「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~

火威

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第四幕&終幕

「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~

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第四幕

 レンが龍神の御子になったのは、コウに出会った数日後のことだった。七つの誕生日を迎えた翌日。
 龍神の御子は、そのほとんどが、七歳前後で瞳の色が変わり、龍神の御子であることが判明する。レンの場合は、髪の色まで変わる、稀有な例だったが。
 けれど、その時点では、生活の何が変わるわけでもなかった。
 レンの生家は、中流どころとはいえ、れっきとした武家で、彼は嫡子。しかも、幼いながらに文武に優れ、将来有望とされていた。神殿に入って俗世を捨てるのもったいないと、両親は言った。かわいい息子を、手放す気はなかったのだ。
 レン自身も、鏡を見ながら
(コウが遊びに来てくれたときに、ヘンって言われたらどうしよう。)
と、そんなことを気にしていたくらいで、神官を目指すという選択肢はなかった。
 しかし、その数日後。
 鳳凰城に激震が走る。
 御台所、側室を殺害。
 それは、鳳凰城のみならず、西の王城、麒麟城さえも揺るがす醜聞だった。
 なぜなら、将軍の正妃である御台所は、先帝の第一皇女であり、当代の帝の同腹の妹。
 東の将軍家と西の皇家、二つの王家の結びつきを深めるための政略結婚で降嫁した皇女だった。
 西で最も高貴な姫君として、蝶よ花よと育てられた彼女は、夫が自分を蔑ろにすることが許せなかった。長年耐え忍んできた彼女の精神は、限界まできて崩壊し、将軍の寵愛を受ける側室を殺害、自害する。
 あと数日で七つになる息子を残して。
 残された日嗣の君は、一夜にして、髪の色が銀へと変わる。当初、それは実母の錯乱と凶行と自害を目の当たりにした、衝撃のためと思われていたが、それは間違いだった。
 日嗣の君は、瞳も鮮やかな真紅へと変化していた。
 彼は、龍神の御子だった。
 そのことが、日嗣の君の処遇をめぐる談義を、より複雑なものとした。

「将軍の寵姫を殺めた、大罪人の子、即刻、廃嫡にして幽閉せよ。」
「否、日嗣の君に罪はない。西の帝の怒りを買うことになろう。」
「西に怯えては、将軍家の顔が立たぬ。そもそも、罪を犯したは、帝の姫ぞ。」
「なれど、帝の姫を蔑ろにしたのは上様じゃ。」
「貴様、上様を愚弄するか。」
「静まれ、今問題なのは、それだけではない。日嗣の君は、龍神の御子。」
「幽閉は、龍神の怒りを買うことになりはせぬか。」
 
 コウの処遇は、季節が一巡するまで決まらなかった。
 彼を守るべき父親は、寵姫を失った落胆から、全てを投げ出した。まつりごとも、幼い息子も。
 コウは、それを平然と受け入れる。彼は知っていた。もともと、父母が互いを愛してなどいないことを。両王家の結びつきを深めるためだけの婚儀だったのだと。それゆえに、自分に注がれる愛情もまた存在しないことを。
 蝉の声が消え失せ、日射しから強烈な熱が去り、夏が終わった。朝晩の冷えた空気が、紅葉を赤く染め上げる秋が来て。極寒の烈風と氷雪の試練に耐える冬。そして、龍神国を薄紅に彩る春。そして、再びの夏に。
 コウは廃嫡され鳳凰城の一室から神殿へ、その身を移される。
 龍神の御子ならば、神官になるのが、神の御心に沿うこと。母の罪も雪がれよう。
 それが、将軍家の中枢を担う大老たちの出した結論。
 最後の日。
 かつて日嗣の君だった少年は、庭の大木をじっと眺めていたという。
 彼が何を…誰を脳裏に思い描いていたか、知る者はいない。

(あの夏、オレは、何度、鳳凰城を見上げただろう。)
 翡蓮ひれんの脳裏に焼き付いた、そびえたつ美しい城壁。雲に届きそうな天守閣。二、三の丸が、本丸の左右に置かれた珍しい形は、鳳凰の羽根を表すと言われていた。
 そこに囚われたきりの友達。
 会いたかった。
 泣いているだろうか。意地を張って、泣くこともできていないのかもしれない。
 そばに行きたかった。
 慰めて、励まして、抱きしめて、
「オレがいるよ。」
と、そう言いたかった。
(けれど、七つの時のオレには、何もできなかった。だから。あの時の分も。)
 翡蓮の翠玉の瞳が輝く。
 不屈の決意に。
緋皇ひおう!!」
 よく通る声で、凛と呼ぶ。風の盾は維持したまま。
「この妖は、鏡の付喪神だ。神術をはね返す。」
 緋皇が舌打ちする。
「なんだそれ。めんどくせえな。」
 翡蓮は、でも、と笑ってみせる。
 翡蓮は、妖の言葉を聞き逃してはいなかった。攻撃を受ける直前であっても。
 神術は自然の力の凝縮。単純なモノだから、分析して合成できると。
「おそらく、一度にはね返せるのは、一つの属性だけだ。意味、わかるだろ?」
 きらりと光る、翠の瞳。その光を受けて、赤い瞳も、同じ輝きを宿す。
「オレとおまえの力、同時にぶつけるってことだろ?」
「ご名答。」
 その時。
 全然似ていない、緋皇と翡蓮の顔なのに、同じ表情になった。
 自信たっぷりで、不敵で。
 敵の強大さも窮地なのも知っているくせに。
 微塵も勝利を疑っていない顔。
「しくじるなよ、緋皇。おまえ、考えなしに力使いすぎて、実はほとんど残ってないだろ?ちゃんとかき集めろよ。」
 からかうように、翡蓮が言う。
 緋皇は、術力の総量が並の候補生とはけた違いなので、残量を考えずに浪費する戦い方をする。
「るっせーな、翡蓮。あと一回くらい余裕だ。完璧におまえに合わせてやるっつーの。」
 緋皇も翡蓮もわかっている。
 二人が、属性の異なる神術を、寸分違わず放つ必要があることを。
 時も。
 込める術力の強さも。
 完全に同調させて。同化させて。
 炎と風が複雑に絡まり合い、一つになれば。
((妖の能力を超える…!))
 狙いに気づいたのだろう。鏡の妖が、憎悪に染まった目で、緋皇をねめつける。
 向き合う彼らは、実像と虚像。光と影。
「なぜだ!おまえは、そいつを嫌っていたんだろう?だから、オレは甦ったんだ。おまえの負の感情を喰らって!!」
 バチッと。
 緋皇のまとう空気が殺気を帯びる。
「緋皇…!」
「心配すんな。」
 緋皇の声に、迷いはない。吠えた。
「だから、オレがケリをつけるんだよ!」
「オレたち、だ。」
 間髪入れずに、翡蓮が言って。
 真逆の色の視線が強く絡む。
 緋皇と翡蓮が叫んだ。全く同時に。
「「二級神術発動!!」」
「炎帝滅界!!」
 爆炎に、緋皇の銀髪が朱く染まる。
「暴風天裂!!」
 烈風に、翡蓮の金髪が激しくなたびく。
 世界の全てを焼き尽くす業火。
 天さえ切り裂き、割って落とす旋風。
 その二つが、溶けあって、一つになる。
 強く固く結びついた、焔と嵐。
 生まれる、強大な破壊の力。
 燦然と美しく煌めきながら、鏡の妖を襲う。
 目を開けていられないほどの、強烈な光。
 衝撃に、全てがふっとぶ。
「―――――!!」
 鼓膜に突き刺さり、脳天に直撃するような、断末魔の絶叫。
「っ…。」
「つっ…。」
 緋皇と翡蓮が、耳から手を離したときには。
 何一つ残ってはいなかった。
 巨大な鏡の迷宮も。
 緋皇の心と姿を映した、虚像の妖も。
 否。
 カランと、切り株に、鏡が落ちた。
 螺鈿細工の豪奢な手鏡。
 パキンと儚く砕けた。
((終わった。))
 は、と同時に息を吐いたとき。
「翡蓮、だいじょうぶ?」
「けがはない?」
 玻璃と瑠璃が、黒髪を揺らして翡蓮に駆け寄る。
「玻璃!瑠璃!」
 目を丸くした翡蓮に、両脇からすがりついて。
「無事でよかったあ…。」
「もう、本当に心配したんだからねっ!」
 四つの青い目が涙ぐんでいる。
(ええっと…。)
 なぜ玻璃と瑠璃がここにいるのかわからず、翡蓮が、問いかける眼差しで緋皇を見ると。
 緋皇は、ものすごく不機嫌そうな顔でにらんで来る。
 翡蓮が小首をかしげた。金髪がさら、と音をたてる。
「緋皇、おまえ何怒って。」
「怒ってねーよ。…そいつらが、鏡の壁に穴空けるの手伝ったんだよ。オレはべつに頼んでねーのに。」
 緋皇は、これ以上ないほど不本意そうに言う。
 玻璃と瑠璃が、ぎゃんぎゃんわめきだす。
「ちょっと、なに、その言い方!ボクたちがいなかったら、壁、破れなかったんだよ!」
「瘴気だって浄化してたの、ボクたちなのに!」
 緋皇は、ふん、とそっぽを向くが、翡蓮が
「そうだったんだ。ありがとう、玻璃、瑠璃。本当に助かったよ。」
と、にっこり笑ってくれたので、双子はパッと笑顔になる。
「翡蓮が無事で良かったよ!」
「あ、でも肩に血が。それに、首のとこ。」
「ああ、たいしたこと。」
「ああもう、おまえら、うるせえ!翡蓮、こっちに来い!」
 緋皇が、喚いた。
 翡蓮の腕を、ぐい、と強引に引っ張って、双子から引き離す。
「えっ!?」
 突然だったので踏みとどまれず、翡蓮がぼすっと、緋皇の胸にぶつかる。
「うわっ!」
 思ったより足に疲労がきていた緋皇も、翡蓮を支えきれない。
 二人して、倒れこむ。
 緋皇は仰向けにひっくり返り、翡蓮はその上に。
 至近距離で、目が合って。
 互いに、ぱちぱちと瞬き数回。
「「あははははっ!」」
 同時に噴き出した緋皇と翡蓮に。
「もう、何してんのさ、二人とも!」
「しょうがないなあ。」
 玻璃と瑠璃も、くすくす笑って。
 四人の少年の笑い声が、夏空の下に弾けた。

 緋皇と翡蓮が、神殿に帰り着く頃には、長い夏の日も暮れかけていた。東の空は、青が深くなり、群青を経て藍へ。西の空は、朱金の光に満ち、雲は桃色に染め上げられている。
 玻璃と瑠璃は「抜け出したのがバレないように、裏からこっそり戻るよ。」「またあとでね~。」と、途中で別れた。
「緋皇、今回は、流石にちゃんと謝らないとまずいって、わかってるよなっ!?」
 心配そうに眉根を寄せて言う翡蓮に、
「わかってるっつーの。おまえ、何回それ言うんだよ。」
 と、緋皇はうんざりしている。
 しかし、神殿を囲む森を抜けたところで、<龍王>の姿を認め、唇を引き結んで真顔になった。
 まるで、緋皇と翡蓮がいつ戻るのかわかっていたかのように待ち構えていた<龍王>に、底知れないものを感じる。
 夕風が、長い漆黒の髪を揺らしていく。
 長身の美丈夫は、ついと紫紺の双眸を細めた。
「よう、緋皇。」
 艶めいた低音。口元に浮かぶ笑みは、悪童めいているが、同時に老獪。
 思わず
「<龍王>猊下、緋皇は。」
 と身を乗り出した翡蓮に、緋皇が首を振る。
「緋皇…。」
 覚悟を決めた、目をしていた。
「口先だけの謝罪なんざ、聞きたくねーから、一つだけ正直に答えな。」
 一切の誤魔化しも、どんな些細な欺瞞も見透かすような紫眼。
「おまえ、神官になりたいか?」
 緋皇は、まっすぐに<龍王>を見据えた。
 強気で勝気なのは変わらないが、もう荒んではいない、澄んだ目。
「翡蓮がなるなら。」
 <龍王>が小さく噴き出す。
「…なるほど。とても模範解答とは言えねーが…まあ、おまえはそれでいいんだろーな。」
 くるりと背を向け、悠然と歩き去る。背中で言った。
「処罰は追って沙汰する。」
「<龍王>猊下!」
 声を上げた翡蓮に、
「心配すんな。追い出すようなことはしねーから。」
 振り向かないまま、ひら、と手だけ振って去って行った。
 <龍王>の姿が見えなくなると。
 緋皇が崩れ落ちるように膝をつく。
「緋皇!!」
「ちょっと疲れただけだ。」
 ふくれっ面で緋皇が言う。
 術力を使いすぎたので、消耗が激しいのだ。むしろ、今までよく耐えていたというべきだろう。
(猊下がいなくなるまで、こらえたのか。どれだけ意地っ張りなんだよ…。)
 それでも、翡蓮の前では、弱った姿も見せるようになったのだ。今までの緋皇なら、絶対に、翡蓮にこんな姿は見せなかった。
 翡蓮には、それが嬉しい。
 翡蓮は、緋皇のすぐ隣に座った。
 それっきり、沈黙が落ちる。
 二人で、ただ、雄大な夏の夕焼けを眺めた。
 ずっとこうしていたいと思えるような、穏やかな時間だった。
 雲の色が、桃色から茜色へと、濃さを増した頃。
「翡蓮。」
 緋皇が、ぽつりと言った。視線は合わせないままに。
「なに?」
 翡蓮は、緋皇の顔をのぞきこむが、緋皇は翡蓮を見ない。珍しく、ためらってから。
「おまえ、あの時、何言おうとした?」
 それだけの言葉なのに、なぜか、翡蓮は、いつのことかを正確に言い当ててしまう。
「それって、『おまえって、なんで、オレやったこと全部許すんだよ。』の答えか?」
「わかってんなら聞き返すなよっ!」
 早口で怒鳴る緋皇だが、
「いや、だって、一応確認しないと。」
と、翡蓮は平然としている。
 そして翡蓮は。
 にこ、と手放しの笑顔になった。
 緋皇が思わず目を見張る。魅入られたように。目が逸らせなくなる。
 翡蓮はいつもにこやかで、誰に対しても優しい笑顔を向けるけれど。
 見慣れたそれより、幼く見える。あどけない、小さな子どもみたいで。
 心の底から嬉しそうな…本物の笑顔。

「オレは、おまえが好きだからだよ。」

 無邪気に言い放たれた翡蓮の言葉に、緋皇の呼吸が、数瞬、止まった。
「っ!あのなあっ、おまえいきなり何言ってっ…。」
 その顔が、夕日よりも赤くなった。耳まで。
「だって、本当だから。オレは、おまえが大好きだよ。鳳凰城で、初めて会ったあの日から、ずうっと。だから、おまえが神殿に来たとき、オレはすっごくうれしかった。」
 なつかしそうな目。
 緋皇が、照れ隠しに、ぶっきらぼうな口調になる。
「そうかあ?おまえ、オレのこと、覚えてねーってかんじだったじゃねーか。」
「覚えてたよ!っていうか、忘れた日なんかなかった!だけど…。」
 翡蓮がちょっと拗ねた顔になる。そんな顔も、今まで見たことがない気がする。
「おまえが、オレのこと覚えてないみたいだったから。会いたいって思ってたの、オレだけなのかって思ったら、悔しくなっちゃって。片思いみたいで。」
「片思いって何だよ。色恋沙汰かよ。」
「あはははは!確かに変だな。」
 明るく笑って、翡蓮は立ち上がる。
 緋皇に手を差し出した。
 緋皇が手を伸ばす。
 互いに、ぐっと強く握りしめて。
 緋皇は翡蓮に引き上げられて、立ち上がった。
 燃えるような緋色の夕日が、二人の少年を彩る。
 ちりん、と、どこかでかすかに風鈴が鳴った。

 <龍王>紫天してんが、私室にもどると。
 仏頂面の琥珀が待っていた。
「紫天さま。よろしいのですか、あれで。」
 前置きも無ければ、固有名詞もない。しかし、「なんのことだ?」ととぼけることなど許さないという目をしている。
(こうやって見ると、実はあんま、変わってねーのか。)
と、紫天は面白くなる。今でこそ、澄ました、涼しい顔で教官をこなしているが、子どもの頃はずいぶん手を焼かされたものだ。
「いいんだよ。封じの森を放置しといたのは、こっちの落ち度だろ。高位の妖は、数十年大人しくても完全に浄化されるわけじゃねーってわかったのは収穫だ。あちこちに点在する封じの森は封鎖させる。」
 それに、と紫天は、くっくっく、と喉の奥で笑う。
「緋皇は、意外といい神官になるんじゃねーの?まあ、翡蓮が手綱握ってればって、条件付きだけどな。」
「それでは翡蓮の負担に。」
「ならねーだろ。好きでやることなら。」
「…。」
 貴方もそうでしたか、とはなぜか聞けずに、琥珀は沈黙し、はあ、と大きくため息をつく。
「…わかりました。では、今回だけは穏便に済ませましょう。手は打っておきますので。」
「おう。任せた。」
 気楽に頷く紫天を、琥珀はキッとにらみつけた。
「今回だけです。本来、神官候補生たちの処遇は、教官長たる私に全権が委ねられているはず。猊下は、些事に御心を煩わせる必要はありません。」
 あえて、他人行儀に言い放ち、
「御前失礼致します。」
と、身を翻した。
(それでも、緋皇は火種。)
 黄金の瞳が無慈悲に光る。候補生たちにはけして見せない顔だ。
(紫天さまの害になるなら。)

 どちらが言い出したわけでもないが、緋皇と翡蓮は、ごく自然に布団を隣に敷いた。何年も同じ部屋で寝起きしてきて、それは今夜が初めてだった。
「初めて会った日みたいだな。」
 翡蓮が、ころんと緋皇の方を向いて、楽しそうにくすくす笑う。行燈の火を消しても、明かり障子を透かして降り注ぐ月光のおかげで、その笑顔がよく見える。
 七年も経ったのに、髪も瞳も色を変えたのに、その笑顔は変わっていない。緋皇は眩しくて目を細めた。
 ふと、ほとんど無意識に。
 緋皇は、ずっと気になっていたことが、するりと口をついて出た。
「なあ。翡蓮。おまえ、なんで、神殿ここに来た?」
 翡蓮は、神殿以外に行き場所がなくなった緋皇とは違う。武家の嫡子は、龍神の御子であっても、家を継ぐのが普通だ。
 翡蓮が真顔になった。
 手を伸ばす。
 翡蓮の手が、緋皇の頬に添えられた。壊れ物に触れるように、優しく繊細な手つきだった。
「翡蓮?」
 今までだったら、振り払っていただろう。当たり前のように受け入れていることを、自分でも不思議に思いながら、緋皇は翡蓮を見つめ返す。
「オレは、おまえが一番つらいときに、何もできなかった。」
 苦しげに、眉根を寄せて、翡蓮は言う。
 懺悔のように。
「会いに行くことすらできなかった。」
「はぁ?そんなの、当たり前だろうが。」
 緋皇にはまるで理解できない。翡蓮が、まるで罪人のようにうなだれている理由が。
 あれは、龍神国を揺るがす大事件だった。その渦中にいた、将軍の世継ぎにして大罪人の子であるコウは、軟禁状態だった。
 正式に学友になったわけでもない、中流どころの武家の子であるレンが、会いにいけるはずもない。
「あのとき、生まれて初めて、自分は無力なんだと思ったよ。」
 努力すれば、望みは全て叶うのだと思っていた。けれど、どれほど願っても、身分の差はどうにもできないことを知った。
 コウを救い出すどころか、傍に行って慰めることすらできない自分の無力さを呪った。
「だから、力がほしいと思った。」
 龍神国で唯一、身分に縛られず、力を手に入れられる場所が、神殿だった。
 神殿の頂点に立てば、<龍王>になれば、将軍とも帝とも対等だから。
「武家のままでは、一生、おまえを救いになんていけないから。龍神の御子になった時点では、望んでそうなったわけじゃない。でも、結果的にはこれ以上ないくらいの僥倖だった。龍神の御子になっていなくても、オレは<龍王>を目指したけれど。」
 翡蓮の瞳が、濡れたように光る。
 緋皇がどきりと息を詰めた。
 思いがあふれるような、熱く切ない視線だった。
「おまえを助けに行くために。」
 高い高い城に囚われた、寂しい若君。大切な友達を。
 翡蓮は、そのために、他の全てを捨てたのだ。家族も、将来も。
「…そうか。」
 緋皇が頷いた。手を伸ばして、同じように翡蓮の頬を包む。
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 陶酔を誘うほどに、その声は甘くて優しい。翡蓮は、きっと、ずっと待っていた。そんな風に呼んでもらえる日を。
「ありがとな。」
「オレは何もできな。」
「ずっと、オレを思っていてくれたんだろ。」
 明るい笑顔。
(うわあ。)
 周囲の全てが照らされるような、屈託のない笑み。
 翡蓮は、眩しくて、翠玉の瞳を細める。熱くなった吐息でささやいた。
「…うん。やっと、おまえとつながれた気がする。」
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「いや、お説教はおまえだけだけど。」
「付き合えよ。友達なんだろ。」
「それとこれは別。」
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「その言い回し、友達には使わないんじゃないか?やっぱり、おまえ、講義さぼりすぎなんだよ。」
 会話が不毛になったところで、お互いにもう切り上げようと言う結論に達した。
「おやすみ、緋皇。」
「おやすみ、翡蓮。」
 遠い昔と同じように。

終幕

 最初は、たぶん、嫉妬だった。

「…候補生の心構えは、今述べた通りです。今までの名前は、ここでは使いませんから、考えておきなさい。貴方は龍神の御子ですから、守護龍の色を名前に入れるのが一般的ですが、強制ではありません。…貴方の出自を知る者は、この正神殿の上層部のみです。そして、貴方に限らず、神殿に入った以上、俗世の身分に関係なく、皆、平等に扱われます。」
 教官だっつー神官の言うことを、オレは適当に聞いていた。
 一年ぶりに、鳳凰城の外に出て、東の地から、この中央の地まで来た。深い森の中に立つこの正神殿は、鳳凰城とは空気まで違う気がする。
「聞いていますか?」
 オレが聞き流していることに気づいたのか、神官はぎろっとにらんで来る。そういうのは慣れているから、おどそうとしても無駄だぜ、とオレは鼻で笑う。
「特別扱いしねーってことだろ?ここでは、将軍の子じゃねーかわりに、大罪人の子でもない。周りも、そんなことは知らねーってことだろ?」
「なるほど。」
と、神官は金色の目を細めた。
「頭は回るようです。口の聞き方は躾ける必要がありますが。」
 口元に笑みを浮かべ、教官は続ける。
「では、ここでの暮らしについて具体的に説明します。質問があればその都度聞きなさい。」
と言って、神官は、文机に置いてあった薄い冊子を取り上げた。そこに、時々目を落しながら神殿内の間取りから、起床、就寝時刻などの細かい規則について、すらすらと説明される。慣れている感じだった。ほとんど頭に入っているけど、念のため冊子を見ている、というくらいの。
(規則多いな。めんどくせー。まあ、規則なんて破るためにあるんだろ。)
と、神官から目を離して、オレは、ふいと外を見た。障子が開け放たれていて、森が見える。オレと同じくらいの年のやつが、駆けまわったり、木に登ったり、好きに過ごしている。距離があるから、声までは聞こえない。今日は、普通に講義がある日だって、さっき聞いたから、休憩時間なんだろう。
(え?)
と、オレは大きく目を見開いた。遊んでいるガキの中の一人に、吸い寄せられるように目が向いた。
(レン!!)
 どうして、間違いなく、レンだと確信したのか。
 髪も目も色が違うのに。
 一年前に、たった一日、否、半日一緒にいただけなのに。
 それでも、レンのことを忘れた日なんて、一日も無かったからか。
「レ…。」
 オレが呼ぶよりも先に。
 レンの近くにいたやつが、何かを話しかけた。レンが、笑顔で頷いて返すと、また次のやつが話しかける。レンは、そいつにも同じように笑顔で言葉を返している。たくさんの「友達」に囲まれて。
 気づいてみれば、レンは輪の中心にいた。
 それを見て、オレは、すうっと胸の奥が冷えた。
(なんだよ。おまえ、楽しそうじゃん。友達たくさんいて。)
 勝手に、裏切られた気がした。 
 考えてみれば、レンはそういうやつだった。明るくて優しくて社交的で誰からも好かれるって、世話係のじいも言っていた。最初からわかっていたことだ。
 それなのに、
 自分でもよくわからない苛立ちで、ムカムカした。
「説明は以上です。…どうしました?」
 いつの間にか、説明は終わったらしい。神官が首をかしげて、オレを眺め、オレと同じ方に視線を向けた。
「ちょうどいい。同室の子を紹介します。面倒見の良い子ですから、いろいろと助けてくれるでしょう。時間になったらこちらへ来るように伝えてあります。部屋まで案内してもらいましょう。」
 その言葉が言い終わるよりも早く。
 レンは、こっちの様子に気づいたらしい。
 軽やかに走って来た。赤みがかった金色の髪を跳ねさせて。
 オレを見て、ハッと息を呑む。
 大きく見開かれた瞳の色は、最高級の翡翠、ロウカンのように、澄み切った翠だった。
「では、後は任せましたよ。」
と、教官は去って行く。
 レンの震える唇が言葉をつむぐ前に。
「初対面のあいさつってハジメマシテだったか?」
 自分でも、驚くくらい冷たい声が出た。
 レンは、はっきりと傷ついた顔になった。
 碧の瞳が揺れ、けれど、唇をきゅっと引き結ぶ。
 オレをまっすぐに見る眼差しは、色は違うけれど、確かにレンのものだった。
「これから、よろしくね。オレは、翡蓮。」
 と言って、レン…翡蓮は、文机に手を伸ばした。文机は、障子戸のすぐ下にあったので、外からでも簡単に手が届く。筆に墨を含ませると、さらさらと、紙に走らせる。端正だけれど、のびやかな文字で、「翡蓮」と記される。
「龍神の御子は、守護龍の色を名前に入れることが多いんだ。キミは、もう考えた?」
 考えてねーよ、そんなのさっき、神官から聞いたばっかりだっつーの、と言おうとして、オレは、翡蓮の手から筆を引ったくっていた。
 隣に、「緋皇」と書く。
「じゃ、これでいい。」

 深く考えずに、即興で決めた名前だった。オレの本名はこう。それに色つけて、読み方変えただけ。 そのつもりだった。
(無意識に、同じ音選んでたとかだったら、オレって、すげえ恥ずかしいやつだよな。)
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と、翡蓮は思案している。
「あんみつ食べに行こう。だから今日はとにかく、すみません、反省しています、二度としません、以外は口にするなよ!!」
                                                終
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