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【0805】

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 冷房の止まった箱に閉じ込められてから、もうすでに二時間以上が経過していた。

 前を走る電車が、電柱に衝突したことによる停電トラブルだった。該当の区間を走る上下線の全てが機能停止した、それは運航ダイヤの話だけではなく、電源を用いたあらゆる機能という意味で。

 せめて、夜だったのが際した。真夏である、昼であれば冗談ではなく死人が出ていただろう。

 外には出れない。感電の危険性があるため、車内にてお待ちください――。同じアナウンスがもう数度繰り返されていた。

 今はアナウンスさえ流れなくなった、長い時間が経過した、蒸し暑い箱の中である。

「大変ですね」

 目の前に座る女性が、私に苦笑を向けた。
 そうですね、と愛想の良い返事を返す。愛想の良い。この不都合な空間では、うっかり理性を失いかねないと、そのような人間性が殊更に意識された。

 実際、他の車両ではそのようなことも起こっているかもしれない。夜である、酒を含んだ者もあるだろう。それでいうと、少なくとも先頭車両であるこの箱内は平和なものだった。

「先程は、ありがとうございました」

 礼を受けて、私はなんでもないとまた愛想を表情にした。
 女性の隣には、母にもたれて眠る娘がある。

 車内は蒸して異様に熱かったが、飲み物が配られるなどの対処はなかった。やがて具合を悪くしてしまったこの子に、たまたま封を開けずに持っていた飲料を渡したのだ。
 少女の呼吸と顔色は戻ったが、その限界の姿に冷や汗が出た。一歩間違えればこの幼い少女が、熱中症を発症していた。

 それにしても、まるで異空間である。
 一つのトラブルでここまでの環境が生み出されるということが、なんだか信じられなかった。
 ともすれば、酷く生きにくい環境とは薄紙一枚を隔ててそこにあるということを、改めて認識させられる。――仕事場のクーラーが一斉に故障したあの時も、簡単に地獄が形作られてしまった。

 冷房も失せた頃合いに、アナウンスで窓を開けるよう指示されるや、どう行動してよいのか分からない皆に代わって素早く車両内の窓を開けて周っていた、あの聡い女性のことを思い出す。私もそのような善行に一つ加担できただろうか?

 逆に、なんだか悪戯に喚く輩がいなくて本当に良かったなと、そのことは地獄の中の光のように思っていた。だからこそ、自分もしっかりしなくては、と気も引き締まる。

 ただ、そこからが長く辛い時間だった。
 もう十分に時間は経過したと認識した頃合いから、苦痛がますます重さを確かにして圧し掛かってきた。

 とにかく辛かったが、話し相手がいたのは幸《さいわ》いだった。
 今日も心身を削った仕事帰りだったが、このような環境では、とても休めない。何も無くただ耐えるというのはいかにも苦痛であったことだろう。

 救急車の音がまた近づいてくる。誰かが熱中症で倒れたのだろうか。無理もない、大勢が倒れないことのほうが不思議なくらいだ。私も相当に疲労している、明日が休日で本当に良かった。

 具合の悪さを申告して救急車に乗ったほうがいくらかマシではないかと、ふと邪《よこしま》な考えが過ぎる。自身に活を入れ、この環境の中、目の前で頑張っている幼子を思い、心を強く持つことを誓う。

 時間はまた過ぎた。
 時折吹く風が冷房のように感じられて、もしや、と思うことを数度繰り返して。期待することも少なくなり、ひたすらに耐える体勢をとうに覚悟したその時間の先、ようやっと――、歩行誘導の順番が来たことをアナウンスが告げて、私たちは一息をついた。

  
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