「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~

火威

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第二幕

「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~

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第二幕

 龍神国には、人と共に人外の者が住む。
 それは、妖怪とも化生とも怪異とも呼ばれる、闇に生きる異形たちだ。
 たとえば、鬼、天狗、河童、妖狐、牛鬼、海座頭、鵺…。
 海や川や山奥など、特定の場に出るモノもいれば、長い年月を経て、器物が妖と化す場合もある。
 特定の場に出る妖は、自然の気が凝ったモノであり、性質が穏やかなものもいる。音だけがする、夜道で袖を引かれるという程度の悪戯しかしないものも。
 器物が妖と化した付喪神は、使われていた状態によっては、邪悪で残忍な性質になる。特に、数多の人間の血を吸った刀、負の感情の強い人間を映し続けていた鏡、度を越した所有欲の対象になった、高価な櫛やかんざし、茶器などだ。
 雪女のように、人と関わり、子までなした妖もいれば、闇雲に人を襲う妖もいる。鬼や天狗など、力の強い妖は、村一つ滅ぼすほどの被害もたらすこともある。
 人に害を為す妖を、龍神の力をもって調伏する者たちがいつ頃現れたかは、諸説あって定かではない。最も古い説では、建国とほぼ同時期にまでさかのぼれると言う。
 彼らは、凶悪な妖に対抗するために、次第に集まり、共に戦うようになった。その頃には既に神官という名称が生まれていた。彼らの生活の場は神殿と呼ばれ、龍神国の各地に点在するようになった。
 現在は、龍の形をした島国のちょうど中央に、正神殿が置かれ、各地の支神殿を統括している。
 国の中央に、総本山とも言える正神殿が置かれたのは、中央は支配層が切り替わる境界だからだ。
 龍神国は、東は、将軍を中心とした武家が、西は帝を王と仰ぐ公家が支配している。
 神殿は、武家にも公家にも与しないということを、はっきりと示すために中央の地が選ばれた。神殿領と呼ばれる各地の荘園は、武家からも公家からも支配を受けない。神官は、いかなる権力にも屈せず、妖から無辜の民を守ることを信条としている。
 そこまで読んで、翡蓮ひれんは教本から顔を上げた。
 懲罰房から急いで戻ったら、講義の開始までわずかに時間ができたので、前回習った部分を読み返していた。翡蓮は基本的に本が好きなので、時間があると教本でも読みふけってしまう。
 翡蓮の邪魔をしないように待っていたのだろう。顔を上げるとすぐに、
「翡蓮、二限の後、どこ行ってたの?探したんだよー。」
「一緒に遊ぼうと思っていたのにー。」
と、両脇から玻璃と瑠璃に抗議されてしまった。実戦に出ない日は、午前中四限、昼食を挟んで午後から二限、講義がある。午前中の二限と三限の間は、四半刻の休み時間なので、玻璃と瑠璃は翡蓮と一緒に過ごしたかったらしい。
(悪いことをしたかな。)
と、思いつつも、誘われても断っていただろうな、と翡蓮は思う。緋皇ひおうには釘を差しておかないと心配だ。
「ごめん。」
と、謝っていると
「双子ー、あんまり駄々こねて翡蓮を困らせるなよー。」
と、別の候補生から声がかかる。
「そうそう。翡蓮、やっと講義出られるようになったとこだろ。」
「ただでさえ、問題児の世話で大変なんだから、おまえらの面倒まで見られないって。」
 どの声も翡蓮を気遣うあたたかさを含んでいる。誰にでも親切で、誰の相談にも親身になる翡蓮は、皆に好かれ、頼りにされている。
「あ、翡蓮、悪いけど、オレ、今日、絶対あてられるんだ。宿題の答え、これで合ってるか見てくれねえ?龍神の御子って、もともとは龍の愛し児って名称でよかったよな?」
「あ、オレもオレも。神術を発動するときに気を付けることってさあ、術力消費量と成功率と威力でよかったよな?」
「龍の愛し子だ。簡単な子の方。一つ足りない、妖の属性が抜けてる。」
 翡蓮がさらりと答えたところで、
「「自分たちだって翡蓮に頼り切ってるじゃん!」」
 玻璃と瑠璃が息ぴったりで文句を言ったので、その場にいた全員が噴き出した。
 そこへ
「みなさん、ずいぶんにぎやかですが、静かに着席して待っているように。」
 にっこり。
 亜麻色の髪をなびかせて入室した琥珀が、氷の微笑みで教え子たちを見回したので、一同は震え上がった。

「では、本日の「高等神術論」は、前回のおさらいから始めましょう。実戦の中で神術を発動させるときの注意点を。」
 指名された候補生が、さっき翡蓮に教えられた四点目を抜かさずに答えると、琥珀は満足そうに頷いた。彼は、ほっとした顔で、翡蓮に小さく手を振る。
「では、今の四点について詳しい説明を、翡蓮。」
「はい。」
と答えて立ち上がった翡蓮が、淀みなく語りだす。
「一級、そして、そのさらに上の特級神術などの高等な神術、つまり威力の大きい術は、消費する術力が大きく、さらに成功率が低くなります。無論、修練によって術力の総量や成功率を上げることは可能です。しかし、むやみに高等な神術を発動させるのではなく、その妖がどの程度の術で調伏できるのか見極めて術を選ぶことが大切です。」
 すらすらと言いながら、翡蓮の脳裏には緋皇が浮かぶ。緋皇は、神術において天賦の才に恵まれているのだろう。術力の総量が桁違いに大きく、さらに成功率が高い。修練をしょっちゅうさぼっているのに、純粋な戦闘力なら、翡蓮より上だ。
「また、妖にはぞれぞれ属性があり、河童や海座頭など水の妖には、火の神術が、鵺や狂骨といった闇の妖には、光の神術が最も有効です。以上です。」
と、よく通る声で堂々と言って着席した翡蓮に、琥珀は
「素晴らしい。さすが<宝珠>、翡蓮です。」
と賞賛し、つけ加えた。
「龍神の御子は、七龍のうちの一柱の加護を受けているがゆえに、一属性の神術のみに特化しがちですが、他の六属性の神術も使いこなせるようにせねばなりません。」
 龍神の御子たちは、「はい。」と声をそろえた。
 龍神の御子とは、髪や目に、七龍の色彩を与えられた子どもたちだ。
 緋皇は紅龍の「赤」を、翡蓮は、翠龍の「緑」を、それぞれ瞳に持っている。それは、龍神が、加護の証に与える色であり、色を与えてくれた龍は、御子にとって「守護龍」だ。
 ちなみに、紅龍、橙龍、黄龍の鱗は銀、翠龍、青龍、藍龍、紫龍の鱗は金。目だけでなく、髪にまでその色彩を与えられることは稀だが、瞳にだけ持っている者はそれほど珍しくはない。
 龍神の御子は、総じて神術を扱うことに長けているので、神官を目指す者が多い。しかし、武家や公家の跡取りである場合などは、龍神の御子でも神官にはならないのが普通だ。また、龍神の御子でなければ神官になれないというわけでもない。
 琥珀が教本を取り上げた。
「では、本題に入りましょう。今日は、紅龍の力を使った神術についてくわしく学びます。火の属性の術は、攻撃に特化しています…。」
 講義が中ほどまで進んだとき。
「では、ここからは討議の時間にしましょう。今日の主題は、火の神術を使いこなすための有効な。」
 琥珀の言葉が、不自然に途切れた。
 ドン!!
 正神殿全体が、大きく揺らいだ。
「今のは…。」
 翡蓮が蒼ざめた。
 正神殿の守護の一角が、崩れ落ちたのだとわかる。そして、神官候補生として優れた実力を持つ翡蓮には、綻びが生じた方角も。
 それも、外側からの攻撃ではなく。
「緋皇!!」
 翡蓮が教室を飛びだして行く。
「翡蓮、貴方はまだ走っては!!」
「翡蓮!」
「翡蓮、待って!!」
 琥珀や玻璃たちの制止も、翡蓮の耳に入らなかった。

 懲罰房は、ごうごうと音をたてて燃えていた。
 たなびく黒煙が目に沁みる。朱金の火の粉が舞う。
「緋皇!!緋皇!!」
 翡蓮は喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「四級神術発動、清水。」
「やめとけ。」
 図形を描き出した翡蓮の前に、すっと制止の手が伸ばされた。
「怪我人は大人しくしてな。」
 夜空の色の、漆黒の髪がなびいた。
 たくましい長身、大きな背の半ばほどを覆う、長い艶やかな黒髪。
 切れ長の瞳は、深く濃い紫水晶。
 白い小袖、袴の色は、全神官の中でただ一人に許された紫紺。
「<龍王>猊下!?」
 翡蓮は瞠目して叫ぶ。
「一級神術展開、海流天降。」
 全神官の頂点に立つ男は、気負いなく高等神術を操る。
 水桶をひっくり返したような豪雨がぶちまけられた。
 大地を穿つ勢いで。
 この世の全てを焼き尽くすかと思われた、地獄の業火のごとき炎が、一瞬で消える。
(…すごい。)
 翡蓮は、声も出せずに、最高位の神官を見上げた。
 濡れた金髪から落ちる滴をぬぐうことすら忘れて。
 瞳の色からすれば、雷光と雷鳴を呼ぶ紫龍の加護を受けているはず。それなのに、得意な属性とは異なる一級神術を、やすやすと使いこなした。
「しかしまあ、派手にやらかしてくれたもんだな。ああ、言っとくが、緋皇ってやつは、もうここにはいないぜ。」
 <龍王>の言葉に、翡蓮は、ハッと我に返った。
 片膝をついて頭を下げる。
「<龍王>猊下。伏してお願い申し上げます。ご慈悲を。緋皇は、私が責任をもって連れ戻します。必ず謝罪させます。ですからどうか寛大なご裁可を!」
 ため息一回分の沈黙があった。
「翡蓮、だったな。<宝珠>の。おまえが優秀って話は、俺の耳にも入ってる。顔上げな。」
「はい。」
と、見上げ、初めてまともに顔を見た<龍王>は、端正な顔立ちをしていた。年の頃は二十代後半だろうか。ただ、力が強い神官ほど、自然の気を取り込んで老化が遅くなるので、本当はもっと長い年月を生きているのだろう。
 夕空を切り取った桔梗の双眸は、底が見えない深い色をしていた。
「責任をもってと、おまえは言ったが。おまえが懸けるものは何だ?」
 光と闇が交錯する、黄昏時の空を映した瞳。
 それを静かに見返す瞳は、色あせない常盤緑。揺らがぬ決意を宿して。

「オレの全てを。」

 <龍王>が、かすかに目を細めた。
「おまえが、緋皇を庇うのは、あいつの出自ゆえか?」
「いいえ。」
 考えるより前に答えていた。
「緋皇がオレの友達だからです。」
 相手が至高の存在でも、怖れず、怯まず。
 譲れない思いを。
「…緋皇は、そう思ってくれていないけれど。でも、オレにとっては、緋皇は友達です。」
 <龍王>が小さく噴き出した。とたんに、砕けた印象になる。案外、こちらが素なのではと思わせる。そう言えば、口調も、身分に合わない気さくなものだ。
「いーね、そういう若さは。じゃあ、行きな。どうせ、止めても無駄なんだろ?」
 翡蓮の顔が、パッと輝いた。
 双眸が、星のように光を放つ。
「ありがとうございます!」
 金髪をなびかせて走りだしたその背中に、<龍王>は、無駄と知りつつ声をかける。
「無理すんなよ、おまえ治りかけつっても、怪我人だろ。」

 翡蓮が駆け去ってから、それほど間を置かず。
「猊下。」
 <龍王>の背後から、琥珀が声をかけた。
 二人の神官の眼前には、かろうじて半焼で済んだ、無惨な懲罰房。
 柱は、真っ黒に焼け焦げている。
「派手な脱走だよな。」
 深刻な事態を面白がっているような<龍王>に、琥珀が柳眉を逆立てた。
「何を呑気なことを!懲罰房を焼いて脱走など前代未聞です!すぐに追手を!」
「<宝珠>が血相変えて追ってたぜ。」
「<宝珠>と言えど、翡蓮は候補生です。彼一人に任せるわけにはいきません!」
 亜麻色の髪をなびかせ、身を翻した琥珀の手首を、<龍王>のたくましい腕がつかんで止めた。
「猊下!?」
「待てって。ここは、翡蓮に任せろよ。」
 紫苑と黄金の視線がぶつかり合う。
 息の詰まる、無言の数秒間。
 沈黙を破ったのは、<龍王>だった。
「あいつ、自分の全てを懸けるときた。泣かせる友情だと思わねえか?しかも、緋皇の出自は関係ないときやがった。」
 くく、と面白そうに喉で笑う。
 <龍王>の笑みに毒気を抜かれたように、琥珀は大きく息をついた。
(この方がそう決めたのなら、私にはもうどうしようもないけれど。)
 それでも、言わずにはおれない。
「緋皇が、翡蓮の気持ちに応えるようには思えません。何より、緋皇は、出自が出自です。神殿では、俗世の身分にかかわらず、皆平等に扱われるのが原則ですが、それでも、東と西の両王家の血は重すぎる。廃嫡の身とは言え、元は日嗣の君。扱いを間違えれば、幕府と朝廷は、猊下に責任を問うでしょう。神殿を非難する格好の口実を。」
「幕府と朝廷に非難されたくらいで揺らぐような神殿にした覚えはねえな。」
<龍王>の声音に怒りはなかったが、聞く者の背筋を寒くさせる凄みがあった。琥珀は息を呑んで居住まいを正した。
「申し訳ありません。」
「それに、緋皇が翡蓮の気持ちに応えないって決めつけるのもどうかと思うぜ?」
 <龍王>の声音は、すぐに元に戻る。
「おまえだって、拾ってから懐くまでに、ずいぶん時間がかかったもんな、ハク?」
「っ。」
 <龍王>の流し目に、琥珀は真っ赤になる。
「いつまでも子ども扱いはやめていただけませんか?」
「じゃ、おまえもいつまでも、猊下って呼ぶのやめな。」
 琥珀は、肺の中が空になるほどのため息をついた。
(結局、いつまでたっても、敵わない。)
「わかりましたよ、紫天してんさま。これでよろしいですか?」
「おう。最近誰にも名前で呼ばれねえから、忘れそうになるぜ。」
 広い肩をすくめた養い親が、寂しそうに見えて、琥珀はあえて生意気な物言いをした。
「見た目若くても、中身は耄碌してるんじゃありませんか?」
 言いながら、琥珀は、ひそかに決意を固める。
(私が守る。この神殿も。紫天さまも。そのためになら。)

(緋皇、おまえ、どこにいるんだ。)
 容赦なく照り付ける真夏の日射し。首筋に伝う汗を、手の甲でぬぐって、翡蓮は進む。
 風景が白くかすみ、揺らぐ。
 ふっと、意識が遠のきかける。
 代わりに脳裏に浮かぶのは、遠い夏の日に交わした会話だ。
 これ以上行ったら、下りられなくなるくらい高くまで登った木の上。
 生い茂った木の葉が、真夏の光を遮ってくれるおかげで、暑さが和らいでいた。吹き抜ける風は、かすかだが涼気を含んで。
 そして、隣には。
「すごいなあ。すっごく遠くまで見渡せる。」
「まあ、ここ、もともと城の中でも高い場所だしな。」
「うん。城も山の上だから、登るの大変だった。城下の町全部見えそう。コウ、おまえ行ったことある?」
「ねーよ。あ、レン、おまえ今馬鹿にしたな?」
「してないって。今度いっしょに行こう。すっごくおいしいあんみつ屋さんがあるんだ。つれて行ってやるよ。ほら、おまえは、いつかこの東の地を治めるんだから、庶民の暮らしも知っとかないと。」
「みんなそう言うんだよなあ。めんどくせえ。」
「…そりゃ、大変だろうけどさ…でも、上に立つもの次第で、民の暮らし向きが変わってくるんだから、おまえは、がんばらないと。」
 言いながら、こいつ一人だけに重荷を背負わせちゃいけないと思った。
「オレも手伝うからさ。」
「おまえが?」
「うん。もっと勉強して、剣術ももっと強くなって、おまえを支えらえるようになるよ。おまえを守るために、オレは強くなるよ!」
 目を丸くしたコウが、次の瞬間破顔して、それだけで、花が一斉に開いたみたいだった。
 どうして、と思う。
 もう何年も前の、遠い夏の日が、こんなにも鮮やかなのだろう。
 翡蓮は、気が付いたら、町中を歩いていた。正神殿の領内の町は大きい。将軍の住む鳳凰城や、帝の坐する麒麟城の城下町にも匹敵する規模だ。
 親の袖を握って歩く幼子。振袖姿の娘たちが、簪の品定めをしている。いかめしい顔で通り過ぎる浪人。数人連れだって、下駄を鳴らし、はしゃぎながら駆けて行くのは、翡蓮よりもいくつか年下の子どもたち。
「ほら早く!あんみつ、売れきれちまうぜ!」
「まってよ、兄ちゃん!」
(あんみつ…?)
 ふと耳に引っかかった言葉に、子どもたちを視線で追って。
 翡蓮は、その先に。
「緋皇!!」
 見慣れた、柔らかそうな銀の髪を見つける。真夏の午後の日射しを弾き返す、眩暈を誘うほどにまばゆい白銀。
 翡蓮は、一気に距離を詰め、緋皇の両肩を強くつかんだ。
「緋皇、おまえ、何を考えているんだ!」
 緋皇は、はっきりと顔をしかめた。
 力任せにつかまれた肩が痛かったのか、それとも。
「今すぐ神殿にもどるぞ。オレも一緒に謝ってやるから。」
 翡蓮は、緋皇の肩から両手を外し、右手で緋皇の腕を引く。
 振り払われた。
「緋皇!?」
 よろめいた翡蓮が、緋皇を見る。
 緋皇の真紅の双眸に燃え上がる、怒りの炎。
 全てを、己自身さえも焼き尽くし、それでもなお消えない、地獄の業火のような。
「もどんねーよ。」
 瞳に燃える炎とは真逆の、極寒の声音。
「緋皇!」
「もう、うんざりだ。神殿にも、おまえにもな、翡蓮。」
「っ。」
 緋皇の言葉が、刃のように翡蓮を切り刻む。
 翡蓮は、歯を喰いしばった。少しでも気を抜いたら、涙がこぼれそうだった。
「どうしてだよ、緋皇…。」
 翡蓮の桃花の唇からこぼれ落ちたのは、ふだんの彼からはかけ離れた儚げな、頼りないものだった。
 揺れる翠玉の瞳を見据え、緋皇は酷薄に嗤う。
「どうして?オレは好きで龍神の御子になったわけじゃねえよ。おまえだって同じだろ?」
 生まれながらにして、龍神の御子だった者は少ない。
 ほとんどの龍神の御子は、ある日突然、瞳の色が変化する。七つを過ぎた頃に。
 一説には、七つまでは総じて「人」の子ではなく、「神」の子。七つを境に、「人」の子か、真の「神」の子か分かたれるのだと言われている。
 そして、「人」の子か「神」の子か、選べるわけではない。誰もが。
「それは…おまえの言う通りだけど…。」
 翡蓮は、緋皇が何を言いたいのかわからない。
 彼の苛立ちの理由も。
 数年間、同じ部屋で寝起きして、一番近くで過ごしてきたけれど。
(どうして、おまえは、こんなに遠いんだ。)
 絶望しそうになりながら、それでも翡蓮は、顔を上げて緋皇を見つめる。
 緋皇は、鮮血の双眸を鋭くすがめた。
「じゃあ、なんで、おまえは、大人しく、神官候補生なんてやってる?押し付けられたもんだろ、こんなのは!」
 常に正しくあろうとする翡蓮。清らかでまっすぐな性根。分け隔てなく誰にでも優しい笑顔を向け、自分を犠牲にしてでも誰かを守ろうとする。
 神官としての理想の姿を描こうとするかのように。
「ちがうよ。神官になりたいと、オレが望んだ。これは、オレの選んだ道だ。」
 迷いなく告げた翡蓮に、緋皇の瞳が冷たく光る。
「オレは、おまえのそういうところが大嫌いだ。」
「緋皇。」
「連れ戻したいなら、力づくで来いよ。オレに勝てたらもどってやる。」
 煽るように。挑発的に。緋皇は親指で自分の喉を指さす。
 翡蓮が息を呑む。
 修練の中で相手をしたことは幾度もある。けれど、それとは全く違うとわかる。
 緋皇が言っているのは、本気の。命がけの。
 危うい均衡を保ってきた自分たちの関係が、決定的に変わってしまう予感がした。
 けれど、翡蓮は退くことはできない。
 翡蓮は、緋皇を諦められないから。
「なら、オレは、絶対におまえに勝つ。」
 緋皇が、ふっと笑った。今日初めて、否、数年ぶりに見た、楽しそうな笑みだった。
「上等。」

(我が主の愛し子。貴方が探している者たちが見つかりました。封じの森です。)
 ささやく声の持ち主は見えない。けれど、話しかけられた相手は、ごく当たり前に返した。
 膝をつき、片手をついて、大地の声を聞き、言葉を返す。
(ご苦労。そのまま様子を見なさい。)
(よろしいのですか。彼らの戦いは、封じの森の呪物に影響を。万が一、封印が解けた場合は。)
(よいのです。)
(…。)
 有無を言わせぬ断言に、黄龍の眷属たる大地は沈黙する。

「場所変えようぜ。<宝珠>サマは、町の人間巻き添えにすんのイヤだろ?」
 皮肉な口調で言って、緋皇は翡蓮を人気のない場所へ連れて来た。
 鬱蒼と生い茂る、一面の緑。真夏の日射しが遮られ、薄暗く感じられるほどの。
 翡蓮たちが住む正神殿も、敷地の外側をぐるりと森に囲まれている。
 だが、この森は神殿の外側に広がる森とは違う。
 身が引き締まるのに、同時に包みこまれるような清涼な気配とはほど遠い。
 風が渡る葉擦れの音がするたびに、不穏な気分になる。
(ここは、確か、封じの森…。)
 琥珀たち教官からは、できるだけ近づくなと言われている。はっきり禁止とまでは言われていないが。
(確か、理由は…。)
 ぽっかりと開けた場所まで来て、緋皇は足を止めた。
 明らかに人為的に作られた場所だ。切り株の状態から、木々が切り倒されて久しいのがわかる。草も刈り取られているので、定期的に人の手が入っているのだろう。
 距離を置いて、翡蓮と緋皇は対峙する。
 翡翠と真紅の視線が交錯する。
 金と銀の髪を揺らし、風が吹き過ぎる。
 どきん、と。
 高鳴ったのはどちらの胸か。
 翡蓮は、きりきりと、空気が引き絞られていくのを感じる。
 今から始まるのが、けして模擬戦でも実習でもないことを実感する。
 ひしひしと伝わってくるのは、緋皇の「本気」。
「じゃあ、やろうぜ。参ったって言った方が負けな。」
 緋皇が唱える。刀印で図形を描きながら。
「四級神術発動、華焔乱舞!」
 桜吹雪が吹き荒れた。視界を埋め尽くして。
 しかし、花弁の色は真紅。
 その一つ一つが、燃え盛る炎。
 四方八方から、翡蓮に襲い掛かる。
「四級神術発動、翔風絶壁!」
 翡蓮の周囲に、風の壁が出現する。
 一瞬たりとも止まらない、吹き続ける風の壁。
 炎の花弁を防ぎ、そのまま弾き返す。
 しかし、翡蓮に息をつく暇はなかった。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
 無数の火の花は、ただの目くらまし。
 消えたとたんに、緋皇が刀を構えて飛びかかかってくる。
「三級神術発動、玉風乱刃!」
 翡蓮が起こした突風が吹き荒れる。
 無数の風の刃が、燃え盛る炎をまとう刀に激突する。
 パキィン!!
 甲高い、澄んだ音をたて、炎をまとった刀が、砕け散る。
 折られた瞬間、まとう炎も消えていた。
「チッ!」
 緋皇が、折れた刀を投げ捨てる。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
 翡蓮の背中から、淡い緑の光が放たれる。
 ふわりと広がる、大きな光の翼。
 ばさりと、力強く、そして優雅に羽ばたく。
 翡蓮は、空に浮かんだまま、さらに。
「二級神術発動、疾風千矢!!」
 翡蓮の手の中に、弓が生まれる。
 同時に二つの神術を発動させる高等技術。
 構えて、引き絞る。
 放たれる、風の矢。
 翡蓮が次々と矢を放つ。
 豪雨のように地上を穿つ。
 初矢。
 緋皇は、ひらりと身をかわしたが、かわしきれず、矢が頬をかすめた。
 つうっと、鮮血が伝う。
 蒼白い肌に、鮮やかに浮き上がる紅。緋皇の双眸の色。
 翡蓮を仰いだ緋皇が、にやりと唇の片端をつり上げる。
 降り注ぐ矢の雨の中で。
 空から狙い打たれる危機的状況を楽しんでいるかのような、狂気を感じさせる笑み。整った顔立ちだからこそ、その歪みが際立つ。
(緋皇?)
「二級神術発動、天裂炎槍!」
 大地から、炎が無数に噴き出した。
 まさに、天を突く勢いで。
 まっすぐに伸びる、炎の柱。
 風の矢にぶつかって、呑みこんで、けれど、その勢いは止まらない。
「っ!」
 狙い打たれるのは、翡蓮の方になる。
 翼を羽ばたかせ、炎の槍の領域から逃れようとする。
 しかし、炎の槍が伸びる方が速い。
 炎の槍が、翼を貫く。
 翡蓮の体には届かなかったが、翼が消え、翡蓮は落下する。
「!」
 大地に激突する。
 とっさに受け身をとったが、背中と、そして胸から腹にかけて激痛が走った。
 動けるようにはなっていたが、完治はしていなかった傷が、地面に叩き付けられた衝撃で。
 それでも必死で半身を起こした翡蓮を、緋皇が押し倒す。
「っ!」
 緋皇は、翡蓮の細い首に手をかけた。
 珊瑚色の唇の両端がつり上がる。
 獲物をしとめた肉食獣の、獰猛な笑み。
 翡蓮は、間近に迫る、血赤珊瑚の双眸に、呆然と目を見開く自分の顔を見る。
 嗤ったまま、緋皇がつ、と桜貝の爪の先で、翡蓮の首筋を引っ掻く。
 血が滲む寸前の、赤く筋がつく程度の。
 捉えた獲物をいたぶる、暗い愉悦の笑みを浮かべて、緋皇は翡蓮の耳元でささやいた。
 耳朶をくすぐる吐息は、甘くて冷たい。
「参ったって、言わねえの?」
「言わない。」
 反射的に答えていた。
 あきらめないと決めた碧の瞳には、一歩も引かない強い光がある。
 受け入れてもらえないのは、自覚している。
 届かない思いを捨てられない自分は、愚かで滑稽で、憐れなのかもしれない。
 聡明な翡蓮にはわかっている。
(全部わかってるけど、それでも、オレは、おまえが。)
「二級神術発動、嵐。」
 緋皇の左手が、翡蓮の口を塞いだ。
 緋皇の右手の指が、翡蓮の首に食い込む。
「!」
(苦しっ…。)
「おまえの、こういうところが、オレは心底嫌いなんだよ。」
 低い声だった。
 怒りを凝縮して、押し殺して、閉じ込めたような。
(オレと同じ立場のくせに、なんで、おまえは。)
 だから、手酷く傷つけて、泣かせてやりたくなる。
 制御できない凶暴性が緋皇の中に渦を巻いた。
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