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第3話
満開の花ー3
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バッティングセンターに到着し、店内に入る。
「「こんにちは」」
カウンターにいる、スポーティな恰好と髪型をした従業員の男性に挨拶をする。
控えめに生えている顎髭が印象的だった。
やや黒ずんだタオルで、金属バットを力強く拭いている彼の腕は、たこ焼き屋のおじさんに負けないぐらいのたくましさだ。
「はい、こんにちは」
従業員の男性は、白い歯を見せて笑顔で僕らに挨拶を返すと、作業に戻った。
店内はバッティングスペースの広さを除けば、そこまで広くはない。
待機所や休憩スペースと呼ぶのだろうか──店内を見渡すと、僕ら以外にお客さんはいなさそうだ。
上に固定されたテレビから、今年のワールドベースボールクラシックの試合のリプレイが流れていて、熱の入った実況の声と大きな歓声が聞こえてくる。
奥側には小規模なゲームスペースがあり、そこから聞こえてくる音は、緩急のある実況とは対照的に、コンスタントなものだった。
緑のネットに覆われたバッティングエリアを見ると、映像の中のピッチャーがセットポジションの状態で止まっている。
「ほんとだ~! おもしろ~い!」
防音のガラス扉に手を付けて、桜花は言った。
「本格的だよね」
桜花の右横に立ち、僕が言うと、桜花はこちらに顔を向ける。
「うん。ほんとびっくりだよ! こんな本格的なので打てるなんて、ぜ~ったい楽しいよ!」
桜花の目はキラキラとしていて、楽しんでいることが一目でわかるくらい興奮した様子だ。
「ねぇ、はる君、打ってみて!」
「え? ああ、うん。いいけど、僕からでいいの?」
「もちろん! 私、見るの得意だから!」
どういう特技なのだろうか、という疑問を頭に浮かべながら、打席へと向かう。
「桜花はバッティングセンターとか、行ったりするの?」
自分が鬼であると、彼女から告白されたわけではないので、あくまで10年ぶりに再会した友人同士としての接し方を心がける。
「小さい時に、1度だけ行ったことがあるぐらいだなぁ。お父さんとお母さんと一緒に。全然ボールが当たらなくて、悔しかったのを覚えてる。当てるの難しくない?」
「普段からボールを打つ習慣とかないとね。僕も打てるかどうか」
このバッティングセンターは、バッターボックスが5打席で200円で25球打つことができる。
右打ち用が4打席で、球速は80キロ、90キロ、100キロ、120キロがあり、速度の幅が選べる。
残りの1打席は左右どちらも打てるようになっていて、球速は90キロと110キロを選ぶことができ、変化球のカーブも打つことができる。
まあ、5打席あると言っても、左投げ左打ちの僕が打てるのは、1打席だけなので、何だか肩身が狭く感じてしまう。
他にも、1から9までの数字にボールを当ててビンゴを狙う、ストラックアウトもあり、同じく200円で12球投げることができる。
お金を入れると、けたたましいくらいのメロディーとともに、「プレイボール!」と試合開始の宣言をしてくれる。
当時、他のお客さんがいる中で、ひとり好奇心でやった僕は、その音が人の注目を集め、たくさんの人に見守らながらストラックアウトをやることになった。
緊張と恥ずかしさで結果1枚も当てれず、気まずさを感じながら扉から出ると、小学生ぐらいの少年から「ドンマイっす」と励ましの言葉をかけられる始末だった。
この記憶はバッティングセンターに訪れるたびに蘇り、僕はこの出来事を一生忘れることはできないのだろう。
そんなことを思い出しながら、僕は「左右打ち 90・110キロ(変化球あり)」と書かれた扉に手をかける。
「あ、中からも見れるんだね」
ストラックアウト含めて、各打席の扉の前には、待機用兼観戦用のプラスチック椅子が、それぞれ2つずつ置かれているが、扉の先にも観戦用の空間はある。
バッターボックスに入るには、2つのネット扉をくぐる必要があるのだが、その間は1メートルぐらいの間隔が空いている。
この二重の扉になっているのは、万が一ボールが後ろに飛んで行ったとしても、ネットとその後ろに空いている間隔が、球の勢いを殺してくれるからだ。
そのため、防音扉を開けてすぐにあるネットの扉には「観客の方、これより先は入らないでください」という注意書きが書いてある。
椅子が置けるほどの幅はなく、立ち見限定にはなるけれど、近くで見ることはできる。
「せっかくだし、中で見てもいい?」
後ろを振り返り、僕は言う。
「もちろん。あ、でも、空振りしても笑わないでね」
と、空振りした時の保険をかけ、僕は微笑む。
「うん。ナイススイングって言う!」
「あ、ああ、うん。頼むよ。あはは……」
たぶん、彼女はフォローのつもりではなく、本気で言ってるような気がする。
皮肉や、からかいのつもりではなく、心から物事を肯定的に捉える姿勢を崩さない。
僕の知っている桜花は、そんな女の子だ。
だからこそ、真夏の太陽のように眩しいんだ。
目を細めてしまいそうになるくらいに。
けれど、季節は春だから、彼女を比喩で表すとしたら、あの満開の桜の木だろう。
そんな素敵な彼女とは反対に、後ろ向きな性格になった僕は、常に物事を穿った見方をする。
常に懐疑の思考が働き、やがて下衆の勘繰りへと形を変えていく。
僕はなんて汚い人間なのだろう。
──見て! はる君! 歩くだけでも、こんなにも綺麗なものがたくさんあるんだよ!
かつて彼女が僕に言った言葉が、頭の中で再生される。
いつか僕にも、桜花のような前向きさを、輝きを持つことができるだろうか。
そんなことを思いながら、僕は扉を開いた。
バッティングスペースに入ると、少し冷たい春風が頬を撫でる。
ピッチングマシーンの重低音と、ボールの転がる軽い音。
そして、ゴムの焦げたような臭いが、バッティングセンターに来たことを再認識させる。
金属バット2本が、鉄管のようなものに上部だけ入っている。
右側の1本は少年野球用でバットが短いため、その隣にある一般用の銀色の金属バットを抜いた。
バットを見ると、ボールが掠ったり、当たった痕や凹んでいる部分はあったけれど、曲がってはいなかった。
コイン投入口に200円を入れると、ピッチングマシンが起動し、さらに大きな音を立てる。
90キロと110キロと書かれた赤いボタンが点灯し、僕は110キロを選ぶ。
これは、桜花に格好つけるためではなく、単純に打ちやすい球速だからだ。
少し間を置いてから、ボールが放たれるため、ピッチャーの映像はまだセットポジションで止まっている。
その間に左打席に入り、ホームベースを2回、弱めにバットで叩く。
「はる君、頑張って! 目指せ、ホームラン!」
桜花を一瞥すると、楽しそうに微笑んでいて、その姿を見て、僕は自然と笑みを浮かべていた。
誰かが楽しそうにしている姿を身近で見れるというのは、本当に嬉しくて喜ばしいことだ。
正面にある「ホームラン」と書かれた、円形の看板を見上げ、小さく鼻でため息を吐く。
看板に当てた経験も当てれる技術、実力もないというのに、当てたいという気持ちが強くなる。
どうやら僕は、彼女に格好いいところを見せたいと思っているらしい。
バットを構えると、映像の中のピッチャーがセットポジションから動き出し、オーバースローでボールが放たれる。
ホームランを狙って、力を込めたスイングは、綺麗に空を切り、紐を振ったような軽い音を立てた。
「あがっ」
身体が流れるようにして重心を崩し、情けない声が出た。
転びはしなかったものの、我ながら見事な空振りだ。
「ナイススイング!」
後ろを振り向くと、桜花は混じりけのない表情で、ガッツポーズを作っていた。
「あ、ありがとう……」
それからボールをかすめたり、ゴロを転がしたりを繰り返し、ようやくまともな当たりが出始めたのは、10球以上打った後だった。
「「あっ!」」
ボールをバットの真芯で捉え、鋭い打球がセンターラインへと飛んでいく。
当たれ。
そう心の中で願ったけれど、もうひと伸び足りず、看板の真下のネットに当たった。
「おっしい~! でも、ナイスバッティング!」
ラスト1球。
額から汗が1滴垂れ、唾を飲む。
今度こそ。
内角気味の球がバットの根元に当たり、打球は頭上の屋根部分にぶつかって、そのまま僕の頭に直撃した。
「いていっ!」
驚きはしたけれど、ゴムボールだったこともありそこまでの痛みではなかった。
「はる君っ、大丈夫!?」
「ぷっ、ははっ」
「はる君……?」
「あっはっはっはっは」
予想外の出来事に、こらえていたものが吹き出してしまった。
自分の意思では止められず、僕は腹を抱えながら笑っていた。
「ふふっ。ふふっ……はる君、ごめんなさい。ふふ……」
桜花も僕の姿につられるように、笑った。
何年ぶりだろう。
僕がこんなに笑うのは。
普段から笑わないように意識していたわけでは決してないけれど、いつの間にか──いや、あの時からか。
思い出したくない過去の記憶が蘇ると同時に、ようやく笑いはおさまった。
「はる君、大丈夫? 痛かったでしょう?」
「びっくりはしたけど、思ったほどじゃ──って、え?」
一瞬何が起きているのか理解できなかった。
僕の頭にボールが当たった箇所を、桜花は優しく撫でてくれている。
それはもう優しい表情で。
「だ、大丈夫だよ? あ、ありがとうね」
僕は恥ずかしさと、自分の頭を桜花に触らせてしまった申し訳なさから、後ずさりをする。
「ごめんなさい……たんこぶとかになってないか気になって、つい……嫌だったよね?」
「い、いや、嫌とかじゃない、です、よ? ほら、今のバッティングで汗かいたしさ」
「そんなの全然気にしないよ」
桜花が気にしなくても、僕は気にするんだよなぁ。
と、心の中で桜花の天然な部分にツッコミを入れつつ、彼女の優しさに感謝をして、バットを元にあった場所に戻す。
「何キロにする?」
「う~ん。110キロは打てなさそうだし、90キロかな?」
「一応、向こうに80キロもあるけど。桜花は右打ち?」
「うん、右打ち。10キロって結構差があるの?」
「80と90だと、若干山なりに感じるぐらいじゃないかな。山なりのボールを当てるのと、直球を当てるのだと、直球の方が当てやすいとは言われてるみたいだけど」
「そっかぁ。じゃあ、90キロに挑戦してみようかな!」
「了解。桜花の運動神経なら、きっとすぐに目が慣れると思うし、ばんばん打てるようになると思うよ」
先ほど僕が使ったバットを取り出し、桜花に渡す。
「ふふ。ありがとう。あ、そうだ! 打ち方……教えてください。私、握り方とかあんまりよくわかってなくて」
「もちろん」
それから、5分ぐらいだろうか。
僕はバットの握り方の他に、構え方と振り方を教えた。
彼女の飲み込みの早さに驚きながら、実践を迎える。
「よぉし、ホームラン狙うぞ~」
そう意気込む彼女の背中を見て、僕は嫌な予感がしていた。
できれば、杞憂であってほしいのだけれど……
ピッチングマシンからボールが放たれ、桜花の第1スイング。
彼女は力強く左足を踏み込むと、鋭いスイングを見せ、重みのある音が鳴る。
「えっ?」
と、僕が気の抜けたような声を出した直後に、ホームランと書かれた看板に打球が命中した。
「ホームラン!」という音と軽快な祝福のファンファーレが鳴り響く。
人の域を超えた怪力で、何か悪いことが起きるのではないかという僕の懸念はすぐに払拭され、驚きと称賛へと形を変えた。
「やったぁ! ねえ、見た? はる君! ホームラン! ホームランだよ!」
桜花は看板を指さしながら、目を輝かせて僕に言った。
「す、すごい……すごいよ、桜花! ナイスバッティング!」
自分ごとのように嬉しくて、胸が高鳴り、声量も拍手も大きくなる。
彼女は目を大きくさせて、満開の桜のような笑顔を見せた。
「ふふっ、ありがとう。よ~し、どんどん狙っちゃうよ~」
そう宣言した彼女は、残りの24球中23球をホームランに命中させるという好成績を収め、先ほどまでカウンターにいたはずの従業員の男性が、途中に駆け寄って来るほどだった。
桜花の打席が終わる頃には、彼は顎が外れてしまうのではないのかと、心配になるぐらい大きな口を開いていた。
まあ、無理もないだろう。
25球中、24球をホームランの看板に当てるなんて、狙ってできることでもないし、プロ野球選手でも難しいのではないだろうか。
男性は桜花に握手と写真を求め、無料で打てるバッティング券を24枚プレゼントしてくれた。
どうやら、あのホームランの看板にボールを当てると、無料でバッティングかストラックアウトができるらしい。
期限はないらしいから、景品が無駄になることはなさそうだ。
きっとこの先、彼女の功績はこのバッティングセンターの伝説として、後世に語り継がれていくことだろう。
男性に称賛され、照れたようにして笑う彼女の横顔を見て、僕はそんなことを考えていた。
「「こんにちは」」
カウンターにいる、スポーティな恰好と髪型をした従業員の男性に挨拶をする。
控えめに生えている顎髭が印象的だった。
やや黒ずんだタオルで、金属バットを力強く拭いている彼の腕は、たこ焼き屋のおじさんに負けないぐらいのたくましさだ。
「はい、こんにちは」
従業員の男性は、白い歯を見せて笑顔で僕らに挨拶を返すと、作業に戻った。
店内はバッティングスペースの広さを除けば、そこまで広くはない。
待機所や休憩スペースと呼ぶのだろうか──店内を見渡すと、僕ら以外にお客さんはいなさそうだ。
上に固定されたテレビから、今年のワールドベースボールクラシックの試合のリプレイが流れていて、熱の入った実況の声と大きな歓声が聞こえてくる。
奥側には小規模なゲームスペースがあり、そこから聞こえてくる音は、緩急のある実況とは対照的に、コンスタントなものだった。
緑のネットに覆われたバッティングエリアを見ると、映像の中のピッチャーがセットポジションの状態で止まっている。
「ほんとだ~! おもしろ~い!」
防音のガラス扉に手を付けて、桜花は言った。
「本格的だよね」
桜花の右横に立ち、僕が言うと、桜花はこちらに顔を向ける。
「うん。ほんとびっくりだよ! こんな本格的なので打てるなんて、ぜ~ったい楽しいよ!」
桜花の目はキラキラとしていて、楽しんでいることが一目でわかるくらい興奮した様子だ。
「ねぇ、はる君、打ってみて!」
「え? ああ、うん。いいけど、僕からでいいの?」
「もちろん! 私、見るの得意だから!」
どういう特技なのだろうか、という疑問を頭に浮かべながら、打席へと向かう。
「桜花はバッティングセンターとか、行ったりするの?」
自分が鬼であると、彼女から告白されたわけではないので、あくまで10年ぶりに再会した友人同士としての接し方を心がける。
「小さい時に、1度だけ行ったことがあるぐらいだなぁ。お父さんとお母さんと一緒に。全然ボールが当たらなくて、悔しかったのを覚えてる。当てるの難しくない?」
「普段からボールを打つ習慣とかないとね。僕も打てるかどうか」
このバッティングセンターは、バッターボックスが5打席で200円で25球打つことができる。
右打ち用が4打席で、球速は80キロ、90キロ、100キロ、120キロがあり、速度の幅が選べる。
残りの1打席は左右どちらも打てるようになっていて、球速は90キロと110キロを選ぶことができ、変化球のカーブも打つことができる。
まあ、5打席あると言っても、左投げ左打ちの僕が打てるのは、1打席だけなので、何だか肩身が狭く感じてしまう。
他にも、1から9までの数字にボールを当ててビンゴを狙う、ストラックアウトもあり、同じく200円で12球投げることができる。
お金を入れると、けたたましいくらいのメロディーとともに、「プレイボール!」と試合開始の宣言をしてくれる。
当時、他のお客さんがいる中で、ひとり好奇心でやった僕は、その音が人の注目を集め、たくさんの人に見守らながらストラックアウトをやることになった。
緊張と恥ずかしさで結果1枚も当てれず、気まずさを感じながら扉から出ると、小学生ぐらいの少年から「ドンマイっす」と励ましの言葉をかけられる始末だった。
この記憶はバッティングセンターに訪れるたびに蘇り、僕はこの出来事を一生忘れることはできないのだろう。
そんなことを思い出しながら、僕は「左右打ち 90・110キロ(変化球あり)」と書かれた扉に手をかける。
「あ、中からも見れるんだね」
ストラックアウト含めて、各打席の扉の前には、待機用兼観戦用のプラスチック椅子が、それぞれ2つずつ置かれているが、扉の先にも観戦用の空間はある。
バッターボックスに入るには、2つのネット扉をくぐる必要があるのだが、その間は1メートルぐらいの間隔が空いている。
この二重の扉になっているのは、万が一ボールが後ろに飛んで行ったとしても、ネットとその後ろに空いている間隔が、球の勢いを殺してくれるからだ。
そのため、防音扉を開けてすぐにあるネットの扉には「観客の方、これより先は入らないでください」という注意書きが書いてある。
椅子が置けるほどの幅はなく、立ち見限定にはなるけれど、近くで見ることはできる。
「せっかくだし、中で見てもいい?」
後ろを振り返り、僕は言う。
「もちろん。あ、でも、空振りしても笑わないでね」
と、空振りした時の保険をかけ、僕は微笑む。
「うん。ナイススイングって言う!」
「あ、ああ、うん。頼むよ。あはは……」
たぶん、彼女はフォローのつもりではなく、本気で言ってるような気がする。
皮肉や、からかいのつもりではなく、心から物事を肯定的に捉える姿勢を崩さない。
僕の知っている桜花は、そんな女の子だ。
だからこそ、真夏の太陽のように眩しいんだ。
目を細めてしまいそうになるくらいに。
けれど、季節は春だから、彼女を比喩で表すとしたら、あの満開の桜の木だろう。
そんな素敵な彼女とは反対に、後ろ向きな性格になった僕は、常に物事を穿った見方をする。
常に懐疑の思考が働き、やがて下衆の勘繰りへと形を変えていく。
僕はなんて汚い人間なのだろう。
──見て! はる君! 歩くだけでも、こんなにも綺麗なものがたくさんあるんだよ!
かつて彼女が僕に言った言葉が、頭の中で再生される。
いつか僕にも、桜花のような前向きさを、輝きを持つことができるだろうか。
そんなことを思いながら、僕は扉を開いた。
バッティングスペースに入ると、少し冷たい春風が頬を撫でる。
ピッチングマシーンの重低音と、ボールの転がる軽い音。
そして、ゴムの焦げたような臭いが、バッティングセンターに来たことを再認識させる。
金属バット2本が、鉄管のようなものに上部だけ入っている。
右側の1本は少年野球用でバットが短いため、その隣にある一般用の銀色の金属バットを抜いた。
バットを見ると、ボールが掠ったり、当たった痕や凹んでいる部分はあったけれど、曲がってはいなかった。
コイン投入口に200円を入れると、ピッチングマシンが起動し、さらに大きな音を立てる。
90キロと110キロと書かれた赤いボタンが点灯し、僕は110キロを選ぶ。
これは、桜花に格好つけるためではなく、単純に打ちやすい球速だからだ。
少し間を置いてから、ボールが放たれるため、ピッチャーの映像はまだセットポジションで止まっている。
その間に左打席に入り、ホームベースを2回、弱めにバットで叩く。
「はる君、頑張って! 目指せ、ホームラン!」
桜花を一瞥すると、楽しそうに微笑んでいて、その姿を見て、僕は自然と笑みを浮かべていた。
誰かが楽しそうにしている姿を身近で見れるというのは、本当に嬉しくて喜ばしいことだ。
正面にある「ホームラン」と書かれた、円形の看板を見上げ、小さく鼻でため息を吐く。
看板に当てた経験も当てれる技術、実力もないというのに、当てたいという気持ちが強くなる。
どうやら僕は、彼女に格好いいところを見せたいと思っているらしい。
バットを構えると、映像の中のピッチャーがセットポジションから動き出し、オーバースローでボールが放たれる。
ホームランを狙って、力を込めたスイングは、綺麗に空を切り、紐を振ったような軽い音を立てた。
「あがっ」
身体が流れるようにして重心を崩し、情けない声が出た。
転びはしなかったものの、我ながら見事な空振りだ。
「ナイススイング!」
後ろを振り向くと、桜花は混じりけのない表情で、ガッツポーズを作っていた。
「あ、ありがとう……」
それからボールをかすめたり、ゴロを転がしたりを繰り返し、ようやくまともな当たりが出始めたのは、10球以上打った後だった。
「「あっ!」」
ボールをバットの真芯で捉え、鋭い打球がセンターラインへと飛んでいく。
当たれ。
そう心の中で願ったけれど、もうひと伸び足りず、看板の真下のネットに当たった。
「おっしい~! でも、ナイスバッティング!」
ラスト1球。
額から汗が1滴垂れ、唾を飲む。
今度こそ。
内角気味の球がバットの根元に当たり、打球は頭上の屋根部分にぶつかって、そのまま僕の頭に直撃した。
「いていっ!」
驚きはしたけれど、ゴムボールだったこともありそこまでの痛みではなかった。
「はる君っ、大丈夫!?」
「ぷっ、ははっ」
「はる君……?」
「あっはっはっはっは」
予想外の出来事に、こらえていたものが吹き出してしまった。
自分の意思では止められず、僕は腹を抱えながら笑っていた。
「ふふっ。ふふっ……はる君、ごめんなさい。ふふ……」
桜花も僕の姿につられるように、笑った。
何年ぶりだろう。
僕がこんなに笑うのは。
普段から笑わないように意識していたわけでは決してないけれど、いつの間にか──いや、あの時からか。
思い出したくない過去の記憶が蘇ると同時に、ようやく笑いはおさまった。
「はる君、大丈夫? 痛かったでしょう?」
「びっくりはしたけど、思ったほどじゃ──って、え?」
一瞬何が起きているのか理解できなかった。
僕の頭にボールが当たった箇所を、桜花は優しく撫でてくれている。
それはもう優しい表情で。
「だ、大丈夫だよ? あ、ありがとうね」
僕は恥ずかしさと、自分の頭を桜花に触らせてしまった申し訳なさから、後ずさりをする。
「ごめんなさい……たんこぶとかになってないか気になって、つい……嫌だったよね?」
「い、いや、嫌とかじゃない、です、よ? ほら、今のバッティングで汗かいたしさ」
「そんなの全然気にしないよ」
桜花が気にしなくても、僕は気にするんだよなぁ。
と、心の中で桜花の天然な部分にツッコミを入れつつ、彼女の優しさに感謝をして、バットを元にあった場所に戻す。
「何キロにする?」
「う~ん。110キロは打てなさそうだし、90キロかな?」
「一応、向こうに80キロもあるけど。桜花は右打ち?」
「うん、右打ち。10キロって結構差があるの?」
「80と90だと、若干山なりに感じるぐらいじゃないかな。山なりのボールを当てるのと、直球を当てるのだと、直球の方が当てやすいとは言われてるみたいだけど」
「そっかぁ。じゃあ、90キロに挑戦してみようかな!」
「了解。桜花の運動神経なら、きっとすぐに目が慣れると思うし、ばんばん打てるようになると思うよ」
先ほど僕が使ったバットを取り出し、桜花に渡す。
「ふふ。ありがとう。あ、そうだ! 打ち方……教えてください。私、握り方とかあんまりよくわかってなくて」
「もちろん」
それから、5分ぐらいだろうか。
僕はバットの握り方の他に、構え方と振り方を教えた。
彼女の飲み込みの早さに驚きながら、実践を迎える。
「よぉし、ホームラン狙うぞ~」
そう意気込む彼女の背中を見て、僕は嫌な予感がしていた。
できれば、杞憂であってほしいのだけれど……
ピッチングマシンからボールが放たれ、桜花の第1スイング。
彼女は力強く左足を踏み込むと、鋭いスイングを見せ、重みのある音が鳴る。
「えっ?」
と、僕が気の抜けたような声を出した直後に、ホームランと書かれた看板に打球が命中した。
「ホームラン!」という音と軽快な祝福のファンファーレが鳴り響く。
人の域を超えた怪力で、何か悪いことが起きるのではないかという僕の懸念はすぐに払拭され、驚きと称賛へと形を変えた。
「やったぁ! ねえ、見た? はる君! ホームラン! ホームランだよ!」
桜花は看板を指さしながら、目を輝かせて僕に言った。
「す、すごい……すごいよ、桜花! ナイスバッティング!」
自分ごとのように嬉しくて、胸が高鳴り、声量も拍手も大きくなる。
彼女は目を大きくさせて、満開の桜のような笑顔を見せた。
「ふふっ、ありがとう。よ~し、どんどん狙っちゃうよ~」
そう宣言した彼女は、残りの24球中23球をホームランに命中させるという好成績を収め、先ほどまでカウンターにいたはずの従業員の男性が、途中に駆け寄って来るほどだった。
桜花の打席が終わる頃には、彼は顎が外れてしまうのではないのかと、心配になるぐらい大きな口を開いていた。
まあ、無理もないだろう。
25球中、24球をホームランの看板に当てるなんて、狙ってできることでもないし、プロ野球選手でも難しいのではないだろうか。
男性は桜花に握手と写真を求め、無料で打てるバッティング券を24枚プレゼントしてくれた。
どうやら、あのホームランの看板にボールを当てると、無料でバッティングかストラックアウトができるらしい。
期限はないらしいから、景品が無駄になることはなさそうだ。
きっとこの先、彼女の功績はこのバッティングセンターの伝説として、後世に語り継がれていくことだろう。
男性に称賛され、照れたようにして笑う彼女の横顔を見て、僕はそんなことを考えていた。
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