ソメイヨシノなあなたを愛してる

赤山 弾

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第3話

満開の花ー6

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 僕たちが向かった喫茶店は高台に位置し、傾斜とは呼べないほど白の小さな石坂の上にお店がある。

 高台部分はお店を囲うようにして芝が生えており、綺麗な緑色をしていることからしっかりと手入れをされていることが伺える。

 枯れてしまっている芝や、土が見えてしまっている箇所は見渡す限りひとつも見当たらない。

 こんなことを言うのは良くないかもしれないが、靴越しでも伝わってくる芝の感触は裸足で踏んだら絶対に気持ちいいだろうと、そう考えてしまうほど踏み心地がいい。

 高台には木製の防護柵があり、そこからは下町全体を見渡すことができる。

「おぉ、すごい眺め! こんな風になってたんだ!」

 桜花は駆け足で柵を両手で掴み、身を乗り出すようにして景色を見る。

 僕は彼女の隣まで歩いて近づき、彼女の喜んでいる表情を一瞥した後、正面を向く。

「あそこから入って来て、真っ直ぐ歩いてここまでだから……結構歩いてたんだね」

 僕たちが通ってきた道のりを指でなぞりながら、桜花は言った。

 しまった。

 1年に1回しか来ないから、距離のことを気にしていなかった。

 ここの高台までは下町を直進すればいいのだが、大体徒歩で15分ぐらい掛かる。

 桜花の体力を無尽蔵だと、勝手に決めつけていた自分がいた。

「ごめん、疲れたよね?」

「え? ううん。全然、疲れてないよ。はる君と歩くの楽しいから、あっという間だったし」

 僕の焦りとは裏腹に桜花はあっけらかんとした様子で、小さく首を傾げてそう言うと温かい微笑を僕に見せてくれた。

「それにしても、本当に良い景色……」

 桜花の視線が再び下町へと戻り、僕も同じ方向を見て言う。

「すごいよね。こうして見てると、改めて世界は広いんだなって感じがする」

 空には多少の雲があるものの、未だ透き通るような青は顕在で下町をより輝くものとして僕の目に映した。

 不思議と空気も美味しく感じることができるのは、高低差はもちろん自然が少し混ざっているからこそなのかもしれない。

 昼間の時間帯に見るここからの景色は随分久しぶりで、爽やかな印象と新鮮な気分を僕に与えた。

 季節が春ということもあり、空気が澄んでいて普段は見えない遠くの建物や山も見える。

 こんな景色が見れるなら、もっと早くこの時間帯にここへ来るべきだったなと、後悔をした。

 近くから見る景色も夕焼け空や夜空も好きだけれど、透き通るような空色でしか感じることのできない感情がある。

 この空とは対照的にくすんだ色をした僕の瞳と心に、鮮やかな希望という潤いを与えてくれるのだ。

 世界は広い。

 それは当たり前のことで、考えるまでもなくわかることだ。

 けれど、自分の目の前にある出来事や環境、周囲の人間、そして何より自身の感情が、広い世界をごく小さな空間へと視野を留めていく。

 澄んだ空気の中で見る景色は、己に科すことで生まれた生き辛さを自覚させるとともに、そこから抜け出そうという強い意志を僕に思い出せてくれていた。

 顔に当たる少し冷たい春風が、僕の前髪を揺らす。

「うん、本当に……このず~っと先にも、私の見たことがない景色が広がってるんだもんね。そう考えると、何だか全部見てみたいって思っちゃうな。絶対、楽しいもん!」

 そう言いながら、彼女は僕に花笑はなえむ。

 それは何とも桜花らしい台詞で、僕は相好を崩した。

 もし仮に彼女が言ったことを本当に現実にできたとしたら、きっと今日と同じように、桜花はひとつひとつの景色や物事に感動したり驚いたりして、その度に優しい笑みを浮かべるのだろう。

 その姿を隣で見ることができたのなら、どれだけ嬉しいことだろうか。

 きっとその願いは叶わないと、わかってはいるけれど。

「壮大だけど、それは確かに楽しそうだね」

「でしょう? 時間が無限にあったらいいのになぁ……」

 寂しそうに言う彼女を元気づけたくて、僕は言う。

「何年掛かってもいいから、その素敵な目標は捨てずにとっておこうよ」

「え?」

 僕は彼女の口から直接正体を聞いたわけではないので、気取られないように言葉を付け加える。

「ほら……大学は人生の夏休みって言われるくらいだけど、それでもやっぱり時間は有限だしさ。行けるところにも、まあ限界があるわけで……だから、その……社会人になったら自由にできる時間も減るだろうけど、まあ休暇とか使いながら長い時間をかけて学生の時に行けなかったところに行ってさ。そんな大きな目標があったら、きっとそれをモチベーションに仕事も頑張れるかもしれないというか」

 あくまで彼女の正体に気づいていないと、誤魔化すために並べた気休めの言葉で思いのほかぎこちない話し方になってしまった。

 思い付きではあったけれど、僕は自分の言ったことに嘘はない気がした。

 社会人は学生の僕が想像するよりも、ずっと忙しい。

 アルバイトしていて正社員の人を見ると大変そうだなと思うけれど、きっと表面化していない過酷さや葛藤、責任がそこにはある。

 自由にできる時間だって、本当に少ないのだろう。

 社会人の生活が多忙であることを避けられないとしても、人生における楽しみを持っておくのと持っていないのとでは仕事のモチベーションに違いが出てくると、僕は学生ながらにそう思う。

 いや、きっとモチベーションだけじゃない。

 いつか、社会の世知辛さや忙殺される日々が続き息詰まってしまった時、自分の中に軸となる人生の指針は重要だ。

 そこに大小も軽重もない。

 だからこそ、僕はこれからの大学生活でその術を──いや、違うか。

 僕は彼女に……

 なんて僕は他力だったんだろう、心底情けない自分にため息が出る。

 恐る恐る桜花の反応を見てみると、彼女は大きな瞳をさらに少し広げ、小さく口を開けている。

 流石に誤魔化すのは無理があったか?

 そう思い、不安が募り額から汗が出そうになった時、彼女は言う。

「あ、あぁ……うん。そっか、そう……そうだよね! はる君、いいこと言うね~」

 段々と笑顔へと変わっていく桜花の表情からは気づかれた様子はなく、僕は心の中で安堵のため息を吐き、喫茶店に入ることを提案した。

 せ、セーフ……だよな?


 喫茶店の名前は『喫茶SOMEI』。

 枠のない達筆な文字のみで作られた看板が、黒の瓦屋根の下についている。

 下町と同じような和の外装に反し、店名はローマ字が使われていて、そのギャップを僕は気に入っていた。

 喫茶店のすぐ近くにはソメイヨシノが数本咲き、短い桜並木が僕たち来店者を迎えてくれる。

 その光景は高台からの景色に見劣りしないほど美しくて、綺麗だ。

 入り口には開き戸の半分を覆うほどの白の暖簾がかかっており、看板の文字と同様に黒で店名が書かれている。

 ブラウンの木製の開き扉に手をかけ左側に開くと、暖かい風とともに緑茶の香りが鼻をくすぐった。

「緑茶の香りだ。いい匂い~」

 桜花は嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 内装は外装同様に基本的には和で飾られていて、店内に流れているピアノメインのライトジャズと、傘のような形をしたペンダントライトの電球色の光が、温かさと落ち着いた喫茶店の静かな雰囲気を形成している。

「いらっしゃいませ~」

 黒の木製のおぼんを持った従業員の女性が振り返り、お辞儀をする。

「お客様、何名様ですか~って、はる君じゃん」

 猫目で気が強そうに見える女性従業員のつくしさんは、目を少し大きくさせた。

 彼女の髪色はおそらくブラウンがベースで、控えめにモスグリーンが混ざっている。

 つくしさんは僕が中学生になった時には既に働いていたはずで、会うたびに何回か髪色も変わっていたし、おしゃれな人という印象だ。

「あ……こんにちは」

「ん? どったのそれ?」

 つくしさんは、右手で自分の右頬を2回ほど指さす。

 そういえばそうだった。

 頬の痛みもシップを貼っている感覚もないから、貼っていたことを忘れていた。

「これは……その。今朝、ベッドから転げ落ちてしまって」

 つくしさんにケガの経緯の説明を簡潔に伝えられる気がしないし、余計にややこしくなる可能性があるので、それっぽいことを言って誤魔化すことにした。

 実際にベッドから転げ落ちたことはあるし、追求されても難なく答えられる。

 それに、終えた出来事を掘り返す必要もなければ、僕たち部外者が菖武の父親をこれ以上責める必要もない。

 彼が流した涙と反省が、偽りでないことを願うのみだ。 

「……ふ~ん。気を付けなよ?」

「はい……」
 
「てか、その隣にいる子って、もしかして……」

「ああ、えっと、彼女は──」

 つくしさんは隣にいる桜花を見て、悪戯な笑みを浮かべる。

「はは~ん。なるほどねぇ、やるじゃん。これはあの人が聞いたら喜ぶぞ~?」

「あ、いや、彼女はそういうんじゃ……」

「好きなとこ座っていいから。ちょっと待っててね、すぐ呼んでくっから」

 そう言って、彼女は背を向けると、右手を数回ひらひらとさせた。

「あぁ……あの……待って、つくしさん……」

 全然、話聞いてくれないじゃん……

 僕の静止は虚しく、つくしさんの低めに結われたお団子型の後ろ髪をただただ眺めていることしかできなかった。

 そうか……

 こうなるのか。

 桜花を喜ばせたい一心だったということもあるが、このようなことが起こることを想定すらしていなかった自分に呆れる。

 そうだよな、今までひとりでしか来たことなかったからな……

 男女ふたりが一緒にいるだけで恋人であるなんて安易な考え方だが、僕も実際に目撃したのならそう思ってしまうだろう。

 おそらく、この後に僕たちの前に起こるであろう嵐に深いため息が出る。

 僕と桜花がつくしさんたちの想像するような仲でなくとも、余計な詮索や憶測は飛び交うことは必至だ。

 できることなら、こんなことに桜花を巻き込みたくはない。

 けれど、この喫茶店以外に美味しいアップルパイが食べれるお店を他に僕は知らないので、どうやら腹をくくるしかなさそうだ。

「ねえ、はる君。頬、やっぱり痛いんじゃ……」

「ううん、本当に平気。腫れてる感じもないし、痛みもない」

 桜花は心配そうな表情で僕を見たので、微笑みかけ言葉を続ける。

「本当に大丈夫。実のところ、つくしさんに言われるまで忘れてたし。とりあえず席探しちゃおう」

「うん……わかった」

 店内は割と広く、ひとり席から2人用と4人用のテーブル席、奥にはお座敷まである。

 手前に二人掛けの窓際の席が空いていたので、僕たちはそこに座ることにした。

 窓からは下町全体を見渡すことができ、微かに差し込む日の光が僕たちの席を照らしている。

 ブラウンの木製丸テーブルで、椅子は外国感あふれるデザイン。

 お座敷を除けば席は洋で飾られていて、まさに和洋折衷を体現したかのような喫茶店だ。

「そうだ、さっきの店員さんが言ってたあの人って?」

「あ、ああ。えっと……僕が初めて下町に迷い込んだ話はしたよね?」

「うん。公園の周りを散策してたら、迷っちゃったっていう」

 僕は首肯して応える。

「その時に下町の出入り口まで僕を連れてってくれた人なんだ。僕の恩人」

「恩人……か。はる君がそう言うってことは、素敵な人なんだろうなぁ。会うのが楽しみ!」

 にんまりと笑う彼女に対して、僕は素直に頷くことはできなかった。

「ここのお店の制服、すっごく可愛いね。下町のお店の人と同じ和服っぽいのにメイドさんみたいで、なんだか不思議」

 店内の従業員の人たちを見て、桜花は言った。

 『喫茶SOMEI』の制服は彼女の言った通り、下町の中では特殊だ。

 けれど、メイド喫茶というわけではないため、客のことをご主人様なんて呼ばないし、独特なおまじないを言ったりもしない。

 それにここの制服はあくまで業務としての側面が強く、白のエプロンやカチューシャをつけてはいるもののフリル要素は控えめだ。

 和装メイドと言っても、コスプレ衣装の弾けた明るさから感じる可愛さとは違い、『喫茶SOMEI』の制服には和特有の上品さというか高級感がある。

 着物部分と袴はともに黒色で、5枚でできた白桃色の桜の花びらが散りばめられている。

 丈は足首が見えるぐらいの長さで、草履は黒一色。

 また、袖丈部分は長い。 

 桜花の目線を追い、僕は説明をする。

「ああ、あれは和装メイドって言うみたいで──」

「はるくぅん~!!」

 甘ったるい大きな声で、僕の名前を呼ぶ女性の声がする。

「いらっしゃい、はる君!! つくしちゃんから聞いたわよ~!! か・の・じょ、できたんだって~?」

 目をキラキラと輝かせる彼女を横目に、僕は奥の方でいたずらに笑っているつくしさんを睨み、小さくため息を吐く。

 彼女はお冷とおしぼりが乗せられたおぼんを少し強めに置いたので、その音に僕と桜花の肩が上がる。

「って、どうしたのそのケガ!! 喧嘩? 喧嘩ね! 喧嘩したんでしょう!!」

 そう言って、僕の両頬を優しく掴む彼女の名前は八重やえさん。

 彼女の手は少し冷たい。

 髪はアッシュブラックのショートカットで、ウェーブがかかっていて動くとふわっと弾む。

 肌は程よい白さで、目鼻立ちの整った顔をしている。

 八重さんの顔が握りこぶし2つ分ぐらいの距離まで近づき、彼女の大きな目と僕の目が合う。

 彼女のブラウンの瞳からは、今までに見たことのない動揺を感じた。

「あ、これは、その。今朝、ベッドから転んだだけで……」

 至近距離で話す習慣が僕にはないので、顔と視線を右下に逸らして言った。

「本当に!? 本当に喧嘩じゃないの?」

 逸らした顔を八重さんに正面へと戻され、目線だけを逸らしたままで僕は答える。

「はい。喧嘩じゃ、ないです」

「そう……良かった……もう、本当に気を付けるのよ?」

「すみません……」

 こんなにも取り乱した八重さんを見たのは初めてで、彼女に対して苦手意識──警戒心を持っていたことへの罪悪感が僕の脳内を駆け回っていた。

「はる君は意外とドジっ子さんなのね?」

 と、八重さんは悪戯に微笑んだ。 

「触った感じは腫れたりはしてないみたいだから、手当は大丈夫そうね……」

 八重さんはシップの貼られた箇所を数回擦ると、そっと手を離した。

 僕の両頬に伝わっていた彼女の体温が、ゆっくりと冷めていく。

「良い? お姉さんが心配するようなケガや危ないことはしちゃダメよ?」

 彼女は右手の人差し指を僕の顔の前に向けて、注意の言葉を口にした。

 お姉さん……か。

 そういえば、八重さんはいつしか僕を弟のような存在だと言ってくれたことがあった。

 かつての八重さんの言葉が、僕の脳内で再生される。

 ──困ったことがあったら、いつでもお姉さんに相談するのよ?

「……る君。はる君!」

「え? あ、はい?」

 八重さんが僕を呼ぶ声に、過去に向かっていた意識が現実に戻って来る。

「もう、ぼーっとして。本当にわかったのかしら?」

「……はい。すみません……」

 八重さんに年齢は聞いたことはないが──というか、女性に年齢を訊くのは失礼なので、訊く気はそもそもないけれど、おそらく二十代前半か半ばだとは思う。

 彼女の身長は女性の平均よりもかなり低いため、外見だけで判断するのであれば可愛い妹という表現のほうがしっくりはくる。

 本人も低身長を気にしているようで、八重さんはこの喫茶店でただひとりヒールの草履を履いている。

 けれど、その幼い印象に反して実際の彼女は生粋のお姉さん気質であり、細かな気配りや面倒見の良さから店長代理という役職に相応しい一面を持っている。

 それに加え、八重さんは人当たりがよく距離を感じさせない振る舞いから客からの人気も高く、彼女目当てでやって来る人も多いと聞く。

 だからこそ、僕はそんな凄い彼女を尊敬している。

「あ!! そうだ、彼女!! 彼女よ!! はる君、彼女できたんだって?」

 このうるさ──とにかく元気な一面を除いて。

「やるじゃな~い!! もう、隅に置けないんだからぁ~」

 そう言いながら、八重さんは僕の右肩を肘で小突いてくる。

「違いますよ……」

「またまた~照れちゃってもう~そちらがはる君の彼女ちゃんね!? 初めまして──」

 八重さんは桜花に視線を向けると、お冷を置く手が数瞬固まった。

「あ! ああ、ごめんなさい。あまりにも可愛い子だったから、見惚れちゃって!!」

 彼女はあははと笑いながら、お冷とおしぼりを桜花と僕の手元にそれぞれ置いてくれたので、僕たちはお礼を言った。

「は、初めまして、春野桜花です」

 桜花は照れたような様子で、頭を下げる。

「やっぱり……」

 八重さんは小さな声で言うと、影のあるような表情をした。

「へ?」

 八重さんの様子に、僕の頭上にも桜花と同じようにはてなが浮かぶ。

「あ、ああえっと……そう!! 予想してたのよ!!」

 彼女は少し上を向きながら、人差し指を立てる。

「予想?」

 これは僕。

「ええ。いつだったか、前にはる君からあなたの名前を聞いたことがあってね。つくしちゃんから、はる君が女の子を連れてきたって聞いて、絶対その子だろうって!!」

 喫茶店で桜花の話をした記憶はないが、僕が忘れているだけではじめてここへ来た時、八重さんに話をしたのかもしれない。

 かなり前のことだし、当時どんな話をしたのかなんてほとんど記憶には残っていなかった。

「そうだったんだ……」

 頬を少し赤くした桜花が僕を見たので、照れくさくて目を背ける。

 八重さんはわざとらしい咳払いをして、言う。

「ではでは、改めまして!!」

 僕たちの視線が八重さんに戻ると、彼女は一度ターンをする。

 袴がふわりと少しだけ浮かび、黒タイツに覆われた彼女の脛部分が一瞬見える。

「こんにちは、私は八重!! この喫茶SOMEIで働く、従業員っです!! よろしく!!」

 元気満々で自己紹介をする八重さん。

 心なしかシャキーンという効果音が聞こえる。

 思えば、初対面の時にも八重さんは同じようなことをしていた気がする。

 お決まりというやつなのだろうか。

 従業員っです、のところで右手で右目の前で横にピースを作るのも、よろしく、のところで、右目でウインクをするところまでも一緒だ。

 八重さんのこういうところが客や従業員の人からも人気が高い所以であり、言うなれば八重さんはここ『喫茶SOMEI』のアイドル的な存在なのである。

「ところで、さっきこの制服の話していなかったかしら?」

「え、ええ。はい、してました。珍しいお洋服だったので、はる君に訊いてたんです。そしたら、和装メイドっていう名前だって」

「そうそう! メイドの可愛いと和服の可憐さをこう……がっと合わせた感じが最高なのよ!」

 八重さんはおぼんを僕たちの座る席に置いて、がっという部分で両手の平を胸の前で少し寄せた。

「はい! とても可愛いです!」

 八重さんの輝いた瞳とリンクするように、桜花もまた瞳を輝かせている。

「あら、ありがとう!! そうだ!! 桜花ちゃんも、もし良かったら着てみる?」

「え? 良いんですか?」

「もちろんよ!! 桜花ちゃん可愛いし、綺麗な黒髪だから絶対似合うわよ!!」

 笑顔を浮かべ合う2人を見て、お冷を飲みながら微笑ましく思っていると、八重さんがこちらを向く。

 やばい、嫌な予感がする。

「あ!! はる君の分も、もちろんあるわよ? もし良かったら一緒にどう?」

 やっぱり。

 八重さんはどこから取り出したのか、制服を見せる。

「それ、女性用のやつですよね? 絶対嫌ですよ。というか、なんでウィッグまで持ってるんですか」

 毎年来るたび、彼女は必ず女装の提案を僕にしてくるのだ。

 初めの内はただの冗談だと思っていたけれど、八重さんから伝わってくる熱量と目力から本気で言っているのだと気づいた。

 これが本当に怖い……

「え~。はる君、女の子みたいな可愛い顔立ちしてるから、絶対似合うと思うのに。ねぇ?」

「確かに!」

 どうやら思わぬ着火剤が桜花に火をつけたらしい。

 身を乗り出しそうな勢いで、八重さんと同じ目をしている。

「な……桜花まで……」

 桜花の食いつきに気圧される一方で、楽しく笑いあう彼女たちを見て僕はなんだか嬉しかったけれど、制服を着るのは断った。

 途中、八重さんの口から飛び交っていた「着ちゃえよぉ、楽になるぜぇ?」という言葉は無視した。
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