落ちこぼれ治癒聖女は幼なじみの騎士団長に秘湯で溺愛される

紺乃 藍

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1巻

1-2

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「本当に、フィアなのか……?」
「はい」
「大人しくていつも泣いてばかりだった、あのフィア?」
「うっ……そ、そうです……」

 グレンはにわかには信じられないといった様子だったが、それでも昔の話を口にしたことで信用してくれる気になったらしい。フィアの顔を覗き込んで一瞬不思議そうに顔を顰めたものの、温かいお湯の中でじっと見つめ合っているうちにようやく彼も信じる気になったようだ。

「本当にフィア、なんだな」
「……はい」

 今度はしっかりと確認されたので、フィアも強く頷く。改めて目を見ればわかるのは、きっとお互いさまだ。年齢は八歳も離れているが、幼少期は毎日のように一緒に過ごした仲なのだ。
 聖なる高峰ノル・ルミリアス山に眠る女神の加護により、聖都ノーザリアには裕福で恵まれた家庭が多い。その中で貧しい家に生まれ育ったフィアとグレン、そして彼の妹であるミルシャは、同年代の子ども達の中ではひどく浮いた存在だった。だがそれゆえにフィアとミルシャはグレンを強く慕っていたし、グレンもフィアと妹を存分に可愛がった。三人の結束力は固かったのだ。
 苦々しくも懐かしい記憶を辿りながら見つめ合う。グレンは昔と変わらない優しい笑顔を見せてくれたが、ほどなくして彼の視線がフィアの顔からお湯の中……胸元へ移動したことに気がついた。

「……成長したな?」
「できれば顔を見て言ってくださるとありがたいのですが……」

 残念ながらフィアは手足と胴の長さが伸びただけで、女性らしい豊満な身体には成長しなかった。もちろんまったく育たなかったわけではないが、貧しさと元来の食の細さゆえか、多くの男性が好むような豊かな胸や魅力的なお尻には恵まれなかった。
 それを自覚しているので、身体を見て「成長した」と言われるとお世辞を並べられている気がしてならない。恥ずかしさと申し訳なさから黙り込むと、グレンがそっと話題を変えてくれた。

「ところで、なんでフィアが帝都にいるんだ?」
「て、帝都……? やはりここは帝都なんですか?」
「他にどこがあるんだ?」

 フィアの戸惑いの声にグレンが驚いたような顔をする。だが驚きたいのはフィアのほうだ。
 ルミリアス帝国の政治と経済の中枢である帝都ルミフェゴールは、広い帝国のほぼ中央に位置する。一方フィアの住まう聖都ノーザリアはルミリアス帝国の最北に位置する街で、聖なる高峰が隣国との国境にもなっている。国の中央にある帝都と国の端にある聖都の距離は、夜明けから日没まで日に何度も馬を変えながら走り続けたとしても、十日はかかるほど離れた場所にある。本来なら一瞬で移動出来るような距離ではないのだ。
 聖都を出た現在のグレンが帝都に自分の邸宅を持っていることにも驚いたが、それ以上に遠く離れた場所まで瞬間移動してしまったことに驚く。どうして突然こんな状況に……と困惑するフィアは、ふとここにやってくる直前の出来事を思い出した。

「あの……おそらく私、転移魔法か召喚魔法を使われたのだと思います。ノーザリア神殿からの帰宅途中、急に地面に魔法陣が浮かんでそこに引きずり込まれてしまったので……」
「転移……召喚魔法?」

 お湯の中でグレンの逞しい腕に抱かれたまま説明すると、グレンの語尾がわずかにあがった。
 遠く離れた距離を一瞬で移動する方法など思い当たらない。直前の状況を考えてみても、その可能性が一番高い気がする。フィアにそれほど大がかりな魔法は扱えないが、帝国には移動の魔法を得意とする魔法使いが存在するし、自分以外の生命体の召喚や送還を専門に扱う魔法使いも存在する。目的は不明だが、フィアはその魔法を使われてここへやってきた可能性が高い。

「ってことは、やっぱりアルバートか」
「? アルバート?」
「悪かった、フィア。それはきっと俺の友人の仕業だ。遠く離れた聖都から人を呼び寄せて強力な結界の中に放り込む荒業が出来る奴なんて、あいつぐらいしか思い浮かばない」

 フィアが首をかしげる様子を見て、グレンが盛大なため息を吐く。どうやらグレンには、この状況の原因を作った人物に心当たりがあるらしい。

「できればすぐにノーザリアへ戻してやりたいが、今夜は難しいかもしれない」
「え? な、なぜですか……?」
「さっきも説明したが、裸で無防備になるこの浴場には俺以外の人間の出入りを制限する結界が張ってある。これを解除しなければアルバートも中に入ってこれないし、フィアも外に出れない」

 グレンの説明を聞いたフィアは、先ほど突然身体が痛んだことを思い出してごくりと唾を飲み込んだ。扉に近づくほど皮膚が強く刺激されて激しく痛むのは、結界を通り抜けようとする者への警告だ。臨界面に近づけば近づくほど痺れや痛みが強くなり、それでもなお先へ進もうとすれば、感電して意識と身体の自由を奪われる。結界とはそういうものだ。

「残念だが俺は魔法はまったく使えないし、そもそも結界は張った魔法使いにしか解除出来ない。この浴場に結界を張ったのはイザベラという友人なんだが……実は彼女、最近子どもが生まれたばかりなんだ」
「ええっ……?」
「だから今夜、急にここへ呼び寄せるのは難しいと思う」
「……」

 どうやらこの状況はグレンの友人達によって作り出されたものらしい。一人は強固な結界魔法を扱える者、もう一人はその結界の中に他人を喚び寄せる召喚魔法を扱える者だという。グレンの友人ならば彼に害を与える意図があってやったわけではなさそうだが、グレンの呆れた表情を見る限り迷惑な友人であるらしいことはわかる。特に後者は。
 グレンは魔法が使えないというが、フィアもさほど得意ではない。まして第十級聖女という落ちこぼれ中の落ちこぼれに、結界魔法へ干渉出来るほどの魔力などあるはずがない。
 しかしこの場所から出られないのも困ってしまう。もう夜も更けているので仕方がないのかもしれないが、ここから出られないとなればフィアは温泉に浸かったまま夜を明かすしかないということだ。

「フィア、晩飯は食べたのか?」
「え? あ……そういえば、まだ……」

 グレンに問われてハッと気づく。
 神殿からの帰り道で突然召喚されてしまったため、夕食はまだ食べていない。

「そうか。じゃあなにか食べるものを用意しよう」
「こ……ここで食べるんですか……?」
「仕方ないだろ、出れないんだから」

 浴場は身体を清める場所であって、食事をする場所ではない。フィアとしては一食ぐらい抜いたところで死ぬことはないと思う。だがフィアを抱いていた腕を解いてお湯の中に解放してくれたグレンは、本当にこの場に食事を用意するつもりらしい。ざばざばとお湯の中を逆戻りして脱衣場へ向かっていくグレンの背中は、至って本気だった。

「なにか着替えと……毛布も用意させるか」
「ここで寝るんですか……?」
「仕方ないだろ、出れないんだから」

 ついでにずぶ濡れになったフィアの着替えと、夜を越すために毛布を用意するというグレンに再度驚きの声が出てしまう。しかしその返答は先ほどと全く同じもの。

「あと用を足すときは、そこの陰で……」
「こここ、ここでですか……っ!?」
「仕方ないだろ、出れないんだから」
「嫌です……!」

 さらに思い出したように提案されたが、それについては本気の拒否の声が出た。そこの陰もここの陰もない。人様の邸で用を足すことすら気が引けるというのに、まさか温泉の片隅で用を足すことなど出来るはずがない。絶対に無理だ、と首を振ると、グレンがフッと表情を緩めた。

「まあ、今日のところは諦めてくれ」

 本気とも冗談ともつかない様子で肩をすくめたグレンに、フィアは頭痛を覚えてしまう。
 その結界を扱うという友人が呼びかけに応じて一刻も早く到着してくれることを切に願うが、おそらく赤子を抱える母親だという女性には難題だろう。ならばフィアは、どうにか一晩我慢するほかなさそうだ。

「フィアの家にも連絡が必要だな」
「そう、ですね……」

 浴場を出ていこうとしたグレンの呟きに、歯切れ悪く返答する。

「でもそれは、急ぎじゃなくても大丈夫です。きっと私が帰っていないことにも、気づいてないでしょうから」
「……そうか」

 消え入りそうな声と曇った表情で説明するフィアの様子を見ただけで、グレンはすべてを察したらしい。それ以上はなにも言わず、困ったように頷くと岩風呂からざぶざぶと出て行った。
 グレンの裸体を極力見ないように入り口に背を向けて、大きなため息をつく。彼は今の一言だけでフィアの置かれている状況を正確に把握しただろう。
 グレンの父は成果が得にくい魔法研究職に就いていたため収入が少なく、母は足が不自由で満足に働けなかったためブライアリー家は昔から裕福ではなかった。だがそれを感じさせないほど、いつも笑顔が絶えないあたたかな家庭だった。
 聖都ノーザリアには裕福な家庭が多かったのでグレンの一家は周囲から浮いていたが、グレンとミルシャは志が高く心の優しい両親の間に生まれ育った、素直で家族思いの兄妹きょうだいだった。
 それに比べ、フィアの家庭は本当にひどい有様だった。
 そもそもフィアの実の両親はフィアが幼い頃に馬車の事故で亡くなっており、現在フィアが身を寄せているのは母の兄夫婦の家である。しかし家事が得意で心優しかった実母や手先が器用で魔法を使った工芸品作りが得意だった実父と異なり、フィアを養子として引き取った義両親はどちらも怠惰な性格だった。健康体であるにも関わらず定職に就いていないし、働き口を探そうという気概さえ感じられない。フィアを迎えた直後から家事は幼いフィアに任せきりで、自分達は清掃や森に出没する野生動物の駆除で日銭を稼ぎ、その日のうちに自分達の酒と食事にすべて使ってしまう。聖女としてノーザリア神殿につかえ始めてからはフィアにも多少の給金が出るようになったが、それらは家賃や税の徴収にすべて消えていく。
 そんな調子の家族なので、フィアが家に帰らなくて困るどころか、フィアがいないことに気づきもしないだろう。
 フィアの義両親の体たらくは昔から一切変わっていないので、当時のグレンもその様子を見聞きしている。フィアよりも八歳も年上のグレンならば、十二年経った今もその状況が変わっていないことなど想像に容易いはずだ。
 住まいと家族の有様は、フィアにとっては自らの貧相な身体以上に知られたくない現状だった。だが浴場に戻ってきたグレンが仔細を問いかけてこなかったので、フィアもその話にはもう触れないことにした。
 再び浴場に現れたグレンは全裸ではなく薄いガウンを羽織っており、手にはパンとフルーツとチーズを載せたプレートを持っていた。

「不便をかけさせて悪いな」
「いいえ、とんでもないです」

 グレンの言葉に慌てて頭を下げると、お湯の中にある岩が平らになった場所に腰かけて、軽食の載ったプレートを受け取る。そこに座ると腰より下は浸かってしまうが、極力それも気にしないようにした。
 プレートに載ったブドウの房から実を一粒ずつ千切って口に運ぶ。しかし朝食を食べて以降なにも食べていないのでお腹が減っているはずなのに、不思議なことにあまり食欲が湧かない。

「口に合わなかったか?」
「いえ、そうではなく……」

 隣に腰を下ろして様子をうかがってくるグレンの問いかけに、ふるふると首を振る。

「どうしても……身を清める場所で食事をする気になれなくて」
「それはまあ、そうだな」

 浴場は洗髪や洗身を行い、身体の疲れを癒すための場所だ。もちろん食事をしたり、服を着たまま呑気に話をする場所ではない。すぐに出れないのだから仕方がないとはいえ、ここで食事をとるにはやはり衛生面や倫理観が気になってしまう。とても味などわからないし、満たされるほど食も進まない。
 どうにかブドウの実を五粒とチーズを一かけらは食べることができたが、ドライフルーツ入りのライ麦パンや他のフルーツは食べる気になれなかった。せっかく用意してくれたグレンには申し訳ないと思ったが、結局フィアは残りの食事を下げてもらうことにした。
 食事の後片付けで一度浴場を後にしたグレンだったが、先ほどよりも短時間で戻ってくると、今度は大きな毛布と女性ものの衣服を手にしていた。

「とりあえず、身体を拭いてこれに着替えろ。急いで用意させたから体型に合っているかはわからないが、ずぶ濡れの格好でいるよりはいいと思うぞ」
「ええ、っと……?」

 そう言って彼が手渡してきたのは、身体を拭くためのタオルと薄手のナイトワンピースだった。誰にどう説明して用意させたのだろうか、と疑問に思ったが、ずっと濡れたままの服を着ていて気持ちが悪かったのは確かだ。だからその厚意をありがたく受け取ることにする。
 グレンに後ろを向いてもらって、少し離れた大きな岩の陰まで進み、そこでぐしょ濡れになった服を脱ぐ。下着をどうすべきかと一瞬迷ったが、折角乾いた衣服を用意してもらったのに濡れた下着の上に重ねたら意味がない。それに濡れた下着の感覚も気持ち悪い。
 貸してもらったワンピースを広げてみると肌が透けそうな生地ではなかったので、こうなったらもう腹を括るしかない、と諦めて下着も脱いでしまう。それから大急ぎで身体を拭いてナイトワンピースを身に着けると、またグレンがいる場所まで戻っていく。

「着替えたか?」
「はい……ありがとうございます」
「よし、じゃああとは寝る場所だな。ここに天幕を張ってもいいが、洗い場の広さしかない。どのみち寝るには適してないから、悪いが今夜はこれで我慢してくれ」

 グレンがそう説明しながら毛布を広げてフィアの身体を包み込む。そのままぐっと引き寄られると先ほどお湯の中で抱きしめられたときと同じ体勢になるが、次に座った場所はお湯の中ではなく、岩が平らになっていて石の柱に背中を預けられる場所だった。
 フィアが戸惑っているうちに、毛布ごと身体の位置を調節される。どうやらグレンはフィアの身体を抱きしめつつも、座っていて痛みや違和感がない位置を探してくれているらしい。

「って、グレン兄さまもここで夜を明かすのですか……?」
「浴場に一人で放置するわけにいかないだろ」
「で、でも……、あの……その」

 腕の中にフィアの身体を抱くグレンに、なんと言っていいのかわからず困惑してしまう。
 確かに慣れ親しんだ故郷から急に召喚されて、右も左もわからない状況で突然放置されるのは困る。とはいえ数年ぶりに再会した、以前は兄のように慕っていた幼なじみに抱きしめられたまま夜を明かす状況にも狼狽えてしまう。仮に同じ場所で夜を明かしてくれるとしても、別に抱きしめる必要はないと思うのに。
 恥ずかしい――そう思っていたフィアだったが、グレンに身体を抱かれているうちにぽかぽかと体温が上昇して、少しずつ緊張が解れてくる気がした。

(……あたたかい)

 このじんわりと身体が火照ほてっていく感覚は、きっと温泉がもたらす効能や効果によるものだけではない。人の優しさ、人肌の温度、人との自然な会話――それらはどんなに望んで手を伸ばしても、落ちこぼれ聖女で穀潰しの義娘であるフィアには手に入らないものだった。
 殴られたり罵声を浴びせられたりすることはない。ただ義両親は、血の繋がらないフィアに対してどこまでも無関心だ。聖なる力が開花して聖女として神殿につかえることになったと報告しても、彼らの口から出る台詞はお金に関することばかり。フィアの能力を褒める言葉はただの一つも出てこない。
 そしてそれはノーザリア神殿でも同じ。同時期に聖女としてつかえるようになった娘達はみな裕福な家庭に生まれ育ち、高い魔力や美しい外見を併せ持っている。ただ聖なる力が開花したというだけで、特別強い魔力を秘めているわけでも、特別美しいわけでもないフィアと仲良くしてくれる娘などほとんど存在しない。
 だからこうして人に触れ合うこと自体が久しぶり。女神に与えられた力が開花しても能力の低いフィアでは役に立たないことが多いので、怪我をした騎士や魔法使いを癒す機会さえ与えられない。落ちこぼれの聖女では、人のぬくもりさえ簡単には手が届かないのだ。

「フィア? お前、魔法が使えるのか?」
「え……?」

 両親には気づかれないかもしれないが、聖女達を管理する神官には明日の朝にでも気がついてもらえるだろうか――なんて考えごとをしていると、ふとグレンが不思議そうに問いかけてきた。
 どうやら知らない間に内に秘めた力が溢れて、グレンになんらかの影響を与えてしまったらしい。

「あ、えっと……治癒の力を少し」
「そういえばさっき、神殿から帰る途中だと言ってたな。そうか、ノーザリア神殿につかえているってことは聖女になったんだな? すごいじゃないか」

 誰にも認められない聖女フィアを褒めてくれたのは、久しぶりに会うグレンの大きな手のひらだった。顔をあげるとグレンが昔と同じようにぽんぽんと頭を撫でてくれる。

「……そんなことはありません」

 優しい触れ合いが恥ずかしくなってそっと視線を下げる。
 グレンの褒め言葉は嬉しいが、フィアは素直に喜べない。

「グレン兄さまが聖都を出たあとに、私にも聖なる力が開花しましたが……実は能力が安定しないんです。十五歳で神殿につかえてからずっと第十級聖女のままで、位もまったく上がっていません。……落ちこぼれなんです」

 ぽつぽつと話しているうちに、自分の言葉に自分で打ちのめされてしまう。
 そもそも聖女が持つ大地の女神に与えられし聖なる力には、疫病や災いなどから身を守る〝加護の力〟と、自然治癒力を高めて回復をうながす〝治癒の力〟と、身体能力を活性化させて強化する〝祝福の力〟の三種がある。大抵の聖女はこの三つのうちどれかが突出して優れているか、あるいはこの三つのすべてをバランスよく扱える者がほとんどだ。
 しかし十五歳の頃に聖なる能力が開花してからすでに七年が経過しているのに、フィアの能力は未だに低水準でどれも安定しない。一応どの能力も扱うことは出来るが、力を使う機会を与えられないせいかまったく成長出来ていないし、先ほどのように必要のないときに聖なる力が溢れてしまうこともある。それでは使い物にならないと言われ、聖女としての役割をまったく与えられない。今のフィアは、完全な悪循環におちいっているのだ。

「そうなのか?」

 しかし落ち込むフィアの身体を包み込むグレンはあまり納得していない様子だ。俯くフィアの顔を覗き込み「いや、そんなはずはないだろう」と不満そうに唇を尖らせる。

「俺はこうしてるだけで癒されるけどな」
「……っ!」

 優しく笑うグレンの表情を腕の中から見上げたフィアは、だんだんと自分の顔が熱く火照ほてっていく心地を感じていた。その恥ずかしさと照れは温泉の熱さによるものだと必死に自分に言い訳をしてそっと視線を落とす。
 ふとグレンが身に着けているガウンの隙間から、彼の胸元が垣間見える。薄暗い灯りのもとではわかりにくいが、目を凝らしてみると昔よりほんの少しだけ日焼けした肌に、いくつかの小さな切り傷や擦り傷がついている。それによく観察してみると、胸だけではなく首や腕にも小さな傷があるようだ。

「グレン兄さま……怪我をされてらっしゃるのですか……?」
「ん?」

 フィアが一度逸らした視線をあげてグレンの顔を再度見つめると、視線に気づいたグレンが低く頷いた。

「大したことはない。騎士として毎日訓練していれば、このぐらいの傷は日常茶飯事だ」
「!」

 小さな笑顔を浮かべるグレンの表情を確認したフィアは、その言葉一つでほっと安堵した。

(グレン兄さま……騎士になる夢を叶えたのね……)

 十二年前、当時十八歳だったグレンは『帝都で騎士になりたい』と言って聖都ノーザリアを旅立った。
 幼いフィアは兄のように慕っていたグレンと離れるのがなによりも辛かった。だが火事で大切な家族を失って以来、三年の月日を孤独に生きてきたグレンがようやく自分の夢を見つけて歩き始めたのだ。決意を固めたグレンを止められず、当時十歳だったフィアは結局、グレンと離れ離れになった。
 グレンに手紙を出す宛がなかったフィアは、グレンやミルシャとの思い出を胸の奥に大切にしまい込んだ。ときどきグレンを恋しく思うこともあったが、故郷の風景にグレンの姿を探しても絶対に見つからないことはわかりきっていた。
 だからグレンがこの十二年間をどう過ごしてきたのか一切知らなかったフィアだが、彼は夢を叶えて騎士になったらしい。帝都にはいくつかの騎士団が存在すると聞いているので、そのいずれかに所属して立派に勤めを果たしているのだろう。グレンの身体の逞しさや肌についた小さな傷が、彼の努力と騎士としての過酷な日々を思わせる。

「グレン兄さま、目を閉じてくださいますか?」

 ガウンの上からグレンの胸板に手を添え、そっとお願いごとをする。
 突然の要望に一瞬目を見開いたグレンだったが、すぐにフィアの意図に気づいたらしい。首を上下させて同意を示すと目を閉じてくれたので、フィアも同じように目を閉じて意識を集中させた。
 先ほども治癒の力を使ったフィアだが、無意識で使うよりも意図してコントロールした力のほうがより丁寧で質の高い治癒の効果が得られるだろう。
 そう考えてグレンの呼吸に自分の呼吸を合わせる。息遣いと鼓動を同調させるように精神を集中して、グレンの内に巡る力の流れを掴まえる。そこに自分の中に循環している力を寄り添わせ、少しずつ治癒の力を織り交ぜていく。
 魔法使いや聖女と呼ばれる特殊な力を扱う者は、自分と相手の波長を同調させることで相手の魔力に干渉することが出来る。特に大地の女神から授かった聖女の力は、人や馬や狼など己の足で地を駆ける生命に対して高い効果を発揮するとされている。
 ふ、とグレンの意識から自分の意識を切り離して、そっと目を開ける。顔をあげるとフィアの身体を包んでいたグレンが驚いたように目を見開いていた。
 先ほどまでガウンの隙間から胸元に見えていた細かい擦り傷や切り傷が消えている。聖なる力で自然治癒能力を活性化させると、このぐらいの小さな傷であればすぐに消えてしまうのだ。

「成長したんだな」

 驚いたような表情をしていたグレンが、フィアの目を見て優しく褒めてくれる。その笑顔が自分に向けられていると気づいたフィアは、失いかけていた自信を少しだけ取り戻した。


   * * *


 小鳥がさえずる声が遠くから聞こえた気がして、夢の世界からそっと覚醒する。いつの間にか眠っていたらしい。そろそろ起きて朝食の準備をしなければ毎朝の礼拝の時間に遅れてしまう……。
 そんなことを考えながらうとうとと目を開けたフィアは、視界に飛び込んできたグレンの姿に驚いて思わず身体を硬直させた。
 十二年前に故郷を離れて以来一度も会えなかった懐かしい人が、フィアの身体を抱いて座ったまま眠っている。この状況におちいった経緯を一気に思い出し、フィアの思考が急速に冴えていく。
 突然見知らぬ秘湯に召喚され、さらにそこから出られなくなってしまったフィアのために、グレンもフィアの傍で一夜を過ごしてくれた。本来ならば毛布だけ貸し与えてあとは放置してもよかったところ、グレンはフィアを守るように一晩中抱きしめてくれていたらしい。
 丸太でできた壁の向こうでは、徐々に空が白んできている。夜明けの時間が近い証拠だ。
 フィアが現在いるこの場所は、グレンが住む邸宅内にある浴場とのこと。露天風呂には頑丈な囲いと屋根があるため、ここから正確な建物の大きさや敷地の広さはわからないが、ただの騎士にしては随分大きな邸に住んでいるような気がする。騎士の仕事はそれほど実入りがいいのか、それとも聖都と帝都では土地や邸の値段が大幅に異なるのか、今のフィアにはよくわからない。
 ただし一つだけ、確実に理解出来ることがある。それはノーザリア神殿で毎朝行われる礼拝の時間に、今朝のフィアが絶対に間に合わないということだ。

「あの……グレン、兄さま?」

 フィアを抱きしめたまま寝息の一つも立てず静かに眠っているグレンに、そっと声をかける。
 フィアは彼の今日の予定を一切把握していないが、一晩中フィアにつきっきりになったせいで、昨晩本来すべきだった用事をまったく済ませられていない可能性がある。ならば早めに起こしたほうがいいかもしれない。そう考えて声をかけると、ほどなくしてグレンの瞼がゆっくりと開いた。

「ああ……おはよう、フィア。寒くなかったか?」
「は、はい……」


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