彼らはにやにやと笑いながらわざとらしく大きな声で話し始める。
「勝ち目のない賭けなんかに乗らずに頭でも下げてりゃ良かったのに。ほんとああいうプライド高い女見てると哀れだわ」
「あと三年若けりゃあ貰い手もあったのに。って、見つからないから仕事にしがみついてるのか」
一般的な女性の結婚適齢期は十六~二十歳。私は現在二十三歳だ。
ええ、ええ。おっしゃる通り私は完全に嫁ぎ遅れに当てはまる。
母が病気に罹り亡くなって落ち着くまでは色恋どころではなかった。生活のため、商売以外の時間は薬師免許の取得に費やしてしまったのだ。勿論、後悔はしていない。
私は腰に手をあてて、二人組に近づくとにっこりとほほ笑んだ。
「こんな真昼間から仕事もしないで、飲んだくれてるろくでなし男よりも働き者の方がマシだと思いますけど? 私のことを言う前に甲斐性なしだから二人とも奥さんに離縁されるんですよ。ふふ、では私は急ぎますので。ごきげんよう」
目には目を歯には歯を。ぐうの音も出ない二人組を尻目に私は足早にその場から離れた。
それにしても、よくもまあ傷口を抉るようなことを……。いくら私だってこれは流石に凹む。早く自分の店に辿り着こう。
私はそう決めると小走りになって先を進んだ。
大通りに入って三つ目の角を右に曲がると、私の店はある。日当たりも良く、周りに日用品を扱う店も多いため立地は最高だ。元恋人が店ごとを奪おうとしているのも頷ける。
私は見えてきた我が家をほっと胸を撫で下ろすと、首に下げていた鍵を取り出してドアを開けた。ツンとした独特の薬の匂いが鼻孔を擽り、帰って来たという実感が湧く。
店内は丸くて低めのテーブルと向かい合うようにして置かれたソファが二つ。その奥にカウンターと乾燥させた薬草や香油、薬を陳列している棚がある。
十日いなかっただけで酷く懐かしい気持ちになった私はカウンターを見つめながらドアを閉める。鞄を床に置くと、ソファに腰を下ろしそのまま横になった。
天井をぼうっと見つめていると、徐々に視界がぼやけ始める。瞳から涙が零れると私は両手で顔を覆った。
元恋人の前でも泣かなかったのに今になって泣くだなんて。私ってば、あれくらいどうってことないわよ。……いや、やっぱり悲しい。
今まで溜め込んでいたものが二人組の一撃によって堰を切ったように涙として出てくる。
うう、もう動きたくないし何も考えたくない……。
私は身体の疲れとソファの心地よさによっていつの間にか深い眠りへと落ちてしまった。
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