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1巻
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第一話
その夜――フィアはいつもと同じように、ぼんやりと月を見上げながら人の気配のないあぜ道を歩いていた。
フィア=オルクドールはルミリアス帝国における女神信仰の一柱、大地の女神を崇める〝ノーザリア神殿〟に仕える聖女の一人だ。
ルミリアス帝国は現皇帝レイモンド=ルミリアスが小国を束ねて統治する大国で、周辺諸国を少しずつ取り込んでは国土を拡げて国力を蓄え、あと数年のうちに大陸全土を掌握するだろうと囁かれている。多様な人種や民族を内包するルミリアス帝国の礎は、大地の女神・天空の女神・大海の女神の力を授かって築かれたと伝承されるため、現皇帝の一族は皆、三女神を信仰している。
そのうちの一柱〝大地の女神〟が眠るとされる〝聖なる高峰ノル・ルミリアス山〟を守るのが、聖都ノーザリアおよびノーザリア神殿だ。
聖都ノーザリアが大地の女神の安らかな眠りを守り続ける代わり、この地に生誕する娘達の中には時折、女神から〝聖なる力〟を授かった者が現れる。この特別な力を扱える娘達が〝聖女〟と呼ばれる存在だ。
通常、聖なる力が開花するのは娘達が初潮を迎える十二歳から十八歳の頃である。そこから特別な力が枯渇して消えるまで、あるいはどうしてもその聖女がほしいと希う者が現れ、彼らが女神に与えられし試練を乗り越えたと神殿に認められるまで、聖女はノーザリア神殿に仕え続けることとなる。
そして自分でも痩せすぎていると思うほど細い身体と金色の長い髪を持つ、二十二歳になったばかりのフィア=オルクドールも、その聖女の一人だった。ただしフィアは多くの聖女の中でも最下位級にあたる〝第十級聖女〟である。
聖女の中でも特に強大な力を持つ大聖女や高位聖女は、聖都ノーザリアから帝都ルミフェゴールの教会に身を移し聖職者として叙任されることや、皇帝の妃として城に輿入れすることもある。位が高い聖女は貴重な存在ゆえノーザリア神殿内に大きな部屋が与えられ、それ以下にも力の強さ――階級に応じた部屋がそれぞれ用意されている。
だがフィアは最も位が低い第十級聖女のため、神殿内に自分の部屋さえ与えられていない。だからフィアは、毎日のように住宅街の外れにある古びた実家からノーザリア神殿までの道のりを徒歩で通っているのだ。
街の高台に位置する神殿には光の魔法による美しい明かりが煌々と点っているが、夜間人の往来がない参道には光源など置かれていない。それでも月明かりさえあれば道も周囲の様子もよく見える……と、のんびり歩いていたフィアの足元に、ふと見たこともない魔法陣が浮かび上がった。
「えっ……!?」
初めて見る青白い魔法陣の存在に気がついてハッと視線を下げる。だが夜空を見上げていて反応が遅れたせいか、避けることもどこかに掴まることも、それどころか声を出すことさえ適わない。目線がカクンと下がったと感じた次の瞬間、フィアはあっという間に地面の中に引きずり込まれた。
最初は暗闇に飲み込まれたと思ったが、数秒も経たないうちに空中に放り投げられた。しかし解放された場所は水場のすぐ上で、肺に新鮮な空気を取り込む暇もなく今度は水の中に落ちてしまう。うつ伏せに着水した直後、フィアは溺死する恐怖に襲われて必死に手足をばたつかせた。
けれど『溺れ死ぬ』と思ったのはほんの一瞬だけ。
それよりも全身に纏わりつく灼熱感が強く、咄嗟に『焼け死ぬ』と錯覚した。
強烈な熱さを全身に感じながらじたばたもがくフィアだったが、懸命に手足を動かしているうちにふと指先が下に触れることに気がつく。慌てて水底に手と足をついたフィアは、使える力をすべて出し切る勢いで、水の中にがばっと立ち上がった。
「ぷぁっ……! けほっ……ごほっ……! うっ……ううッ」
近くにあった大きな岩にへばりついて身体を支え、懸命に咳と呼吸を繰り返す。
――生きている。……死んでいない。
突然の出来事に理解が追いつかないうちに水……というよりお湯を大量に飲み込んだので、てっきりこのまま溺れ死んでしまうかと思った。だが幸いなことに死んでいない。助かった。フィアはまだ、ちゃんと生きているようだ。
「こほっ……ふ……はぁっ……はあ……!」
飲み込んだお湯を少しでも吐き出そうと、何度も咳込む。そして自分の身に起きた状況を把握するために、必死に思考を働かせる。荒い呼吸を繰り返しながら周囲の様子を確認してみると、フィアが立っている場所は全く見覚えのない水の中――ではなく、お湯の中だった。
足元に感じるのは熱い温度。深さはフィアの太腿の真ん中あたり。お湯と外気の間に温度差があるせいか、水面からは無数の湯気が立ち上っている。鼻先にツンと感じるのは、金属を含んだような強い鉱物の匂い。
「温泉……?」
そう。フィアも幼い頃に何度か入った経験があるからわかる。
おそらくこれは〝温泉〟だ。
「ここ、どこ……?」
地下から湧き上がるお湯の中に鉱物や魔法物質が高純度に溶け込む温泉は、一般的には扱いが難しい代物とされている。フィアが温泉に入った経験があるのは、聖都ノーザリアの北にあるノル・ルミリアス山の中腹に、今は亡き祖父が秘密の温泉を掘っていたからだ。しかし昔は帝都で皇帝に仕えるほどの大魔法使いだった祖父だからこそ扱えていたが、管理が難しいため現在聖都ノーザリアの街中で邸宅に温泉を引いている者はいないはずだ。
つまりここは、聖都ノーザリアではない場所なのだろう。
先ほどの青白い光と見たことのない魔法陣は、おそらく召喚魔法か転移魔法の一種だ。物品の運搬に転移魔法を使う様子を見たことはあるが、生身の人間を移動させるなんて普通の魔力量では考えられない。だが現実として、フィアは今、見知らぬ場所に移動している。
ならば一体、どこに転移させられたのだろうか。
一見すると温泉は聖都の市場通りにある大噴水ほどの広さがある。湯船の周りはゴツゴツとした岩石で囲われており、岩場の奥には隙間なく均一に植えられた丸太の壁がそびえている。高さはフィアの身長よりもうんと高く、簡単には飛び越えられそうにない。
見ず知らずの場所に突然移動してしまったが、時間はあまり経過していないようだ。木の壁からさらに視線を上げて夜空を眺めると、月の高さや満ち欠けにはあまり変化がないように思う。いくらなんでも、この一瞬で一日以上が経過して翌日の夜まで時が進んだ、なんてことはあるまい。
「ん……」
第十級聖女で、家が貧しいフィアの身なりなど、最初から立派なものではない。薄い布でできた質素な服が、肌にぺたりと張り付く。その感覚が正直言って気持ち悪い。
熱風を起こす風や炎の魔法を使って服を乾かそうと考えたフィアは、ずぶ濡れになった服を少しでも身体から引き剥がそうと裾を摘まんで布を持ち上げる。
「おい」
その瞬間、背後から男性の低い声が聞こえてきた。
突然話しかけられたフィアは、驚きのあまりその場にびくんっと飛び上がってしまう。
「お前、俺の邸の浴場でなにをしてる?」
怒気を含んだ男性の声に驚いて振り返ると、いつの間にか少し離れた場所に佇んでいた影がぺたぺたと足音を立てて傍まで近づいてきた。さらに二、三段ほどの石の階段から湯船の中に入ってきた影が、お湯と湯気をざぶざぶと蹴り分けてフィアの近くに大股で歩み寄ってくる。
「あ……あの……私……っ」
怪しい者ではない、と主張するため、近づいて来た相手に向かってあわあわと声をあげる。
しかし傍までやってきた裸の男性を見上げた瞬間、フィアはその場で固まってしまった。
「女……? なんなんだ、お前。どうしてここにいる?」
「ぐ、グレン兄さま……?」
「は……? なんで俺の名前を……」
フィアを見下ろした男性があからさまに不機嫌な声を発する。その声にはあまり馴染みがない。
それもそのはず、フィアが彼の――グレンの声を最後に聞いたのはもう十二年も前のこと。フィアが十歳、グレンが十八歳の頃の話だ。そのときはグレンも変声期を終えたばかりで、まだ少年のような幼さが混じった声質だった。だから問いかけてくる声に面影こそあれど、成長して完全な大人の男性になった声はあまり聞き慣れない。
それに姿も。昔の彼は栄養失調を疑わせるほどに瘦せ細り、髪もぼさぼさと伸ばしっぱなしで手入れが不十分、瞳には常に虚ろな色をたたえ、表情もどこか悲しげだった。
だが今フィアの目の前にいる彼の身体は、細身だがしっかりと鍛えられ、胸にも腕にも脚にもほど良い筋肉がついている。髪は襟足こそやや長いが表情がちゃんと確認出来るほどの短さに整えられ、目つきは相手を威圧するほどに鋭く、表情からは自信と威厳が感じられる。
一つ一つを比較すれば、あまりにも違う。
それでもフィアには直感で分かる。艶のある漆黒の髪とアヤメのような濃い紫色の瞳――そして幼い頃にフィアを庇ってできた左肩の傷痕が、フィアの家の近所に住んでいた青年グレンだと物語っている。それに名前を呼んだら本人がちゃんと反応したのだから、間違っているはずがない。
「……アルバートめ、また余計なことをしたな」
しかし懐かしい再会のはずなのに、グレンはひどく不機嫌だ。フィアに対してだけではなく、知らない名前の男性にも露骨に不快感を抱いているのがわかる。
「とにかく、ここは俺の浴場だ! 得体の知れない女を入れるつもりはない……出ていけ!」
「ま、待ってください、グレ……」
「気安く俺の名前を呼ぶな」
どうやらグレンは、目の前にいる相手が幼なじみのフィアであることにまったく気づいていないらしい。忌々しそうな表情でお湯を蹴ってフィアの傍に歩み寄ってきたグレンは、手首を掴むとそのまま強引にフィアの身体を引っ張り始める。いつの間にか凛々しく逞しい青年に成長したグレンに見惚れている暇もない。
「さっさと来い!」
「やっ……ま、待ってくださ……!」
体格から予想出来る通り、フィアの手を引くグレンの力はかなり強い。泉質のせいか、それとも履いている靴が質素だからか、荒々しく腕を引っ張られるとお湯の中でつるりと滑って転びそうになる。
(グレン兄さま、私がわからないの……? 十二年も経ってるから……?)
心の中に生まれた疑問は声にならない。グレンが纏った空気に強い苛立ちが含まれていることと、自分でもあまり状況を理解していないことがあいまって、勢いよくフィアを引っ張る彼にどんな言葉を口にすればいいのかわからないのだ。
「い、いたいっ……!」
しかし手を引かれるまま強引に階段を上らされて岩風呂から出たところで、フィアの身体に異変が起きた。屋内――おそらく脱衣場と思われる場所に近づくにつれ、全身に鋭い痛みが走り始めた。
「いやっ……痛い! いたいいたいっ……!」
グレンに引っ張られる手から全身に向けて、バチバチッ、ビリビリッ、と鋭い痛みが襲い掛かってくる。まるで雷の魔法に打たれて感電したように、全身に強烈な電流と灼熱感が走る。しかも一歩一歩と扉へ近寄るたびに痛みが増すので、フィアの全身からドッと汗が噴き出てくる。
これ以上その扉に近づくのは危険だと本能が教えてくれる。強い警告が痛みとなってフィアの全身を蝕む。その扉が生命の境界線であると知らせるように、身体が激しい拒否反応を起こすのだ。
「やだ、やだぁっ……いたいっ! やめてッ……!」
フィアが異常なまでに痛みを訴える様子に気づいたのか、歩みを止めて振り返ったグレンがハッと目を見開いた。
「……くそ、結界か」
舌打ちをしながら呟いたグレンの言葉さえ、感電の恐怖から逃れることに必死なフィアにはうまく理解出来ない。
フィアの恐怖と絶望の表情に怯んだのか、次の瞬間腕を掴むグレンの力が少し緩んだ。その隙を見計らってグレンの手を強引に振りほどくと、そのまま瞬間的に数歩後ずさる。本当はもっと遠くへ離れたかったが、足まで痺れていたらしく、痛みを回避する最低限の場所までしか気力を保っていられなかった。
「おい、大丈夫か?」
フィアがその場にへなへなと座り込むと、近づいてきたグレンが視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。涙が出そうになるほどの恐怖感をぐっと自制して視線をあげると、罰が悪そうな表情をしたグレンと目が合う。
「悪かった。結界が張られていることを忘れていた」
「結界……?」
聞こえた言葉を反復すると、グレンが困ったように低く頷いた。
「ああ。立場上、嫌がらせをされたり命を狙われることがあってな。入浴中は無防備になるから、俺以外の人間が通過出来ないよう浴場の入り口と周辺に結界が張ってあるんだ」
グレンの説明を聞いたフィアは、驚きのあまり声を失いその場に硬直してしまう。
(命を……? グレン兄さまが……?)
「ここは俺の邸だが、結界を張ったのは俺じゃない。だから結界を張った魔法使いが来るまでは入り口を通過出来ない。悪いがお前は……ここからすぐには出られない」
「えっ……?」
今度は確実に声が出た。
この大きな温泉は個人の邸宅内にある露天風呂らしい。しかし浴場から『出られない』と告げられても、フィアはただ困惑するしかない。
「まあ、確かにその細い身体で俺を殺しに来たとは思えないか」
「!? や……っ」
ふむ、と自らの顎を撫でて独りごちたグレンに、フィアもやや間を置いてその言葉の意味を理解する。今のフィアは薄着でずぶ濡れ状態、身体のラインまではっきりと分かる姿だ。
しかもフィアの身体はお世辞にも魅力的とは言い難い、肉付きの少ない痩せた体型である。見て楽しいものではないだろうし、見られて嬉しいものでもない。
座り込んだ石畳の上で濡れた衣服の隙間を必死に合わせて背を向けると、フィアの態度を見たグレンが呆れたように肩を竦めた。ハアと零した大きなため息が、湯けむりに紛れて岩肌へ吸い込まれていく。
「とりあえず、そのままだと風邪を引くだろう。服を脱いで湯に浸かれ」
「えっ?」
「俺もさっさと風呂に入りたいんだ、お前も早くしろ」
グレンが猜疑と警戒の空気を解き、怒りの感情を引っ込めてくれたことはありがたい。しかし立ち上がって背を向けた彼の提案を聞いたフィアは、驚きの声と共に首を横へ振ることしか出来ない。
「け、結構です!」
「うるさい、いいからさっさと脱げ」
「嫌ですよ!」
「なんだ、無理矢理引き剥がされたいのか?」
濡れた石畳を進んで岩風呂に戻りかけていたグレンがその場でくるりと振り返った。グレンの表情には再び怒りの感情が含まれており、苛立ちの言葉と感情を向けられるとフィアは思わずたじろいでしまう。
(もしかして、グレン兄さまじゃない……?)
フィアの目に映る男性は、髪の色や目の色、顔立ちといった特徴はもちろんのこと、仕草の面影や声の印象もフィアが知るグレンの姿と一致している。しかし昔のグレンは自分よりか弱い人や動物を守るような、心優しい少年だった。困っている女性に衣服を脱げと強要したり、無理矢理引き剥がすような乱暴が出来る人ではなかったはずだ。
(優しいグレン兄さまなら、こんなことは言わない……はず)
そう考えながらグレンの姿を見上げたフィアは、目の前に飛び込んできた驚愕の光景に、直前まで考えていたことも忘れて思わず悲鳴をあげてしまった。
「きゃああっ!」
「な、なんだ?」
「か、かくっ……隠して下さい!」
目の前に仁王立ちになったグレンの姿につい大絶叫する。
個人の邸宅とはいえ、ここは屋外にある露天風呂だ。服を着たまま入浴する人はいないだろうから、やってきたグレンは当然のように全裸である。つまり座り込んだフィアの前に腕を組んで堂々と立たれると、見てはいけないものが丸見えになってしまう。湯けむりに紛れてはっきりとは見えなくても、タオルの一枚も巻いていないとなれば大事なところがすべて見えてしまうのだ。
必死に目を閉じ、顔を背け、自分の腕で視界を遮蔽する。だがグレンはフィアの様子にはお構いなしだ。しゃがみ込んでフィアの腕をぐっと掴むと、そのまま強引に視界に入り込んでくる。
「あっ、あの! 離れてください……!」
「なんだ、もしかして誘ってるのか?」
「さそ……?」
愉しそうに問いかけてくるグレンの言葉にそっと目を開く。だがずぶ濡れのフィアと全裸のグレンの状況はなにも変わっていない。相変わらず薄着と全裸の状態、周囲には温泉から立ち上る湯気と鉱物を含んだ金属質な香りが漂っているだけだ。
その湯けむりに紛れて、グレンの腕がフィアの腰へ回ってくる。ゆっくりとした手つきで背中から腰のラインを撫でられると、指の動きがくすぐったくて思わずふるっと身震いする。
小さな震えの原因は服を着たままお湯の中に落ち、その後外気に晒され続けていたから――だけではない。身体の芯から痺れるように身体が震えるのは、グレンが熱の籠った視線でじっとフィアを見つめて敏感な場所を撫でるせいだ。
「ぐ……グレン兄さま……っ!」
グレンの瞳に含まれる微熱と緩慢な指遣いに驚き、また大きな声を上げてしまう。するとグレンの瞳に宿る熱が、突然スッと温度を下げた。
「……兄さまはやめろ。その呼び方をしていいのは、ミルシャとフィアだけだ」
「!」
フィアの腰から手を放して寂しげな表情で息をついたグレンに、フィアもハッと我に返る。グレンの言葉を耳にした瞬間、確証が持てず曖昧だった疑問が突然正解に導かれた気がした。
「やっぱり、グレン兄さまなのですね!」
「お前、人の話聞いてるのか?」
「私、フィアです。フィア=オルクドールです。覚えていませんか?」
「……フィア? お前が?」
先ほどからいまいち噛み合っていなかった会話がようやく成立する気がして、捲し立てるようにフルネームを名乗る。
彼がグレンではない別人、またはフィアの存在を完全に忘れているようなら、いくらフィアが真実を訴えても話は平行線のままだろう。しかし彼は今、自らフィアの名前を口にした。その名前こそがお互いの存在を認識し合える糸口となるように思えて、フィアは必死に首を縦に振り続けた。
「嘘をつくな。お前はフィアじゃない」
しかしフィアを見つめるグレンの瞳は未だ疑念に満ちている。フィアの言い分をまったく信じていない様子だ。
「確かにお前はフィアと同じ青い目をしてる。だがフィアはもっと小さい少女だった」
「グレン兄さまがノーザリアを離れてから、十二年の歳月が流れています。成長するのは当然です」
「……」
フィアの説明にグレンが一瞬目を見開いて言葉を失う。まるで十二年という歳月を忘れていたかのような驚き方だ。
「いや……それだけじゃない。俺が知っているフィアは、金髪だった」
だがグレンがフィアを疑うのは、単に自分の記憶よりもフィアが成長しているという理由だけではないらしい。身長や顔つきといった時間とともに変化する特徴だけではなく、生まれたときから変わらないはずの特徴まで変わっていると言われてしまう。
しかしその言葉に驚いたのは、フィアのほうだった。
「え? 私の髪の色は金色ですが……?」
「はあ? お前、俺を馬鹿にしてるのか? いくら暗くても髪の色ぐらいは識別出来る。お前はどう見ても銀髪だ」
「……え?」
グレンがよくわからないことを言い始めるので、思わず気の抜けた声が出て首も傾げてしまう。
確かに今はとうの前に陽が落ちて夜も更けた時間帯で、ここには浴場全体を照らすほどほのかな灯りしかない。だがそのマリーゴールド色の灯りだけでもお互いの姿は十分に確認出来るし、もちろん髪の色だって認識出来る。陽の下で確認する場合と比較すれば多少の差異はあれど、金髪を銀髪に見間違えることはないだろう。そう疑問に思いながら腰まで伸ばした長い髪を首の後ろで掴まえる。
昔から痩せ細っていて、美人でもなくて、性格も特別明るいわけでもないフィアには、自慢出来るものが少なかった。だが金色の長い髪だけは、滑らかで美しいと褒められてきた。まるで黄昏刻の大河のようだと称賛されてきた長い髪に視線を落としたフィアは――想像もしていなかった状況を目の当たりにして、思わず驚愕に目を見開いた。
「う……嘘……!?」
フィアの髪が、まるで色素が抜けてしまったような白に近い銀色に変わっている。
つい先ほど神殿を出たときは間違いなく金色だった。神殿内にある水鏡の前を通り過ぎたとき、そこに映った自分の姿はいつもと同じ金色の長い髪だったはず、なのに。
(どうして……?)
困惑のあまり言葉を失うフィアの耳に、グレンの深いため息が届く。
「それにフィアはもっと大人しい性格だった。他人の邸の浴場に忍び込んで男を誘惑するような不埒な女じゃない」
「そ、それは不可抗力です……!」
「……いいからさっさと湯に浸かれ! 風邪でも引かれたら迷惑だ!」
「!?」
自分でもあまり理解していない現状をどうにか納得してもらうために、グレンの言葉を否定しようとした。しかしフィアが言葉を発する直前に逞しい腕に再度身体を掴まれ、そのままひょいっと抱きかかえられてしまう。
驚きで声も出せなくなったフィアを抱いてお湯の中へ続く石段を下りたグレンは、そのまま岩風呂の奥まで進んでいくと、広い場所に勢いよくしゃがみ込んだ。ざぶん、と二人の身体がお湯の中に沈むと、そこから生じた大波が岩の堤を越えて湯船の外へ大量に流れ出ていく。溢れたお湯はどこかへ自然排出されるらしく、ザアアァという豪快な流水音がどこか遠くで聞こえている。
フィアの身体を抱きしめたまま、熱いお湯の中でグレンが長い息を吐いた。逞しい身体に抱かれたまま、しかも服を着たまま湯に浸かるというのは奇妙な感覚だったが、不思議と気分が悪いものではない。
(やっぱりグレン兄さま、変わっていないわ……)
先ほどは別人かもしれないと感じて怖いとも思ったが、やはりフィアの良く知るグレン本人であると確信する。
なぜなら彼はこんなにも優しい。
確かに身体は立派に成長しているし、薄暗いお湯の中で見上げる表情は怒っているのかと思うほどに険しい。だが本当は、濡れたまま外気に晒されていると風邪を引くかもしれない、その結果体調不良になって寝込んでしまうかもしれない、それなら一度温まったほうがいい、と目の前の女性のことを気遣ってくれる。だからこそこうしてフィアの身体を温めて、なにも言えず困惑していることを察して、多少強引な手段になっても現状で最善だと思う方法を選んでくれるのだ。
そんなグレンの表情をじっと見上げたフィアは、やはり今一度事実を伝えたいと考える。
大丈夫。グレンは人の話を頭ごなしに否定する人ではない。外見は成長しても、根底にある優しさはきっと変わっていない。そう信じてグレンの胸に手を添えると、彼の横顔を真剣に見つめた。
「あの、グレン兄さま……私、本当にフィアなんです」
「まだ言うのか?」
「……あなたは聖都ノーザリア出身の、グレン=ブライアリー」
「!」
「幼い頃に両親と妹のミルシャを火事で亡くされ、今から十二年前……十八歳のときに、帝都で騎士になると言ってノーザリアを離れました」
「どうしてそれを……」
フィアがぽつぽつと始めた説明に、グレンが驚いて目を見開く。
どうしてそれを、知っているか――
知っているに決まっている。なぜなら近くの食堂から発生した火事の延焼でグレンの家まで焼けてしまったとき、フィアもその状況をこの目で見ていたのだから。家を留守にしていたグレンが一人生き残ってしまった辛さも、その悲しみを抱えて葛藤する姿も、親戚の家をたらい回しにされてだんだん感情を失っていく様子も、ずっと近くで見てきたのだから。学も家柄もないが帝都に行って騎士になれば衣食住に困ることはないはずだと言って、聖都ノーザリアを出るつもりだと彼が相談してくれたのも、フィアだけなのだから。
その夜――フィアはいつもと同じように、ぼんやりと月を見上げながら人の気配のないあぜ道を歩いていた。
フィア=オルクドールはルミリアス帝国における女神信仰の一柱、大地の女神を崇める〝ノーザリア神殿〟に仕える聖女の一人だ。
ルミリアス帝国は現皇帝レイモンド=ルミリアスが小国を束ねて統治する大国で、周辺諸国を少しずつ取り込んでは国土を拡げて国力を蓄え、あと数年のうちに大陸全土を掌握するだろうと囁かれている。多様な人種や民族を内包するルミリアス帝国の礎は、大地の女神・天空の女神・大海の女神の力を授かって築かれたと伝承されるため、現皇帝の一族は皆、三女神を信仰している。
そのうちの一柱〝大地の女神〟が眠るとされる〝聖なる高峰ノル・ルミリアス山〟を守るのが、聖都ノーザリアおよびノーザリア神殿だ。
聖都ノーザリアが大地の女神の安らかな眠りを守り続ける代わり、この地に生誕する娘達の中には時折、女神から〝聖なる力〟を授かった者が現れる。この特別な力を扱える娘達が〝聖女〟と呼ばれる存在だ。
通常、聖なる力が開花するのは娘達が初潮を迎える十二歳から十八歳の頃である。そこから特別な力が枯渇して消えるまで、あるいはどうしてもその聖女がほしいと希う者が現れ、彼らが女神に与えられし試練を乗り越えたと神殿に認められるまで、聖女はノーザリア神殿に仕え続けることとなる。
そして自分でも痩せすぎていると思うほど細い身体と金色の長い髪を持つ、二十二歳になったばかりのフィア=オルクドールも、その聖女の一人だった。ただしフィアは多くの聖女の中でも最下位級にあたる〝第十級聖女〟である。
聖女の中でも特に強大な力を持つ大聖女や高位聖女は、聖都ノーザリアから帝都ルミフェゴールの教会に身を移し聖職者として叙任されることや、皇帝の妃として城に輿入れすることもある。位が高い聖女は貴重な存在ゆえノーザリア神殿内に大きな部屋が与えられ、それ以下にも力の強さ――階級に応じた部屋がそれぞれ用意されている。
だがフィアは最も位が低い第十級聖女のため、神殿内に自分の部屋さえ与えられていない。だからフィアは、毎日のように住宅街の外れにある古びた実家からノーザリア神殿までの道のりを徒歩で通っているのだ。
街の高台に位置する神殿には光の魔法による美しい明かりが煌々と点っているが、夜間人の往来がない参道には光源など置かれていない。それでも月明かりさえあれば道も周囲の様子もよく見える……と、のんびり歩いていたフィアの足元に、ふと見たこともない魔法陣が浮かび上がった。
「えっ……!?」
初めて見る青白い魔法陣の存在に気がついてハッと視線を下げる。だが夜空を見上げていて反応が遅れたせいか、避けることもどこかに掴まることも、それどころか声を出すことさえ適わない。目線がカクンと下がったと感じた次の瞬間、フィアはあっという間に地面の中に引きずり込まれた。
最初は暗闇に飲み込まれたと思ったが、数秒も経たないうちに空中に放り投げられた。しかし解放された場所は水場のすぐ上で、肺に新鮮な空気を取り込む暇もなく今度は水の中に落ちてしまう。うつ伏せに着水した直後、フィアは溺死する恐怖に襲われて必死に手足をばたつかせた。
けれど『溺れ死ぬ』と思ったのはほんの一瞬だけ。
それよりも全身に纏わりつく灼熱感が強く、咄嗟に『焼け死ぬ』と錯覚した。
強烈な熱さを全身に感じながらじたばたもがくフィアだったが、懸命に手足を動かしているうちにふと指先が下に触れることに気がつく。慌てて水底に手と足をついたフィアは、使える力をすべて出し切る勢いで、水の中にがばっと立ち上がった。
「ぷぁっ……! けほっ……ごほっ……! うっ……ううッ」
近くにあった大きな岩にへばりついて身体を支え、懸命に咳と呼吸を繰り返す。
――生きている。……死んでいない。
突然の出来事に理解が追いつかないうちに水……というよりお湯を大量に飲み込んだので、てっきりこのまま溺れ死んでしまうかと思った。だが幸いなことに死んでいない。助かった。フィアはまだ、ちゃんと生きているようだ。
「こほっ……ふ……はぁっ……はあ……!」
飲み込んだお湯を少しでも吐き出そうと、何度も咳込む。そして自分の身に起きた状況を把握するために、必死に思考を働かせる。荒い呼吸を繰り返しながら周囲の様子を確認してみると、フィアが立っている場所は全く見覚えのない水の中――ではなく、お湯の中だった。
足元に感じるのは熱い温度。深さはフィアの太腿の真ん中あたり。お湯と外気の間に温度差があるせいか、水面からは無数の湯気が立ち上っている。鼻先にツンと感じるのは、金属を含んだような強い鉱物の匂い。
「温泉……?」
そう。フィアも幼い頃に何度か入った経験があるからわかる。
おそらくこれは〝温泉〟だ。
「ここ、どこ……?」
地下から湧き上がるお湯の中に鉱物や魔法物質が高純度に溶け込む温泉は、一般的には扱いが難しい代物とされている。フィアが温泉に入った経験があるのは、聖都ノーザリアの北にあるノル・ルミリアス山の中腹に、今は亡き祖父が秘密の温泉を掘っていたからだ。しかし昔は帝都で皇帝に仕えるほどの大魔法使いだった祖父だからこそ扱えていたが、管理が難しいため現在聖都ノーザリアの街中で邸宅に温泉を引いている者はいないはずだ。
つまりここは、聖都ノーザリアではない場所なのだろう。
先ほどの青白い光と見たことのない魔法陣は、おそらく召喚魔法か転移魔法の一種だ。物品の運搬に転移魔法を使う様子を見たことはあるが、生身の人間を移動させるなんて普通の魔力量では考えられない。だが現実として、フィアは今、見知らぬ場所に移動している。
ならば一体、どこに転移させられたのだろうか。
一見すると温泉は聖都の市場通りにある大噴水ほどの広さがある。湯船の周りはゴツゴツとした岩石で囲われており、岩場の奥には隙間なく均一に植えられた丸太の壁がそびえている。高さはフィアの身長よりもうんと高く、簡単には飛び越えられそうにない。
見ず知らずの場所に突然移動してしまったが、時間はあまり経過していないようだ。木の壁からさらに視線を上げて夜空を眺めると、月の高さや満ち欠けにはあまり変化がないように思う。いくらなんでも、この一瞬で一日以上が経過して翌日の夜まで時が進んだ、なんてことはあるまい。
「ん……」
第十級聖女で、家が貧しいフィアの身なりなど、最初から立派なものではない。薄い布でできた質素な服が、肌にぺたりと張り付く。その感覚が正直言って気持ち悪い。
熱風を起こす風や炎の魔法を使って服を乾かそうと考えたフィアは、ずぶ濡れになった服を少しでも身体から引き剥がそうと裾を摘まんで布を持ち上げる。
「おい」
その瞬間、背後から男性の低い声が聞こえてきた。
突然話しかけられたフィアは、驚きのあまりその場にびくんっと飛び上がってしまう。
「お前、俺の邸の浴場でなにをしてる?」
怒気を含んだ男性の声に驚いて振り返ると、いつの間にか少し離れた場所に佇んでいた影がぺたぺたと足音を立てて傍まで近づいてきた。さらに二、三段ほどの石の階段から湯船の中に入ってきた影が、お湯と湯気をざぶざぶと蹴り分けてフィアの近くに大股で歩み寄ってくる。
「あ……あの……私……っ」
怪しい者ではない、と主張するため、近づいて来た相手に向かってあわあわと声をあげる。
しかし傍までやってきた裸の男性を見上げた瞬間、フィアはその場で固まってしまった。
「女……? なんなんだ、お前。どうしてここにいる?」
「ぐ、グレン兄さま……?」
「は……? なんで俺の名前を……」
フィアを見下ろした男性があからさまに不機嫌な声を発する。その声にはあまり馴染みがない。
それもそのはず、フィアが彼の――グレンの声を最後に聞いたのはもう十二年も前のこと。フィアが十歳、グレンが十八歳の頃の話だ。そのときはグレンも変声期を終えたばかりで、まだ少年のような幼さが混じった声質だった。だから問いかけてくる声に面影こそあれど、成長して完全な大人の男性になった声はあまり聞き慣れない。
それに姿も。昔の彼は栄養失調を疑わせるほどに瘦せ細り、髪もぼさぼさと伸ばしっぱなしで手入れが不十分、瞳には常に虚ろな色をたたえ、表情もどこか悲しげだった。
だが今フィアの目の前にいる彼の身体は、細身だがしっかりと鍛えられ、胸にも腕にも脚にもほど良い筋肉がついている。髪は襟足こそやや長いが表情がちゃんと確認出来るほどの短さに整えられ、目つきは相手を威圧するほどに鋭く、表情からは自信と威厳が感じられる。
一つ一つを比較すれば、あまりにも違う。
それでもフィアには直感で分かる。艶のある漆黒の髪とアヤメのような濃い紫色の瞳――そして幼い頃にフィアを庇ってできた左肩の傷痕が、フィアの家の近所に住んでいた青年グレンだと物語っている。それに名前を呼んだら本人がちゃんと反応したのだから、間違っているはずがない。
「……アルバートめ、また余計なことをしたな」
しかし懐かしい再会のはずなのに、グレンはひどく不機嫌だ。フィアに対してだけではなく、知らない名前の男性にも露骨に不快感を抱いているのがわかる。
「とにかく、ここは俺の浴場だ! 得体の知れない女を入れるつもりはない……出ていけ!」
「ま、待ってください、グレ……」
「気安く俺の名前を呼ぶな」
どうやらグレンは、目の前にいる相手が幼なじみのフィアであることにまったく気づいていないらしい。忌々しそうな表情でお湯を蹴ってフィアの傍に歩み寄ってきたグレンは、手首を掴むとそのまま強引にフィアの身体を引っ張り始める。いつの間にか凛々しく逞しい青年に成長したグレンに見惚れている暇もない。
「さっさと来い!」
「やっ……ま、待ってくださ……!」
体格から予想出来る通り、フィアの手を引くグレンの力はかなり強い。泉質のせいか、それとも履いている靴が質素だからか、荒々しく腕を引っ張られるとお湯の中でつるりと滑って転びそうになる。
(グレン兄さま、私がわからないの……? 十二年も経ってるから……?)
心の中に生まれた疑問は声にならない。グレンが纏った空気に強い苛立ちが含まれていることと、自分でもあまり状況を理解していないことがあいまって、勢いよくフィアを引っ張る彼にどんな言葉を口にすればいいのかわからないのだ。
「い、いたいっ……!」
しかし手を引かれるまま強引に階段を上らされて岩風呂から出たところで、フィアの身体に異変が起きた。屋内――おそらく脱衣場と思われる場所に近づくにつれ、全身に鋭い痛みが走り始めた。
「いやっ……痛い! いたいいたいっ……!」
グレンに引っ張られる手から全身に向けて、バチバチッ、ビリビリッ、と鋭い痛みが襲い掛かってくる。まるで雷の魔法に打たれて感電したように、全身に強烈な電流と灼熱感が走る。しかも一歩一歩と扉へ近寄るたびに痛みが増すので、フィアの全身からドッと汗が噴き出てくる。
これ以上その扉に近づくのは危険だと本能が教えてくれる。強い警告が痛みとなってフィアの全身を蝕む。その扉が生命の境界線であると知らせるように、身体が激しい拒否反応を起こすのだ。
「やだ、やだぁっ……いたいっ! やめてッ……!」
フィアが異常なまでに痛みを訴える様子に気づいたのか、歩みを止めて振り返ったグレンがハッと目を見開いた。
「……くそ、結界か」
舌打ちをしながら呟いたグレンの言葉さえ、感電の恐怖から逃れることに必死なフィアにはうまく理解出来ない。
フィアの恐怖と絶望の表情に怯んだのか、次の瞬間腕を掴むグレンの力が少し緩んだ。その隙を見計らってグレンの手を強引に振りほどくと、そのまま瞬間的に数歩後ずさる。本当はもっと遠くへ離れたかったが、足まで痺れていたらしく、痛みを回避する最低限の場所までしか気力を保っていられなかった。
「おい、大丈夫か?」
フィアがその場にへなへなと座り込むと、近づいてきたグレンが視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。涙が出そうになるほどの恐怖感をぐっと自制して視線をあげると、罰が悪そうな表情をしたグレンと目が合う。
「悪かった。結界が張られていることを忘れていた」
「結界……?」
聞こえた言葉を反復すると、グレンが困ったように低く頷いた。
「ああ。立場上、嫌がらせをされたり命を狙われることがあってな。入浴中は無防備になるから、俺以外の人間が通過出来ないよう浴場の入り口と周辺に結界が張ってあるんだ」
グレンの説明を聞いたフィアは、驚きのあまり声を失いその場に硬直してしまう。
(命を……? グレン兄さまが……?)
「ここは俺の邸だが、結界を張ったのは俺じゃない。だから結界を張った魔法使いが来るまでは入り口を通過出来ない。悪いがお前は……ここからすぐには出られない」
「えっ……?」
今度は確実に声が出た。
この大きな温泉は個人の邸宅内にある露天風呂らしい。しかし浴場から『出られない』と告げられても、フィアはただ困惑するしかない。
「まあ、確かにその細い身体で俺を殺しに来たとは思えないか」
「!? や……っ」
ふむ、と自らの顎を撫でて独りごちたグレンに、フィアもやや間を置いてその言葉の意味を理解する。今のフィアは薄着でずぶ濡れ状態、身体のラインまではっきりと分かる姿だ。
しかもフィアの身体はお世辞にも魅力的とは言い難い、肉付きの少ない痩せた体型である。見て楽しいものではないだろうし、見られて嬉しいものでもない。
座り込んだ石畳の上で濡れた衣服の隙間を必死に合わせて背を向けると、フィアの態度を見たグレンが呆れたように肩を竦めた。ハアと零した大きなため息が、湯けむりに紛れて岩肌へ吸い込まれていく。
「とりあえず、そのままだと風邪を引くだろう。服を脱いで湯に浸かれ」
「えっ?」
「俺もさっさと風呂に入りたいんだ、お前も早くしろ」
グレンが猜疑と警戒の空気を解き、怒りの感情を引っ込めてくれたことはありがたい。しかし立ち上がって背を向けた彼の提案を聞いたフィアは、驚きの声と共に首を横へ振ることしか出来ない。
「け、結構です!」
「うるさい、いいからさっさと脱げ」
「嫌ですよ!」
「なんだ、無理矢理引き剥がされたいのか?」
濡れた石畳を進んで岩風呂に戻りかけていたグレンがその場でくるりと振り返った。グレンの表情には再び怒りの感情が含まれており、苛立ちの言葉と感情を向けられるとフィアは思わずたじろいでしまう。
(もしかして、グレン兄さまじゃない……?)
フィアの目に映る男性は、髪の色や目の色、顔立ちといった特徴はもちろんのこと、仕草の面影や声の印象もフィアが知るグレンの姿と一致している。しかし昔のグレンは自分よりか弱い人や動物を守るような、心優しい少年だった。困っている女性に衣服を脱げと強要したり、無理矢理引き剥がすような乱暴が出来る人ではなかったはずだ。
(優しいグレン兄さまなら、こんなことは言わない……はず)
そう考えながらグレンの姿を見上げたフィアは、目の前に飛び込んできた驚愕の光景に、直前まで考えていたことも忘れて思わず悲鳴をあげてしまった。
「きゃああっ!」
「な、なんだ?」
「か、かくっ……隠して下さい!」
目の前に仁王立ちになったグレンの姿につい大絶叫する。
個人の邸宅とはいえ、ここは屋外にある露天風呂だ。服を着たまま入浴する人はいないだろうから、やってきたグレンは当然のように全裸である。つまり座り込んだフィアの前に腕を組んで堂々と立たれると、見てはいけないものが丸見えになってしまう。湯けむりに紛れてはっきりとは見えなくても、タオルの一枚も巻いていないとなれば大事なところがすべて見えてしまうのだ。
必死に目を閉じ、顔を背け、自分の腕で視界を遮蔽する。だがグレンはフィアの様子にはお構いなしだ。しゃがみ込んでフィアの腕をぐっと掴むと、そのまま強引に視界に入り込んでくる。
「あっ、あの! 離れてください……!」
「なんだ、もしかして誘ってるのか?」
「さそ……?」
愉しそうに問いかけてくるグレンの言葉にそっと目を開く。だがずぶ濡れのフィアと全裸のグレンの状況はなにも変わっていない。相変わらず薄着と全裸の状態、周囲には温泉から立ち上る湯気と鉱物を含んだ金属質な香りが漂っているだけだ。
その湯けむりに紛れて、グレンの腕がフィアの腰へ回ってくる。ゆっくりとした手つきで背中から腰のラインを撫でられると、指の動きがくすぐったくて思わずふるっと身震いする。
小さな震えの原因は服を着たままお湯の中に落ち、その後外気に晒され続けていたから――だけではない。身体の芯から痺れるように身体が震えるのは、グレンが熱の籠った視線でじっとフィアを見つめて敏感な場所を撫でるせいだ。
「ぐ……グレン兄さま……っ!」
グレンの瞳に含まれる微熱と緩慢な指遣いに驚き、また大きな声を上げてしまう。するとグレンの瞳に宿る熱が、突然スッと温度を下げた。
「……兄さまはやめろ。その呼び方をしていいのは、ミルシャとフィアだけだ」
「!」
フィアの腰から手を放して寂しげな表情で息をついたグレンに、フィアもハッと我に返る。グレンの言葉を耳にした瞬間、確証が持てず曖昧だった疑問が突然正解に導かれた気がした。
「やっぱり、グレン兄さまなのですね!」
「お前、人の話聞いてるのか?」
「私、フィアです。フィア=オルクドールです。覚えていませんか?」
「……フィア? お前が?」
先ほどからいまいち噛み合っていなかった会話がようやく成立する気がして、捲し立てるようにフルネームを名乗る。
彼がグレンではない別人、またはフィアの存在を完全に忘れているようなら、いくらフィアが真実を訴えても話は平行線のままだろう。しかし彼は今、自らフィアの名前を口にした。その名前こそがお互いの存在を認識し合える糸口となるように思えて、フィアは必死に首を縦に振り続けた。
「嘘をつくな。お前はフィアじゃない」
しかしフィアを見つめるグレンの瞳は未だ疑念に満ちている。フィアの言い分をまったく信じていない様子だ。
「確かにお前はフィアと同じ青い目をしてる。だがフィアはもっと小さい少女だった」
「グレン兄さまがノーザリアを離れてから、十二年の歳月が流れています。成長するのは当然です」
「……」
フィアの説明にグレンが一瞬目を見開いて言葉を失う。まるで十二年という歳月を忘れていたかのような驚き方だ。
「いや……それだけじゃない。俺が知っているフィアは、金髪だった」
だがグレンがフィアを疑うのは、単に自分の記憶よりもフィアが成長しているという理由だけではないらしい。身長や顔つきといった時間とともに変化する特徴だけではなく、生まれたときから変わらないはずの特徴まで変わっていると言われてしまう。
しかしその言葉に驚いたのは、フィアのほうだった。
「え? 私の髪の色は金色ですが……?」
「はあ? お前、俺を馬鹿にしてるのか? いくら暗くても髪の色ぐらいは識別出来る。お前はどう見ても銀髪だ」
「……え?」
グレンがよくわからないことを言い始めるので、思わず気の抜けた声が出て首も傾げてしまう。
確かに今はとうの前に陽が落ちて夜も更けた時間帯で、ここには浴場全体を照らすほどほのかな灯りしかない。だがそのマリーゴールド色の灯りだけでもお互いの姿は十分に確認出来るし、もちろん髪の色だって認識出来る。陽の下で確認する場合と比較すれば多少の差異はあれど、金髪を銀髪に見間違えることはないだろう。そう疑問に思いながら腰まで伸ばした長い髪を首の後ろで掴まえる。
昔から痩せ細っていて、美人でもなくて、性格も特別明るいわけでもないフィアには、自慢出来るものが少なかった。だが金色の長い髪だけは、滑らかで美しいと褒められてきた。まるで黄昏刻の大河のようだと称賛されてきた長い髪に視線を落としたフィアは――想像もしていなかった状況を目の当たりにして、思わず驚愕に目を見開いた。
「う……嘘……!?」
フィアの髪が、まるで色素が抜けてしまったような白に近い銀色に変わっている。
つい先ほど神殿を出たときは間違いなく金色だった。神殿内にある水鏡の前を通り過ぎたとき、そこに映った自分の姿はいつもと同じ金色の長い髪だったはず、なのに。
(どうして……?)
困惑のあまり言葉を失うフィアの耳に、グレンの深いため息が届く。
「それにフィアはもっと大人しい性格だった。他人の邸の浴場に忍び込んで男を誘惑するような不埒な女じゃない」
「そ、それは不可抗力です……!」
「……いいからさっさと湯に浸かれ! 風邪でも引かれたら迷惑だ!」
「!?」
自分でもあまり理解していない現状をどうにか納得してもらうために、グレンの言葉を否定しようとした。しかしフィアが言葉を発する直前に逞しい腕に再度身体を掴まれ、そのままひょいっと抱きかかえられてしまう。
驚きで声も出せなくなったフィアを抱いてお湯の中へ続く石段を下りたグレンは、そのまま岩風呂の奥まで進んでいくと、広い場所に勢いよくしゃがみ込んだ。ざぶん、と二人の身体がお湯の中に沈むと、そこから生じた大波が岩の堤を越えて湯船の外へ大量に流れ出ていく。溢れたお湯はどこかへ自然排出されるらしく、ザアアァという豪快な流水音がどこか遠くで聞こえている。
フィアの身体を抱きしめたまま、熱いお湯の中でグレンが長い息を吐いた。逞しい身体に抱かれたまま、しかも服を着たまま湯に浸かるというのは奇妙な感覚だったが、不思議と気分が悪いものではない。
(やっぱりグレン兄さま、変わっていないわ……)
先ほどは別人かもしれないと感じて怖いとも思ったが、やはりフィアの良く知るグレン本人であると確信する。
なぜなら彼はこんなにも優しい。
確かに身体は立派に成長しているし、薄暗いお湯の中で見上げる表情は怒っているのかと思うほどに険しい。だが本当は、濡れたまま外気に晒されていると風邪を引くかもしれない、その結果体調不良になって寝込んでしまうかもしれない、それなら一度温まったほうがいい、と目の前の女性のことを気遣ってくれる。だからこそこうしてフィアの身体を温めて、なにも言えず困惑していることを察して、多少強引な手段になっても現状で最善だと思う方法を選んでくれるのだ。
そんなグレンの表情をじっと見上げたフィアは、やはり今一度事実を伝えたいと考える。
大丈夫。グレンは人の話を頭ごなしに否定する人ではない。外見は成長しても、根底にある優しさはきっと変わっていない。そう信じてグレンの胸に手を添えると、彼の横顔を真剣に見つめた。
「あの、グレン兄さま……私、本当にフィアなんです」
「まだ言うのか?」
「……あなたは聖都ノーザリア出身の、グレン=ブライアリー」
「!」
「幼い頃に両親と妹のミルシャを火事で亡くされ、今から十二年前……十八歳のときに、帝都で騎士になると言ってノーザリアを離れました」
「どうしてそれを……」
フィアがぽつぽつと始めた説明に、グレンが驚いて目を見開く。
どうしてそれを、知っているか――
知っているに決まっている。なぜなら近くの食堂から発生した火事の延焼でグレンの家まで焼けてしまったとき、フィアもその状況をこの目で見ていたのだから。家を留守にしていたグレンが一人生き残ってしまった辛さも、その悲しみを抱えて葛藤する姿も、親戚の家をたらい回しにされてだんだん感情を失っていく様子も、ずっと近くで見てきたのだから。学も家柄もないが帝都に行って騎士になれば衣食住に困ることはないはずだと言って、聖都ノーザリアを出るつもりだと彼が相談してくれたのも、フィアだけなのだから。
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