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第三幕
「おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ。」~龍神少年 参~
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第三幕
緋皇、翡蓮、玻璃、瑠璃の四人は、庄屋の屋敷を出て、村はずれにある湖へ向かっていた。
十年に一度、生贄の娘は湖のほとりで八岐大蛇を待つ。自らの命を差し出して、村に水の恵みを得るために。
四分の一刻ほど歩き、庄屋の屋敷から二分の一里ほど離れた辺りで。
「緋皇。ちょっと話がある。」
と、翡蓮が足を止めた。
まっすぐに緋皇を見る目が、いつもより厳しい。
「あ?なんで今?やっぱり着替えたいとか言い出すなよ。似合ってんだからいいじゃねーか。」
緋皇が、翡蓮の雰囲気の変化を敏感に感じ取り、ふざけて流そうとしたが、翡蓮はそれを許さなかった。
「緋皇。」
と、重ねて呼ぶ。珍しく、緋皇がかすかに怯んだ。
「…。」
玻璃が空色の瞳をふっと翳らせた。
「ボクたちは、先に行ってるね。」
と声をかけ、返事を待たずに歩き出す。
「ほら、瑠璃、行くよ。」
と、弟の手を引いて。
「え、ちょっと、玻璃、なんで?」
瑠璃は、わけがわからないまま、玻璃に連れられて行く。
緋皇たちの会話が聞こえない距離まで離れたところで、瑠璃が
「ちょっと、どーいうこと?玻璃。」
と自分そっくりな兄の顔をのぞきこんだ。
玻璃が軽く肩をすくめる。
「だって、ボクたち邪魔でしょ?瑠璃だって、ホントはわかってるくせに。」
「それは、わかるけどさあ…。」
瑠璃は、納得しかねる色を、玻璃よりも濃い青の目に浮かべている。
入り込めない空気。
お互いしか目に入らない絆。
「なんか、緋皇、ズルイよ。ついこの間まで、翡蓮のことなんか大嫌いって態度だったくせに、」
「今は自分が翡蓮の一番なのが当然って思ってるのが、気に入らない?」
さすが双子、と言うべきか。
自分の考えを正確に読み切って言い当てた玻璃に、瑠璃が大きく頷く。憤懣やるかたない、という気持ちが、ありありと浮かんだ表情で。
玻璃は、ため息混じりの苦笑を返す。
「まあ、しょうがないよ。事実だもん。翡蓮にとって緋皇は別格。最初からね。」
「でもさあ。ボクたちだって、翡蓮の仲間だし、友達だよ?」
「友達にもいろいろあるから。」
玻璃はあっさりと言い放つ。瑠璃は、ムッと頬を膨らませた。常よりもさらに幼い印象になる。
「瑠璃にはボクがいるでしょ?」
玻璃は、にこ、と微笑んで、つないだままだった手を、ぎゅっと握った。
(玻璃の、こういうとこ、スキだけどキライ。)
周囲の誰もが、自分たちを何もかもそっくりな双子だと言う。容姿も、性格も。年齢よりも稚く、無邪気だと。
(ボクだって、いつもはそう思ってるけど。)
けれど、ふいにのぞかせる、「兄」としての顔を見ると、玻璃は一歩とは言わないまでも、半歩は自分の先にいるような気がして。ちょっと悔しくて、でも、本当は。
(スキだけどキライ。でもスキ。)
☆
「緋皇。守るべき無辜の民を、侮辱したり傷つけたりする発言は慎め。」
案の定、翡蓮の口から出たのは叱責だった。
生真面目で頑固な、<宝珠>の顔をした翡蓮から、緋皇は視線を反らす。ふて腐れた顔で。
「ふん。そんなカッコで凄んだって、迫力なんかねーよ。」
「緋皇。」
翡蓮の声は冷たくはなかったが、緋皇の心に突き刺さる鋭さがあった。
緋皇が、翡蓮に視線をもどした。
バチッという音がしそうなくらい、強く視線がぶつかり。
「オレは、間違ったことは言ってねーぜ?」
「オレもおまえも、飢えたこともなければ、苗を植えたことも、稲を刈ったこともない。植えた苗が日照りで枯れた経験も、収穫前の稲が水につかるのを見ているしかなかったことも。」
稲作は、水の恵みに左右される。そして稲の出来次第で、永らえる命の数が決まる。
龍神国は、七柱の龍神の恩恵により、餓死者が多く出るほどの飢饉は滅多にないが、皆無ではない。品種改良や肥料の質の向上により、収穫高は毎年増えているが、完全に安定しているわけでもない。自然を相手にしている以上、絶対はない。
けれど、手に入らないはずの「絶対」を、得ることができると知ってしまったなら。
一体どれほどの人間が、その欲望に抗えるだろう。
神の誘惑に。
それが堕ちたる邪神だとしても、恩恵をもたらすのなら。
「この村の人たちだって、好きで生贄を差し出してきたわけじゃない。」
「…。」
緋皇は、真紅の目を眇めた。
緋皇とて、翡蓮の言っていることが、理解できないわけではないのだ。
六つの歳までは、この国の半分を統治することになる日嗣の君として、民の苦役も学んできた身だ。
それでも、緋皇にも譲れないことがある。
「気に入らねーんだよ。」
紅玉の瞳には、烈火の怒りがある。
そして、怒りの奥には。
「オレだったら、この国が滅びることになっても、おまえを絶対に渡さない。たとえ、本当の神を敵に回しても。」
「っ。」
翡蓮の呼吸が止まった。
息の仕方を忘れてしまったように、胸が苦しい。
数瞬遅れて。
「…神官候補生として、その発言はどうなんだ…。」
ようやく、翡蓮が口にできたのは、そんな言葉で。
緋皇は、チッと舌打ちした。
「あのな…。」
「ごめん。本当は、おまえがそんなこと言ってくれるなんて、うれしい。でも、神官候補生としては、よろこんじゃダメかなって。」
翡蓮は、ふわっと笑う。花がほころぶように。はにかむように。そこへ。
「おまえだって、同じだろ?」
と、緋皇がたたみかける。
「…うん。」
と、翡蓮は、小さくかすかに、けれど確かに頷いた。
緋皇は、それで満足したのか、
「じゃあ、行こうぜ。あんま待たせると、双子、ぎゃぎゃー言うだろ。」
と促した。
翡蓮が頷いた時。
近づいて来る灯りが、二つ三つ、視界をよぎった。
妖の気配はない。
緋皇と翡蓮は、目配せを交わす。
提灯を持って闇から現れたのは、庄屋と二人の村人だった。
「見届けさせていただきたい。あなた方の戦いが、この村の命運を分けることになる。」
重い響きだった。
翡蓮が首肯する。
「はい。」
☆
生贄や人身御供が、神の花嫁という形をとるのは珍しくはない。この白無垢は、神に捧げる花嫁のために、十年ごとに、特別にあつらえるものだと聞いた。花嫁本人さえ、儀式の当日に初めて身にまとうのだと。そして、それが最後になる。蛇神に喰われて、命を終えるのだから。
翡蓮は、誰も袖を通したことのなかった、真新しい白無垢をまとい、綿帽子をかぶって、金髪を隠している。
広大な湖のほとり。水のにおい。かすかに混じる、甘い金木犀の香り。草木も眠る丑三つ時。盛りを過ぎた虫の音が、寂しげに響く中、翡蓮は息をひそめて待っている。赤い毛氈の敷布に腰を下ろして。
心細くはない。
姿は見えないが、近くの茂みには、緋皇が身を潜めている。玻璃と瑠璃も。
ただ、よぎるのは琥珀の言葉だ。
ここに来る前、龍眼で琥珀に連絡を取った。マヨヒガの件があるので、無許可で勝手に動くのは躊躇われたのだ。緋皇は「黙ってりゃ、わかんねーよ。」と反省の欠片もない台詞を吐いていたが。
琥珀は「罪なき無辜の民の命がかかっている、緊急の案件なので許可しますが、くれぐれも油断しないように。神官候補生に回す仕事は、それぞれの小隊の力量を考えて割り振っています。ですが、今回はそうではないことを、肝に銘じなさい。」と厳しい表情で告げた。
翡蓮は、湖に目を向ける。
水面は、鏡のように凪いでいる。傾きかけた十六夜の月が、くっきりと映りこんでいる。
水面の月が割れた。
湖に立つさざなみ。
(風が変わった。)
涼気よりも冷気を多く含んだ、冬の気配を帯びた風ではなく。じっとりと生温い、生臭い風。同時に空気に満ちるのは、どす黒い瘴気だ。
「四級神術発動、翔風絶壁。」
翡蓮は小声で唱え、周囲に風の壁を築く。瘴気をはね返すだけの小規模な風なので、金髪が揺れる程度だ。
緋皇たちも、それぞれ神術を発動させて、瘴気を防いでいる。
防いでいても、瘴気の濃度が一気に増したのがわかる。
(来る!)
水面が大きく盛り上がった。
バシャアッッッ!!
水があふれ、濁流となって押し寄せる。
翡蓮は、翔風絶壁の勢いを強めて、水をはね返したが、神術を使っていなければ、びしょ濡れになっていただろう。
そして出現したのは。
その目は鬼灯のごとく、一つの体に頭が八つ、尾が八つ。体に生えるは、苔、檜、杉。
「八岐大蛇…。」
翡蓮が、呆然と呟いた。さすがに、八つの谷、八つの山に渡るほどの長さはないだろう。しかし、人など一呑みにできるあぎとだ。シュウッとのぞく赤い舌でさえ、人の胴体に巻き付いても余るほどの幅がある。
翡蓮は、この村を訪れる前に滞在した宿で、美貌の若者から聞いた伝承を思い出した。
百年ほど前、この辺りの村の井戸が枯れ、一人の娘が、その身を自ら差し出した。八岐大蛇は、娘の願いを叶え、井戸の水を満たしたが、人の肉の味を覚えて狂い、それが堕ちる原因になった…。
あの伝承の村は実在した。この村の現在は、伝承の続き。堕ちた蛇神は、その後、十年ごとに生贄を喰らい続けて今に至るのだ…。
翡蓮は、白い袖に隠れた拳を握りしめる。
(ここで断ち切る。この村のために。何より、晴太くんのために。)
かろうじてこちらを視認できる、遠く離れた位置に、庄屋と二人の村人も隠れており、この戦いの行方を見守っている。一つの村と、そこに生きる人々の命運を背負った戦いだ。
鎌首をもたげた八つの頭が、しゅるっと翡蓮に近寄って来た。
瘴気の濃度が増す。
翡蓮は、ちらりと、緋皇たちが隠れている茂みに視線を流す。
ガサ、と揺れたところを見ると、おそらく、飛びだしかけた緋皇を、玻璃と瑠璃が止めたのだろう。
(まだだ。)
囲まれた。
(もう少しがまんしろよ、緋皇。)
怯えたふりで俯いたまま、翡蓮は心の中だけで呼びかけた。
<今回の贄か>
その声は、頭に直接響いた。
翡蓮が、かすかに顔を上げる。
間近で見ると、背筋が寒くなるほど巨大だった。
濁った朱色の瞳でさえ、翡蓮の頭ほどの大きさがある。
翡蓮が、腹に力を入れた。
風切る勢いで立ち上がり、綿帽子をはね上げる。
「おまえに贄を捧げることは、二度とない!!」
素早く、宙に図形を描いた。常より長い袖が優美に翻る。織り込まれた銀糸が、十六夜の月光に煌めく。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
翡蓮は、風をまとって、高く飛んだ。八岐大蛇の首も届かぬ上空へ。
そして、高らかに叫ぶ。
「緋皇、今だ!」
「焦らしすぎだっつーの!」
間髪を入れず、緋皇が応える。
ぎりぎりまで引き絞られ、ようやく放たれた矢のように飛び出した。
銀髪が、ザッとなびき、月光をはじく。
緋皇は、何の躊躇もなく、八岐大蛇に飛び乗った。
まるで体重を感じさせない身軽さで、駆け上がっていく。
大蛇にとっては、羽虫にまとわりつかれた程度のことなのだろう。反応は皆無。八対の目が追うのは、上空に逃れた獲物だけだ。
天に吹く風に、金髪をなびかせ、翡蓮が声を張る。
「瑠璃、玻璃、頼む!」
「「任せて!!」」
双子の声がぴたりと重なり。
「四級神術発動、流雨祓邪!!」
瑠璃が、浄化の雨を呼ぶ。水煙が白くけぶるほどの、滝のごとき豪雨。
「四級神術発動、凍結氷華!!」
玻璃が、極寒の凍気を呼ぶ。あふれた水が、見る間に凍てついていく。
大蛇の胴体を、尾を氷で覆う。
下半身の動きは封じた。
八岐大蛇が、八つの口から瘴気を吐き出す。シャアアアアッッッと、激怒を示すように。
危うげなくそれをかわし、緋皇が、一つの首の頭上に到達する。
そこに瘴気を吐いても、牙を向けても、自らの首を傷つけることになる。八岐大蛇は目を血走らせながらも、動けない。
緋皇は上空を見上げた。
翡蓮と、視線が強く絡む。
緋皇が、ためらわず飛ぶ。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
緋皇の背中に、天空を翔るための羽が広がった。
「「二級神術発動!!」」
寸分違わず、二人の声が重なった。
「紅蓮焦土!!」
「神皇息吹!!」
視界の全てを白く染め上げて。
灼熱の塊が落とされる。
炎が、爆発的な勢いで、一気に燃え広がった。
全てを薙ぎ払う、野分のごとき烈風に煽られて。
同時に、瑠璃と玻璃は、それぞれの神術を解除している。
氷に勢いを減じられることなく、猛々しい炎が、八岐大蛇の全身を蹂躙した。
轟音と衝撃。
舞い上がった土埃が、視界を覆い隠す。ジュウジュウと、肉の焼ける音。煙に瘴気が混じったにおいに吐き気がする。
それが薄れたとき。
七つの頭が、一か所に集まっていた。身を寄せ合うように。
そのどれもが、黒く焼け焦げ、ところどころ、肉がずるりと崩れ落ち、骨をのぞかせている。
ドサッ。
そのうち、一つの頭が地に落ちる。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
七つの頭が堕ちた。
その奥に、残っていた。
無傷の、最後の、八番目の頭が。
怒り狂った、一対の鬼灯色の眼が。
「一つ残っちまった。邪神っつっても、そこいらの妖とは違うってか。」
トン、と大地に下りた緋皇が、いつでも神術を放てるように、刀印を結んだまま言う。
「まだ仕掛けるな、緋皇。」
「風翼飛翔」を保ち、空に留まったまま翡蓮が言う。翡蓮の中で、高速で思考が駆け巡る。それが、この小隊の司令塔としての自分の役割だと熟知している。
(なぜ、頭を一つだけ守った?他を犠牲にして。)
「あの頭は、特別なのか?他にはない力がある?」
翡蓮が呟いた時。
八岐大蛇の最期の頭が、大きくあぎとを開いた。
「四級神術発動、翔風絶壁!!」
翡蓮が、自分と緋皇の前に風の壁を築く。
ゴウッ!
吹き渡る清風。金銀の髪が大きくなびき、袖が翻る。枝がこすれ、葉が弾け飛ぶ。
(いや、足りない!)
察知したのは、本能か、経験か。
シャアアアアアアアアアア!!
大蛇の口が、瘴気を吐く。
「緋皇、下がれ!」
「チッ!」
緋皇は、舌打ちしながらも、翡蓮の警告には従う。
「四級神術発動、滝流降雨!」
瑠璃が、翡蓮と緋皇の前に滝のような雨を降らせ。
「四級神術発動、凍結氷華!」
玻璃がそれを凍てつかせて、氷壁と為す。
風と氷の二重壁。
それでかろうじて、瘴気を防げた。
飛び散った瘴気が、一瞬で大樹を腐らせ、大地を溶かす。
八岐大蛇の体から、常に放たれていた瘴気とは桁が違う。
ゾッとしながらも、翡蓮の思考は止まらない。
(濃い瘴気を吐けるから、この頭を守った?)
その間にも、大蛇は瘴気を吐き続ける。
ピシッ。
風の壁の外側、氷の壁に亀裂。
「時間の問題ってやつじゃねーの?」
見極めた緋皇が、翡蓮を見る。
翡蓮が頷いた。
緋皇が叫ぶ。
「二級神術発動、天裂炎槍!」
大蛇の首の真下の大地から、炎が噴き出す。
灼熱に炙られ、大蛇がのたうつ。それでも、瘴気は吐き続ける。
二重壁を強化したいが、維持が精いっぱいだ。特に、瑠璃と玻璃の術力は、緋皇どころか翡蓮と比べても半分ほどしかない。
根競べだと、誰もが思っていた、その時。
危険に最も早く気づいたのは、翡蓮だった。
背後で、ボコボコッと、不気味な音がした。
水面から、なにかが湧き出てくるような。否、それは肉が盛り上がり、再生する音。
翡蓮がハッと振り向いた時には。
焼け落ちた首のあった場所に、新たな首が生えていた。鱗が月光にぬらぬらと光る。
新たな首が、ガアッとあぎとを開く。奥で、二つに割れた舌が蠢く。
残っていた首を燃やし尽くすことに集中していた緋皇が、最も無防備で、そして八岐大蛇にとって、最も目障りだった。
吐き出される瘴気。
「緋皇!!」
翡蓮だけが動けた。
緋皇を突き飛ばす。
翡蓮が、瘴気をまともに浴びた。
翡蓮の身代わりになって。
「うあああああああっ!」
翡蓮の全身が、どす黒い瘴気に包まれた。漆黒の炎に閉じ込められたように。
「三級神術発動、清焔浄化!」
緋皇が、神術を放つ。翡蓮に向かって。邪悪だけを焼きつくす、浄化の炎。
一瞬で瘴気が焼き払われて、跡形もなく消え失せる。
けれど、翡蓮の目は開かない。
儚く崩れ落ちた翡蓮を、緋皇が受け止めた。
「翡蓮、おい、翡蓮!!翡蓮!!翡蓮!!翡蓮!!」
狂ったように、翡蓮を呼び続ける緋皇。
その間にも、大蛇の二つの首が、鎌首をもたげている。
とっさに動けたのは、玻璃だった。
「四級神術発動、天泣吹雪!!」
縦横無尽に暴れ回る、極寒の烈風と氷雪だが
(ボクの力じゃ、足止めしかできない…。)
玻璃が叫ぶ。
「しっかりして、緋皇!!」
☆
全てが、遠かった。
「翡蓮…?おい、冗談やめろ…。」
緋皇の目に映るのは、ぐったりと目を閉じ、自分の腕の中で身動き一つしない翡蓮の姿。金の長いまつ毛ですら、ぴくりとも動かない。
音をたてて血の気が引く感覚。
そして逆流し、全身の血が沸騰する。
「翡蓮、ふざけんな!!そばにいろって言ったのおまえだろ!!」
意識が飛んだ。
「一級神術展開、紅龍逆鱗!!」
八岐大蛇が消し飛んだ。
☆
高熱に、八岐大蛇の二つの頭も、尾も、胴体も、全てが蒸発したかに見えた。
しかし。
首が一つ、ごろんと転がり。
ボコッ。
ボコボコッ。
再生を始める。
「瑠璃、水を!」
玻璃の指示が飛ぶ。
「四級神術発動、清水流祓!」
噴き出した大量の水を使って。
「三級神術発動、封印氷棺!」
玻璃が、巨大な氷の棺に、周囲の全てを閉じ込めた。八岐大蛇の破片の全てを覆う、凍てついた奥津城。
玻璃が崩れ落ちるように膝をつく。緋皇や翡蓮はやすやすと扱う三級神術だが、玻璃には負担が大きい。肩で大きく息をした。
「玻璃!」
瑠璃が慌てて駆け寄った。
「すごい、玻璃。これで八岐大蛇は。」
「こんなの、時間稼ぎだ。もって半日。」
玻璃が蒼ざめた顔で首を振る。
「とにかく今は撤退。翡蓮を。」
玻璃と瑠璃がふり返る。
気を失った翡蓮を抱きしめたまま、凍りついた瞳で座り込んでいる緋皇を。
緋皇の珊瑚色の唇が震える。
獣のように吠えた。
「翡蓮!!」
それは、血を吐くような慟哭。
緋皇の腕の中、翡蓮の顔は、紙のように白い。白一色の装いが、まるで死装束のようだった。
緋皇、翡蓮、玻璃、瑠璃の四人は、庄屋の屋敷を出て、村はずれにある湖へ向かっていた。
十年に一度、生贄の娘は湖のほとりで八岐大蛇を待つ。自らの命を差し出して、村に水の恵みを得るために。
四分の一刻ほど歩き、庄屋の屋敷から二分の一里ほど離れた辺りで。
「緋皇。ちょっと話がある。」
と、翡蓮が足を止めた。
まっすぐに緋皇を見る目が、いつもより厳しい。
「あ?なんで今?やっぱり着替えたいとか言い出すなよ。似合ってんだからいいじゃねーか。」
緋皇が、翡蓮の雰囲気の変化を敏感に感じ取り、ふざけて流そうとしたが、翡蓮はそれを許さなかった。
「緋皇。」
と、重ねて呼ぶ。珍しく、緋皇がかすかに怯んだ。
「…。」
玻璃が空色の瞳をふっと翳らせた。
「ボクたちは、先に行ってるね。」
と声をかけ、返事を待たずに歩き出す。
「ほら、瑠璃、行くよ。」
と、弟の手を引いて。
「え、ちょっと、玻璃、なんで?」
瑠璃は、わけがわからないまま、玻璃に連れられて行く。
緋皇たちの会話が聞こえない距離まで離れたところで、瑠璃が
「ちょっと、どーいうこと?玻璃。」
と自分そっくりな兄の顔をのぞきこんだ。
玻璃が軽く肩をすくめる。
「だって、ボクたち邪魔でしょ?瑠璃だって、ホントはわかってるくせに。」
「それは、わかるけどさあ…。」
瑠璃は、納得しかねる色を、玻璃よりも濃い青の目に浮かべている。
入り込めない空気。
お互いしか目に入らない絆。
「なんか、緋皇、ズルイよ。ついこの間まで、翡蓮のことなんか大嫌いって態度だったくせに、」
「今は自分が翡蓮の一番なのが当然って思ってるのが、気に入らない?」
さすが双子、と言うべきか。
自分の考えを正確に読み切って言い当てた玻璃に、瑠璃が大きく頷く。憤懣やるかたない、という気持ちが、ありありと浮かんだ表情で。
玻璃は、ため息混じりの苦笑を返す。
「まあ、しょうがないよ。事実だもん。翡蓮にとって緋皇は別格。最初からね。」
「でもさあ。ボクたちだって、翡蓮の仲間だし、友達だよ?」
「友達にもいろいろあるから。」
玻璃はあっさりと言い放つ。瑠璃は、ムッと頬を膨らませた。常よりもさらに幼い印象になる。
「瑠璃にはボクがいるでしょ?」
玻璃は、にこ、と微笑んで、つないだままだった手を、ぎゅっと握った。
(玻璃の、こういうとこ、スキだけどキライ。)
周囲の誰もが、自分たちを何もかもそっくりな双子だと言う。容姿も、性格も。年齢よりも稚く、無邪気だと。
(ボクだって、いつもはそう思ってるけど。)
けれど、ふいにのぞかせる、「兄」としての顔を見ると、玻璃は一歩とは言わないまでも、半歩は自分の先にいるような気がして。ちょっと悔しくて、でも、本当は。
(スキだけどキライ。でもスキ。)
☆
「緋皇。守るべき無辜の民を、侮辱したり傷つけたりする発言は慎め。」
案の定、翡蓮の口から出たのは叱責だった。
生真面目で頑固な、<宝珠>の顔をした翡蓮から、緋皇は視線を反らす。ふて腐れた顔で。
「ふん。そんなカッコで凄んだって、迫力なんかねーよ。」
「緋皇。」
翡蓮の声は冷たくはなかったが、緋皇の心に突き刺さる鋭さがあった。
緋皇が、翡蓮に視線をもどした。
バチッという音がしそうなくらい、強く視線がぶつかり。
「オレは、間違ったことは言ってねーぜ?」
「オレもおまえも、飢えたこともなければ、苗を植えたことも、稲を刈ったこともない。植えた苗が日照りで枯れた経験も、収穫前の稲が水につかるのを見ているしかなかったことも。」
稲作は、水の恵みに左右される。そして稲の出来次第で、永らえる命の数が決まる。
龍神国は、七柱の龍神の恩恵により、餓死者が多く出るほどの飢饉は滅多にないが、皆無ではない。品種改良や肥料の質の向上により、収穫高は毎年増えているが、完全に安定しているわけでもない。自然を相手にしている以上、絶対はない。
けれど、手に入らないはずの「絶対」を、得ることができると知ってしまったなら。
一体どれほどの人間が、その欲望に抗えるだろう。
神の誘惑に。
それが堕ちたる邪神だとしても、恩恵をもたらすのなら。
「この村の人たちだって、好きで生贄を差し出してきたわけじゃない。」
「…。」
緋皇は、真紅の目を眇めた。
緋皇とて、翡蓮の言っていることが、理解できないわけではないのだ。
六つの歳までは、この国の半分を統治することになる日嗣の君として、民の苦役も学んできた身だ。
それでも、緋皇にも譲れないことがある。
「気に入らねーんだよ。」
紅玉の瞳には、烈火の怒りがある。
そして、怒りの奥には。
「オレだったら、この国が滅びることになっても、おまえを絶対に渡さない。たとえ、本当の神を敵に回しても。」
「っ。」
翡蓮の呼吸が止まった。
息の仕方を忘れてしまったように、胸が苦しい。
数瞬遅れて。
「…神官候補生として、その発言はどうなんだ…。」
ようやく、翡蓮が口にできたのは、そんな言葉で。
緋皇は、チッと舌打ちした。
「あのな…。」
「ごめん。本当は、おまえがそんなこと言ってくれるなんて、うれしい。でも、神官候補生としては、よろこんじゃダメかなって。」
翡蓮は、ふわっと笑う。花がほころぶように。はにかむように。そこへ。
「おまえだって、同じだろ?」
と、緋皇がたたみかける。
「…うん。」
と、翡蓮は、小さくかすかに、けれど確かに頷いた。
緋皇は、それで満足したのか、
「じゃあ、行こうぜ。あんま待たせると、双子、ぎゃぎゃー言うだろ。」
と促した。
翡蓮が頷いた時。
近づいて来る灯りが、二つ三つ、視界をよぎった。
妖の気配はない。
緋皇と翡蓮は、目配せを交わす。
提灯を持って闇から現れたのは、庄屋と二人の村人だった。
「見届けさせていただきたい。あなた方の戦いが、この村の命運を分けることになる。」
重い響きだった。
翡蓮が首肯する。
「はい。」
☆
生贄や人身御供が、神の花嫁という形をとるのは珍しくはない。この白無垢は、神に捧げる花嫁のために、十年ごとに、特別にあつらえるものだと聞いた。花嫁本人さえ、儀式の当日に初めて身にまとうのだと。そして、それが最後になる。蛇神に喰われて、命を終えるのだから。
翡蓮は、誰も袖を通したことのなかった、真新しい白無垢をまとい、綿帽子をかぶって、金髪を隠している。
広大な湖のほとり。水のにおい。かすかに混じる、甘い金木犀の香り。草木も眠る丑三つ時。盛りを過ぎた虫の音が、寂しげに響く中、翡蓮は息をひそめて待っている。赤い毛氈の敷布に腰を下ろして。
心細くはない。
姿は見えないが、近くの茂みには、緋皇が身を潜めている。玻璃と瑠璃も。
ただ、よぎるのは琥珀の言葉だ。
ここに来る前、龍眼で琥珀に連絡を取った。マヨヒガの件があるので、無許可で勝手に動くのは躊躇われたのだ。緋皇は「黙ってりゃ、わかんねーよ。」と反省の欠片もない台詞を吐いていたが。
琥珀は「罪なき無辜の民の命がかかっている、緊急の案件なので許可しますが、くれぐれも油断しないように。神官候補生に回す仕事は、それぞれの小隊の力量を考えて割り振っています。ですが、今回はそうではないことを、肝に銘じなさい。」と厳しい表情で告げた。
翡蓮は、湖に目を向ける。
水面は、鏡のように凪いでいる。傾きかけた十六夜の月が、くっきりと映りこんでいる。
水面の月が割れた。
湖に立つさざなみ。
(風が変わった。)
涼気よりも冷気を多く含んだ、冬の気配を帯びた風ではなく。じっとりと生温い、生臭い風。同時に空気に満ちるのは、どす黒い瘴気だ。
「四級神術発動、翔風絶壁。」
翡蓮は小声で唱え、周囲に風の壁を築く。瘴気をはね返すだけの小規模な風なので、金髪が揺れる程度だ。
緋皇たちも、それぞれ神術を発動させて、瘴気を防いでいる。
防いでいても、瘴気の濃度が一気に増したのがわかる。
(来る!)
水面が大きく盛り上がった。
バシャアッッッ!!
水があふれ、濁流となって押し寄せる。
翡蓮は、翔風絶壁の勢いを強めて、水をはね返したが、神術を使っていなければ、びしょ濡れになっていただろう。
そして出現したのは。
その目は鬼灯のごとく、一つの体に頭が八つ、尾が八つ。体に生えるは、苔、檜、杉。
「八岐大蛇…。」
翡蓮が、呆然と呟いた。さすがに、八つの谷、八つの山に渡るほどの長さはないだろう。しかし、人など一呑みにできるあぎとだ。シュウッとのぞく赤い舌でさえ、人の胴体に巻き付いても余るほどの幅がある。
翡蓮は、この村を訪れる前に滞在した宿で、美貌の若者から聞いた伝承を思い出した。
百年ほど前、この辺りの村の井戸が枯れ、一人の娘が、その身を自ら差し出した。八岐大蛇は、娘の願いを叶え、井戸の水を満たしたが、人の肉の味を覚えて狂い、それが堕ちる原因になった…。
あの伝承の村は実在した。この村の現在は、伝承の続き。堕ちた蛇神は、その後、十年ごとに生贄を喰らい続けて今に至るのだ…。
翡蓮は、白い袖に隠れた拳を握りしめる。
(ここで断ち切る。この村のために。何より、晴太くんのために。)
かろうじてこちらを視認できる、遠く離れた位置に、庄屋と二人の村人も隠れており、この戦いの行方を見守っている。一つの村と、そこに生きる人々の命運を背負った戦いだ。
鎌首をもたげた八つの頭が、しゅるっと翡蓮に近寄って来た。
瘴気の濃度が増す。
翡蓮は、ちらりと、緋皇たちが隠れている茂みに視線を流す。
ガサ、と揺れたところを見ると、おそらく、飛びだしかけた緋皇を、玻璃と瑠璃が止めたのだろう。
(まだだ。)
囲まれた。
(もう少しがまんしろよ、緋皇。)
怯えたふりで俯いたまま、翡蓮は心の中だけで呼びかけた。
<今回の贄か>
その声は、頭に直接響いた。
翡蓮が、かすかに顔を上げる。
間近で見ると、背筋が寒くなるほど巨大だった。
濁った朱色の瞳でさえ、翡蓮の頭ほどの大きさがある。
翡蓮が、腹に力を入れた。
風切る勢いで立ち上がり、綿帽子をはね上げる。
「おまえに贄を捧げることは、二度とない!!」
素早く、宙に図形を描いた。常より長い袖が優美に翻る。織り込まれた銀糸が、十六夜の月光に煌めく。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
翡蓮は、風をまとって、高く飛んだ。八岐大蛇の首も届かぬ上空へ。
そして、高らかに叫ぶ。
「緋皇、今だ!」
「焦らしすぎだっつーの!」
間髪を入れず、緋皇が応える。
ぎりぎりまで引き絞られ、ようやく放たれた矢のように飛び出した。
銀髪が、ザッとなびき、月光をはじく。
緋皇は、何の躊躇もなく、八岐大蛇に飛び乗った。
まるで体重を感じさせない身軽さで、駆け上がっていく。
大蛇にとっては、羽虫にまとわりつかれた程度のことなのだろう。反応は皆無。八対の目が追うのは、上空に逃れた獲物だけだ。
天に吹く風に、金髪をなびかせ、翡蓮が声を張る。
「瑠璃、玻璃、頼む!」
「「任せて!!」」
双子の声がぴたりと重なり。
「四級神術発動、流雨祓邪!!」
瑠璃が、浄化の雨を呼ぶ。水煙が白くけぶるほどの、滝のごとき豪雨。
「四級神術発動、凍結氷華!!」
玻璃が、極寒の凍気を呼ぶ。あふれた水が、見る間に凍てついていく。
大蛇の胴体を、尾を氷で覆う。
下半身の動きは封じた。
八岐大蛇が、八つの口から瘴気を吐き出す。シャアアアアッッッと、激怒を示すように。
危うげなくそれをかわし、緋皇が、一つの首の頭上に到達する。
そこに瘴気を吐いても、牙を向けても、自らの首を傷つけることになる。八岐大蛇は目を血走らせながらも、動けない。
緋皇は上空を見上げた。
翡蓮と、視線が強く絡む。
緋皇が、ためらわず飛ぶ。
「三級神術発動、風翼飛翔!」
緋皇の背中に、天空を翔るための羽が広がった。
「「二級神術発動!!」」
寸分違わず、二人の声が重なった。
「紅蓮焦土!!」
「神皇息吹!!」
視界の全てを白く染め上げて。
灼熱の塊が落とされる。
炎が、爆発的な勢いで、一気に燃え広がった。
全てを薙ぎ払う、野分のごとき烈風に煽られて。
同時に、瑠璃と玻璃は、それぞれの神術を解除している。
氷に勢いを減じられることなく、猛々しい炎が、八岐大蛇の全身を蹂躙した。
轟音と衝撃。
舞い上がった土埃が、視界を覆い隠す。ジュウジュウと、肉の焼ける音。煙に瘴気が混じったにおいに吐き気がする。
それが薄れたとき。
七つの頭が、一か所に集まっていた。身を寄せ合うように。
そのどれもが、黒く焼け焦げ、ところどころ、肉がずるりと崩れ落ち、骨をのぞかせている。
ドサッ。
そのうち、一つの頭が地に落ちる。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
ドサッ。
七つの頭が堕ちた。
その奥に、残っていた。
無傷の、最後の、八番目の頭が。
怒り狂った、一対の鬼灯色の眼が。
「一つ残っちまった。邪神っつっても、そこいらの妖とは違うってか。」
トン、と大地に下りた緋皇が、いつでも神術を放てるように、刀印を結んだまま言う。
「まだ仕掛けるな、緋皇。」
「風翼飛翔」を保ち、空に留まったまま翡蓮が言う。翡蓮の中で、高速で思考が駆け巡る。それが、この小隊の司令塔としての自分の役割だと熟知している。
(なぜ、頭を一つだけ守った?他を犠牲にして。)
「あの頭は、特別なのか?他にはない力がある?」
翡蓮が呟いた時。
八岐大蛇の最期の頭が、大きくあぎとを開いた。
「四級神術発動、翔風絶壁!!」
翡蓮が、自分と緋皇の前に風の壁を築く。
ゴウッ!
吹き渡る清風。金銀の髪が大きくなびき、袖が翻る。枝がこすれ、葉が弾け飛ぶ。
(いや、足りない!)
察知したのは、本能か、経験か。
シャアアアアアアアアアア!!
大蛇の口が、瘴気を吐く。
「緋皇、下がれ!」
「チッ!」
緋皇は、舌打ちしながらも、翡蓮の警告には従う。
「四級神術発動、滝流降雨!」
瑠璃が、翡蓮と緋皇の前に滝のような雨を降らせ。
「四級神術発動、凍結氷華!」
玻璃がそれを凍てつかせて、氷壁と為す。
風と氷の二重壁。
それでかろうじて、瘴気を防げた。
飛び散った瘴気が、一瞬で大樹を腐らせ、大地を溶かす。
八岐大蛇の体から、常に放たれていた瘴気とは桁が違う。
ゾッとしながらも、翡蓮の思考は止まらない。
(濃い瘴気を吐けるから、この頭を守った?)
その間にも、大蛇は瘴気を吐き続ける。
ピシッ。
風の壁の外側、氷の壁に亀裂。
「時間の問題ってやつじゃねーの?」
見極めた緋皇が、翡蓮を見る。
翡蓮が頷いた。
緋皇が叫ぶ。
「二級神術発動、天裂炎槍!」
大蛇の首の真下の大地から、炎が噴き出す。
灼熱に炙られ、大蛇がのたうつ。それでも、瘴気は吐き続ける。
二重壁を強化したいが、維持が精いっぱいだ。特に、瑠璃と玻璃の術力は、緋皇どころか翡蓮と比べても半分ほどしかない。
根競べだと、誰もが思っていた、その時。
危険に最も早く気づいたのは、翡蓮だった。
背後で、ボコボコッと、不気味な音がした。
水面から、なにかが湧き出てくるような。否、それは肉が盛り上がり、再生する音。
翡蓮がハッと振り向いた時には。
焼け落ちた首のあった場所に、新たな首が生えていた。鱗が月光にぬらぬらと光る。
新たな首が、ガアッとあぎとを開く。奥で、二つに割れた舌が蠢く。
残っていた首を燃やし尽くすことに集中していた緋皇が、最も無防備で、そして八岐大蛇にとって、最も目障りだった。
吐き出される瘴気。
「緋皇!!」
翡蓮だけが動けた。
緋皇を突き飛ばす。
翡蓮が、瘴気をまともに浴びた。
翡蓮の身代わりになって。
「うあああああああっ!」
翡蓮の全身が、どす黒い瘴気に包まれた。漆黒の炎に閉じ込められたように。
「三級神術発動、清焔浄化!」
緋皇が、神術を放つ。翡蓮に向かって。邪悪だけを焼きつくす、浄化の炎。
一瞬で瘴気が焼き払われて、跡形もなく消え失せる。
けれど、翡蓮の目は開かない。
儚く崩れ落ちた翡蓮を、緋皇が受け止めた。
「翡蓮、おい、翡蓮!!翡蓮!!翡蓮!!翡蓮!!」
狂ったように、翡蓮を呼び続ける緋皇。
その間にも、大蛇の二つの首が、鎌首をもたげている。
とっさに動けたのは、玻璃だった。
「四級神術発動、天泣吹雪!!」
縦横無尽に暴れ回る、極寒の烈風と氷雪だが
(ボクの力じゃ、足止めしかできない…。)
玻璃が叫ぶ。
「しっかりして、緋皇!!」
☆
全てが、遠かった。
「翡蓮…?おい、冗談やめろ…。」
緋皇の目に映るのは、ぐったりと目を閉じ、自分の腕の中で身動き一つしない翡蓮の姿。金の長いまつ毛ですら、ぴくりとも動かない。
音をたてて血の気が引く感覚。
そして逆流し、全身の血が沸騰する。
「翡蓮、ふざけんな!!そばにいろって言ったのおまえだろ!!」
意識が飛んだ。
「一級神術展開、紅龍逆鱗!!」
八岐大蛇が消し飛んだ。
☆
高熱に、八岐大蛇の二つの頭も、尾も、胴体も、全てが蒸発したかに見えた。
しかし。
首が一つ、ごろんと転がり。
ボコッ。
ボコボコッ。
再生を始める。
「瑠璃、水を!」
玻璃の指示が飛ぶ。
「四級神術発動、清水流祓!」
噴き出した大量の水を使って。
「三級神術発動、封印氷棺!」
玻璃が、巨大な氷の棺に、周囲の全てを閉じ込めた。八岐大蛇の破片の全てを覆う、凍てついた奥津城。
玻璃が崩れ落ちるように膝をつく。緋皇や翡蓮はやすやすと扱う三級神術だが、玻璃には負担が大きい。肩で大きく息をした。
「玻璃!」
瑠璃が慌てて駆け寄った。
「すごい、玻璃。これで八岐大蛇は。」
「こんなの、時間稼ぎだ。もって半日。」
玻璃が蒼ざめた顔で首を振る。
「とにかく今は撤退。翡蓮を。」
玻璃と瑠璃がふり返る。
気を失った翡蓮を抱きしめたまま、凍りついた瞳で座り込んでいる緋皇を。
緋皇の珊瑚色の唇が震える。
獣のように吠えた。
「翡蓮!!」
それは、血を吐くような慟哭。
緋皇の腕の中、翡蓮の顔は、紙のように白い。白一色の装いが、まるで死装束のようだった。
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