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1巻

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 覚醒したグレンが朝の挨拶と共にフィアの様子を確認してきたので、ぎこちないながらもこくこくと頷く。フィアの仕草に「そうか」と呟いたグレンは、毛布ごと抱きしめていたフィアの身体をようやく解放してくれた。
 ずっとグレンの体温に包まれていたので、急に離れると寒さと寂しさを感じる。だが今は寂しがっている場合ではない。フィアから離れたグレンは、お湯の中をざぶざぶと進んで石の段差を上がると、脱衣場と思われる扉へ進んでいく。そのグレンが、ふと振り返ってフィアを手招きした。

「フィア、こっちに来れるか?」

 問いかけられた通りグレンの導きに従おうとするが、やはり数歩近づくだけで動きが止まってしまう。浴場の出入り口へ足を向けると、なぜか背筋に鋭い悪寒が走る。大きなガラスがはめ込まれた扉に近づこうとすると、嫌な気配が全身に纏わりついてきて身体の自由を奪っていく。
 それでもなお無理に近づこうとすると、身体に痛みと電撃が走って足から力が抜けてしまう。それに実際には近づいていなくても、意識を向けるだけで身体の力を吸い取られる感覚におちいるのだ。
 ただの扉に対して異様な嫌悪感を抱いてしまう気持ちは、一晩経ってもなにも変わっていない。

「い、いやです……こわい……」
「そうか。やはり結界を解かなきゃ、近づけないようだな」
「……申し訳ありません」
「フィアが謝る必要はない。どう考えても悪いのはアルバートだ」

 グレンが困ったようにため息を吐く。その姿を見て申し訳ない気持ちになるフィアだが、グレンは「もう少し待とう」と呟いて先ほどまで座っていた場所に引き返してくれた。
 大きな岩を削って磨いた平らな場所へ腰を下ろすと、二人並んで沈黙する。
 フィアは結界のせいでこの浴場から出られないが、グレンは普通に通過することが出来るはずだ。だからもし彼がいつも通りに過ごしたり、仕事やなにか他の用事があるのなら、自分をこの場に残して行ってくれても構わないと思う。しかしグレンはまだフィアの傍にいてくれるらしい。
 昔の思い出話や離れてからどんな風に過ごしてきたのか、騎士としてどんな仕事をしているのか、フィアには話したいことも聞きたいこともたくさんあった。だが夜が明けて周囲の様子がはっきり見え始め、今いる場所の細部やお互いの姿を正確に把握出来るようになると、言葉も発せず沈黙してしまう。

「昨夜は暗かったからよかったが……。……目のやり場に困るな」
「!」

 実はグレンもフィアと似たような感情を抱いていたらしい。足を組んで膝の上に頬杖をついたグレンが、視線を外してそっぽを向いたままぼそりと呟いた。グレンの独り言が耳に届くと一気に顔が熱く火照ほてる気がして、フィアはさらに低い位置へ視線を落とす。

「あの、グレン兄さま……」

 もし自分に話しかけているのだったら返答をしなければと考え、とりあえず口を開く。だが二の句が継げずにあわあわしていると、ふとこちらへ振り向いたグレンが、険しい表情のまま重い口を開いた。

「フィア、その呼び方なんだが……」
「え……?」
「これから会う者達の前で『兄さま』と呼ぶのは止めてほしい」
「あ……ご、ごめんなさい」
「いや、別に謝る必要はないんだが……」

 気まずそうな表情で呼び方を改めるよう願われたフィアは、少し遅れて昨晩も同じように言われていたことを思い出した。
 フィアにとっては少しだけ悲しいお願いごとだが、グレンがそう望むのは当然のことだ。グレンとフィアは八歳離れた幼なじみとはいえ実際の兄妹きょうだいではないし、お互いもう子どもではない。木に登り、野を駆け、水浴びをするフィアとミルシャを見守って遊び相手をしてくれていたあの頃のグレンとは違う。お互い、大人になったのだ。

「わかりました……気をつけます」

 グレンの希望を受け入れたフィアは、一抹の寂しさを覚えながらも静かに頷いて同意を示す。
 その後再び沈黙が落ちたが、結局なにを口にすればいいのかわからない。フィアがじっと俯いていると、グレンも気まずさを感じたのかそっと話題を変えてきた。

「もうすぐイザベラが来るはずだ」
「イザベラ……?」
「ああ。この浴場に結界を張ってくれた魔法使いで、彼女も俺の友人なんだ。繊細な魔法を使うようには見えない豪胆な女性だが、腕は確かだぞ」
「そうなのですね」

 フィアの知るグレンは口数が少なく物静かな男性で、基本的に自分のことをあまり語りたがらない性格だった。故郷である聖都ノーザリアにいた頃は貧富の格差のためか同年代の者達とは話題が合わず、その代わりいつもフィアとミルシャが遊ぶ様子を近くで見守ってくれていた。
 その後、両親とミルシャを火事で亡くして心を閉ざしてからはさらに周囲との交流が減っていたので、大人になったグレンが口にする『友人』という言葉に、フィアはひそかに感動を覚えていた。
 悪態をつく割には信頼をしているらしい『友人』の存在を想像するフィアに、グレンがふと思いもよらない言葉をかけてきた。

「それまでの間、もう少し抱きしめさせてくれないか?」
「えっ……?」

 グレンの望みを聞いたフィアの動きがピタリと停止する。聞き間違えたのかと思って隣に座るグレンの顔を見上げると、そのままゆっくりと首をかしげる。

「あの……? えっと……」

 十八歳の頃に故郷を離れて十二年の歳月が経過しているのだから、現在グレンは三十歳のはず。大の大人であるグレンの思いがけない要望に困惑の表情を浮かべると、ハッと我に返ったグレンが罰の悪い様子でそっと視線を逸らした。

「別に、嫌ならいいんだ」
「あ、いえ……嫌ではないです……けど」
「……フィアに触れると体力の回復が速いみたいだ。今日は頭もすっきりしているし、座って寝たはずなのに身体も痛くない」
「!」

 大胆な要望の理由を聞いたフィアは、昨晩使ったほんの少しの聖なる力が、思いのほかグレンの身体に大きな影響をもたらしたことを理解する。彼は不埒な目的でフィアを抱きしめたいと口にしたのではなく、ただ聖なる力の恩恵を望んでいるだけなのだ。
 もちろんフィアは、グレンの要望を撥ね退けてその誘いを断ることも可能だった。だが唐突に結界を張った浴場に現れてグレンの入浴の邪魔をした挙句、一夜とはいえ衣食住の面倒を見てもらったというのに、フィアには恩を返す当てもない。だから今ここで彼の要望を受け入れることが迷惑をかけたことに対する謝罪と謝礼になるのであれば、グレンの要望を受け入れることもやぶさかでない。力を使えばフィアも体力を消耗するが、グレンが望むなら多少の無理は辞さないつもりだ。

「そういうこと、でしたら」
「……なら、ここに座ってくれ」

 提案を受け入れるために承諾の言葉を紡ぐと、顔をあげて微笑んだグレンから太腿の上へ座るよう指定されてしまった。
 グレンは一応ガウンを羽織っているが、平らな岩に座ったグレンは脚がほとんど露出した状態になっている。素足の太腿をぽんぽんと叩いてフィアに座る場所を示すグレンに、どうしても恥ずかしさと照れを感じてしまう。
 昔からの知り合いとはいえ、フィアとグレンは昨晩再会したばかりで、それまでの十二年間は一度も会っていなかった。そんなグレンの脚に座るなんて恥ずかしいことこのうえないが、一度提案を受け入れた手前やっぱり嫌だとも言いにくい。仕方がないと覚悟を決めてグレンの太腿にお尻を乗せ、そのまま横抱きになるように体重を預けると、顔の距離がぐっと近づいた。
 昨夜抱きしめられて眠ったときも顔が近いと感じたが、明るい場所で再び同じように座ってみると、改めてその近さに驚く。自分の顔の真上にグレンの顔があるという状況と恥ずかしさから、視線も上げられない。

「軽いな。フィア、ちゃんと飯は食ってるのか?」
「っ……た、食べてます……!」

 太腿に座るとフィアの肩をグッと抱いたグレンが耳元で小さな質問をしてきた。
 わざとではないかと思うほど低くゆっくりとした声で訊ねられ、身体がびくっと硬直する。問いかけ自体は普通の内容なのに、まるでフィアの心を覗き込むようにじっくり観察されている気分になる。さらに甘く掠れた声が耳朶をくすぐると、それだけで背中がぞくぞくと震える気がした。
 ほどよく筋肉がついた太腿は、フィアが座っても十分に安定している。だがグレンとぴったり密着したフィアは、身体を預けた場所よりも心のほうが不安定になった。
 沈黙すればドキドキと高鳴る心音がグレンに聞こえてしまう気がする。かといって楽しくお話しする話題はなにも思い浮かばない。

「グレン、さま」
「……っ」

 だから間を持たせるためにグレンの名前を――呼び方を改めてほしいと言われていたので、単純に〝兄〟という言葉だけ除して彼の名前を呟くと、グレンが静かに息を呑んだ。
 動揺を感じ取ったフィアが顔を上げると、グレンがこちらをじっと見下ろしている。恥ずかしさを誤魔化すための呟きがさらに恥ずかしい空気を作ってしまった気がして、もうなにを口にすればいいのかもわからなくなる。
 照れて気まずい状態で視線が合わないよう顔をそむけていると、フィアの肩を抱いていたグレンの手が、ふと指を伸ばして顎の先に触れてきた。
 突然グレンの指先と肌が触れ合う感覚に、思わずぴくん、と身体が跳ねる。

「ん……っぅ」

 くすぐったいようなもどかしいような繊細で優しい触れ方に、思わず小さな声が漏れた。

「フィア……変な声出さないでくれ」
「だっ、て……グレンに……さまが……!」

 また〝兄さま〟と呼ぼうとしていることに直前で気づき、慌てて軌道修正する。しかし微妙に言い間違えてしまったこととフィアが身を捩る様子が面白かったのか、喉の奥で笑ったグレンが、

「気持ちいいか?」

 と意地悪に問いかけてきた。
 口の端を上げてにやりと笑うグレンの笑顔は、フィアの知らない表情だ。幼い頃もフィアとミルシャの話を聞いて優しげな笑顔を浮かべたてくれたり、二人で迷子になったときは後から盛大に笑われたりしたこともあった。
 だがこの表情は知らない。女性の肌を愛おしそうに撫で、からかうような笑顔を向け、撫でられた感想を聞き出そうとする意地悪な表情は、フィアの知らない男性らしい仕草だ。

「甘い香りがする。……温泉の匂いではないな」

 グレンがぽつりと呟いて、フィアの身体をまたぎゅっと抱きしめる。しかも今度は髪の中に鼻の先を埋められて、すんすんと匂いまで確かめられる。
 身体の近さと思いもよらないグレンの大胆な行動の数々に、だんだん脳が混乱して判断力が低下してくる。一体自分の身になにが起こっているのだろう……と、召喚魔法を使われて温泉の中に落とされた直後よりも激しく混乱する。

「フィア、本当に第十級聖女から昇級してないのか? これほどの魔力を扱えるのに?」

 ぐるぐると悩みすぎたせいでまた力が溢れてしまったのかもしれない。顔を覗き込んできたグレンが不思議そうに問いかけてくるが、フィアにはもうなにがなんだかわからない。
 それに甘さこそないが、フィアが思うにグレンは自分よりもよほどいい匂いがする。彼の肌からは瑞々しく爽やかなハーブと洗練された色気を含んだウッディな香りが感じられ、その大人びた匂いに包まれていると頭がぼんやりしてしまう。寝ている場合じゃないのに、温かい指先に撫でられているうちに安心して身体から力が抜けていく。

「そんなこと言われたの……はじめて、です……」
「ッ……!」

 ぽうっと火照ほてる身体から熱を逃すよう、ぽつりと呟く。フィアの能力を褒め称える直前の台詞を思い出して返答すると、彼がまた息を詰まらせて動揺する気配がした。
 さらに陽が昇ってきたのか、辺りがどんどん明るくなっていく。壁が高いのでまだ太陽の姿は見えないが、朝日の中で見つめ合ったグレンの少し困ったような表情ははっきりとわかった。
 しかしフィアはグレンの表情よりも、何気なく動かした手の下に違和感を覚えた。

(え、なに……? なにか、固いものが……)

 グレンに強く抱きしめられたせいで、先ほどから彼のお腹と自分の身体の間に腕が挟まったままになっていた。そこから手を抜こうとして肘を引くと、ふと手首の辺りに固いなにかが当たった気がしたのだ。
 騎士になったというグレンだが、今の彼が纏っているのは寝間着と思わしきガウンのみ。身を守る武具や装備品を身に着けていないのなら、この固いものはなんだろう……と視線を下げる直前、肩を抱いていたグレンの左手が突然フィアの右耳に触れてきた。

「ふぁっ……!」

 今度はくすぐったいだけではない。敏感な耳を優しく撫でられると、首から背中、臀部に向かってびりびりと不思議な感覚が走り抜ける。結界に近づくたびに感じる感電の恐怖とは違う、甘く痺れるような感覚に驚いて身を捩るのに、グレンの手はフィアをからかうように執拗に耳朶を撫で回す。

「ん……んぅ」
「フィア、恋人がいるのか?」
「え……?」

 甘美な悪戯に拒否の言葉も出せずにいると、フィアの反応を見ていたグレンが声のトーンを下げて意外な問いかけをしてきた。

「女神の試練を乗り越えて神殿に認められれば、聖女でも結婚出来るんだろう? 数年前から旧アルクイードの騎士団がノーザリアの守護を任されていると聞いている。フィアもアルクイード騎士団の中に、恋人がいるんじゃないか?」
「そんな……恋人なんて、いません……」

 グレンの発想は当然といえば当然かもしれない。
 ノーザリア神殿につかえる〝聖女〟と呼ばれる娘達は、聖なる力が枯渇するか、愛する者と女神の試練を乗り越えることで聖女の任から離れることが許される。しかし実際のところ、位の高い一部の聖女達を除けば神殿を離れる理由の大半が後者の場合だ。
 それはつまり、恋をした聖女が結婚という人生を選ぶことを意味する。だが普段から神殿にこもりきりの娘達と接する機会を得られるのは、聖女の祝福を受けられる者――すなわちノーザリア在住者か、ノーザリア周辺に拠点を置く騎士団に所属する者しかいない。
 グレンのいうアルクイード騎士団はルミリアス帝国に与する以前の小国アルクイードが擁していた騎士団で、現在は皇帝の勅命により帝国の北側の国境警備とノーザリアの守護を担っている。それゆえノーザリア神殿につかえる聖女はアルクイードの騎士と恋に落ちる可能性が高い、というのがグレンの言い分のようだ。しかし残念ながら、それもフィアには関係のない話である。

「第十級聖女の私には、騎士団の方へお祈りすることも出来ないんです……」

 なぜならフィアは、落ちこぼれの聖女だ。聖なる力が開花しても能力が安定せず、まともな治癒の力も加護の力も与えられない。力をコントロールできず位も上がらないフィアではノーザリアを守る騎士達に十分な祝福を贈れないだろう、というのが神官達の考えで、ゆえにフィアはアルクイードの騎士とは会ったことすらないのだ。
 おそらく神官達も、フィアの負担を考えて無理をさせない配慮をしてくれている。ならばわがままを言ってはいけないと思うが、本当は期待に応えられない情けない自分に落ち込んでいる。

「それならフィア、俺が――」
「あーっ! グレンが可愛い子に手出してる!」
「!?」

 グレンがなにかを言いかけて口を開いた瞬間、浴場の入り口から明るい男性の声が聞こえてきた。聞き覚えのない声に驚いたフィアがびくっと肩を震わせると同時に、グレンが深いため息をつく。

「アルバート……」

 グレンがフィアを太腿から下ろして肩に毛布を掛けてくれたので、肌を隠すように布の隙間をいそいそと合わせる。
 ざぶざぶとお湯の中を進んでいくグレンの視線の先には、青に近い紺色の短髪に空色の瞳を持った青年がひらひらと手を振っていた。さらにその後ろから、栗色の長い髪を首の後ろで一つに結んだ赤い瞳の女性がひょっこりと顔を覗かせる。

「ごめんね、グレン。娘が熱出しちゃって、来るのが遅くなったわ」
「イザベラ……いや、こっちこそ朝早くから悪かったな」

 どうやら紺色の髪の男性が召喚魔法や転移魔法に長けたアルバートという友人で、栗色の髪の女性が結界魔法を得意とするイザベラという友人らしい。グレンが浴場にいることを把握し、案内を通さずここまで直接赴いてくれたことが、彼らの信頼関係を思わせるなによりの証拠だ。

「むっつりスケベ」
「……うるさいぞ」

 それにグレンに軽口を叩くアルバートの様子や、戯言を一蹴するグレンの姿からも仲の良さがうかがえる。その様子を遠くから眺めたフィアは、これでようやくしかるべきところで用を足せることになによりも安堵を覚えていた。


   * * *


 浴場から救出されたフィアは、裾が濡れた衣服からまた別の服を借りて着替えを済ませると、使用人と思わしき年配の男性の案内で談話室へ通された。フィアが入室するとアルバートと呼ばれていた男性が一目散に駆け寄ってきて、両手を合わせてフィアに謝罪の意を示してくれる。

「フィアちゃん、お湯の中に落ちちゃったんだって? びっくりしたでしょ、本当にごめんね」
「い、いえ。大丈夫ですよ」

 初対面の男性に陳謝されたフィアは、戸惑いを覚えながらも手と首を振って過剰な謝罪を遠慮した。確かに急に聖都から帝都に召喚され、熱いお湯の中に落とされたことには驚いた。だがフィアは彼のおかげでグレンに会うことが出来た。恥ずかしい思いもしたし、神殿につかえる聖女の務めを無断で休むことにもなってしまったが、十二年ぶりに懐かしい幼なじみの顔が見れたのでアルバートには感謝している。

「本当はグレンのベッドルームに召喚するつもりだったんだけど。召喚場所に誤差があって、間違って浴場の中になっちゃったみたい」
「謝って済む問題じゃないだろ」

 ただしグレンは大層ご立腹な様子だ。大きなソファに足と腕を組んだグレンは、フィアの感情と裏腹に不機嫌そのものである。
 そんなグレンも夜着のガウンから、ボタンがたくさんついた黒い上衣と肌に密着するような細身の黒い下衣、銀細工の留め具がついたマント姿に着替えている。アルバートも同じ衣装に身を包んでいるところを見るに、おそらくこれがグレンの所属する騎士団の制服なのだろう。
 凛々しい姿に見惚れていると、ふとグラスから口を離したグレンがアルバートを睨んだ。

「おい、アルバート……お前いま、俺のベッドルームに、と言ったか……?」
「あっ、やば……!」

 自分の失言に気づいたのだろう。しまった、と慌てた表情で視線を逸らすアルバートだが、ソファの肘掛けに頬杖をついて自分のこめかみを押さえるグレンはどこまでも不機嫌だった。
 そんなグレンの様子を見たアルバートが、突然意見を翻して呆れたように肩をすくめる。

「でもグレンもいけないんでしょ。いつまでも結婚しないどころか、恋人も作らないんだから」
「必要ないと言ってるだろ」
「グレンはそういうけど、みんな心配してるんだって」

 グレンに睨まれて劣勢に立たされていたはずのアルバートが、鼻から盛大な息を漏らす。その態度と言葉に無言でそっぽを向いて黙り込む様子を見るに、この話題はグレンにとってあまり楽しくない内容……おそらく彼の急所なのだろうと察する。
 そんな二人の会話内容から、現在のグレンが既婚者ではないこと、それどころか恋人もいないことを知ったフィアは、ひそかにほっと胸を撫で下ろしていた。

(……?)

 直後になぜ自分がほっとするのだろう? と疑問に思ったが、深く考え込む前に室内にいたもう一人の人物、結界を扱う魔法使いのイザベラが近寄ってきて、フィアの肩をぽんぽんと叩いた。

「ごめんね、フィアさん。男達のことは放っておいていいから」
「え、あ……はい」

 イザベラが「こっち」とフィアに移動をうながすので、ああでもないこうでもないと会話をしているグレンとアルバートの背後を通り、部屋の奥にある大きな窓に面したソファに腰を下ろさせてもらう。
 グレンの邸宅はレンガの塀に囲まれているため、一階にある談話室からは帝都の街並みを眺めることは出来ない。だが朝の光が差し込んできらきらと輝く庭の様子はよくわかり、しっかりと手入れされている芝生しばふ絨毯じゅうたんと、瑞々しく咲き誇る青紫のアジサイのコントラストが美しかった。

「フィアさん、髪を梳こう。そのままだとボサボサだよ?」
「はい。あ、あの……フィアで構いません」
「そう? じゃあ、フィア。私のこともイザベラでいいからね」

 フィアの背後に回り込んだイザベラが、手にブラシを握って頷く。窓際の壁にはめ込まれた鏡に視線を向けると、金枠の中に映り込んだイザベラがフィアに向かってにこりと笑顔を作った。
 グレンはイザベラを豪胆な女性だと評していた。確かに、下衣こそロングスカートではあるが、グレンやアルバートと同じ騎士の制服に身を包んだ姿には勇ましく凛々しい印象も感じられる。だがフィアの長い髪をひとすくいしては丁寧にブラッシングしてくれる手つきからは慈しみと母性が感じられ、フィアには優しくて親しみやすいほがらかな女性に思えた。

「フィアは綺麗な銀髪だね。シルクの糸みたいで美しいよ」
「それが……実は昨日までは金髪だったんです」
「え? どういうこと?」

 そんなイザベラの褒め言葉を聞いたフィアは、自分の置かれた状況を思い出して昨日に引き続き今日もがっくりと落胆した。もちろんイザベラは、本心から偽りなくフィアの髪を褒め称えてくれたのだと思う。だがフィアの髪は、昨夜までは綺麗な金髪だったのだ。
 フィアは美人ではないし、頭がいいわけでもないし、女性らしい体つきでもないし、なにより聖なる力が開花したはずなのに、目も当てられないほどの落ちこぼれ聖女だ。そんな特別な美点も存在感もないフィアが誰かに誇れるものは、長く美しい金髪だけだった。なのにその唯一の優れた特徴が失われてしまったことは本当に悲しい。
 不思議そうな表情をしているイザベラにかいつまんで状況を説明したが、彼女の表情はさらなる困惑と疑問に染まるばかりだ。

「うーん? アルバートの召喚魔法の影響なのかな?」

 ブラッシングの手を止め、腕を組んで唸るイザベラの表情を鏡越しに見つめる。

「でも髪の色だけ元の場所に残して移動してくるなんて、聞いたことがないね」
「そう、ですよね……」

 フィアの髪色の変化についてはイザベラにも原因がわからないらしい。ならば召喚魔法を使ったアルバートなら原因がわかるのだろうか……とイザベラと同時にアルバートへ視線を向けてみると、彼はまだグレンと不毛な言い合いを続けていた。

「だから僕が、グレンに結婚の良さを教えてあげるって」
「要らないと言ってるだろ」

 足を組んで頬杖をついたグレンが「しつこいぞ」と文句を言いながらため息をついている。だがアルバートも引く気がないようで、グレンの目の前に仁王立ちになり頬を膨らませて反論を並べ続ける。

「グレンが恋愛ぽんこつのドヘタクソなのは、僕だって知ってるさ」
「ぽ、ぽんこつ……ドヘタクソ……?」
「けど陛下だって、グレンが身を固めなきゃ新騎士団には擁立出来ないって明言してるんだもん。いい加減グレンも腹括ってくれないと」
「……」

 さり気なく悪口を混ぜつつき伏せようとするアルバートに、だんだんグレンが押され始めている。二人の会話から察するに、グレンはアルバートから結婚を勧められ、しかもその事情には騎士団の未来がかかっているらしい。ちらりと聞こえた〝陛下〟という単語に一瞬引っかかるフィアだったが、それが明確な疑問に変わる前に、背後のイザベラが呆れたようなため息を漏らした。

「騎士団長があの調子だから、下についてる私達も心配してるんだけどね」
「騎士団長? アルバートさまは、騎士団の団長さんなのですね?」
「え?」

 イザベラの嘆息を耳にしたフィアは、部下のグレンが結婚しないと上官のアルバートにもなんらかの迷惑がかかるのだろうと考えた。だがフィアは大幅な見当違いをしていたようで、手を止めたイザベラが一瞬の間を置いて盛大に笑い出した。

「あは、あははっ……違う違う! 騎士団長はグレンのほうだよ」
「え……ええっ?」


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