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第三幕
「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~
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第三幕
正神殿は、不穏な雰囲気に閉ざされていた。
神官たちが走り回ったり、声高に伝令が飛んだりしているわけではない。目に見えて騒然としてはいない。
それでも、候補生たちは、何かが起きていると感じていた。四限以降の全ての講義が中止になった上、寮から出るなと言い渡されれば、どれほど鈍くても察する。
「玻璃、やっぱり翡蓮、帰ってないよ。」
部屋にもどってきた双子の弟の、らしくない深刻な声に、玻璃は眉をひそめた。
「ってことは、三限に飛びだしてって、それっきりってことか…。」
「玻璃、どうしよう!?あのとき、翡蓮、様子、ヘンだったもん。ぜったい、なにかあったんだよ!」
瑠璃が、玻璃の両肩をつかんで、がくがくと揺さぶる。
「おちついてよ、瑠璃!ボクたちが焦っても、どうしようもないだろ!」
玻璃が、瑠璃の肩を叩いて落ち着かせる。
周囲に誰かいるときは、容姿だけではなく、言動までそっくりの双子だが、二人きりのときは、玻璃の方は兄らしく振る舞う。瑠璃と一緒に取り乱してはいない。
瑠璃が、翡蓮の部屋に行っていた間、玻璃は別の場所を探していた。翡蓮は見つからなかったが、別の講義をとっている候補生に出会って、有益な情報を得ていた。
「三限に、外で、神術の実技演習してたら、見えたんだって。懲罰房の方から、火の手が上がるのが。すぐに、教官に中に入れって言われたから、一瞬しか見えなかったらしいけど。」
「懲罰房に火の手って…。」
思い当たることは一つしか…否、一人しかいない。それに、あのとき、翡蓮が叫んだのは。
「だから、翡蓮は…。」
どすん、と、瑠璃は自分の布団の上に、乱暴に座る。黒髪をかきむしった。
「ああもう!なんで翡蓮は、いっつもあいつのことなんか…。」
そんな弟をちらりと見て、玻璃はあえて、感情を乗せずに問いかけた。
「緋皇なんて、見捨てればいいのにって、思ってる?」
「そうだよ!翡蓮はいつだって緋皇を大事にしてるのに、あいつはいつも自分勝手で、問題起こして、翡蓮に迷惑ばっかかけてるじゃないかっ!」
その通りだね、と玻璃は思う。
(でも、翡蓮は。)
誰にでも優しくて親切な翡蓮。<宝珠>としての責任を果たそうと、いつもがんばっていて、頼りになって。みんなが憧れるくらい強いけど、それを鼻にかけたり人を見下したりしない。
翡蓮はみんなの理想。みんな、翡蓮が好き。
でも、翡蓮が見つめるのは、一人だけ。
分け隔てしていないように見えるけれど、翡蓮自身は気づいていないかもしれないけれど。
残酷なくらいにはっきりと、ただ一人を選んでいる。
「それでも、翡蓮は緋皇を見捨てる気なんか全然ないんだよ。」
ふう、と。愛らしく可憐な面差しに似合わない、大人びたため息をつく。
そんな双子の兄の様子を見て、瑠璃も落ち着きを取り戻す。
「…なんで?」
「さあ。」
「って、玻璃~。」
「知らないよ。ボクは翡蓮でも緋皇でもないもの。でもさ。」
蒼穹の瞳で天井を…否、見えない何かを見据えながら、玻璃は言う。
「あの二人は、お互いがトクベツなんだと思うよ。」
「緋皇も?」
首をかしげる瑠璃に、玻璃は頷いてみせる。
「うん。だって、緋皇って、基本、翡蓮以外は無視じゃん。でも、翡蓮にだけはつっかかる。」
「嫌いって、好きの反対じゃないってこと?」
「そう。で、どうする?瑠璃。」
濃淡だけが違う、青い視線を合わせ。双子が同時に立ち上がる。
教官たちに止められていることは、百も承知。神殿は、あてにできない。
(だったら。)
(ボクたちが行くしかないよね。)
声に出さなくても伝わる。
(翡蓮。ボクたちは、緋皇のことなんてわからない。)
(キミが、報われないのに、あんなにも緋皇を大切にする理由も。)
(でも、ボクたちにとって、キミは大事な仲間だから。)
(キミを助けに行くよ。)
(そして、キミはきっとそう望むだろうから、緋皇も。)
☆
大地が大きく揺れた。
突然の衝撃に、緋皇の体が投げ出される。
(地震?)
半身を起こしたが、揺れがひどくて立ち上がれない。両手をついて、体を支えた。
翡蓮は、と向けた視線の先。
翡蓮も隣で、同じように揺れる大地に両手をついていた。
その翠玉の瞳が大きく見開かれ。桃花の唇が素早く動いた。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
ばさり、と風をはらんで翼が広がる。
緋皇の背中に。
「!?」
そのまま、緋皇の体は上空へと運ばれる。
「翡蓮、おまえどういうつもり。」
翡蓮の意図は、すぐに明らかになる。
緋皇のいた、真下の大地が、大きく隆起した。
正確には、地面から、突然何かが生えた。
日射しを浴びて銀に光る、巨大な。
翡蓮が助けなければ、緋皇は串刺しになっていただろう。
「硝子…?いや、鏡、か…?」
なぜ、いきなりこんな物が。
だが、何よりも優先して考えるべきその原因よりも。
「おまえ、なんで、オレを助けた?オレは、おまえを。」
「だってオレたち、友達じゃないか。」
澄んだ碧眼をまっすぐに向けられて。
「っ!」
緋皇が凍りつく。
翡蓮が、常よりも幼く微笑んだ。
同じ笑顔だった。
初めて会った、遠い夏の日と。
緋皇の唇が震えた。
けれど、言葉を紡ぎ出すより早く。
再び、大地が大きく揺れた。
先ほどよりも激しい。
次々と、大地を突き破って、銀の柱が伸びる。
「翡蓮!とっとと、自分にも翼出せ!」
緋皇は叫ぶが、揺れがひどすぎる。しかも、柱は次々と地を割って伸びる。翡蓮は、詠唱どころか、よけるのが精いっぱいだ。無理に口を開けば、舌をかむ。
そして、まばたき数回の間に。
柱と柱は、ぴたりとくっついた。
壁となる。
さらに、壁の上部と下部が横に伸びて、天井と床となった。
翡蓮は、完全に閉じ込められた。姿も見えない。
そして、真夏の太陽をぎらぎらと反射する鏡から、湧き出しているものは、瘴気だ。どす黒い、濃い煙のような瘴気が、周囲に漂い出している。
緋皇の背から、翼が消える。
突然の落下だったが、緋皇は鏡の天井に上手く着地する。
「おい、翡蓮、返事しろ!」
ガンガンガンと、拳で鏡を打って叫ぶ。鏡を叩き割る勢いで打った音にも、喉が裂けるほどに張り上げた声にも、返る声はない。
鏡の壁は、互いの姿を隠すだけではなく、声も遮断していた。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇が、炎をまとった刀を出現させる。
真横に薙ぐ。
しかし、鏡の壁には傷一つつかない。
「チッ…。」
緋皇が舌打ちする。
「どうなってやがる。何でこんなことが。」
鏡には、苛立ちよりも途方に暮れた感情が強く出た、自分の顔が映っている。
それに無性に腹が立って、鏡の中の自分をにらみつけた。
そう、にらみつけたはずだったのに。
虚像の緋皇が、にい、と嗤う。
さらに、珊瑚色の唇が、勝手に動いた。
「何で?おまえが望んだことだろ?翡蓮が目障りだ。永遠に消し去りたい。あいつが嫌いだ。神官候補生の立場を押し付けられたのは同じなのに、素直にそれを受け入れて、何の疑問も抱かず反発もしない翡蓮が、大嫌いだ。」
鏡の中から紡がれる声も口調も、緋皇自身のもの。
語られた言葉も、緋皇自身の…。
「オレは、おまえの負の感情を浴びて、眠りから目覚めた。封印を解いてくれたお礼に、おまえの望みを叶えてやったんだ。」
満足そうに細められた瞳が、さあっと色を変えた。
真紅がすうっと薄れていく。ほとんど色の無い、しいて言えば、ごく薄く淡い白銀へと。
それは、この一帯を覆う、鏡と同じ色だ。
緋皇が、かすかに目を細める。
状況から、正体はつかめた。いつもの、ふてぶてしい余裕を取り戻す。
「なるほど、礼か。けどなあ、オレはそんなこと頼んじゃいねえよ!余計なお世話だっつーの!」
虚像が口を開く前に。
「二級神術発動、烈火狂爆!!」
緋皇自身よりも巨大な火の玉が、鏡に激突する。
緋皇自身は、神術の発動と同時に、鏡の天井を蹴って、下へ飛んでいる。
緋皇が危うげなく着地するのと、轟音が響き渡るのが同時。
緋皇は続けて、壁面にも
「二級神術発動、烈火狂爆!」
同じ神術を叩きこむ。
大地が揺れるほどの爆発。
朱金の光をまき散らし、炎が荒れ狂う。
だが、炎がかき消えた後には。
緋皇が、ぎりっと奥歯をかみしめた。
小さなひびさえ入っていない、鏡の壁の前で。
下からでは見えないが、天井も同様だろう。
虚像が嗤う。緋皇の顔で。
「無駄。わかるだろ?封印ってのは、破壊が不可能な場合にとられる手段なんだからな!」
それは、この妖が、強大な力を持つ証。
「久しぶりの自由だ。」
愉しそうに、虚像が言う。
「まずは、目障りな神官どもを血祭りにあげてやる。もちろん、今、オレの中にいるやつもな!」
緋皇の顔色が変わる。
血の海の沈む翡蓮の姿が脳裏に浮かんだ。
「ふざけるな!!」
「ああ、おまえは生かしてやってもいいぜ。おまえの負の感情がなかったら、オレは目覚めていないんだからなあ。」
「鏡の付喪神!?」
「まさか、この地に封じられていた妖!?」
聞き覚えのある、よく似た声が響く。
玻璃と瑠璃が、駆けてくるところだった。
緋皇が、一瞬、彼らに気を取られた隙に。
虚像は消えた。
静まり返った鏡面には、高く澄んだ蒼穹と、緋皇自身が映るのみ。
☆
がしゃん、がしゃん、がしゃん。
耳障りな金属音が響くたびに、白銀に閉じ込められていく。
視界が遮られる直前、翡蓮の目に映ったのは。
必死に叫ぶ緋皇の姿。
「翡蓮!とっとと、自分にも翼出せ!」
(まだ、耳に残ってる。)
ぽっと火が灯ったように、胸の奥があたたかい。
翡蓮は、ふっと口元をほころばせ、(そんな場合じゃなかった。)と、ぶんぶんと首をふる。
目の前にも、足元にも、頭上にも、淡い白銀の壁がそびえ立っている。
神術をぶつけてみたが、鏡は砕けるどころか、ひび一つ入らなかった。
しかし、壁は四方を完全に塞いでいるというわけではない。二、三の方向には進めるようになっていて、とりあえず歩いてみるのだが、全く景色が変わらない。
歩いても歩いても、延々続く鏡の壁に、自分の姿が映っている。
正面、横向き、斜め、頭上、真下、背面。
ありとあらゆる角度に映る、自分の姿。
果てが見えない、鏡の迷路に、眩暈がしそうだ。
永遠に続く、鏡の無限回廊。
合わせ鏡の中の世界に、閉じ込められたような。
そして、壁全体から立ち上る、漆黒の瘴気。
翡蓮は、鏡に手をついて、自分を支えた。
鏡の中の自分も手をついて、こちらを見返してくる。
その虚像が、ぐにゃりと歪んだ。
「緋皇!?」
叫んで、すぐに翡蓮は
「ちがう。」
と否定した。
鏡の中で嗤う、緋皇に瓜二つのその姿。けれど、瞳の色が違う。見慣れた鮮やかな紅ではなく、限りなく透明に近い白銀。目の前の鏡の壁と同じ…。
<宝珠>である翡蓮の目は確かだった。動揺はしても、的確にその正体を見抜く。この地が封じの森と呼ばれている理由も。
「鏡の付喪神…封印されていたということは、かなり高位か…。」
「正解。この姿をくれたやつの負の感情が烈しかったから、目が覚めた。」
緋皇そっくりの顔で、声で、鏡の妖は言う。緋皇と同じように、翡蓮の肺腑をえぐる言葉を。
「おまえが目障りだ。永遠に消し去りたい。おまえが嫌いだ。」
「っ!!」
翡蓮は唇をかみしめた。
(こいつは緋皇じゃないのにっ…!)
わかっているのに、ずきりと胸が痛む。
付喪神は、モノであったときの性質を持つと知っているから。鏡の妖は、のぞいた相手を、正確に映し出す。外側も、内面も。
それでも、翡蓮は気丈に顔を上げる。
「おまえを、このままにしておくわけにはいかないっ…!」
これは、人に害を為す妖。しかも、候補生の中でも高い術力を持つ、緋皇や翡蓮を簡単にあしらえるほどの強さだ。
「三級神術発動、玉風乱刃!」
翡蓮が放つ神術は、鏡の表面に吸い込まれた。
それっきり、鏡面は凪いでいる。
鏡の妖は嘲笑う。
「無駄だって、さっきわかっただろ?いーや、無駄どころか、こういうことになるぜ?ここは、オレの中なんだからなあ!」
鏡が目を射る輝きを放つ。
鏡面から放たれた、風の刃。
翡蓮がさきほど放ったものが、寸分の狂いもなく、返される。
「あははははっ!」
妖は哄笑する。緋皇の声で。口調で。
「神術なんて、しょせんは自然の力の凝縮だろ?そんな単純なモノ、分析して合成するくらい、わけねーんだよ!!」
血飛沫が飛んだ。
☆
「噂で聞いたことあったんだ。神殿の近くに、大昔の妖を封じているところがあるって。当時は、そこも神殿領だったって。」
「滅することができないくらい強い妖だから、長い時間をかけて浄化してるんだって。今はもう、妖気も薄まってるから、危険はほぼないはずって聞いてたけど…。」
駆けつけてきた双子の説明に、緋皇は苛立たしげに言う。
「大嘘じゃねーか。」
「ボクたちに八つ当たりしてもしょうがないだろ!」
「瑠璃、落ち着いて。ここで喧嘩しても始まらないんだから。」
玻璃が弟をなだめ、緋皇に向き直る。
「三人がかりなら、この壁に一瞬穴を空けるくらいはできると思う。後は、おまえが中に入って、翡蓮を救い出して。ボクと瑠璃で、その間、瘴気を浄化するから。」
「はあ?ふざけんな!誰がおまえの言うことなんて。」
「本当は、おまえなんかにまかせたくないよ!」
悲鳴のように、怒鳴り返される。
「玻璃。」
瑠璃が、心配そうに兄の名前を呼ぶ。
瑠璃は、泣きそうな、けれど、意地でも泣くもんか、という表情で緋皇をにらみつける。
「でも、悔しいけど、ボクたちより、おまえの方がずっと強い。それに、翡蓮なら、絶対、瘴気をこのままにして、町に被害を出すようなことはしない。」
ああ、そうだったな、と緋皇は唐突に思い出す。
六つのガキの頃から、当然のように誰かを守ろうとするやつだった。
そして、今も。
背中に広がった、翼の感覚を覚えている。
清々しくて、爽やかで。全てを浄化する風。翡蓮の心をそのまま映したような。
忌々しいのに、目障りなのに。
そらすことができなかった、翡蓮の翠の瞳。
そこに込められた思いが、緋皇を動かした。
「…あの妖には、オレに喧嘩売ったことを後悔させてやる。それだけだ。翡蓮のためじゃねえ。」
玻璃と瑠璃が、視線を合わせた。素直じゃないなあ、と同時に肩をすくめて。
「じゃあ、瑠璃、ボク、緋皇の順に、神術をぶつけるよ。同じ一点に狙いを集中させて。」
瑠璃は、緋皇の返事を待たなかった。すうっと息を吸いこむ。図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、波動破砕!」
図形から、轟音とともに噴き出した、大量の水が、鏡にぶつかる。嵐の夜の、荒れ狂う海。何度も打ち寄せれば、巨大な大岩でさえも木端微塵にする大波。
その直後に、玻璃が瑠璃と同じように図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、天泣吹雪!」
鋭利な槍のように、放たれた氷雪。人も獣も大地も、全てを等しく穿つ、無慈悲なる天の裁き。
降り注ぐ雪が視界を遮り、鏡の壁がどの程度損傷したかは、分からない。
けれど、緋皇は躊躇わなかった。
玻璃と瑠璃は、肩で息をしながら、神術を維持している。ぽたぽたと、小袖の胸元に落ちてくる汗。その消耗した姿が、彼らが、神術にどれほどの力を注いでいるのかを、雄弁に語っているから。
「二級神術発動、烈火狂爆!」
燃え盛る、巨大な炎球が、突進する。
激突。
閃光。爆発。
それがおさまったときに、鏡の壁には、人一人通れるくらいの穴が開いていた。
緋皇は駆け抜ける。
玻璃と瑠璃を振り返ることも、声をかけることもなく。
白銀の壁に開いた穴は、ゆっくりと塞がっていく。
まるで、寒い冬の夜、池に氷が張っていくのを見るようだった。
いくら強大な力を持つ妖とはいえ、修復には時間がかかるのだろう。急げば、玻璃と瑠璃も、穴をくぐれるが。
(どうする?)
(行っても足手まといだよ。悔しいけど。ほとんど術力使い切っちゃったもん。戦闘はムリ。)
(そうだね。戦闘はムリだけど、できることをやろう。)
玻璃と瑠璃は、崩れ落ちそうな体を、互いに支える。
「四級神術発動、清水流祓!」
図形から、大量の水が噴き出す。夏の日射しに透明に煌めく、澄んだ水が、鏡の壁の周囲をぐるりと囲む。
「四級神術発動、凍結氷華!」
その水が、ゆっくりと凍っていく。白銀の鏡面に、同色の氷の花が咲いていくにつれて、漂う漆黒の瘴気が、次第に薄れていく。
漆黒から、濃灰色、鉛色、薄鼠色へと瘴気の色が薄れ、希薄になっていく。
これで、わずかだが、確実に妖の力を押さえることができるし、何より瘴気が町に流れ込むことは防げる。
玻璃と瑠璃にはわかっている。
後は信じるしかないことを。
☆
翡蓮は、風の刃をとっさに避けた。身のこなしは軽い方だが、完全にはかわせなかった。肩口を浅くかすめた風の刃は、再び鏡面に吸い込まれる。
翡蓮は、油断なく周囲を見回すが、攻撃が再び来る様子はない。
緋皇の姿をした鏡の妖も、いつの間にか消えていた。
何かが起こったのだろうか。妖にとって、すぐに対処すべき異変が。
この時の翡蓮には知る手段もないことだが、緋皇たちが開けた穴の修復に力を割くために、妖は一時的に、緋皇の姿を投影することをやめたのだ。
翡蓮の肩から流れ落ちる鮮血が、白い小袖を深紅に染め上げていく。
(どうする。)
今は、妖は姿を消しているが、このままの状態が続くと考えるほど、翡蓮は愚かではない。
(今、妖にとって何らかの異変が起きていることは、間違いない。今なら、神術をはね返されず、壁を砕けるかもしれない。)
現状を切り抜けるために巡らす思考に、ふっと別の思いがよぎる。
(緋皇は無事かな。)
突然。何の前触れもなく。
眼前の壁に、亀裂が走る。
壁を割り、砕いたのは剣閃。
炎をまとった刃の。
崩れ落ちた壁の向こうに。
輝く、真紅の瞳。
翡蓮は、翠の瞳を見開いて、立ち尽くす。
「翡蓮、無事か?」
幻ではない。妖が化けた偽物でもない。
「緋皇…おまえ…オレを助けに来てくれたのか…?」
おそるおそる、問いかける、細い声は震えていた。
「この状況で、それ以外の何が。」
緋皇の言葉が止まった。
翡蓮の翠玉の瞳から、大粒の、真珠のような涙があふれたのを見て。
翡蓮が、緋皇に抱きついた。すがるように。
「おまえ、なにしてっ…。」
緋皇の声が上ずる。
「だって…ずっと…ずっとまってたんだ…コウ。」
耳もとでささやかれた名前。
それを呼ぶ声は、七年前の、幼子のものではないけれど。
「おまえ…覚えてたのかよ…。」
呆然と呟いた緋皇の声は、彼らしくもなく、儚いほどにかすかだった。
『絶対、おまえに会いに行くから、待ってろ。』
気がついたら、緋皇は翡蓮を抱きしめていた。
見た目よりも、その肩は細くて。
今まで、どれほど緋皇に冷たく突き放されても、翡蓮は泣かなかった。
初めて見た、翡蓮の涙が、緋皇の中に在った、凍てついた何かを融かした。
「約束果たすの、すげえ遅くなって悪かった…レン。」
翡蓮にとっても、その名を呼ばれるのは七年ぶりだった。
瞬きをすると、最後の涙の一滴がぽろっと落ちる。翡蓮はくすっと笑った。
「針千本呑まずに済むな。」
「ホントに呑むわけじゃねーんだろ。すっかりだまされたぜ。」
「あ、もう、知ってるんだ。」
「当たり前だろうが。」
と、くだらないことを言っていたら。
緋皇が突然、翡蓮を引きはがした。
「おまえ、血!」
赤く染まった肩口を凝視している。
「浅手だよ。たいしたことは。」
翡蓮が隠すように一歩下がると、その分を詰められる。
翡蓮の背が壁に当たった。
緋皇が、翡蓮の小袖の襟元に手をかける。ぐい、とはだけられ、肩が露になる。
緋皇はすがめた目で傷口を眺め、自分の袖を裂いた。キュッと、強めに巻きつけられる。
「ありが。」
「これ。」
翡蓮が礼を言うより早く。
緋皇が、露になった翡蓮の胸元を見て言った。
翡蓮の胸から腹にかけて、一直線に赤い筋ができている。きめの細かい、目を射る白さの綺麗な肌に、無惨に走る傷跡はひどく目立つ。
「まだ痛いんだろ。本当は。」
緋皇は、怒ったような口調で言う。翡蓮ではなく、緋皇自身に向かう怒り。
「もう大丈夫だって。」
翡蓮が笑って言うと、緋皇は疑り深そうな顔になった。
緋皇は、指の腹で、つっと翡蓮の傷口をなぞる。
あまり痛くはなかったが、翡蓮はかすかに身じろぎする。
「やっぱり。」
「くすぐったいんだって。もう塞がってるし、もともとそんな深手でもないから。痕も残らないって。」
翡蓮が小袖を直しながら言う。
緋皇は、まだ、何か言いたそうに翡蓮を見ている。
視線をたどって、翡蓮は、ああ、と気づく。
首筋には、緋皇の爪がつけた赤い線が残っているのだろう。緋皇の指の痕も。
翡蓮自身には見えない位置だが。
「すぐ消えるよ。」
「おまえって、なんで、オレやったこと全部許すんだよ。」
(小さい子が拗ねてるみたいだ。)
翡蓮は思わず笑いそうになる。慌てて表情を引き締め、
「オレはおまえが。」
言いかけて、翡蓮は、ハッと瞠目した。
「四級神術発動、翔風絶壁!」
風の盾に弾かれて、ガシャンと、銀の刃が砕け散る。その先に。
「せっかく見逃してやったのに、なんでもどってきた?」
緋皇の声で、緋皇に向かって言う、鏡の妖の姿。
正神殿は、不穏な雰囲気に閉ざされていた。
神官たちが走り回ったり、声高に伝令が飛んだりしているわけではない。目に見えて騒然としてはいない。
それでも、候補生たちは、何かが起きていると感じていた。四限以降の全ての講義が中止になった上、寮から出るなと言い渡されれば、どれほど鈍くても察する。
「玻璃、やっぱり翡蓮、帰ってないよ。」
部屋にもどってきた双子の弟の、らしくない深刻な声に、玻璃は眉をひそめた。
「ってことは、三限に飛びだしてって、それっきりってことか…。」
「玻璃、どうしよう!?あのとき、翡蓮、様子、ヘンだったもん。ぜったい、なにかあったんだよ!」
瑠璃が、玻璃の両肩をつかんで、がくがくと揺さぶる。
「おちついてよ、瑠璃!ボクたちが焦っても、どうしようもないだろ!」
玻璃が、瑠璃の肩を叩いて落ち着かせる。
周囲に誰かいるときは、容姿だけではなく、言動までそっくりの双子だが、二人きりのときは、玻璃の方は兄らしく振る舞う。瑠璃と一緒に取り乱してはいない。
瑠璃が、翡蓮の部屋に行っていた間、玻璃は別の場所を探していた。翡蓮は見つからなかったが、別の講義をとっている候補生に出会って、有益な情報を得ていた。
「三限に、外で、神術の実技演習してたら、見えたんだって。懲罰房の方から、火の手が上がるのが。すぐに、教官に中に入れって言われたから、一瞬しか見えなかったらしいけど。」
「懲罰房に火の手って…。」
思い当たることは一つしか…否、一人しかいない。それに、あのとき、翡蓮が叫んだのは。
「だから、翡蓮は…。」
どすん、と、瑠璃は自分の布団の上に、乱暴に座る。黒髪をかきむしった。
「ああもう!なんで翡蓮は、いっつもあいつのことなんか…。」
そんな弟をちらりと見て、玻璃はあえて、感情を乗せずに問いかけた。
「緋皇なんて、見捨てればいいのにって、思ってる?」
「そうだよ!翡蓮はいつだって緋皇を大事にしてるのに、あいつはいつも自分勝手で、問題起こして、翡蓮に迷惑ばっかかけてるじゃないかっ!」
その通りだね、と玻璃は思う。
(でも、翡蓮は。)
誰にでも優しくて親切な翡蓮。<宝珠>としての責任を果たそうと、いつもがんばっていて、頼りになって。みんなが憧れるくらい強いけど、それを鼻にかけたり人を見下したりしない。
翡蓮はみんなの理想。みんな、翡蓮が好き。
でも、翡蓮が見つめるのは、一人だけ。
分け隔てしていないように見えるけれど、翡蓮自身は気づいていないかもしれないけれど。
残酷なくらいにはっきりと、ただ一人を選んでいる。
「それでも、翡蓮は緋皇を見捨てる気なんか全然ないんだよ。」
ふう、と。愛らしく可憐な面差しに似合わない、大人びたため息をつく。
そんな双子の兄の様子を見て、瑠璃も落ち着きを取り戻す。
「…なんで?」
「さあ。」
「って、玻璃~。」
「知らないよ。ボクは翡蓮でも緋皇でもないもの。でもさ。」
蒼穹の瞳で天井を…否、見えない何かを見据えながら、玻璃は言う。
「あの二人は、お互いがトクベツなんだと思うよ。」
「緋皇も?」
首をかしげる瑠璃に、玻璃は頷いてみせる。
「うん。だって、緋皇って、基本、翡蓮以外は無視じゃん。でも、翡蓮にだけはつっかかる。」
「嫌いって、好きの反対じゃないってこと?」
「そう。で、どうする?瑠璃。」
濃淡だけが違う、青い視線を合わせ。双子が同時に立ち上がる。
教官たちに止められていることは、百も承知。神殿は、あてにできない。
(だったら。)
(ボクたちが行くしかないよね。)
声に出さなくても伝わる。
(翡蓮。ボクたちは、緋皇のことなんてわからない。)
(キミが、報われないのに、あんなにも緋皇を大切にする理由も。)
(でも、ボクたちにとって、キミは大事な仲間だから。)
(キミを助けに行くよ。)
(そして、キミはきっとそう望むだろうから、緋皇も。)
☆
大地が大きく揺れた。
突然の衝撃に、緋皇の体が投げ出される。
(地震?)
半身を起こしたが、揺れがひどくて立ち上がれない。両手をついて、体を支えた。
翡蓮は、と向けた視線の先。
翡蓮も隣で、同じように揺れる大地に両手をついていた。
その翠玉の瞳が大きく見開かれ。桃花の唇が素早く動いた。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
ばさり、と風をはらんで翼が広がる。
緋皇の背中に。
「!?」
そのまま、緋皇の体は上空へと運ばれる。
「翡蓮、おまえどういうつもり。」
翡蓮の意図は、すぐに明らかになる。
緋皇のいた、真下の大地が、大きく隆起した。
正確には、地面から、突然何かが生えた。
日射しを浴びて銀に光る、巨大な。
翡蓮が助けなければ、緋皇は串刺しになっていただろう。
「硝子…?いや、鏡、か…?」
なぜ、いきなりこんな物が。
だが、何よりも優先して考えるべきその原因よりも。
「おまえ、なんで、オレを助けた?オレは、おまえを。」
「だってオレたち、友達じゃないか。」
澄んだ碧眼をまっすぐに向けられて。
「っ!」
緋皇が凍りつく。
翡蓮が、常よりも幼く微笑んだ。
同じ笑顔だった。
初めて会った、遠い夏の日と。
緋皇の唇が震えた。
けれど、言葉を紡ぎ出すより早く。
再び、大地が大きく揺れた。
先ほどよりも激しい。
次々と、大地を突き破って、銀の柱が伸びる。
「翡蓮!とっとと、自分にも翼出せ!」
緋皇は叫ぶが、揺れがひどすぎる。しかも、柱は次々と地を割って伸びる。翡蓮は、詠唱どころか、よけるのが精いっぱいだ。無理に口を開けば、舌をかむ。
そして、まばたき数回の間に。
柱と柱は、ぴたりとくっついた。
壁となる。
さらに、壁の上部と下部が横に伸びて、天井と床となった。
翡蓮は、完全に閉じ込められた。姿も見えない。
そして、真夏の太陽をぎらぎらと反射する鏡から、湧き出しているものは、瘴気だ。どす黒い、濃い煙のような瘴気が、周囲に漂い出している。
緋皇の背から、翼が消える。
突然の落下だったが、緋皇は鏡の天井に上手く着地する。
「おい、翡蓮、返事しろ!」
ガンガンガンと、拳で鏡を打って叫ぶ。鏡を叩き割る勢いで打った音にも、喉が裂けるほどに張り上げた声にも、返る声はない。
鏡の壁は、互いの姿を隠すだけではなく、声も遮断していた。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇が、炎をまとった刀を出現させる。
真横に薙ぐ。
しかし、鏡の壁には傷一つつかない。
「チッ…。」
緋皇が舌打ちする。
「どうなってやがる。何でこんなことが。」
鏡には、苛立ちよりも途方に暮れた感情が強く出た、自分の顔が映っている。
それに無性に腹が立って、鏡の中の自分をにらみつけた。
そう、にらみつけたはずだったのに。
虚像の緋皇が、にい、と嗤う。
さらに、珊瑚色の唇が、勝手に動いた。
「何で?おまえが望んだことだろ?翡蓮が目障りだ。永遠に消し去りたい。あいつが嫌いだ。神官候補生の立場を押し付けられたのは同じなのに、素直にそれを受け入れて、何の疑問も抱かず反発もしない翡蓮が、大嫌いだ。」
鏡の中から紡がれる声も口調も、緋皇自身のもの。
語られた言葉も、緋皇自身の…。
「オレは、おまえの負の感情を浴びて、眠りから目覚めた。封印を解いてくれたお礼に、おまえの望みを叶えてやったんだ。」
満足そうに細められた瞳が、さあっと色を変えた。
真紅がすうっと薄れていく。ほとんど色の無い、しいて言えば、ごく薄く淡い白銀へと。
それは、この一帯を覆う、鏡と同じ色だ。
緋皇が、かすかに目を細める。
状況から、正体はつかめた。いつもの、ふてぶてしい余裕を取り戻す。
「なるほど、礼か。けどなあ、オレはそんなこと頼んじゃいねえよ!余計なお世話だっつーの!」
虚像が口を開く前に。
「二級神術発動、烈火狂爆!!」
緋皇自身よりも巨大な火の玉が、鏡に激突する。
緋皇自身は、神術の発動と同時に、鏡の天井を蹴って、下へ飛んでいる。
緋皇が危うげなく着地するのと、轟音が響き渡るのが同時。
緋皇は続けて、壁面にも
「二級神術発動、烈火狂爆!」
同じ神術を叩きこむ。
大地が揺れるほどの爆発。
朱金の光をまき散らし、炎が荒れ狂う。
だが、炎がかき消えた後には。
緋皇が、ぎりっと奥歯をかみしめた。
小さなひびさえ入っていない、鏡の壁の前で。
下からでは見えないが、天井も同様だろう。
虚像が嗤う。緋皇の顔で。
「無駄。わかるだろ?封印ってのは、破壊が不可能な場合にとられる手段なんだからな!」
それは、この妖が、強大な力を持つ証。
「久しぶりの自由だ。」
愉しそうに、虚像が言う。
「まずは、目障りな神官どもを血祭りにあげてやる。もちろん、今、オレの中にいるやつもな!」
緋皇の顔色が変わる。
血の海の沈む翡蓮の姿が脳裏に浮かんだ。
「ふざけるな!!」
「ああ、おまえは生かしてやってもいいぜ。おまえの負の感情がなかったら、オレは目覚めていないんだからなあ。」
「鏡の付喪神!?」
「まさか、この地に封じられていた妖!?」
聞き覚えのある、よく似た声が響く。
玻璃と瑠璃が、駆けてくるところだった。
緋皇が、一瞬、彼らに気を取られた隙に。
虚像は消えた。
静まり返った鏡面には、高く澄んだ蒼穹と、緋皇自身が映るのみ。
☆
がしゃん、がしゃん、がしゃん。
耳障りな金属音が響くたびに、白銀に閉じ込められていく。
視界が遮られる直前、翡蓮の目に映ったのは。
必死に叫ぶ緋皇の姿。
「翡蓮!とっとと、自分にも翼出せ!」
(まだ、耳に残ってる。)
ぽっと火が灯ったように、胸の奥があたたかい。
翡蓮は、ふっと口元をほころばせ、(そんな場合じゃなかった。)と、ぶんぶんと首をふる。
目の前にも、足元にも、頭上にも、淡い白銀の壁がそびえ立っている。
神術をぶつけてみたが、鏡は砕けるどころか、ひび一つ入らなかった。
しかし、壁は四方を完全に塞いでいるというわけではない。二、三の方向には進めるようになっていて、とりあえず歩いてみるのだが、全く景色が変わらない。
歩いても歩いても、延々続く鏡の壁に、自分の姿が映っている。
正面、横向き、斜め、頭上、真下、背面。
ありとあらゆる角度に映る、自分の姿。
果てが見えない、鏡の迷路に、眩暈がしそうだ。
永遠に続く、鏡の無限回廊。
合わせ鏡の中の世界に、閉じ込められたような。
そして、壁全体から立ち上る、漆黒の瘴気。
翡蓮は、鏡に手をついて、自分を支えた。
鏡の中の自分も手をついて、こちらを見返してくる。
その虚像が、ぐにゃりと歪んだ。
「緋皇!?」
叫んで、すぐに翡蓮は
「ちがう。」
と否定した。
鏡の中で嗤う、緋皇に瓜二つのその姿。けれど、瞳の色が違う。見慣れた鮮やかな紅ではなく、限りなく透明に近い白銀。目の前の鏡の壁と同じ…。
<宝珠>である翡蓮の目は確かだった。動揺はしても、的確にその正体を見抜く。この地が封じの森と呼ばれている理由も。
「鏡の付喪神…封印されていたということは、かなり高位か…。」
「正解。この姿をくれたやつの負の感情が烈しかったから、目が覚めた。」
緋皇そっくりの顔で、声で、鏡の妖は言う。緋皇と同じように、翡蓮の肺腑をえぐる言葉を。
「おまえが目障りだ。永遠に消し去りたい。おまえが嫌いだ。」
「っ!!」
翡蓮は唇をかみしめた。
(こいつは緋皇じゃないのにっ…!)
わかっているのに、ずきりと胸が痛む。
付喪神は、モノであったときの性質を持つと知っているから。鏡の妖は、のぞいた相手を、正確に映し出す。外側も、内面も。
それでも、翡蓮は気丈に顔を上げる。
「おまえを、このままにしておくわけにはいかないっ…!」
これは、人に害を為す妖。しかも、候補生の中でも高い術力を持つ、緋皇や翡蓮を簡単にあしらえるほどの強さだ。
「三級神術発動、玉風乱刃!」
翡蓮が放つ神術は、鏡の表面に吸い込まれた。
それっきり、鏡面は凪いでいる。
鏡の妖は嘲笑う。
「無駄だって、さっきわかっただろ?いーや、無駄どころか、こういうことになるぜ?ここは、オレの中なんだからなあ!」
鏡が目を射る輝きを放つ。
鏡面から放たれた、風の刃。
翡蓮がさきほど放ったものが、寸分の狂いもなく、返される。
「あははははっ!」
妖は哄笑する。緋皇の声で。口調で。
「神術なんて、しょせんは自然の力の凝縮だろ?そんな単純なモノ、分析して合成するくらい、わけねーんだよ!!」
血飛沫が飛んだ。
☆
「噂で聞いたことあったんだ。神殿の近くに、大昔の妖を封じているところがあるって。当時は、そこも神殿領だったって。」
「滅することができないくらい強い妖だから、長い時間をかけて浄化してるんだって。今はもう、妖気も薄まってるから、危険はほぼないはずって聞いてたけど…。」
駆けつけてきた双子の説明に、緋皇は苛立たしげに言う。
「大嘘じゃねーか。」
「ボクたちに八つ当たりしてもしょうがないだろ!」
「瑠璃、落ち着いて。ここで喧嘩しても始まらないんだから。」
玻璃が弟をなだめ、緋皇に向き直る。
「三人がかりなら、この壁に一瞬穴を空けるくらいはできると思う。後は、おまえが中に入って、翡蓮を救い出して。ボクと瑠璃で、その間、瘴気を浄化するから。」
「はあ?ふざけんな!誰がおまえの言うことなんて。」
「本当は、おまえなんかにまかせたくないよ!」
悲鳴のように、怒鳴り返される。
「玻璃。」
瑠璃が、心配そうに兄の名前を呼ぶ。
瑠璃は、泣きそうな、けれど、意地でも泣くもんか、という表情で緋皇をにらみつける。
「でも、悔しいけど、ボクたちより、おまえの方がずっと強い。それに、翡蓮なら、絶対、瘴気をこのままにして、町に被害を出すようなことはしない。」
ああ、そうだったな、と緋皇は唐突に思い出す。
六つのガキの頃から、当然のように誰かを守ろうとするやつだった。
そして、今も。
背中に広がった、翼の感覚を覚えている。
清々しくて、爽やかで。全てを浄化する風。翡蓮の心をそのまま映したような。
忌々しいのに、目障りなのに。
そらすことができなかった、翡蓮の翠の瞳。
そこに込められた思いが、緋皇を動かした。
「…あの妖には、オレに喧嘩売ったことを後悔させてやる。それだけだ。翡蓮のためじゃねえ。」
玻璃と瑠璃が、視線を合わせた。素直じゃないなあ、と同時に肩をすくめて。
「じゃあ、瑠璃、ボク、緋皇の順に、神術をぶつけるよ。同じ一点に狙いを集中させて。」
瑠璃は、緋皇の返事を待たなかった。すうっと息を吸いこむ。図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、波動破砕!」
図形から、轟音とともに噴き出した、大量の水が、鏡にぶつかる。嵐の夜の、荒れ狂う海。何度も打ち寄せれば、巨大な大岩でさえも木端微塵にする大波。
その直後に、玻璃が瑠璃と同じように図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、天泣吹雪!」
鋭利な槍のように、放たれた氷雪。人も獣も大地も、全てを等しく穿つ、無慈悲なる天の裁き。
降り注ぐ雪が視界を遮り、鏡の壁がどの程度損傷したかは、分からない。
けれど、緋皇は躊躇わなかった。
玻璃と瑠璃は、肩で息をしながら、神術を維持している。ぽたぽたと、小袖の胸元に落ちてくる汗。その消耗した姿が、彼らが、神術にどれほどの力を注いでいるのかを、雄弁に語っているから。
「二級神術発動、烈火狂爆!」
燃え盛る、巨大な炎球が、突進する。
激突。
閃光。爆発。
それがおさまったときに、鏡の壁には、人一人通れるくらいの穴が開いていた。
緋皇は駆け抜ける。
玻璃と瑠璃を振り返ることも、声をかけることもなく。
白銀の壁に開いた穴は、ゆっくりと塞がっていく。
まるで、寒い冬の夜、池に氷が張っていくのを見るようだった。
いくら強大な力を持つ妖とはいえ、修復には時間がかかるのだろう。急げば、玻璃と瑠璃も、穴をくぐれるが。
(どうする?)
(行っても足手まといだよ。悔しいけど。ほとんど術力使い切っちゃったもん。戦闘はムリ。)
(そうだね。戦闘はムリだけど、できることをやろう。)
玻璃と瑠璃は、崩れ落ちそうな体を、互いに支える。
「四級神術発動、清水流祓!」
図形から、大量の水が噴き出す。夏の日射しに透明に煌めく、澄んだ水が、鏡の壁の周囲をぐるりと囲む。
「四級神術発動、凍結氷華!」
その水が、ゆっくりと凍っていく。白銀の鏡面に、同色の氷の花が咲いていくにつれて、漂う漆黒の瘴気が、次第に薄れていく。
漆黒から、濃灰色、鉛色、薄鼠色へと瘴気の色が薄れ、希薄になっていく。
これで、わずかだが、確実に妖の力を押さえることができるし、何より瘴気が町に流れ込むことは防げる。
玻璃と瑠璃にはわかっている。
後は信じるしかないことを。
☆
翡蓮は、風の刃をとっさに避けた。身のこなしは軽い方だが、完全にはかわせなかった。肩口を浅くかすめた風の刃は、再び鏡面に吸い込まれる。
翡蓮は、油断なく周囲を見回すが、攻撃が再び来る様子はない。
緋皇の姿をした鏡の妖も、いつの間にか消えていた。
何かが起こったのだろうか。妖にとって、すぐに対処すべき異変が。
この時の翡蓮には知る手段もないことだが、緋皇たちが開けた穴の修復に力を割くために、妖は一時的に、緋皇の姿を投影することをやめたのだ。
翡蓮の肩から流れ落ちる鮮血が、白い小袖を深紅に染め上げていく。
(どうする。)
今は、妖は姿を消しているが、このままの状態が続くと考えるほど、翡蓮は愚かではない。
(今、妖にとって何らかの異変が起きていることは、間違いない。今なら、神術をはね返されず、壁を砕けるかもしれない。)
現状を切り抜けるために巡らす思考に、ふっと別の思いがよぎる。
(緋皇は無事かな。)
突然。何の前触れもなく。
眼前の壁に、亀裂が走る。
壁を割り、砕いたのは剣閃。
炎をまとった刃の。
崩れ落ちた壁の向こうに。
輝く、真紅の瞳。
翡蓮は、翠の瞳を見開いて、立ち尽くす。
「翡蓮、無事か?」
幻ではない。妖が化けた偽物でもない。
「緋皇…おまえ…オレを助けに来てくれたのか…?」
おそるおそる、問いかける、細い声は震えていた。
「この状況で、それ以外の何が。」
緋皇の言葉が止まった。
翡蓮の翠玉の瞳から、大粒の、真珠のような涙があふれたのを見て。
翡蓮が、緋皇に抱きついた。すがるように。
「おまえ、なにしてっ…。」
緋皇の声が上ずる。
「だって…ずっと…ずっとまってたんだ…コウ。」
耳もとでささやかれた名前。
それを呼ぶ声は、七年前の、幼子のものではないけれど。
「おまえ…覚えてたのかよ…。」
呆然と呟いた緋皇の声は、彼らしくもなく、儚いほどにかすかだった。
『絶対、おまえに会いに行くから、待ってろ。』
気がついたら、緋皇は翡蓮を抱きしめていた。
見た目よりも、その肩は細くて。
今まで、どれほど緋皇に冷たく突き放されても、翡蓮は泣かなかった。
初めて見た、翡蓮の涙が、緋皇の中に在った、凍てついた何かを融かした。
「約束果たすの、すげえ遅くなって悪かった…レン。」
翡蓮にとっても、その名を呼ばれるのは七年ぶりだった。
瞬きをすると、最後の涙の一滴がぽろっと落ちる。翡蓮はくすっと笑った。
「針千本呑まずに済むな。」
「ホントに呑むわけじゃねーんだろ。すっかりだまされたぜ。」
「あ、もう、知ってるんだ。」
「当たり前だろうが。」
と、くだらないことを言っていたら。
緋皇が突然、翡蓮を引きはがした。
「おまえ、血!」
赤く染まった肩口を凝視している。
「浅手だよ。たいしたことは。」
翡蓮が隠すように一歩下がると、その分を詰められる。
翡蓮の背が壁に当たった。
緋皇が、翡蓮の小袖の襟元に手をかける。ぐい、とはだけられ、肩が露になる。
緋皇はすがめた目で傷口を眺め、自分の袖を裂いた。キュッと、強めに巻きつけられる。
「ありが。」
「これ。」
翡蓮が礼を言うより早く。
緋皇が、露になった翡蓮の胸元を見て言った。
翡蓮の胸から腹にかけて、一直線に赤い筋ができている。きめの細かい、目を射る白さの綺麗な肌に、無惨に走る傷跡はひどく目立つ。
「まだ痛いんだろ。本当は。」
緋皇は、怒ったような口調で言う。翡蓮ではなく、緋皇自身に向かう怒り。
「もう大丈夫だって。」
翡蓮が笑って言うと、緋皇は疑り深そうな顔になった。
緋皇は、指の腹で、つっと翡蓮の傷口をなぞる。
あまり痛くはなかったが、翡蓮はかすかに身じろぎする。
「やっぱり。」
「くすぐったいんだって。もう塞がってるし、もともとそんな深手でもないから。痕も残らないって。」
翡蓮が小袖を直しながら言う。
緋皇は、まだ、何か言いたそうに翡蓮を見ている。
視線をたどって、翡蓮は、ああ、と気づく。
首筋には、緋皇の爪がつけた赤い線が残っているのだろう。緋皇の指の痕も。
翡蓮自身には見えない位置だが。
「すぐ消えるよ。」
「おまえって、なんで、オレやったこと全部許すんだよ。」
(小さい子が拗ねてるみたいだ。)
翡蓮は思わず笑いそうになる。慌てて表情を引き締め、
「オレはおまえが。」
言いかけて、翡蓮は、ハッと瞠目した。
「四級神術発動、翔風絶壁!」
風の盾に弾かれて、ガシャンと、銀の刃が砕け散る。その先に。
「せっかく見逃してやったのに、なんでもどってきた?」
緋皇の声で、緋皇に向かって言う、鏡の妖の姿。
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