私たちはケダモノだもの

紺乃 藍

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恋獣の章

深々恋歌 ①

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 魔獣の発情期がこんなにも辛いものだとは、知らなかった。

 とにかく身体が熱い。全身が重だるくて、呼吸がしにくい。頭が上手く働かない。嗅覚と聴覚が異常に研ぎ澄まされていて、料理の匂いや調理の音をいつもより過剰に拾い上げる。

 その一方で視覚は雨に濡れた窓ガラスのようにぼんやりと霞んでいる。

 皮膚感覚は鋭利になっているのか鈍麻しているのかさえ正確にはわからない。温感や冷感や痛覚は鈍いのに、衣服と肌が擦れ合う触感は震えるほど敏感になっている。

 五感がめちゃくちゃになっている。外的刺激に対する反応は明らかに普段と異なっていて、身体が発熱しているように熱くて、気を抜けば意識が朦朧としてしまう。そのままその場に崩れ落ちそうになってしまう。辛さに抗おうと気を張っているせいか、心身がひどく疲れる。

「ステラちゃん? どうしたの、顔赤いよ?」
「え……? あ……大丈夫、です」

 軽食を摂りに来ていたルーデントに体調不良を心配され、ステラは懸命に笑顔を作った。けれど上手く誤魔化せていなかったらしく、更に心配そうな顔をされてしまう。

「お店、早退させてもらったら? 辛そうだよ?」
「そうだな。ステラ、今日はもう上がっていいぞ」

 マスターもステラの様子がおかしいことには気付いていたらしい。まだディナータイムの忙しい時間が残っているのに、と申し訳なさを感じる反面、正直ありがたい提案だと思った。早退を促すマスターにお礼を告げ、のろのろと帰宅の準備を済ませる。

「僕、送ってくよ」
「え……いえ……」

 食堂の裏口から大通りへふらふら出ていくと、店の前でルーデントが待ち構えていた。彼はステラを家まで送り届けると申し出てくれたが、それには首を横に振って遠慮する。

 ステラの体調不良はただの風邪などではない。誰にもこの状態の真実を知られたくないのだから、今は誰とも接したくない。

 しかしルーデントは簡単に引いてくれなかった。

「ステラちゃん、今日はすごく色っぽいね。目が潤んで、顔も赤くて、ずっとぼんやりしてて」
「え……、な、ん……ですか……?」
「もしかして、誘ってる?」

 ルーデントの手が、ステラの肩に触れようと伸びてくる。その動きから逃れるために身体を後ろに引いたつもりだったが、上手く反応出来なかった。

 身体を触られそうになったことに言い得ぬ不快感を覚えてしまう。表現できない恐怖を感じて、思わず身を竦ませてしまう。

「ねぇ、ステラちゃ……」
「誘ってるわけないだろ」

 しかしルーデントの手がステラの身体に到達することはなかった。

 背後から現れた人物が、熱を帯びた身体を腕の中へ包み込むようにぐっと抱き寄せてくれる。そしてルーデントの言葉をピシャリと遮る。

 熱に浮かされた頭と身体で声の主を振り返る。逞しい腕の中で顔を上げると、そこには少し怒ったように不機嫌なアルシスがいた。

「ステラに気遣いありがとう。でも俺がいるので、大丈夫ですから」
「……は? 君、ステラちゃんの何……?」
「恋人です」

 いつになく険しい表情で凄んでいる。アルシスは冒険者にしてはいかつい印象がなく、物腰のやわらかな佇まいと穏やかな性格の持ち主である。

 だがそんなアルシスでも、相手に威圧感を与える態度を取ることも出来るらしい。長身のアルシスに見降ろされたルーデントは、表情を固めて怖気づいたように後退った。

「え、あッ……そうでしたか! 申し訳ありません、でした!」

 汗だくでわなないたルーデントは、その場で踵を返すとすぐにあたふたと立ち去ってしまった。

 アルシスの怒った顔が余程怖かったのだろうか。どんな顔をしているのかと思って顔を上げたが、ステラはアルシスの表情を見ても特に恐怖を感じなかった。

「ふふっ……アルシスさん、いつから私の恋人になったんですか?」

 アルシスが鼻から短い吐息を漏らす様子を見て、つい笑ってしまう。

 その問いかけに返答はなかったが、代わりに心配そうな声が返ってた。

「ステラ……身体、辛いのか?」

 アルシスの問いかけに、身体がピクリと跳ねる。そして動きが止まる。目を見合わせたまま固まっていると、アルシスがふわりと表情を緩めた。

「ディアンに聞いたんだ。俺のために、サーシャとレゾナンス契約を結んだって? ありがとう」

 お礼の言葉を聞いて『あ、そっか』と今更ながらに気付いてしまう。

 ステラとサーシャがレゾナンス契約を結んだ時、ディアンもその場にいて様子を見ていた。ならば相棒であるアルシスへの隠し事など意味がない。彼らは強い絆で結ばれたパートナー同士で、何から何まで筒抜けだ。今はステラとサーシャも同じ状態にあるのだから、その感覚はよくわかる。

 アルシスにレゾナンス契約の事実そのものを知られたくなかったわけではない。秘密にしておきたかったのは、サーシャが発情期にあること。そして今のステラがその感覚を共有していること。サーシャの性的興奮や衝動がステラの身体にリンクし、伝播していると言うことだ。 

 今もこうして身体が火照って頭がぼんやりとしている。でもその事実を知られるのが恥ずかしいので、気取られないように無理に笑う。少しでも誤魔化したくて。

「私の方こそ、ありがとうございます」

 ステラの小さなお礼を聞いて、アルシスが不思議そうな顔をした。その表情を見ると少しだけ思考が安定する。

 そっと離れると、家の方向へ向かって歩き出す。アルシスも無言でその後について来てくる。彼は今日も、ステラを家まで送ってくれるつもりらしい。

 ルーデントに家の場所を知られることには抵抗感があったが、アルシスに対しては嫌悪感も恐怖心もない。むしろ彼が傍にいてくれると安心するし、穏やかな気持ちになれる。つい自分の心情をぽつぽつと語ってしまうほどに。

「私、小さいときに両親が亡くなってるんですけど……」

 ステラは幼い頃に、事故で両親を亡くしていた。他にきょうだいも居なかったステラは、子が居なかった母の兄―――伯父夫婦の元へ引き取られた。伯父も伯母もステラに愛情深く接してくれたが、田舎はとにかく人が少なく、ステラには同じ年頃の友達がいなかった。

 そんなステラがサーシャに出会ったのは、伯父夫婦に引き取られてまだ間もない頃だった。

 ある日、伯父が森で怪我をして倒れていた魔獣を保護してきた。獣の罠にかかった魔獣サーシャは血と泥にまみれてひどく衰弱しており、今にも事切れてしまいそうなほどの瀕死状態だった。ステラは伯父と交代で、サーシャの傷が癒えて回復するまで懸命に面倒を見続けた。

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