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第二幕
「オレの前におまえを跪かせてやる。」~最凶の式神と最強の陰陽師~
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第二幕
ビュウッと吹きつける風の冷たさに、疾風は夢から覚めるように我に返った。
凍てつく真冬の夜の中に、疾風は立っていた。
リノリウムの床に落ちている、漆黒天狗の描かれたカードを拾い上げ、制服のポケットにしまう。
以津真天の姿はなかった。暴走した霊力によって消し飛んだのだろう。
一面に咲く血色の華も、世界を朱に染め上げる夕日もない。
だが、夢を見ていたわけではないことは、疾風の正面に立つ螢惑が証明している。
割れた窓から吹きこむ風が、疾風の髪を揺らす。
しかし、螢惑の銀髪は、一筋すらもなびかない。
それを見て、疾風が納得したように頷いた。
「霊体、か。そこは他の式神と同じか。」
「左様。」
と返す螢惑の口元からは、白く染まった息が吐き出されることはない。疾風と違って。
式神のほとんどは、現世に肉の身をもたない。彼らは、幽世の存在であり、そこでは霊体である。陰陽師が、使役する際に自分の霊力を与えて、式神に仮の肉体を与える。
疾風が召喚した漆黒天狗も同様で、霊力の消費を最低限に収めるために、呪符という道具を使っている。カードの形式の呪符は、疾風が所属する組織の特注品で、より低コストで式神を召喚できる仕掛けが施されている。
漆黒天狗のような通常の式神は、召喚しない限り、霊体の状態でも現世に現れることはない。
「おまえは、いつもその状態でオレのそばにいるのか?」
と、疾風が聞いた時。
スマートフォンが鳴った。風の音くらいしか聞こえない深夜に、その音はけたたましく響く。
液晶画面に表示された名前に、疾風はうんざりした顔をしたが、通話ボタンを押す。
「ああ、やっとつながった!無事だったかい、我が愛しの弟!!」
やたらと芝居がかった物言い。疾風は、時々(こいつはどこまで本気なんだ?)と実の兄を疑う。
疾風は、事務的に、要件だけを素っ気なく告げた。
「怪異の正体、以津真天だったぜ。祓ったから、ここを取り壊せるだろ。」
「疾風、怪我はしていないかい?瘴気にあてられて、気分が悪いなら、私がすぐに浄化してあげるからね。」
会話が全くかみ合っていない。疾風は舌打ちした。
「うるせーんだよ!てめーの助けなんかいるか!」
「そんなっ。こんなに心配しているのに!ねえ、疾風。やっぱり仕事なんて早すぎるよ。零課が人手不足なのは事実だけれど、子どものおまえが無理することなんて。」
「無理とか勝手に決めつけんな。」
周囲の温度が、さらに下がったように感じられる声だった。
電話の向こうにも伝わったのか、雪比古が諦めたようなため息をつく。
「…わかったよ。それじゃ、気を付けて帰るんだよ。私は、今夜は帰れそうにないけれど。」
疾風は、無言で通話を断ち切る。兄の声を届けたスマートフォンまで忌々しいのか、射殺しそうな目でにらんでいる。
やりとりを、面白そうに聞いていた螢惑が尋ねる。
「身内か?どんなやつだ?」
「聞いてたらわかるだろ?変人。だけど、強いぜ。本物の天才だ。」
兄を誇るわけでも憧れているわけでもない。むしろその逆の、どろどろとした暗い感情が煮えたぎっている。
(小僧が力を欲する理由は、これか。)
利用できるなと、螢惑は薄く嗤う。
五百年ぶりの自由を謳歌し、この世に惨劇をもたらすために。
螢惑は、誰にも理解されず、顧みられることもなかった異端の陰陽師が作り上げた、破壊と殺戮のための道具。
この世を、恐怖のどん底に突き落とすことが、何よりの快楽。
しかし、本能のままに暴れ回れば邪魔が入ることを、螢惑は五百年前に学んだ。
一人一人の術者の力は、螢惑の足元にも及ばなかった。しかし、一つの目的の下に団結した彼らは、最凶の式神を封印したのだ。自らの命と引き換えにして。
だから螢惑は、まずはこの陰陽師の子どもについて知ることにする。特に、兄に対して抱えている、鬱屈とした感情について。
(付け入る隙はそこだな。)
闇に堕として切り崩す。彼らのつながりを。
☆
天璃疾風にとって、兄の雪比古は、幼い頃からずっと、うっとうしいことこの上ない存在だった。
年の離れた弟である自分を、溺愛しているから…だけではない。
彼が、どうあがいても敵わない天才だからだ。
一つ術を覚えるたびに、周囲から言われる。兄はもっと早くできるようになった、と。神童は、二十歳過ぎれば…と言われるが、雪比古は例外だった。
彼は現在、日本でも五本の指に入る陰陽師として、日本の霊的守護の要を担う。
公安第零課。
表向きには存在しない部署。
明治になって廃された陰陽寮が、紆余曲折を経て、そこに落ち着いた。
鬼や妖怪、怨霊といった、人に仇為す異形を調伏する、特殊技能を有する人材は限られており、零課は常に人手不足だ。それゆえに、中学生である疾風にさえ、仕事を回さざるを得ない。しかし、疾風にとっては好都合だ。
危険だからやめろと、雪比古には再三言われているが、疾風は聞く気は毛頭ない。
強くなるために。
死と隣り合わせの実戦で、自分を追い込む。
☆
グラウンドからは、カン、という金属バットがボールを打つ音。歓声。ランニングのかけ声。
校舎からは、吹奏楽部の鳴らすトランペットやクラリネットの音色。合唱部の歌声。
斜めに差し込む夕日が、床に窓の形の朱色を描く。
真冬の凍て雲の鉛色が、束の間、桃色に塗られる。
疾風は、人気のない放課後の教室で、黙々と計算式を書き連ねて行く。シャーペンが止まることなく動いている様子から、彼にとって難しい課題ではないことがわかる。
ふ、と流れるはずもないのに、空気が動いた気がして顔を上げれば、霊体の状態の螢惑がのぞきこんでいる。
「小僧、それは何だ?」
興味津々、とまではいかないが、何をしているか多少は気になっている、という表情だ。
螢惑は、他の式神と同様、霊体だ。ただ、他の式神と違い、疾風が召喚しなくても勝手に現れる。術者の意志に縛られないのは、彼が式神として桁外れの実力を持っているからだ。そして、さらに。
疾風の思考をふっとかすめたのは、暴れ馬、という単語だ。
おまえに乗りこなせるか?と嘲るように問われた気がした。誰に?螢惑に?雪比古に?自分自身に?
(乗りこなすさ。)
疾風は頬杖をつき、にらむように螢惑に視線を合わせる。
「補習代わりの課題。ここんとこ、仕事で学校さぼってたからな。」
陰陽師として強くなることが、優先順位の一番上にくる疾風にとって、平和で退屈な学校という場所に価値がない。そこしか居場所がない大部分の中学生にとって、学校というある種の檻の中は、平和とばかり言えない場所だ。しかし、極限の命のやりとりが日常である疾風にとっては、ぬるま湯だ。
自然、ないがしろにした学業のツケが、こういう形でめぐってくる。さぼってもいいのだが、学校からの保護者呼び出しに雪比古が出張って来るとうっとうしいので、おざなりにこなしている。
「面妖な文字だな。」
と、螢惑がXやYなどの文字を、鋭く尖った爪で指す。
「まあ、戦国時代にはねーよな…。」
と、疾風が返す。
螢惑は、異界に封印されている間も、現世の様子を見たり聞いたりできていたらしく、現代社会について、全く無知というわけではなかった。しかし、ざっくり上辺を知っているに過ぎないので、細かいところはさっぱりだ。
「間もなく最終下校時刻です。校内に残っている生徒の皆さんは、速やかに下校しましょう。繰り返します。間もなく最終下校時刻です。校内に…。」
スピーカーから、ひび割れた音で校内放送が流れると、螢惑は、おもしろそうに目を輝かせた。
「小僧、これはどういう仕組みだ?」
「知らねーよ。」
疾風は、投げ出すようにシャーペンを置き、ペンケースに収める。それをさらに鞄に。取り組んでいた問題用紙をクリアファイルに入れて左手に。右手に持った鞄を肩に引っかけて立ち上がる。
「これ鳴ったら帰れるってことだけ知ってりゃいいんだよ。」
☆
職員室で、担任に課題を提出し、疾風は昇降口へ向かう。
螢惑は、隣をふわふわと浮いている。
螢惑は、霊体なので、霊力のない人間には見えない。しかし、他の式神とは異なり、螢惑自身の意志で実体化することが可能だ。
受肉とも顕現とも称されるそれは、疾風の霊力を勝手に喰らってなされることだ。
(これじゃ、どっちが使われてるかわかんねーじゃねーか。)
腹が立つが、疾風には防ぐ手段がない。
螢惑が暴れ回ることはないので、実害はないのだが。
(伝説の中じゃ、破壊の権化みたいな感じだったけどな。)
何か意図があるのだろうか、と考えながら歩いていた疾風は、
「あれー天璃じゃん。久しぶりじゃねー?」
「おまえ帰宅部だろ?こんな時間まで何やってんの?」
と、顔見知りの生徒から声をかけられた。
最終下校時刻が迫っているので、昇降口へ向かうルートは、校内で部活動を行う文化部の生徒たちで混みあっている。疾風は、ぶすっとした顔で答える。
「補習だよ。」
愛想の欠片もない返答だが、疾風の性格を知った上で声をかけてくる、気のいい少年たちは気にしない。
「ウケるー。おまえ、どんだけサボったんだよー。」
「どーりで、最近見ないと思ったぜ。」
疾風は、ケラケラ笑っている少年たちを置き去りにして、さっさと先に進む。
零課の仕事は重要機密であり、当然、疾風が休む理由は誰も知らない。疾風は、学校生活も、そこでの交友関係もとことん蔑ろにしているので、どう思われようが歯牙にもかけない。
あと一歩で靴箱、というところで。
「小僧。」
と、隣から螢惑に声をかけられた。
「なんだよ。」
と、小声で答えた時。
ガシャン、と窓ガラスが割れる音がした。
破片が降り注ぐ。
茜色の光を弾きながら。
「キャアアア!!」
と、少女たちの甲高い悲鳴。
「なんだ、今の!?」
「いきなり割れた!?」
騒ぎ出す生徒たち。
窓ガラスは、突然割れた。
不可視の石でも投げこまれたかのように。
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン…。
次々と割れる窓ガラス。
「な、なに?」
「どういうこと?」
「おい、ふせろ!」
「先生呼んでこい!!」
「やめろ、動くな、危ない!!」
生徒たちはパニックになっている。
疾風は、それをすがめた目で眺めた。周囲とは隔絶したように、疾風一人が冷静だった。
「螢惑、てめーの仕業…じゃねーよな?」
疾風が隣を見上げて訊く。
「まさか。俺に何の得が?」
螢惑は腕を組んで見下ろしてくる。
「得があったら、おまえは何でもやりそーだな…まあいいや。」
疾風は、肩に引っかけていた鞄を放り出す。
にやりと、不敵に笑った。
こんな真似ができるのは、高位の妖か、鬼か。
派手に誘ってきている。
舌先で、珊瑚色の上唇を舐めた。
「…愉しめそうだ。」
ほう、と螢惑が真紅の目を細めた。この異常な状況を恐れる気配もなく、むしろ、面白い遊びでも始まったかのように、目を輝かせる疾風に。
その瞳の漆黒に、青が混じる。夜に向かう空のような、深い藍へと。
螢惑が、疾風の耳もとでささやいた。
「お手並み拝見といこうか。」
☆
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン…。
次々と割れる窓ガラス。
夕日を弾いて、光り輝きながら。
最後に割れたのは、階段の踊り場に設置された鏡だった。
鏡の破片が、ふわり、と浮き上がったとき。
疾風は、次に何が起こるか、直感で悟った。
手品のような素早さで、その指にカードを挟んでいる。
「漆黒天狗召喚、急急如律令!」
飛ばしたカードから、漆黒の翼を広げた美貌の青年が出現する。
風をまとう漆黒天狗の長い髪が、さあっと広がる。錫杖をシャランと鳴らす。
ゴウッ!!
突風が巻き起こったのと、鏡の破片が一斉に疾風に向かって降り注いだのが、全くの同時。
鏡の破片は、一つたりとも疾風に傷をつけることなく、四方八方に飛び散った。
さらに細かい破片となって床に落ちた破片は、もう、ピクリとも動かない。
しかし、疾風は漆黒天狗を消さない。油断なく周囲を見回す瞳は鋭い。
ガシャン。ガシャン。ガシャン。
再び、ガラスが割れる音がした。
一階ではない。
(上か!)
疾風が、階段を駆け上がる。
一階から三階まで、ほんの数秒。
(誘われている、とわかっていてか。)
螢惑も続く。
三階に辿り着いた疾風は、とっさに身をかわす。考えるより早く体が反応した。
それでも、完全にはよけきれなかった。
疾風の頬をヒュンッとかすめ、刃物が壁に突き刺さる。
浅く切り裂かれた頬から、鮮血が伝う。
「漆黒天狗!」
主の声に応え、漆黒天狗が旋風を起こす。
疾風に向かう無数の刃物が弾き飛ばされ、次々と壁に突き刺さる。
彫刻刀、のこぎり、そして包丁。
特別教室に保管されている刃物だ。
疾風が叫んだ。
「いい加減姿現しやがれ!物飛ばすしかできねえのかよ!」
「威勢のいいことだ。元気な童よな。」
くすくすと、無邪気な笑い声が響いた。
いつの間に現れたのか、枠だけになった窓に、童狩衣をまとった美少年が腰かけていた。
夕風に遊ばせている長い髪は、まばゆく輝く純金。
童狩衣の色も目の覚めるような鬱金色で、金糸で虎が織りだされている派手なものだが、華やかな美貌にはよく似合っている。
瞳も混じり気のない黄金。
両のこめかみからは、瞳と同じ色の角が伸びている。
疾風は知っている。
鬼は、ほとんどの妖怪よりも強い。そして、鬼は高位のものほど美しい。
何より、この鬼が発する威圧感。
それでも、疾風は怯んだ様子はない。
「てめーだってガキじゃねーか。」
「は?」
金の鬼は、ぱちぱちと瞬きをし、それからぷっと噴き出した。
「あははははっ!」
十二、三という見た目よりも、さらに幼い笑い声だった。肩が揺れ、その動きに合わせて金髪が夕日を反射する。
「おもしろい童だ。さすが、最凶の式神の封印を解くだけのことはある!」
疾風は、ちらりと螢惑に視線を流した。
「やっぱり、おまえ、有名だな。悪名だろーけど。」
螢惑はさらりと皮肉を受け流す。
「あいつも有名だぞ。あのような見た目だが、白の王祖だ。」
疾風が、かすかに息を呑んだ。
陰陽道の根幹をなす、五行の力。木、火、土、金、水。それは自然の理。
自然から生まれた鬼や妖怪もまた、その五要素のいずれかに属する。
そして、五行の頂点に立つ鬼が存在するのだ。全ての鬼は、その五鬼から始まったとされ、それゆえに王祖と呼ばれる。
「それで刃物飛んできたのかよ。」
と、疾風が納得した。
金は、方角なら西、色なら白。白の王祖なら、金属を自在に操れる。
窓ガラスが割れたのは、それを囲む窓枠を歪ませたからだ。鏡の破片が疾風に向かったのは、鏡の成分には銀が含まれるため。
白の王祖は、パチパチと手を叩いた。
「頭の回転はそれなりのようだ。さて、力の方は、どうかな?」
黄金の目が、期待に輝く。それは危険な色だ。
「我は、退屈なのだ。陰陽師どもは、時代が下るにつれて、どんどん力を失ってしまったからの。」
ふう、とため息。
「それゆえ、しばらく眠っていたのだが、妙な波動を感じて数百年ぶりに起きてみれば、なんと、禍の紅き星が復活しているではないか!」
玩具を目にした子どものように。
獲物を前にした獣のように。
「これを見逃す手はない。さあ、煉獄の化身を甦らせし、幼き陰陽師よ、我と勝負を!」
「はっ!望むところだぜ!!」
疾風が嬉々として叫ぶ。
相手の実力はわかっている。それなのに、心が躍る。
強敵を前にして、命の危機を感じて、魂が昂ぶる。
新しいカードを飛ばす。
「有翼獅子召喚、急急慮律令!!」
耳をつんざく咆哮とともに出現したのは、鷲の翼を広げた唐獅子。白の王祖など、一呑みにできそうな巨躯だ。
烈風をまとって、白の王祖に正面から飛びかかかる。鋭利な牙を光らせて。
背後からは、漆黒天狗が錫杖を手にして、突っ込んでいく。
白の王祖の金眼が、冷たく光った。
その手の中に、黄金の閃光が生まれる。
ざんっ。
獅子の背を突き破って、刀が生えていた。
飛び散る血飛沫。
白の王祖が、刀を引き抜く。
有翼獅子は、どう、と倒れ、ぴくぴくと痙攣している。
白の王祖の背後では、漆黒の羽根が舞い散る。
刀に切り刻まれ、漆黒天狗が落ちる。
有翼獅子と漆黒天狗は、同時に消滅した。
現世に、肉体を留めていられなくなっただけで、死んだわけではない。
しかし、即座に再度召喚はできない。
白の王祖が、自身の力の象徴とも言える刀を、疾風に向ける。
「オン・イシャナエイ・ソワカ!!」
疾風が叫んだのは、暴風を司る伊舎那天の真言。
その武器である三叉激が、疾風の手の中に生まれたのと、白の王祖の刀が振り下ろされたのはほぼ同時。
疾風は、三叉激で刀を受け止めた。
両手がびりびりとしびれる。
ずる、ずるっと、踏みしめている両足が後退する。
ぎりっと奥歯をかみしめる。
(なんつう力だよ…!!)
白の王祖は片手。体格に差はない。
だが、見た目が繊細な美少年でも、相手は鬼だ。けして、見た目通りの力ではない。
白の王祖は、くすくす笑う。
「ふむ。少しは骨がある。だが、我の敵ではないな。」
蹴りが入った。
疾風の華奢な体が、ボールのように吹っ飛び、扉に叩き付けられる。
扉ごと、技術室の中に転がる。
ぶつけた後頭部から、だらだらと血が流れる。
カラカラ…と三叉激が転がっていく。作業机の足にぶつかって止まった。
白の王祖が、螢惑を指さす。
「早く呼ぶことだ。あれを。」
疾風は、体を起こしながら、螢惑を見上げた。
赤い双眸が見返してくる。
笑っている。
血に濡れた疾風を、ただ楽しそうに見物している。
素直に力を貸すとも思えない。しかし、疾風がこのまま死ねば、螢惑は現世に留まれない。桁外れの力を持っていようと、螢惑も式神なのだから。式神の理に縛られる。
疾風は、すうっと息を吸いこむ。
螢惑がその気になれば、疾風の霊力を勝手に喰って受肉する。しかし、本来は、召喚の形で現世に呼び出すものなのだ。
「螢惑召喚、急急如律令!!」
赤い閃光が弾けた。
顕現する。
一夜にして一国を滅ぼし、数百人の陰陽師がその命と引き換えに封印した、最凶の式神が。
煌めき輝く白銀の髪。
純白の雪が、光を反射するような、目を射るまばゆさ。
刃よりも鋭利な双眸は、視線だけで人の息の根を止められそうな峻烈さ。
鮮烈な真紅。
滴り落ちる鮮血の色。
疾風が、ぜいぜいと肩で大きく息をする。
正式な召喚は初めてだった。
霊力が根こそぎ吸い尽くされた。
疲労のあまり、睡魔が襲ってくる。疾風はそれでも歯を喰いしばって、螢惑を視線で追う。食い入るように。
「おお。」
と、白の王祖が歓喜の声を上げた。
螢惑が、にい、と唇の両端をつり上げる。血をすすったように赤い唇で笑むさまは、背筋が寒くなるほど冷酷で、同時に艶美だった。
ボッと、その掌に火の玉が生まれる。
目が吸い寄せられる、透き通った美しい紅だった。
螢惑が、その炎を無造作に投げつける。
白の王祖の反応は、けして遅くはなかった。
即座に、刀で火の玉を切り捨てる。
疾風が瞠目する、その視線の先で。
二つに分かれた火の玉は、そのまま二方向から白の王祖に襲い掛かる。
白の王祖に触れたとたん、炎は大きく膨張し、彼を呑みこんだ。
全ては一瞬。
断末魔の絶叫すらなく。
炎は、白の王祖の髪一筋、骨の一片すら残さずに燃やし尽くした。
最高位の鬼を、いともあっさりと。
「ふむ。小僧の霊力では、こんなものか。」
螢惑は、つまらなそうに肩をすくめた。
「どういう意味だよ。」
疾風が、螢惑の横顔を視線で追いながら尋ねる。
「俺の本来の力を発揮できんということだ。」
疾風の脳裏によぎったのは、かつて兄の雪比古に教えられた言葉だった。
『式神は、武器だよ、疾風。』
『どれほどよく切れる刀でも、その威力は使い手次第。つまり、式神の力を生かすも殺すも、陰陽師次第ということだよ。式神の存在を支えるのは、陰陽師の霊力だからね。』
「そうか。」
挑発したつもりなのだが、疾風が素直に頷いたので、螢惑は意外そうな顔で振り返った。
「本来の力じゃなくても、この威力かよ。おまえって、本当にすげえんだな。」
「!」
螢惑が真紅の目を見開いた。
疾風の目が、青く煌めいている。
その目に、無邪気な賞賛があふれている。
目指す場所を見つけたような、遠く輝く星を見上げるような。
それは憧れだ。
(なぜ。)
螢惑が呆然と、疾風を見る。
こんな感情は知らない。こんな感情を、向けられる理由などない。
疾風が、ゆっくりと立ち上がった。
ぽたっと、血の雫が床に落ちる。
螢惑の正面に立って、その赤い瞳をまっすぐに見上げた。
「オレの霊力が上がれば、おまえは本当の力が出せるってことなんだろ?待ってろよ。すぐに強くなって。」
視界が反転した。
ダンッと、背中が打ちつけられる。
呼吸もできなかった。
背中が軋む。
作業机の上に押し倒されたのだと気づいた時には、螢惑の紅い瞳が、疾風の視界を覆う。
螢惑の片手が、疾風の両手をまとめて縫い付ける。
もう片方の手が、首筋に食い込む。獣のように鋭い爪が、肌を浅く裂いた。
「図に乗るな、小僧。」
身動き一つできなかった。
その、圧倒的な力。
「貴様の命など、俺の機嫌一つだ。」
首筋に、刃を突きつけられたような、容赦のない一言。
螢惑が、冷酷な瞳で疾風を見下ろしている。
疾風は目を反らさなかった。
螢惑の言葉は、脅しではない。
疾風が死ねば、螢惑は現世では存在できない。しかし、単に異界にもどるだけだ。
何もかも敵わない。
なら、気持ちだけでも屈するわけにはいかなかった。
視線が絡んだのは、どれくらいの時間だったのか。
本当は、ほんのわずかな時間だったのかもしれない。けれど、時が止まったような刹那だった。
螢惑は、飽きたように、疾風を解放した。
机のすぐ横に立ち、無表情に疾風を見下ろす。
疾風は咳き込みながら、机の上で身を起こす。
息ができないほどの力で首を絞められていたわけではないが、苦しいことにかわりはない。
螢惑に向かって手を伸ばす。
白い着流しの襟を両手でつかんで、声をたたきつける。言えずに途切れさせられた台詞を。
「待ってろよ。すぐに強くなってやる!」
「…。」
まばたき一回ほどの、沈黙があった。
螢惑の紅い瞳に広がったのは、かすかな驚嘆。
(ここで、吠えるか。)
たった今、おまえなど今すぐにでも殺せるのだと示した相手に向かって。
(…おもしろい。)
浮かべた笑みから、嘲る色が消えていく。心が騒ぐような、浮き立つような。その感情の名前を、螢惑はまだ知らない。
ビュウッと吹きつける風の冷たさに、疾風は夢から覚めるように我に返った。
凍てつく真冬の夜の中に、疾風は立っていた。
リノリウムの床に落ちている、漆黒天狗の描かれたカードを拾い上げ、制服のポケットにしまう。
以津真天の姿はなかった。暴走した霊力によって消し飛んだのだろう。
一面に咲く血色の華も、世界を朱に染め上げる夕日もない。
だが、夢を見ていたわけではないことは、疾風の正面に立つ螢惑が証明している。
割れた窓から吹きこむ風が、疾風の髪を揺らす。
しかし、螢惑の銀髪は、一筋すらもなびかない。
それを見て、疾風が納得したように頷いた。
「霊体、か。そこは他の式神と同じか。」
「左様。」
と返す螢惑の口元からは、白く染まった息が吐き出されることはない。疾風と違って。
式神のほとんどは、現世に肉の身をもたない。彼らは、幽世の存在であり、そこでは霊体である。陰陽師が、使役する際に自分の霊力を与えて、式神に仮の肉体を与える。
疾風が召喚した漆黒天狗も同様で、霊力の消費を最低限に収めるために、呪符という道具を使っている。カードの形式の呪符は、疾風が所属する組織の特注品で、より低コストで式神を召喚できる仕掛けが施されている。
漆黒天狗のような通常の式神は、召喚しない限り、霊体の状態でも現世に現れることはない。
「おまえは、いつもその状態でオレのそばにいるのか?」
と、疾風が聞いた時。
スマートフォンが鳴った。風の音くらいしか聞こえない深夜に、その音はけたたましく響く。
液晶画面に表示された名前に、疾風はうんざりした顔をしたが、通話ボタンを押す。
「ああ、やっとつながった!無事だったかい、我が愛しの弟!!」
やたらと芝居がかった物言い。疾風は、時々(こいつはどこまで本気なんだ?)と実の兄を疑う。
疾風は、事務的に、要件だけを素っ気なく告げた。
「怪異の正体、以津真天だったぜ。祓ったから、ここを取り壊せるだろ。」
「疾風、怪我はしていないかい?瘴気にあてられて、気分が悪いなら、私がすぐに浄化してあげるからね。」
会話が全くかみ合っていない。疾風は舌打ちした。
「うるせーんだよ!てめーの助けなんかいるか!」
「そんなっ。こんなに心配しているのに!ねえ、疾風。やっぱり仕事なんて早すぎるよ。零課が人手不足なのは事実だけれど、子どものおまえが無理することなんて。」
「無理とか勝手に決めつけんな。」
周囲の温度が、さらに下がったように感じられる声だった。
電話の向こうにも伝わったのか、雪比古が諦めたようなため息をつく。
「…わかったよ。それじゃ、気を付けて帰るんだよ。私は、今夜は帰れそうにないけれど。」
疾風は、無言で通話を断ち切る。兄の声を届けたスマートフォンまで忌々しいのか、射殺しそうな目でにらんでいる。
やりとりを、面白そうに聞いていた螢惑が尋ねる。
「身内か?どんなやつだ?」
「聞いてたらわかるだろ?変人。だけど、強いぜ。本物の天才だ。」
兄を誇るわけでも憧れているわけでもない。むしろその逆の、どろどろとした暗い感情が煮えたぎっている。
(小僧が力を欲する理由は、これか。)
利用できるなと、螢惑は薄く嗤う。
五百年ぶりの自由を謳歌し、この世に惨劇をもたらすために。
螢惑は、誰にも理解されず、顧みられることもなかった異端の陰陽師が作り上げた、破壊と殺戮のための道具。
この世を、恐怖のどん底に突き落とすことが、何よりの快楽。
しかし、本能のままに暴れ回れば邪魔が入ることを、螢惑は五百年前に学んだ。
一人一人の術者の力は、螢惑の足元にも及ばなかった。しかし、一つの目的の下に団結した彼らは、最凶の式神を封印したのだ。自らの命と引き換えにして。
だから螢惑は、まずはこの陰陽師の子どもについて知ることにする。特に、兄に対して抱えている、鬱屈とした感情について。
(付け入る隙はそこだな。)
闇に堕として切り崩す。彼らのつながりを。
☆
天璃疾風にとって、兄の雪比古は、幼い頃からずっと、うっとうしいことこの上ない存在だった。
年の離れた弟である自分を、溺愛しているから…だけではない。
彼が、どうあがいても敵わない天才だからだ。
一つ術を覚えるたびに、周囲から言われる。兄はもっと早くできるようになった、と。神童は、二十歳過ぎれば…と言われるが、雪比古は例外だった。
彼は現在、日本でも五本の指に入る陰陽師として、日本の霊的守護の要を担う。
公安第零課。
表向きには存在しない部署。
明治になって廃された陰陽寮が、紆余曲折を経て、そこに落ち着いた。
鬼や妖怪、怨霊といった、人に仇為す異形を調伏する、特殊技能を有する人材は限られており、零課は常に人手不足だ。それゆえに、中学生である疾風にさえ、仕事を回さざるを得ない。しかし、疾風にとっては好都合だ。
危険だからやめろと、雪比古には再三言われているが、疾風は聞く気は毛頭ない。
強くなるために。
死と隣り合わせの実戦で、自分を追い込む。
☆
グラウンドからは、カン、という金属バットがボールを打つ音。歓声。ランニングのかけ声。
校舎からは、吹奏楽部の鳴らすトランペットやクラリネットの音色。合唱部の歌声。
斜めに差し込む夕日が、床に窓の形の朱色を描く。
真冬の凍て雲の鉛色が、束の間、桃色に塗られる。
疾風は、人気のない放課後の教室で、黙々と計算式を書き連ねて行く。シャーペンが止まることなく動いている様子から、彼にとって難しい課題ではないことがわかる。
ふ、と流れるはずもないのに、空気が動いた気がして顔を上げれば、霊体の状態の螢惑がのぞきこんでいる。
「小僧、それは何だ?」
興味津々、とまではいかないが、何をしているか多少は気になっている、という表情だ。
螢惑は、他の式神と同様、霊体だ。ただ、他の式神と違い、疾風が召喚しなくても勝手に現れる。術者の意志に縛られないのは、彼が式神として桁外れの実力を持っているからだ。そして、さらに。
疾風の思考をふっとかすめたのは、暴れ馬、という単語だ。
おまえに乗りこなせるか?と嘲るように問われた気がした。誰に?螢惑に?雪比古に?自分自身に?
(乗りこなすさ。)
疾風は頬杖をつき、にらむように螢惑に視線を合わせる。
「補習代わりの課題。ここんとこ、仕事で学校さぼってたからな。」
陰陽師として強くなることが、優先順位の一番上にくる疾風にとって、平和で退屈な学校という場所に価値がない。そこしか居場所がない大部分の中学生にとって、学校というある種の檻の中は、平和とばかり言えない場所だ。しかし、極限の命のやりとりが日常である疾風にとっては、ぬるま湯だ。
自然、ないがしろにした学業のツケが、こういう形でめぐってくる。さぼってもいいのだが、学校からの保護者呼び出しに雪比古が出張って来るとうっとうしいので、おざなりにこなしている。
「面妖な文字だな。」
と、螢惑がXやYなどの文字を、鋭く尖った爪で指す。
「まあ、戦国時代にはねーよな…。」
と、疾風が返す。
螢惑は、異界に封印されている間も、現世の様子を見たり聞いたりできていたらしく、現代社会について、全く無知というわけではなかった。しかし、ざっくり上辺を知っているに過ぎないので、細かいところはさっぱりだ。
「間もなく最終下校時刻です。校内に残っている生徒の皆さんは、速やかに下校しましょう。繰り返します。間もなく最終下校時刻です。校内に…。」
スピーカーから、ひび割れた音で校内放送が流れると、螢惑は、おもしろそうに目を輝かせた。
「小僧、これはどういう仕組みだ?」
「知らねーよ。」
疾風は、投げ出すようにシャーペンを置き、ペンケースに収める。それをさらに鞄に。取り組んでいた問題用紙をクリアファイルに入れて左手に。右手に持った鞄を肩に引っかけて立ち上がる。
「これ鳴ったら帰れるってことだけ知ってりゃいいんだよ。」
☆
職員室で、担任に課題を提出し、疾風は昇降口へ向かう。
螢惑は、隣をふわふわと浮いている。
螢惑は、霊体なので、霊力のない人間には見えない。しかし、他の式神とは異なり、螢惑自身の意志で実体化することが可能だ。
受肉とも顕現とも称されるそれは、疾風の霊力を勝手に喰らってなされることだ。
(これじゃ、どっちが使われてるかわかんねーじゃねーか。)
腹が立つが、疾風には防ぐ手段がない。
螢惑が暴れ回ることはないので、実害はないのだが。
(伝説の中じゃ、破壊の権化みたいな感じだったけどな。)
何か意図があるのだろうか、と考えながら歩いていた疾風は、
「あれー天璃じゃん。久しぶりじゃねー?」
「おまえ帰宅部だろ?こんな時間まで何やってんの?」
と、顔見知りの生徒から声をかけられた。
最終下校時刻が迫っているので、昇降口へ向かうルートは、校内で部活動を行う文化部の生徒たちで混みあっている。疾風は、ぶすっとした顔で答える。
「補習だよ。」
愛想の欠片もない返答だが、疾風の性格を知った上で声をかけてくる、気のいい少年たちは気にしない。
「ウケるー。おまえ、どんだけサボったんだよー。」
「どーりで、最近見ないと思ったぜ。」
疾風は、ケラケラ笑っている少年たちを置き去りにして、さっさと先に進む。
零課の仕事は重要機密であり、当然、疾風が休む理由は誰も知らない。疾風は、学校生活も、そこでの交友関係もとことん蔑ろにしているので、どう思われようが歯牙にもかけない。
あと一歩で靴箱、というところで。
「小僧。」
と、隣から螢惑に声をかけられた。
「なんだよ。」
と、小声で答えた時。
ガシャン、と窓ガラスが割れる音がした。
破片が降り注ぐ。
茜色の光を弾きながら。
「キャアアア!!」
と、少女たちの甲高い悲鳴。
「なんだ、今の!?」
「いきなり割れた!?」
騒ぎ出す生徒たち。
窓ガラスは、突然割れた。
不可視の石でも投げこまれたかのように。
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン…。
次々と割れる窓ガラス。
「な、なに?」
「どういうこと?」
「おい、ふせろ!」
「先生呼んでこい!!」
「やめろ、動くな、危ない!!」
生徒たちはパニックになっている。
疾風は、それをすがめた目で眺めた。周囲とは隔絶したように、疾風一人が冷静だった。
「螢惑、てめーの仕業…じゃねーよな?」
疾風が隣を見上げて訊く。
「まさか。俺に何の得が?」
螢惑は腕を組んで見下ろしてくる。
「得があったら、おまえは何でもやりそーだな…まあいいや。」
疾風は、肩に引っかけていた鞄を放り出す。
にやりと、不敵に笑った。
こんな真似ができるのは、高位の妖か、鬼か。
派手に誘ってきている。
舌先で、珊瑚色の上唇を舐めた。
「…愉しめそうだ。」
ほう、と螢惑が真紅の目を細めた。この異常な状況を恐れる気配もなく、むしろ、面白い遊びでも始まったかのように、目を輝かせる疾風に。
その瞳の漆黒に、青が混じる。夜に向かう空のような、深い藍へと。
螢惑が、疾風の耳もとでささやいた。
「お手並み拝見といこうか。」
☆
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン…。
次々と割れる窓ガラス。
夕日を弾いて、光り輝きながら。
最後に割れたのは、階段の踊り場に設置された鏡だった。
鏡の破片が、ふわり、と浮き上がったとき。
疾風は、次に何が起こるか、直感で悟った。
手品のような素早さで、その指にカードを挟んでいる。
「漆黒天狗召喚、急急如律令!」
飛ばしたカードから、漆黒の翼を広げた美貌の青年が出現する。
風をまとう漆黒天狗の長い髪が、さあっと広がる。錫杖をシャランと鳴らす。
ゴウッ!!
突風が巻き起こったのと、鏡の破片が一斉に疾風に向かって降り注いだのが、全くの同時。
鏡の破片は、一つたりとも疾風に傷をつけることなく、四方八方に飛び散った。
さらに細かい破片となって床に落ちた破片は、もう、ピクリとも動かない。
しかし、疾風は漆黒天狗を消さない。油断なく周囲を見回す瞳は鋭い。
ガシャン。ガシャン。ガシャン。
再び、ガラスが割れる音がした。
一階ではない。
(上か!)
疾風が、階段を駆け上がる。
一階から三階まで、ほんの数秒。
(誘われている、とわかっていてか。)
螢惑も続く。
三階に辿り着いた疾風は、とっさに身をかわす。考えるより早く体が反応した。
それでも、完全にはよけきれなかった。
疾風の頬をヒュンッとかすめ、刃物が壁に突き刺さる。
浅く切り裂かれた頬から、鮮血が伝う。
「漆黒天狗!」
主の声に応え、漆黒天狗が旋風を起こす。
疾風に向かう無数の刃物が弾き飛ばされ、次々と壁に突き刺さる。
彫刻刀、のこぎり、そして包丁。
特別教室に保管されている刃物だ。
疾風が叫んだ。
「いい加減姿現しやがれ!物飛ばすしかできねえのかよ!」
「威勢のいいことだ。元気な童よな。」
くすくすと、無邪気な笑い声が響いた。
いつの間に現れたのか、枠だけになった窓に、童狩衣をまとった美少年が腰かけていた。
夕風に遊ばせている長い髪は、まばゆく輝く純金。
童狩衣の色も目の覚めるような鬱金色で、金糸で虎が織りだされている派手なものだが、華やかな美貌にはよく似合っている。
瞳も混じり気のない黄金。
両のこめかみからは、瞳と同じ色の角が伸びている。
疾風は知っている。
鬼は、ほとんどの妖怪よりも強い。そして、鬼は高位のものほど美しい。
何より、この鬼が発する威圧感。
それでも、疾風は怯んだ様子はない。
「てめーだってガキじゃねーか。」
「は?」
金の鬼は、ぱちぱちと瞬きをし、それからぷっと噴き出した。
「あははははっ!」
十二、三という見た目よりも、さらに幼い笑い声だった。肩が揺れ、その動きに合わせて金髪が夕日を反射する。
「おもしろい童だ。さすが、最凶の式神の封印を解くだけのことはある!」
疾風は、ちらりと螢惑に視線を流した。
「やっぱり、おまえ、有名だな。悪名だろーけど。」
螢惑はさらりと皮肉を受け流す。
「あいつも有名だぞ。あのような見た目だが、白の王祖だ。」
疾風が、かすかに息を呑んだ。
陰陽道の根幹をなす、五行の力。木、火、土、金、水。それは自然の理。
自然から生まれた鬼や妖怪もまた、その五要素のいずれかに属する。
そして、五行の頂点に立つ鬼が存在するのだ。全ての鬼は、その五鬼から始まったとされ、それゆえに王祖と呼ばれる。
「それで刃物飛んできたのかよ。」
と、疾風が納得した。
金は、方角なら西、色なら白。白の王祖なら、金属を自在に操れる。
窓ガラスが割れたのは、それを囲む窓枠を歪ませたからだ。鏡の破片が疾風に向かったのは、鏡の成分には銀が含まれるため。
白の王祖は、パチパチと手を叩いた。
「頭の回転はそれなりのようだ。さて、力の方は、どうかな?」
黄金の目が、期待に輝く。それは危険な色だ。
「我は、退屈なのだ。陰陽師どもは、時代が下るにつれて、どんどん力を失ってしまったからの。」
ふう、とため息。
「それゆえ、しばらく眠っていたのだが、妙な波動を感じて数百年ぶりに起きてみれば、なんと、禍の紅き星が復活しているではないか!」
玩具を目にした子どものように。
獲物を前にした獣のように。
「これを見逃す手はない。さあ、煉獄の化身を甦らせし、幼き陰陽師よ、我と勝負を!」
「はっ!望むところだぜ!!」
疾風が嬉々として叫ぶ。
相手の実力はわかっている。それなのに、心が躍る。
強敵を前にして、命の危機を感じて、魂が昂ぶる。
新しいカードを飛ばす。
「有翼獅子召喚、急急慮律令!!」
耳をつんざく咆哮とともに出現したのは、鷲の翼を広げた唐獅子。白の王祖など、一呑みにできそうな巨躯だ。
烈風をまとって、白の王祖に正面から飛びかかかる。鋭利な牙を光らせて。
背後からは、漆黒天狗が錫杖を手にして、突っ込んでいく。
白の王祖の金眼が、冷たく光った。
その手の中に、黄金の閃光が生まれる。
ざんっ。
獅子の背を突き破って、刀が生えていた。
飛び散る血飛沫。
白の王祖が、刀を引き抜く。
有翼獅子は、どう、と倒れ、ぴくぴくと痙攣している。
白の王祖の背後では、漆黒の羽根が舞い散る。
刀に切り刻まれ、漆黒天狗が落ちる。
有翼獅子と漆黒天狗は、同時に消滅した。
現世に、肉体を留めていられなくなっただけで、死んだわけではない。
しかし、即座に再度召喚はできない。
白の王祖が、自身の力の象徴とも言える刀を、疾風に向ける。
「オン・イシャナエイ・ソワカ!!」
疾風が叫んだのは、暴風を司る伊舎那天の真言。
その武器である三叉激が、疾風の手の中に生まれたのと、白の王祖の刀が振り下ろされたのはほぼ同時。
疾風は、三叉激で刀を受け止めた。
両手がびりびりとしびれる。
ずる、ずるっと、踏みしめている両足が後退する。
ぎりっと奥歯をかみしめる。
(なんつう力だよ…!!)
白の王祖は片手。体格に差はない。
だが、見た目が繊細な美少年でも、相手は鬼だ。けして、見た目通りの力ではない。
白の王祖は、くすくす笑う。
「ふむ。少しは骨がある。だが、我の敵ではないな。」
蹴りが入った。
疾風の華奢な体が、ボールのように吹っ飛び、扉に叩き付けられる。
扉ごと、技術室の中に転がる。
ぶつけた後頭部から、だらだらと血が流れる。
カラカラ…と三叉激が転がっていく。作業机の足にぶつかって止まった。
白の王祖が、螢惑を指さす。
「早く呼ぶことだ。あれを。」
疾風は、体を起こしながら、螢惑を見上げた。
赤い双眸が見返してくる。
笑っている。
血に濡れた疾風を、ただ楽しそうに見物している。
素直に力を貸すとも思えない。しかし、疾風がこのまま死ねば、螢惑は現世に留まれない。桁外れの力を持っていようと、螢惑も式神なのだから。式神の理に縛られる。
疾風は、すうっと息を吸いこむ。
螢惑がその気になれば、疾風の霊力を勝手に喰って受肉する。しかし、本来は、召喚の形で現世に呼び出すものなのだ。
「螢惑召喚、急急如律令!!」
赤い閃光が弾けた。
顕現する。
一夜にして一国を滅ぼし、数百人の陰陽師がその命と引き換えに封印した、最凶の式神が。
煌めき輝く白銀の髪。
純白の雪が、光を反射するような、目を射るまばゆさ。
刃よりも鋭利な双眸は、視線だけで人の息の根を止められそうな峻烈さ。
鮮烈な真紅。
滴り落ちる鮮血の色。
疾風が、ぜいぜいと肩で大きく息をする。
正式な召喚は初めてだった。
霊力が根こそぎ吸い尽くされた。
疲労のあまり、睡魔が襲ってくる。疾風はそれでも歯を喰いしばって、螢惑を視線で追う。食い入るように。
「おお。」
と、白の王祖が歓喜の声を上げた。
螢惑が、にい、と唇の両端をつり上げる。血をすすったように赤い唇で笑むさまは、背筋が寒くなるほど冷酷で、同時に艶美だった。
ボッと、その掌に火の玉が生まれる。
目が吸い寄せられる、透き通った美しい紅だった。
螢惑が、その炎を無造作に投げつける。
白の王祖の反応は、けして遅くはなかった。
即座に、刀で火の玉を切り捨てる。
疾風が瞠目する、その視線の先で。
二つに分かれた火の玉は、そのまま二方向から白の王祖に襲い掛かる。
白の王祖に触れたとたん、炎は大きく膨張し、彼を呑みこんだ。
全ては一瞬。
断末魔の絶叫すらなく。
炎は、白の王祖の髪一筋、骨の一片すら残さずに燃やし尽くした。
最高位の鬼を、いともあっさりと。
「ふむ。小僧の霊力では、こんなものか。」
螢惑は、つまらなそうに肩をすくめた。
「どういう意味だよ。」
疾風が、螢惑の横顔を視線で追いながら尋ねる。
「俺の本来の力を発揮できんということだ。」
疾風の脳裏によぎったのは、かつて兄の雪比古に教えられた言葉だった。
『式神は、武器だよ、疾風。』
『どれほどよく切れる刀でも、その威力は使い手次第。つまり、式神の力を生かすも殺すも、陰陽師次第ということだよ。式神の存在を支えるのは、陰陽師の霊力だからね。』
「そうか。」
挑発したつもりなのだが、疾風が素直に頷いたので、螢惑は意外そうな顔で振り返った。
「本来の力じゃなくても、この威力かよ。おまえって、本当にすげえんだな。」
「!」
螢惑が真紅の目を見開いた。
疾風の目が、青く煌めいている。
その目に、無邪気な賞賛があふれている。
目指す場所を見つけたような、遠く輝く星を見上げるような。
それは憧れだ。
(なぜ。)
螢惑が呆然と、疾風を見る。
こんな感情は知らない。こんな感情を、向けられる理由などない。
疾風が、ゆっくりと立ち上がった。
ぽたっと、血の雫が床に落ちる。
螢惑の正面に立って、その赤い瞳をまっすぐに見上げた。
「オレの霊力が上がれば、おまえは本当の力が出せるってことなんだろ?待ってろよ。すぐに強くなって。」
視界が反転した。
ダンッと、背中が打ちつけられる。
呼吸もできなかった。
背中が軋む。
作業机の上に押し倒されたのだと気づいた時には、螢惑の紅い瞳が、疾風の視界を覆う。
螢惑の片手が、疾風の両手をまとめて縫い付ける。
もう片方の手が、首筋に食い込む。獣のように鋭い爪が、肌を浅く裂いた。
「図に乗るな、小僧。」
身動き一つできなかった。
その、圧倒的な力。
「貴様の命など、俺の機嫌一つだ。」
首筋に、刃を突きつけられたような、容赦のない一言。
螢惑が、冷酷な瞳で疾風を見下ろしている。
疾風は目を反らさなかった。
螢惑の言葉は、脅しではない。
疾風が死ねば、螢惑は現世では存在できない。しかし、単に異界にもどるだけだ。
何もかも敵わない。
なら、気持ちだけでも屈するわけにはいかなかった。
視線が絡んだのは、どれくらいの時間だったのか。
本当は、ほんのわずかな時間だったのかもしれない。けれど、時が止まったような刹那だった。
螢惑は、飽きたように、疾風を解放した。
机のすぐ横に立ち、無表情に疾風を見下ろす。
疾風は咳き込みながら、机の上で身を起こす。
息ができないほどの力で首を絞められていたわけではないが、苦しいことにかわりはない。
螢惑に向かって手を伸ばす。
白い着流しの襟を両手でつかんで、声をたたきつける。言えずに途切れさせられた台詞を。
「待ってろよ。すぐに強くなってやる!」
「…。」
まばたき一回ほどの、沈黙があった。
螢惑の紅い瞳に広がったのは、かすかな驚嘆。
(ここで、吠えるか。)
たった今、おまえなど今すぐにでも殺せるのだと示した相手に向かって。
(…おもしろい。)
浮かべた笑みから、嘲る色が消えていく。心が騒ぐような、浮き立つような。その感情の名前を、螢惑はまだ知らない。
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