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第三幕
「オレは、おまえになら喜んで束縛されてやる。」~勇者の友情、魔王の涙 外伝1~
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第三幕
ティータイムには、やや遅い時間だった。
初夏の午後の明るい陽射しも傾いて、斜めに差し込んでいる。それを受けて、ラントの長い銀髪がきらきら光っている。
リスティヒは、ケーキを切り分けて紅茶を淹れると、「夕食の仕込みがありますので。」と、再び厨房に引っ込んでしまった。
フェアは、ケーキを咀嚼しながら、ぎくしゃくとした空気に、気まずい思いでいる。
ラントと喧嘩することは、それほど珍しいことではない。しかし、ストレートに感情をぶつけ合うわけでもなく、こんな風に、居心地の悪い沈黙が落ちている状態は初めてかもしれない。
おかげで、美味しいはずのケーキの味もよくわからない。
ケーキは、今が旬のさくらんぼをふんだんに使ったチェリータルトだった。シロップをかけられて、艶々と光っている赤い実は、ラントの瞳のようだ。
ラントは、優雅な手つきでケーキを口に運んでいる。正式な礼儀作法など習ったことはないはずなのに、ラントの食べ方はいつも綺麗で、品がある。
紅茶を飲み干して、ラントは立ち上がった。
「じゃあ、オレは、書斎にもどる。」
「え、もう?」
「明後日には出発だろう。それまでに読めるだけ読んでおきたいからな。」
「…。」
フェアは、一度口を開きかけて、結局呑みこんだ。ラントも、いたたまれない空気の中にいたくないのか、問い返すこともなく踵を返す。
少し足を引きずる足音が遠ざかるのを聞きながら、フェアは視線を落とす。
そこへ。
「魔法使いさまは、もう、もどられたのですか。紅茶のおかわりをお持ちしたのですが。」
と、リスティヒが再び姿を見せる。
フェアの表情から、不穏な気配を感じ取ったのか、心配そうに眉根を寄せる。
「魔法使いさまと、何かあったのですか?」
「…べつに、なにも…。」
嘘ではない。派手に口論したわけでも、どつきあう喧嘩をしたわけでもない。ただ、うまくかみ合っていない感覚があるだけで。
「…勇者さま。」
逡巡の後、リスティヒがひそめた声で呼びかけた。
フェアは、彼らしくも無い緩慢な動きで顔を上げる。
「このようなことを申し上げるのは失礼だと承知しておりますが…お二人の関係は、危ういもののように見えるのです。」
と切り出すリスティヒの、深い藍の目。それは、二十歳そこそこの若者の目ではなく、もっと長い年月を生きて、数知れない人間の人生を目の当たりにしてきた者のような、深みがあった。成熟と呼ぶより老成がふさわしいような。
「強すぎる思いは、時に、負の方向に傾くことがございます。依存、執着、それゆえの束縛。」
「オレはそんな。」
反射的に言い返して、フェアは絶句する。
今まで、一度も考えたことはなかった。
もしかしたら、気づいていたのに、目を反らしていたかもしれない事実。
それを、突きつけられた気がした。
リスティヒは、控えめに静かに、けれど迷いなく告げる。
病を疑いたくなるほど蒼白い顔の中、血の色を透かしたように赤い紅い唇が。
「身を引くことが、相手の幸せになる場合もございますよ。」
☆
ラントは夕食の後も、書斎で読書を続け、来客用の寝室に戻って来たのは、深夜に近い時間だった。
小さな燭台に灯りをつけたまま、寝台にぼんやり座り込んでいたフェアに、ラントは目を見開く。
「先に寝ていてよかったんだぞ。」
「…べつに、そういうわけじゃ…。」
いつも明るく快活なフェアらしくない、ぼそぼそとした口調。ラントの方を見ないフェアは、窓の方に視線を向けている。
鏡と化した窓硝子には、豪奢な寝室に佇むラントの姿が映っている。
美貌のラントは、ただ立っているだけでも気品と華があって、王侯貴族が使うようなこの寝室にも違和感なく溶け込んでいる。
虚像すら視界に入れることを拒むように、フェアは俯く。
「…。」
ラントは、思案するように首をかしげ、フェアの隣に座る。いつもよりゆっくりした動きは、足が完治していないからだが、ラントの麗姿なら、それすらも優美なのだろう。視線を向けていないのに、衣擦れの音だけで、そう思わせた。
触れた場所から伝わるラントの熱に、フェアがびくりと肩をはねさせる。
怯えたように身を引こうとするフェアに、ラントは愕然と真紅の目を見開く。
(どうして。)
兄弟同然に育った幼馴染で、故郷の村を失ってからも、ずっと一緒に旅をしてきて。
フェアに避けられたことなど、ただの一度もなかった。
す、と手足が冷たくなる。
盤石なはずの大地が、一瞬で崩れて、突然、断崖絶壁に追い詰められたような。
ラントは、腰を浮かせて座り直そうとするフェアの手をつかんだ。
引き止めるように。否。
縋るように。
「フェア。」
鈴の音のような澄んだ声で、強く呼ばれ、フェアは息を呑んだ。
「…なんだよ。」
「おまえ、変だぞ、昼間から。」
「…べつに、ふつうだし。」
「だったら、なんで、オレを見ない?」
鋭く切り込まれ、フェアは何も言えなくなる。
「おまえ、オレのこと。」
ラントの言葉が途切れたのは、フェアがいきなり立ち上がったからだ。手をつないだままだったので、ラントも引っ張られる形で立ち上がる。痛みが走ってよろめいたが、つないだフェアの手に支えられる形で、ラントは転倒を免れた。
フェアの黒い瞳が大きく見開かれている。
「フェア?」
フェアの視線を追ったラントも瞠目する。
森が燃えていた。
フェアが窓を開け放つ。
夜風が吹きこんで、二人の髪を乱す。夜気とともに、かすかだが、焦げた臭いが飛びこんでくる。
夜闇を払う炎の先、身の毛もよだつ咆哮を上げるのは。
「キマイラ…。」
ラントが上ずった声を上げる。
「一匹じゃなかったってことか…。」
フェアがぎりっと奥歯をかみしめる。
この館は、森の出口に近い。そして、森を抜ければ、すぐに町だ。
「あのキマイラが、町に向かったらまずい。ラント、」
行くぞ、と、ごく自然に、それこそ呼吸をするように言いかけて。
ラントにつかまれていた手を、フェアは当たり前のようにつかみ返して、馴染んだ熱を掌に感じて。
フェアは凍りついた。ぶるっと身震いして、
「おまえは、ここにいてくれ。その足じゃ無理だ。」
と、言い直し、ラントの手を外す。
ラントが柳眉をつり上げた。
「ほとんど治っている。オレも一緒に。」
「だめだっ!!」
フェアが、悲鳴のように叫んだ。
脳裏で、反響している。リスティヒの言葉が。
「身を引くことが、相手の幸せになる場合もございますよ。」
そう言ったリスティヒは、最後にこうつけ加えた。
「勇者さま、貴方と共に歩むことは、時に、命の危険を伴うことではないのですか。」と。
心の臓を一突きされたような衝撃だった。
脳裏に浮かんだのは、フェアを庇って、キマイラの毒に倒れたラントの姿。
(オレは、ずっと、気づかなかった。)
(ちがう、きっと、気づかないふりをしていた。)
(魔族から、たくさんの人を救いたいのは、オレの望みで、ラントの望みじゃない。)
本当は、ラントはどんな道だって選べるのだ。
フェアの魔法使いとして生きるより、もっと安全で、楽で、贅沢ができる生き方を。
旅に出る前、フェアとラントは、小さな町の食堂で働いたことがある。
フェアも、素直で明るい性格だからかわいがられたが、ラントは見た目が抜きんでているので、ラントが食堂を手伝うようになってから、客足が格段に伸びたと、女将が驚いていた。
賢くて器用で何でもさらりと要領よくこなすので、売上の計算まで任されていた。
ついこの間、芝居に出たときも、ラントは絶賛されていた。花形役者や座長から、役者になったら絶対売れると、太鼓判を押されていた。その容姿と才能を活かさないのはもったいないと。
(オレと一緒にいなければ、ラントは命に関わるようなけがもしないし、飢えることもない。好きな本だっていくらでも読める。それに、レーンスヘルさんには、楽しそうに笑ってた。ラントが心を許せる相手だって、いつか現れるかもしれない。)
ズキズキと、胸が痛んだ。
見えないナイフに切り刻まれて、どくどくと血が流れている気がする。
(オレは、ずっと、ラントを縛ってきたんだ…。)
フェアは、ラントを見つめた。
ずっと見てきた、極上の人形のように綺麗なラントの顔。けれど、フェアの前でだけは表情豊かで。フェアは、これからもずっとずっと、隣でラントの笑顔を見ていられると、何の疑いも無く信じていた…。
喉が詰まって、うまく声が出ない。フェアは、必死で声を搾り出した。
「オレは、もう、おまえの力は借りない。」
くら、と眩暈がして、ラントは座り込みそうになった。
口の中がカラカラに干上がる。
ラントを襲ったのは、目の前が真っ暗になるような恐怖。
突然、世界が崩壊して、虚無の深淵が目の前にぱっくりと口を開けたような。
ラントの真紅の瞳が凍りつく。そして、すぐに灼熱の怒りが燃え上がる。
怒りでかき消さなければ、恐怖に支配されて、指一本動かせなくなりそうだった。
「ふざけるな!!おまえ、一体、何を言っている!?」
ラントがフェアの胸倉をつかむ。力任せに鷲掴みにして引き寄せた。
白い頬が、怒りに染まっている。
フェアは、胸倉をつかまれたまま、ぽつりと言った。
「もう決めた。」
「オレはもう必要ないということか?」
ラントの声は、ゾッとするほど冷え切っていた。
フェアは、唇をかみしめて、答えない。
ラントの美貌が歪む。痛みをこらえるように。
ラントは、フェアを突き飛ばした。
どん、とフェアの背中が壁にぶつかる。
「勝手にしろ!」
ラントが吐き捨てた。
フェアは、ベッドの脇に立てかけてあった勇者の剣を手にする。開け放たれた窓から身を躍らせた。
そのまま、駆け出して行った。
キマイラの咆哮する夜の森へと。
☆
ラントが、ガンと、壁に拳を打ちつけた。
目の前が、真っ赤になるほどの怒りで、痛みもろくに感じない。
「くそっ。」
罵る言葉を呪いのように吐き出す。向かう怒りは、フェアよりも、むしろ、自分自身。
昼間、フェアの様子がおかしいことはわかっていた。けれど、しばらく放っておけば頭も冷えるだろうと、軽く考えていた。フェアは明るく前向きで、小さなことをいつまでもくよくよと悩み続けるような性格ではないと。
(ちがう。)
ラントは気づいている。自分の欺瞞に。
(オレは、逃げたんだ。フェアと向き合うのが怖くて。)
ずっと一緒にいられると信じていた。
フェアにとって、自分は必要な存在だと。自分にとってフェアが唯一無二の存在であるように。
(オレは、おまえしかいらないのに。)
見目麗しく、周囲に与える影響を計算してそつなく振る舞うラントは、誰にでも好かれるが、ラント自身は誰にも心を許せない。フェア以外の、全てが嫌いだ。フェアは、ただ一人、ラントの本性を見抜いた上で、本当のラントを受け入れてくれた友。
永遠に、受け入れてくれると、信じていた親友。
絶対だと信じていたものが、揺らぎかけているのを認めたくなかったから、ラントは逃げたのだ。
(その結果が、これか。)
フェアがどういうつもりで、一人でキマイラのもとに向かったのかわからない。わからないけれど…。
(まだ間に合う。)
否。
(間に合わせてみせる。)
フェアを追うために、ラントは扉に向かう。この足では、フェアのように窓から跳び下りることは無理だ。
伸ばした手が扉に触れる前に。
すうっと、ドアノブが遠ざかる。
外開きのドアが開かれた。
立っていたのは、闇を背負い、幽鬼のように佇む館の執事。
血が通っていないのではないかと思えるほど蒼白い顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
微笑んでも、頬に血の気は乗らないが、唇だけが赤い。血を啜ったように。
構っている余裕はなかったので、ラントは常になく、素っ気ない口調で切り出す。
「夜分に騒いで申し訳ないが、急ぎますので。」
と、リスティヒの脇をすり抜けようとする。
ぐ、とその腕をつかまれた。ゾッと鳥肌が立つ。
ラントは、フェア以外の人間に触れられることに嫌悪感を抱くのだが、ラントが今感じたのは、嫌悪ではなく、恐怖だった。だが、ラントはそれを意識の外に追い出す。今は、臆している場合ではなかった。
「離してください。急いでいると。」
「お断りします。ようやく、邪魔者が消えたのですから。」
「!?」
つかまれた手首の骨が、みしり、と軋む。リスティヒの手は、氷のように冷たかった。まるで、屍のように。
その正体を、ラントは知っている。夜の闇に君臨し、麗しい容姿で人を誘惑し、糧とする魔物。
「美しい魔法使いさま。やっと貴方と二人きりになれました。」
ティータイムには、やや遅い時間だった。
初夏の午後の明るい陽射しも傾いて、斜めに差し込んでいる。それを受けて、ラントの長い銀髪がきらきら光っている。
リスティヒは、ケーキを切り分けて紅茶を淹れると、「夕食の仕込みがありますので。」と、再び厨房に引っ込んでしまった。
フェアは、ケーキを咀嚼しながら、ぎくしゃくとした空気に、気まずい思いでいる。
ラントと喧嘩することは、それほど珍しいことではない。しかし、ストレートに感情をぶつけ合うわけでもなく、こんな風に、居心地の悪い沈黙が落ちている状態は初めてかもしれない。
おかげで、美味しいはずのケーキの味もよくわからない。
ケーキは、今が旬のさくらんぼをふんだんに使ったチェリータルトだった。シロップをかけられて、艶々と光っている赤い実は、ラントの瞳のようだ。
ラントは、優雅な手つきでケーキを口に運んでいる。正式な礼儀作法など習ったことはないはずなのに、ラントの食べ方はいつも綺麗で、品がある。
紅茶を飲み干して、ラントは立ち上がった。
「じゃあ、オレは、書斎にもどる。」
「え、もう?」
「明後日には出発だろう。それまでに読めるだけ読んでおきたいからな。」
「…。」
フェアは、一度口を開きかけて、結局呑みこんだ。ラントも、いたたまれない空気の中にいたくないのか、問い返すこともなく踵を返す。
少し足を引きずる足音が遠ざかるのを聞きながら、フェアは視線を落とす。
そこへ。
「魔法使いさまは、もう、もどられたのですか。紅茶のおかわりをお持ちしたのですが。」
と、リスティヒが再び姿を見せる。
フェアの表情から、不穏な気配を感じ取ったのか、心配そうに眉根を寄せる。
「魔法使いさまと、何かあったのですか?」
「…べつに、なにも…。」
嘘ではない。派手に口論したわけでも、どつきあう喧嘩をしたわけでもない。ただ、うまくかみ合っていない感覚があるだけで。
「…勇者さま。」
逡巡の後、リスティヒがひそめた声で呼びかけた。
フェアは、彼らしくも無い緩慢な動きで顔を上げる。
「このようなことを申し上げるのは失礼だと承知しておりますが…お二人の関係は、危ういもののように見えるのです。」
と切り出すリスティヒの、深い藍の目。それは、二十歳そこそこの若者の目ではなく、もっと長い年月を生きて、数知れない人間の人生を目の当たりにしてきた者のような、深みがあった。成熟と呼ぶより老成がふさわしいような。
「強すぎる思いは、時に、負の方向に傾くことがございます。依存、執着、それゆえの束縛。」
「オレはそんな。」
反射的に言い返して、フェアは絶句する。
今まで、一度も考えたことはなかった。
もしかしたら、気づいていたのに、目を反らしていたかもしれない事実。
それを、突きつけられた気がした。
リスティヒは、控えめに静かに、けれど迷いなく告げる。
病を疑いたくなるほど蒼白い顔の中、血の色を透かしたように赤い紅い唇が。
「身を引くことが、相手の幸せになる場合もございますよ。」
☆
ラントは夕食の後も、書斎で読書を続け、来客用の寝室に戻って来たのは、深夜に近い時間だった。
小さな燭台に灯りをつけたまま、寝台にぼんやり座り込んでいたフェアに、ラントは目を見開く。
「先に寝ていてよかったんだぞ。」
「…べつに、そういうわけじゃ…。」
いつも明るく快活なフェアらしくない、ぼそぼそとした口調。ラントの方を見ないフェアは、窓の方に視線を向けている。
鏡と化した窓硝子には、豪奢な寝室に佇むラントの姿が映っている。
美貌のラントは、ただ立っているだけでも気品と華があって、王侯貴族が使うようなこの寝室にも違和感なく溶け込んでいる。
虚像すら視界に入れることを拒むように、フェアは俯く。
「…。」
ラントは、思案するように首をかしげ、フェアの隣に座る。いつもよりゆっくりした動きは、足が完治していないからだが、ラントの麗姿なら、それすらも優美なのだろう。視線を向けていないのに、衣擦れの音だけで、そう思わせた。
触れた場所から伝わるラントの熱に、フェアがびくりと肩をはねさせる。
怯えたように身を引こうとするフェアに、ラントは愕然と真紅の目を見開く。
(どうして。)
兄弟同然に育った幼馴染で、故郷の村を失ってからも、ずっと一緒に旅をしてきて。
フェアに避けられたことなど、ただの一度もなかった。
す、と手足が冷たくなる。
盤石なはずの大地が、一瞬で崩れて、突然、断崖絶壁に追い詰められたような。
ラントは、腰を浮かせて座り直そうとするフェアの手をつかんだ。
引き止めるように。否。
縋るように。
「フェア。」
鈴の音のような澄んだ声で、強く呼ばれ、フェアは息を呑んだ。
「…なんだよ。」
「おまえ、変だぞ、昼間から。」
「…べつに、ふつうだし。」
「だったら、なんで、オレを見ない?」
鋭く切り込まれ、フェアは何も言えなくなる。
「おまえ、オレのこと。」
ラントの言葉が途切れたのは、フェアがいきなり立ち上がったからだ。手をつないだままだったので、ラントも引っ張られる形で立ち上がる。痛みが走ってよろめいたが、つないだフェアの手に支えられる形で、ラントは転倒を免れた。
フェアの黒い瞳が大きく見開かれている。
「フェア?」
フェアの視線を追ったラントも瞠目する。
森が燃えていた。
フェアが窓を開け放つ。
夜風が吹きこんで、二人の髪を乱す。夜気とともに、かすかだが、焦げた臭いが飛びこんでくる。
夜闇を払う炎の先、身の毛もよだつ咆哮を上げるのは。
「キマイラ…。」
ラントが上ずった声を上げる。
「一匹じゃなかったってことか…。」
フェアがぎりっと奥歯をかみしめる。
この館は、森の出口に近い。そして、森を抜ければ、すぐに町だ。
「あのキマイラが、町に向かったらまずい。ラント、」
行くぞ、と、ごく自然に、それこそ呼吸をするように言いかけて。
ラントにつかまれていた手を、フェアは当たり前のようにつかみ返して、馴染んだ熱を掌に感じて。
フェアは凍りついた。ぶるっと身震いして、
「おまえは、ここにいてくれ。その足じゃ無理だ。」
と、言い直し、ラントの手を外す。
ラントが柳眉をつり上げた。
「ほとんど治っている。オレも一緒に。」
「だめだっ!!」
フェアが、悲鳴のように叫んだ。
脳裏で、反響している。リスティヒの言葉が。
「身を引くことが、相手の幸せになる場合もございますよ。」
そう言ったリスティヒは、最後にこうつけ加えた。
「勇者さま、貴方と共に歩むことは、時に、命の危険を伴うことではないのですか。」と。
心の臓を一突きされたような衝撃だった。
脳裏に浮かんだのは、フェアを庇って、キマイラの毒に倒れたラントの姿。
(オレは、ずっと、気づかなかった。)
(ちがう、きっと、気づかないふりをしていた。)
(魔族から、たくさんの人を救いたいのは、オレの望みで、ラントの望みじゃない。)
本当は、ラントはどんな道だって選べるのだ。
フェアの魔法使いとして生きるより、もっと安全で、楽で、贅沢ができる生き方を。
旅に出る前、フェアとラントは、小さな町の食堂で働いたことがある。
フェアも、素直で明るい性格だからかわいがられたが、ラントは見た目が抜きんでているので、ラントが食堂を手伝うようになってから、客足が格段に伸びたと、女将が驚いていた。
賢くて器用で何でもさらりと要領よくこなすので、売上の計算まで任されていた。
ついこの間、芝居に出たときも、ラントは絶賛されていた。花形役者や座長から、役者になったら絶対売れると、太鼓判を押されていた。その容姿と才能を活かさないのはもったいないと。
(オレと一緒にいなければ、ラントは命に関わるようなけがもしないし、飢えることもない。好きな本だっていくらでも読める。それに、レーンスヘルさんには、楽しそうに笑ってた。ラントが心を許せる相手だって、いつか現れるかもしれない。)
ズキズキと、胸が痛んだ。
見えないナイフに切り刻まれて、どくどくと血が流れている気がする。
(オレは、ずっと、ラントを縛ってきたんだ…。)
フェアは、ラントを見つめた。
ずっと見てきた、極上の人形のように綺麗なラントの顔。けれど、フェアの前でだけは表情豊かで。フェアは、これからもずっとずっと、隣でラントの笑顔を見ていられると、何の疑いも無く信じていた…。
喉が詰まって、うまく声が出ない。フェアは、必死で声を搾り出した。
「オレは、もう、おまえの力は借りない。」
くら、と眩暈がして、ラントは座り込みそうになった。
口の中がカラカラに干上がる。
ラントを襲ったのは、目の前が真っ暗になるような恐怖。
突然、世界が崩壊して、虚無の深淵が目の前にぱっくりと口を開けたような。
ラントの真紅の瞳が凍りつく。そして、すぐに灼熱の怒りが燃え上がる。
怒りでかき消さなければ、恐怖に支配されて、指一本動かせなくなりそうだった。
「ふざけるな!!おまえ、一体、何を言っている!?」
ラントがフェアの胸倉をつかむ。力任せに鷲掴みにして引き寄せた。
白い頬が、怒りに染まっている。
フェアは、胸倉をつかまれたまま、ぽつりと言った。
「もう決めた。」
「オレはもう必要ないということか?」
ラントの声は、ゾッとするほど冷え切っていた。
フェアは、唇をかみしめて、答えない。
ラントの美貌が歪む。痛みをこらえるように。
ラントは、フェアを突き飛ばした。
どん、とフェアの背中が壁にぶつかる。
「勝手にしろ!」
ラントが吐き捨てた。
フェアは、ベッドの脇に立てかけてあった勇者の剣を手にする。開け放たれた窓から身を躍らせた。
そのまま、駆け出して行った。
キマイラの咆哮する夜の森へと。
☆
ラントが、ガンと、壁に拳を打ちつけた。
目の前が、真っ赤になるほどの怒りで、痛みもろくに感じない。
「くそっ。」
罵る言葉を呪いのように吐き出す。向かう怒りは、フェアよりも、むしろ、自分自身。
昼間、フェアの様子がおかしいことはわかっていた。けれど、しばらく放っておけば頭も冷えるだろうと、軽く考えていた。フェアは明るく前向きで、小さなことをいつまでもくよくよと悩み続けるような性格ではないと。
(ちがう。)
ラントは気づいている。自分の欺瞞に。
(オレは、逃げたんだ。フェアと向き合うのが怖くて。)
ずっと一緒にいられると信じていた。
フェアにとって、自分は必要な存在だと。自分にとってフェアが唯一無二の存在であるように。
(オレは、おまえしかいらないのに。)
見目麗しく、周囲に与える影響を計算してそつなく振る舞うラントは、誰にでも好かれるが、ラント自身は誰にも心を許せない。フェア以外の、全てが嫌いだ。フェアは、ただ一人、ラントの本性を見抜いた上で、本当のラントを受け入れてくれた友。
永遠に、受け入れてくれると、信じていた親友。
絶対だと信じていたものが、揺らぎかけているのを認めたくなかったから、ラントは逃げたのだ。
(その結果が、これか。)
フェアがどういうつもりで、一人でキマイラのもとに向かったのかわからない。わからないけれど…。
(まだ間に合う。)
否。
(間に合わせてみせる。)
フェアを追うために、ラントは扉に向かう。この足では、フェアのように窓から跳び下りることは無理だ。
伸ばした手が扉に触れる前に。
すうっと、ドアノブが遠ざかる。
外開きのドアが開かれた。
立っていたのは、闇を背負い、幽鬼のように佇む館の執事。
血が通っていないのではないかと思えるほど蒼白い顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
微笑んでも、頬に血の気は乗らないが、唇だけが赤い。血を啜ったように。
構っている余裕はなかったので、ラントは常になく、素っ気ない口調で切り出す。
「夜分に騒いで申し訳ないが、急ぎますので。」
と、リスティヒの脇をすり抜けようとする。
ぐ、とその腕をつかまれた。ゾッと鳥肌が立つ。
ラントは、フェア以外の人間に触れられることに嫌悪感を抱くのだが、ラントが今感じたのは、嫌悪ではなく、恐怖だった。だが、ラントはそれを意識の外に追い出す。今は、臆している場合ではなかった。
「離してください。急いでいると。」
「お断りします。ようやく、邪魔者が消えたのですから。」
「!?」
つかまれた手首の骨が、みしり、と軋む。リスティヒの手は、氷のように冷たかった。まるで、屍のように。
その正体を、ラントは知っている。夜の闇に君臨し、麗しい容姿で人を誘惑し、糧とする魔物。
「美しい魔法使いさま。やっと貴方と二人きりになれました。」
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此処迄するのか…そう思う『ざまぁ』を貴方に
前世のDQNに戻る事を決意した、暗黒面に落ちた外道魔法戦士…このざまぁは知らないうちに世界を壊す。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
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