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第三幕

「おまえが育つまで、オレはちゃんと待っていてやる。」~最強の魔法使い師弟2~

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第三幕

 深夜。歓楽街の最奥。いかがわしい店が軒を連ねる一画は、声高な呼びこみさえ、下品に聞こえる。
 治安がよい<空の街>だが、その一帯だけは別で、子どもや女性が独り歩きしている姿はない。
 だから、その姿はひどく目立っていた。
 まず目を惹くのが、朧な月明かりの下でさえ眩く輝くプラチナ・ブロンド。癖のない髪は、背中に下ろされ、歩を進めるたびに揺れて光を零す。
 ドレスに包まれた体は、小柄で、折れそうに細い。女性らしい丸みはないが、華奢な四肢には、保護欲と征服欲を同時にかき立てる危うい色香があった。
 顔の前にベールを垂らしているが、それでも、秀麗かつ優艶な、花のような美貌は隠しきれない。愛でたくなるか、散らしたくなるかは、見る者次第だろう。
 ベールの色は、グラデーションになっている。視界を遮らないよう、目元は薄く、下にいくにつれて濃くなっていく。それでも、唇にひかれた紅の鮮やかさは透けて見えた。
 ただ、固く引き結ばれた唇には、化粧を施していても誤魔化せない険しさが漂う。薄くシャドウをのせた菫色の双眸も、少女のものにしては眼光が鋭利だ。
 外見は間違いなく美少女だが、表情がそれを裏切る、謎めいた美姫の正体は―ディアス・パレル。
 ディアスが思いついた完璧な変装は、これだった。
 ただし、ディアスは早くも自分のアイデアの失敗を悟っている。
(歩きにくいっ…。)
 ドレスに合わせた女物の靴では、いつものようには歩けない。しかも、ところどころひび割れた石畳の上だ。
 そもそも、尾行自体が初めてだ。
 あまり近づきすぎては、すぐに気づかれてしまうので、それなりの距離は保たなくてはならない。
 幸い、長身のフェレトは目立つし、鮮やかな黄金の髪も夜闇を払って眩い。見失う心配はなさそうだった。
 <光の家>に泊まりたい、といったディアスに、フェレトは拍子抜けするほどあっさり許可をくれた。
「ロムルスと喧嘩すんなよ。」は、余計な一言だったが。ただ、ディアスは、何か後ろ暗いことがあるからじゃないか、とそれについても疑っているのだが。
 ともあれ、<風の塔>の外で一晩過ごせるようになったディアスは、塔の近くに隠れてフェレトが出てくるのを待った。いつもと同じくらいの時間に出てきたフェレトを追って、今に至る。
 フェレトの足取りに迷いはなく、路地裏を奥へ奥へと進んで行く。よく知った、慣れた道を歩く動きだ。
 しかし、ディアスにとっては、全く足を踏み入れたことがない区画なので、フェレトを見失ったら、無事に帰れるかどうかも不安だ。
 繁華街も、表通りの方は酔客の姿も多く、猥雑だがにぎやかな笑い声が飛び交っていたが、この辺りは人通り自体が少ない。
 角を曲がったフェレトに追いつこうと、ディアスが早足になったとき。
「女の一人歩きは危ないぜえ、嬢ちゃん。」
「そうそう、オレたちが送っていってやるよ。」
 呂律のあやしいだみ声に呼び止められ、ディアスは目をすがめて顔だけ振り返った。
 ガラの悪そうな酔っ払いが二人。赤らんだ顔に、下卑た笑みがはりついている。
 ディアスはうんざりした。
「結構だ。先を急ぐ。」
 吐き捨てるように言って歩き出したディアスの前に、一人が回り込む。酔いが回っていて、ディアスの声が少年のものだとは聞き取れなかったらしい。ディアスの声は、少年にしては少し高いので、無理もないが。
「そうつれなくするなよ。」
「オレたちは親切で言ってるんだぜえ。」
 ディアスは、イラッとする。魔法で撃退するのはたやすいが、ここで魔法を使えば、確実にフェレトに気づかれる。そんなに遠くへは行っていない。
 その、一瞬の迷いが命とりだった。
 気づいたときには、男の腕が迫っている。
(まずい!)
 と、思うのに、体が硬直して、とっさに動けない。
「いたたたたたたっ!」
 悲鳴が上がった。
 ディアスを拘束しようとした男の腕を、その寸前でつかみ、ねじり上げて
「こいつは、オレのものだ。指一本触れさせねえよ。」
 不敵で尊大な笑みとともに、低く宣告したのは。
(フェレトさまっ…。)
 ディアスは、かろうじて、声を呑みこむ。
 フェレトに腕をつかまれた男は、必死でもがく。相当痛いのか、赤かった顔が、土気色になっている。フェレトは、たいした力をこめているようにも見えないのに、男の抵抗虚しく、フェレトの腕はびくともしない。
「てめえ、離しやがれ!」
 呆気にとられていた、残った男の方が、わめき散らした。懐から抜いたナイフが、月明かりを反射し、ディアスは背筋が冷たくなった。
 武器を、人に対して平然と、それも慣れた様子で向ける。ただの酔漢ではなく、下っ端だろうが、裏社会の人間なのかもしれない。
 ディアスとは対照的に、フェレトの笑みは揺らがない。
「おう、ちゃんと受け取んな。」
 ブンッと音をたてて、男の体が舞った。
 仲間の真上に、男の体が落ちる。
 あわてて飛びのく男に、フェレトは疾風のごとく接近した。
 ナイフを持った腕を蹴り飛ばす。
 カランと音をたて、ナイフが石畳に転がる。
 フェレトは、素早くナイフを拾い上げ、無造作に投げた。
 狙いを定めたようにも見えなかったのに、ナイフを取り出した男の、首の真横に突き刺さる。
 数センチずれていたら、頸動脈をかき切っていた位置だ。
「ひいいっ!」
 悲鳴を上げた男に、フェレトはにい、と唇の端をつり上げた。
「返すぜ。そんなもん、誰彼構わず振り回してると、死ぬのはテメエの方だ。」
 細めた蒼天の瞳には、剣呑な光が躍っている。
 男たちは一気に蒼ざめた。
 格が違う、と。
「覚えてろよ。」の捨て台詞もなく逃げ出す男たちに、フェレトはもう一瞥すら与えない。
 黙って、ドレスをまとった少女・・を見据える。
 ディアスは、顔を伏せて早鐘を打つ心臓を必死でなだめている。
(大丈夫だ。気づかれてない。オレは声を出していないし、この暗さでベールもかぶっているから、顔もわからないはずだ…。)
 ディアスは、俯いたまま、淑やかに頭を下げる。優雅さを損なわない程度に、早足で立ち去ろうとする。
「助けてもらっといて、礼一つ言えねえのか?」
 フェレトが、ディアスの正面に立つ。
 は、とディアスが気づいたときには、フェレトの右手がディアスの細い腕をつかんでいる。
「そんな恩知らずに育てた覚えはねーんだがな。」
 ぐい、と引き寄せられて、フェレトのサファイアの瞳が、ディアスのすぐ間近に迫っていた。
 唇は笑みの形に弧を描いているが、目が笑っていない。
 ディアスの背中を、冷や汗が流れた。
 フェレトが、左手でディアスのベールをはね上げた。
「しつけが足りなかったか、ディアス?」
(やっぱりバレてたー!!)
 ディアスが、がっくりとうなだれた。
 万事休す。

 尾行していた理由をディアスに白状させたフェレトは、肺が空になったんじゃないかと思うほど深く、ため息をついた。
「そんな艶っぽい話じゃねーよ。」
 頭痛を感じたのか、額に手を当てる。
「いねーよ女なんか。仕事だ仕事。」
「そんな仕事、来てましたか?」
 ディアスは、疑り深い目をフェレトに向けた。<星の塔>の業務を執り行う<政務宮>からフェレトに来る書類は、ディアスが整理している。フェレトは杜撰でいい加減で、重要書類もほっぽり出していることが多いので、(これも弟子の仕事)と割り切って、ディアスが手を出すことにしたのだ。
 今まで、誰がそれをやっていたのか、想像はつくが、何となく癪なので、ディアスはフェレトに確かめたことはない。
 フェレトは、声をひそめた。
「<元老院>からの極秘任務は、書類では来ねーよ。」
 それは、<政務宮>を通さず、口頭で直接伝えられるということだ。絶対に漏れてはならない類の仕事。
「…そうですか。じゃあ、オレには教えてもらえませんね。」
 ディアスは諦めた。たとえ弟子でも教えられないからこそ、フェレトは黙って抜け出していたのだ。それを察せられないほどディアスは愚かではない。多少、拗ねた口調になった自覚はあるが。
 フェレトは、それに絆されたわけでもないのだろうが、数秒考えた後、
「いや。教えとく。」
と言った。もともと人通りのほとんどない路地裏だが、周囲を見回して人がいないことを確認する。それでも用心して、フェレトはディアスの耳朶に唇を寄せた。ほとんど吐息だけでささやく。
「<元老院>に封じられていた、七大魔王の一人が逃げ出した。」
「!」
 声を上げそうになったディアスの口を、フェレトの大きな手が塞ぐ。
「大声出すんじゃねえ。」
 ディアスが無言でこくこく頷いたので、フェレトは手を離した。言葉を重ねる。
 先日、情報屋のサテュロスと接触していたのも、今回の仕事のため。魔王クラスの魔族ともなると、直接人間を害するよりも、人を唆し、陥れ、罪を犯させることを好む。それらしい事件の背景を探っていたのだと。
 ディアスは声を押さえたが、動揺が隠しきれず、早口でまくしたてた。
「大事じゃないですかっ!<星の塔>の管理体制ってどうなっているんですか!早く封印し直さないと、とんでもないことになる。魔王は、街一つどころか、国一つ滅ぼしたって伝説もありますよ!」
「だから、賢者オレが動いてんだろーが。」
 フェレトの青い瞳が、強く輝いたのを見て、ディアスは黙った。それから、まっすぐにフェレトを見上げる。
「オレも手伝います。」
「却下。」
 間髪を入れず、電光石火で断られ、ディアスがキッとフェレトをにらみつけた。
「どうしてです!?師匠を手伝うのが弟子の務めでしょう!」
「危険すぎる。アレは、強力な封印具の中で眠らされ、さらに、定期的に全賢者が封印をかけ続けていた大物なんだよ。」
 <火の賢者>であるウルカヌス・ヘパイトは、つい最近まで、その正体を知っていたのは、<元老院>だけだった。同じ賢者にさえ、その存在を秘していた。しかし、その間も、封印の維持だけは行っていたのだ。封印が、賢者がそろって行う必要はなく、個々にかける型だったため、それが可能だった。
 全賢者、という言葉に、頭の切れるディアスは反応した。
「それじゃ、魔王が逃げ出したのは、<光の賢者>様がいなくなったから…。」
「…そういうことだな。」
 フェレトが刹那、痛みをこらえる顔をして頷いた。ディアスはフェレトがこの仕事に必要以上の責任を感じていることを察した。
 急がなければ、無辜の民に大勢の犠牲が出る案件だ。それだけでも、フェレトが必死になるには十分だ。それに加えて…。
(<光の賢者>様のことは、フェレトさまのせいなんかじゃないのに…!)
 しかし、それは言うべきではない言葉だとディアスは知っているから、何とか呑みこむ。代わりに、役に立ちたいのだと言い募る。
「早くなんとかしないといけないなら、なおさら、動ける魔法使いは、多い方がいいでしょう。危険なことはしないって約束しますから、オレも。」
 ぐいっと、フェレトがディアスの胸倉を左手でつかんで引き寄せた。
「っ!?」
「危険なことはしない?そーいう、大ボラふくのはこの口か?ディアス。」
 右手の人差し指で、ピンッとディアスの唇を弾く。引かれていた口紅が、フェレトの指先を赤く染めた。
「深夜に、こんな場所を、こんなカッコでうろつくのは危険じゃねーとでも言うのか、おまえは。」
 背筋がぞくぞくするほど、艶のある低い美声。それはいつもと同じだが、ふだんより声が低い。
(フェレトさま、怒ってるっ…。)
 ディアスは、腰が引けそうになる。
 ディアスの背丈は、フェレトの胸辺りまでしかない。体格差が大きいので、上からのしかかるように見下ろされると、相当な威圧感がある。
 それでも、ディアスは(ここで引いたら負けだ。)と、自分を鼓舞する。
 フェレトに向かって、生意気に、に、と唇の両端をつり上げて見せる。ドレス姿と化粧に全くそぐわない、勝気で無謀、挑戦的で挑発的な少年の笑み。
「フェレトさま。一つ忠告して差し上げます。」
 フェレトが、ちょっと目を瞠った。それくらい、ディアスが唇に刻んだ笑みは強気だった。その表情のまま、紫の双眸を不遜に輝かせて続けた。
「ここで、オレが大声出したらどうなるか、想像してみてください。フェレトさま、可憐な美少女を拘束してるようにしか見えませんよ。」
 遠回しに、手を離せと言っているのだが、フェレトは、はっ、と鼻で笑い飛ばした。
「可憐な美少女とか言うんじゃねーよ。男のくせに。あのな、ディアス。まだわかってねーみたいだから教えてやるけど、大声出したって誰も来ねーよ。ここは、そういう場所だ。」
(うう…。)
 わかっていたことだが、フェレトの方がディアスより一枚も二枚も上手うわてだ。しょせん、敵う相手じゃないのだと、ディアスがしゅん、とうなだれた。
「…わかりました。でも、オレにできることがあったら、言ってくださいね。」
「ああ。」
 フェレトが頷き、ディアスの拘束を解く。
 そのままディアスが、ずる、と座り込んだのを見て、(ちょっと言い過ぎたか。)と、心配になる。そこで。
「オレも一つ、忠告してやるよ。」
と、笑って声をかける。
「なんですか?」
と、顔を上げたディアスは、 フェレトの声も表情も、いつも通りに戻ったことに、内心安堵している。しかし、いつも通りのフェレトは、子どもみたいな悪戯をしかける困った大人なのを忘れていた。
「おまえ、口紅、赤より薄紅の方が似合うんじゃねえの?」
「フェレトさまの好みを押しつけないでください!二度と化粧なんかしませんよ!!」
 ふざけんなあっ、という勢いで言い返したディアスに、フェレトが吹き出した。

 夜の街を、フェレトとディアスは連れだって歩く。歓楽街を過ぎて、住宅の並ぶ通りまで来ると、しん、とした静寂が耳に痛いほどだ。この辺りは、高級住宅街で、広々とした庭を備えた大邸宅が多い。<星の塔>のおかげで、<空の街>は潤っているので、この街の大商人や資産家は、他国の貴族に匹敵する財産を有しているのだ。
「ああ、この辺りです、オレの依頼人の屋敷は。」
 ふと、何気なくディアスは口にした。犯人であるステュクス・レテの身柄は、<刑部>に留め置かれている。彼には同情の余地があるので、手放しで喜べるわけではない。しかし、何の罪もない夫や子どもに、平穏な暮らしが戻ったのは喜ばしいことだった。
 ディアスの言葉に答えようと、口を開きかけたフェレトは、そのまま呼吸を止めた。
 屋敷のバルコニー。
 月明かりに照らされて、そこに立つ人影がある。
 さほど驚くようなことではない。酔い覚ましに、夜風に当たろうとしているのかもしれないし、朧月を愛でる風流な趣味があるのかもしれない。
 それなのに、フェレトがその人影に釘づけになったのは、理屈ではなく、直感だった。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた魔法使いとしての、研ぎ澄まされた、勘。
「羽ばたけ、<碧風翼へきふうよく>!」
 フェレトが叫ぶのと、人影がバルコニーの手すりを乗り越えて落下するのが、ほとんど同時だった。
 フェレトの放った魔法は、間一髪、人影の背中に風の翼を広げることに成功していた。
 人影は、ふわりと庭に着地する。
 フェレトが駆け出し、ディアスは慌てて追った。

 よく手入れされた、芝生の上。
 呆然と座り込んでいるのは、ディアスの依頼人だった。
 近づいたフェレトに、男が喰ってかかった。
「なぜ、私を助けたのです!?もはや私には生きている資格などないというのにっ!!」
 髪は乱れ、目は血走り、口から唾を飛ばしてわめき散らしている。
 それは、ディアスが知っている依頼人とは別人のような、変わり果てた姿だった。
 資産家の令息らしく、やや軟弱そうで、しかし上品で穏やかな物腰、甘い顔立ちの優男だった。
 たった数日で、彼の身に何が起こったというのか。
「落ち着いてください、一体、何があったんですか。」
 まともな受け答えができるとも思えなかったが、ディアスはできるだけ穏やかな声を出して聞く。
 依頼人は、ディアスに答えない。目も合わせない。
「私は悪くない。悪くないんだ。あの女が私を裏切っていたから、だから…罰を下したんだ!私は、天の声の導きに従ったんだ!!ああ、でも、私は、私はなんてことをっ!!」
 生きている資格が無いと言った舌の音も乾かぬうちに、自分は悪くないと言い、その直後にまたそれを否定する。支離滅裂で、ディアスには何が何だか分からない。
 しかし、フェレトは、全てを悟ったように、苦い表情になった。
 フェレトの視線は、男の両手に注がれている。
 ディアスは、フェレトの視線を追って、男の手を見た。
(黒い…?いや、このにおいは。)
 ディアスが、ハッと瞳を揺らす。
 朧な月明かりの下ではわかりにくかったが、それは確かに鮮血の。服の色が濃いために目立たなかったが、返り血も全身に浴びている。
 ディアスが気づいたときには、フェレトは既に立ち上がっている。
「ディアス、おまえはここで、そいつを見てろ。」
 有無を言わせない、厳しく鋭く、重い一言で、フェレトはディアスをその場に縫い止めた。
「羽ばたけ、<碧風翼>。」
 フェレトの背中に、風の翼が広がる。
 フェレトは、高く飛翔し、バルコニーに降り立った。そのまま部屋へ踏み込む。

 壁に飾られているのは、有名な画家の絵。棚にずらりと並ぶ、ビスクドール。細かな装飾の施された、テーブルやマントルピース。繊細なレースで編まれたカーテン。金糸銀糸をふんだんに使った、豪奢なタペストリー。
 家具の一つ一つが高価なものだと一目でわかる。しかし、品よくまとめられて調和し、趣味の良さを感じさせる部屋だった。
 それら一面に血飛沫が飛び散っていなければ。
 むせかえるほどの、濃密な血のにおい。空気まで赤く染まりそうな、おびただしい量の血だった。
 もはや、体内に血液はほとんど残っていないのだろう。横たわる遺体の肌は青白い。遺体も鮮血で濡れているので、蒼白と真紅のコントラストが鮮明だった。
 命がないのは一目でわかった。
 心臓に、大ぶりのナイフが突き刺さっている。
 瞳孔は完全に開いていた。
 まとっているドレスは、高級な絹を使った、最新のデザインだったが、ずたずたに切り裂かれて見る影もない。当然、その下の肌も、無惨に切り裂かれている。肉まで抉られ、ところどころは骨がのぞいている。腹部からは、内臓がはみ出していた。
 狂気を帯びるほどの憎悪を感じさせる惨殺だった。
 フェレトが、痛ましげに眉をひそめた時。
 バルコニーに通じる出入り口、開け放たれたままだったそこから、夜風がさあっと吹き込んだ。
 キイッと音をたてて、奥のドアが開いた。
 完全に閉じていない状態で止まっていたのが、風で動いたのだろう。
 フェレトは何気なく目をやり、悲哀から怒りへと表情を変える。
 開いたドアの先に伸びる廊下。そこに転がっていたのは、もう一つの遺体。
 生前、母親とよく似た顔立ちだった少女は、今も母親と同じ表情で横たわっている。
 断末魔の絶叫の形に、口を開いたままで。
 遺体の損壊の様子も、母親とそっくりだった。
(同じだ。)
 と、フェレトは気づいている。
 母親と娘の遺体の状態だけではなく。
 フェレトは、遠い昔に、これらと同じような遺体を見たことがあるのだ。
 ありったけの憎しみをぶつけられたような、無惨な遺体を。
「殺すだけでは飽き足りない、地獄の責め苦を味わえ。」という、怨嗟に晒された遺体を。
(似ている。)
 ここまでの憎しみを煽る、その手口。
 思考に沈みかけたフェレトを
「フェレトさま!」
 ディアスの声が現実に引き戻す。
 フェレトと同様に、<碧風翼>でバルコニーに降り立ったディアスを、フェレトは力任せに抱き寄せる。
 ディアスの顔を自分の胸に押し付けて、視界を塞ぐ。
「おまえは見るな。」
 フェレトの声は静かだった。けれど、抗い難い厳しさがあった。
 ディアスは、反射的に従いそうになり、必死で声をあげた。
「大丈夫です。魔法使いになるなら、見なきゃいけない。そうでしょう?」
 視界を封じられていても、吐き気がするほどの血のにおいで、嫌でも伝わる。どれほど凄惨な現場なのか。けれど、ディアスは退く気はなかった。
「この人たちは、オレの依頼人の家族でした。だから。」
「駄目だ。」
 フェレトは容赦なく切り捨て、そのままディアスを引きずってバルコニーまで出る。
「フェレトさま!」
 ディアスは、抗議の声を上げる。全力で抗ったが、力で敵うはずがなかった。なす術もなく、バルコニーに出される。
(結局、いつも子ども扱いだっ…。)
 血が滲むほど強く、唇をかみしめる。
 虚無感で、力が抜けた。不本意だったが、フェレトにもたれかかる形になる。
 ディアスが抵抗をやめたので、フェレトはいつもの声で訊く。
「だいたい、おまえ、オレが言いつけたことはどうしたんだよ。あの男見てろって言っただろうが。」
 ディアスは、ふて腐れた声だったが、必要な情報は伝達する。
「この屋敷の執事が駆けつけて来たから、彼に任せたんですよ。ちゃんと、<黒影翔こくえいしょう>で、<刑部>に知らせてあります。」
「そうか。なら、<刑部>が来る前に、そいつに話を訊く。」
 顔を上げて、まっすぐ前を見据えるフェレトは、闇ではなく、その先にある何者かを、既にとらえているかのようだった。

 信じられません…この目で見てもなお、私にはとても…。私は、坊ちゃま、いえ、若旦那様が幼いころよりこの屋敷に仕えております。大旦那様も奥方様も、若旦那様を大変かわいがってお育てになられて…そのせいか気弱なところがありましたが、私ども使用人にも優しい方で、とてもあのように残酷なことを…。はい、はい…お気遣い痛み入ります。大丈夫です。
 若旦那様のご様子がおかしくなられたのは、若旦那様をつけ狙っていたという男を、<星の塔>の魔法使いの方が捕えてくださった日からです。その男が、以前に若奥様と…その…親しくしていた、ということを、どこかから若旦那様は知ってしまわれたようで…。それが、わからないのです。若旦那様は、「天の声」だと、そうおっしゃるばかりで、私には何の事だかさっぱり…。
 ですが、その日から、若旦那様は、常軌を逸した勢いで、若奥様を責めたてて。その…浮気を疑っておいでのご様子でした。「ボクを裏切っていたんだろう。」と、お嬢様のことも、「本当はアイツの子なんだろう。」と。止めに入った者まで足蹴にされる始末で。ですが、ですがまさか、こんなことをなさるとは、夢にも思っておりませんでした…。
 お止めするべきでした。何としてでも。大旦那様や奥方様に、何とおわび申し上げていいか…。

 <刑部>の到着を待って、惨劇の館を後にしたフェレトとディアスは、<風の塔>にもどった。
 フェレトは、自分の寝室の扉に手をかけて、肩ごしにディアスを振り向いた。
「もう遅いから早く寝ろよ。」
「フェレトさま。」
と、見上げてくるディアスの表情が硬い。
 フェレトは、嫌な予感がしたが、黙って先を促した。
「オレは、やっぱりフェレトさまを手伝いたいです。今夜の件、フェレトさまの仕事と、何か関係あるんじゃないですか?そうなんですよね。」
 思いつめた目をして、拳を握っている。
 フェレトは、ディアスの勘の良さに内心舌打ちしながら、扉から手を離す。ディアスには、「天啓」もしくは「天の声」という言葉が、七大魔王の手がかりであることを教えてはいない。しかし、聡明なディアスは、自力で気づいたのだろう。
 フェレトは、くるりと体の向きを変え、ディアスを正面から見下ろした。
「もうその話は終わっただろーが。蒸し返すんじゃねえ。」
「殺したのは、オレの依頼人で、殺されたのは、その家族です。」
 ディアスの秀麗な美貌が、悔しげに歪んでいる。
(せっかく、フェレトさまが褒めてくださったのに。)
 それが、台無しになったような気がした。
 自分が、ステュクス・レテを捕えたことが原因となった事件なら、責任があるとも思う。もちろん、非は、ステュクス・レテを裏切り、それを隠していた御曹司の妻にある。そして、同情の余地があるとはいえ、殺人を犯そうとしたステュクス・レテにも、実際に妻を殺めた御曹司にも。理性ではわかっているが、感情が納得していない。
 フェレトは、ディアスの複雑な心情までは読めていないのだろう。前言を翻しはしない。
「はっきり言わなきゃわかんねーか。」
 フェレトの声がゾッとするほど冷ややかになった。
 ディアスが、気圧されたように身を引きかけ、途中で気づいて踏みとどまる。
「足手まといはいらねーよ。」
「っ!」
 ディアスの顔から血の気が引いた。
 凍りついた紫水晶の瞳が、パキンと儚い音をたてたような。
「だったら。」
と、フェレトをにらみつけたディアスの瞳に、涙はない。あるのは、なりふり構わず喰らいつく意地。
「足手まといにはならないってことを、証明します。」
 ふだんのディアスなら、そこまでの暴挙には出なかっただろう。<星の塔>の象徴にして聖域である、<風の塔>の内部で、魔法を放つなど。
「吹き荒れよ、<緑>。」
 詠唱は、途中で断ち切られた。
 フェレトの右手が、ディアスの口を塞いでいた。
「敵は、おまえが魔法を発動するのを、悠長に待ってくれないぜ。」
 ダンッと、そのまま片手で壁に叩き付けられる。
 衝撃と激痛で、ディアスの息が止まった。
 ミシ、と背骨が嫌な音をたてる。
 口を塞いでいるフェレトの手を、両手で引き剥がそうとしても、びくともしない。
 逆に、フェレトの左手が、ディアスの両手をつかむ。まとめて、頭の上、背後の壁に縫い止められた。万力のように締め上げられる。もがいても、逆に押さえつける力が増すだけで、手首の骨が砕かれそうだった。
 蹴り上げようとした足も、フェレトの膝で封じられる。
 完全に抑え込まれた。
 それでも、ディアスは、食い入るようにフェレトを見据えて、目を反らさない。
 気力まで負けるわけにはいかないと思った。
 けれど、フェレトは無情に、ディアスの最後の砦を踏みにじる。
「魔法の腕だけなら、おまえは<星の塔>に所属するたいていの魔法使いより上だ。だけどな、おまえを魔法が使えない状況に追い込むことは、簡単なんだよ。そうなりゃ、おまえは非力なガキだ。」
 ディアスの紫の瞳に、じわっと涙の幕が浮かんだ。同時に、力が抜ける。
 フェレトは、ディアスから手を離す。
 フェレトの拘束が解けても、ディアスは、ぐったりと壁にもたれたままだった。
 フェレトは、寝室の扉に手をかける。振り向きもせずに告げた。
「わかったら、大人しくしていろ。」
 バタンと扉が閉まるのを聞きながら、ディアスは胸元を押さえる。
 ドレスの下に隠した秘密。
 布越しにそれを握りしめる両手が震えている。
 細い手首には、フェレトの指の痕が、くっきりと残っている。処女雪の肌に、赤い華が咲いたように。
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