ソレイユの秘密

紺乃 藍

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純愛リフレイン

今夜も君は夢を見る(千里視点)

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 あおいは寝相が悪い。1度眠ると同じ態勢のままほとんど動かない千里せんりと違い、夜の間に何度も寝返りを打つし、手や足がバタバタもぞもぞと動くし、あまり意味を成さない寝言も口にする。

 だが寝相や寝言ぐらいならまだいい。筋肉質でしっかりした体型の千里にとっては、細身で小柄な葵の寝相の悪さなどさほど気にはならない。

「おい、葵」

 だが突然こうしてとする行動だけは気になる。気にするなという方が無理な話だ。

 焦って名前を呼んで腕を掴むと、ベッドに腰掛けて腰を浮かせようとした彼女の行動は簡単に押さえることが出来る。ナイトライトを灯すと、光に眩しさを感じたのか葵がもにゃもにゃと何かを呟いた。

「んう……せん…?」

 千里も起き上がり、ぼんやりと目を開けた葵の身体を後ろから抱きしめる。そしてお腹の前に手を回し、ぽんぽんと横腹を叩きながら『落ちるぞ』と忠告する。

「あ……ごめん」

 ふあ、あ、と欠伸をしながら首を振る彼女に、ほっと息をつく。

 葵は時折、こうやって突然立ち上がったり歩き出そうとする事がある。もちろん葵の身体が健常と同じ機能を有しているならば千里も気にはしないが、彼女は高校生の時に事故で右足の一部を失っている。そのせいで、現状では二足歩行が困難だ。

 だが夢と現実の狭間を行き来している――いわゆる『寝ぼけ』ている状態の時は自分でもそのことを忘れてしまうらしい。

 そのまま歩こうとして崩れ落ちたり転んだりすることがあるが、怖いのはそれで怪我をすることだ。半分眠った状態で転んでしまっても、防衛反応も起こらないし反射も鈍くなる。そうなると当然、傷を負う可能性が高まる。場合によっては脳震盪を起こしたり骨折してしまうこともあるというのに。

「歩いてる夢、見たの」
「……そうか」

 夢の中に意識を置いてきた葵は、そのまま現実でも歩き出そうとしたらしい。ぽんやりと覚醒した葵が自分に起きた出来事をそっと教えてくれるが、その声はいつもより少しだけ元気がない。

「千里が女の人と並んで歩いてて……追いかけようと思って」

 夢の中で。
 葵は恋人の隣に並ぶ女性の存在に気付いて、焦って驚いてその姿を追いかけようとしたようだ。

「でも私、追いかけられもしないよねぇ」

 えへへ、といつものように笑うくせに、語尾が寂しそうに下がるので、千里も切ない感情を覚える。

 葵は事故に遭うまでの17年間は、間違いなく自分の足で歩いていた。そのことは脳も身体も確かに記憶している。けれど葵はそこから8年間の間、自分の足では歩いていない。だから恋人が他の女性と一緒にいるのを目撃しても、実際にはその後を追うことも出来ない。

 自分が葵の立場だったら。葵が知らない男と一緒に歩いているのを目撃したのに、その後を追う事さえ出来なかったら。嫉妬と、絶望と、怒りと、悲しみで……きっと苦しくなってしまうのに。泣いてしまうかもしれないと思うのに。

「……泣くな」
「あ、ごめん。全然泣いてない」
「……」

 葵もきっと苦しくて悲しかったのだろうと思った。だから『心配するな』と言う意味でまたお腹を撫でながら言うのに、案外けろっと言われてしまうと、一気に拍子抜けしてしまう。

 でも葵はこういう子だった。本当に泣いていないのだろうかと顔を覗き込んでも、ナイトライトに照らされた葵の頬に涙はなかった。

「人間って、自分の知力と発想が及ぶ範囲内でしか、夢見れないよね?」

 勝手に感傷的になっていた千里の顔を肩越しに見上げた葵が、また不思議な事を言い出した。突然何を言い出すのかと思って首を傾げると、気付いた葵が、ふふふっといたずらっぽく笑う。

「だってその女の人、よく見たら万里まりちゃんだったもん」
「…………」

 万里は、千里の双子の姉だ。双子とは言え二卵性で性別も違うので、背格好も性格もそこまで似ていない。葵が言うには顔は似ているらしいが、千里自身はあまり似ていると思っていない。

 万里は葵にとっても姉のような存在で、万里も葵を可愛がってくれる。仕事で日本中を飛び回っているのであまり会う機会はないが、千里の隣に並ぶ女性が万里以外に思い浮かばなかったという葵の意見にそっと苦笑した。

「千里が浮気するっていう発想がないんだろうなぁ、私」
「まぁ、実際にあり得ないからな」
「あ、言い切るんだ?」
「もちろん」

 そんなこと、ある筈がない。千里の中には、葵以外に恋愛対象となる女性が存在しない。それにもともと感情表現も相手を褒める事も上手くはなく、どちらかと言うと女性が苦手な千里には、浮気の願望も予定もない。

「私ね、歩いている夢を見るってことは、まだ知力も発想も及ぶんだな、って思ったの」

 もうとっくに諦めてるはずなのにね。そんな台詞を聞いて、千里もまた考えてしまう。

 葵も本当は、自分の足で歩きたいはずだ。自分の足で散歩をして、ショッピングをして、恋人の隣に並びたいはず。その切ない願望は千里にもちゃんと伝わっている。改めて聞けば笑って誤魔化されるが、本当はまだ諦めきれないからこうして、夢に見る。

「もう1回、病院に通ってみるか?」

 ようやくベッドの中に戻ってきた葵の顔を覗き込んで訊ねると、その眼がぱちっと瞬く。人生で1度も染めたことがないというさらさらの長い髪は、黒く染められたシルクのようだ。まるで少女のまま時が止まっているような印象さえ受ける。

 だからもし葵が、あの時のまま本当に時間が止まっているのなら。

「義足の練習をするなら、俺はいくらでも付き合うぞ」

 1度は諦めてしまった、自分の足で再び歩くと言う願い。ただでさえ事故でショックを受けている葵に、彼女の母は毎日のように病院までやってきては『この病院は良くない』『治るわけがない』『無駄な努力だ』と心無い言葉を浴びせ続けた。そして17歳の葵は、いつしか義足もリハビリも諦めてしまっていた。

 けれど、今なら。

「ううん、いい」

 そう口にしようとした千里の言葉を、葵はそっと遮った。

 再び見つめ合うと葵はまたにこりと笑う。

「だって義足って最初は痛いし、かゆいし。リハビリも辛いし、病院通うのも大変だしー?」

 明るい声で努力を拒否する葵に、千里も最初は唖然とした。だが、そのうち笑いが込み上げてきてしまう。

 葵が義足やリハビリを望んでいないことは、千里も理解していた。ただ、自分の可能性を自分で狭めて欲しくないから色々な方向性の提示はする。けれど葵はいつだって、自分が決めた道を鼻歌を歌いながらスキップしていくような性格だ。

 のんびりしていているようでちゃんと現実を見ているし、天然を装っているくせに小悪魔っぽい悪戯をするし、興味を持っていない素振りをするのに千里の内心までちゃんと見抜いている。

「もちろんそれを乗り越えてまでやりたい何かがあるならいいけど、今の私にはどうしても必要な訳じゃないからね。ゼロじゃないけど優先順位はかなーり下なの」

 そうやって笑う葵の意見を、そうかと肯定する。やりたいことがあって、そのために必要ならば義足もリハビリも厭わない。けれど今の葵にはそれが必要ない。時折思い出して夢に見てしまうが、今は歩く練習をするよりも、座ったままでも出来る自分の仕事に夢中で、その時間を削りたくはない。

「千里が、私を抱っこしてくれなくなったら考えようかな」
「じゃあいつまでも考えないだろ」

 またそんな冗談をいう葵に、軽口を返す。
 葵だってわかっているはず。千里が葵を抱き上げなくなる日は、一生来ない。

 頬杖をついて葵の顔を覗き込みながら、その頬をふにふにと摘まむ。くすぐったそうに、けれど嬉しそうにふふふと笑った葵が、

「じゃあ千里が、私を抱っこしてぎっくり腰になったら考えようかな」

 と別の提案をしてきた。

「80歳までは大丈夫だな」
「わぁ、頑丈だなぁ」

 葵がまた笑う。まるで80歳になった千里と75歳になった葵がお互いの腰を撫で合っている姿を見ているかのように。

「私、千里に抱っこしてもらわないと同じ目線の景色見れないんだからね?」

 身体を動かして腕の中によじよじと迫って来た葵の身体を抱きしめる。細くて華奢な身体を強く抱くとそのまま壊れてしまうのではないかと思うが、葵は意外と頑丈だ。心も、身体も。

 知っていても、千里はやっぱり誓ってしまう。ちゃんと宣言してしまう。

「葵が見たいなら、いつでも見せてやる」

 そう言って葵の頭を撫でると、彼女はまた少女のようにはにかみながら、ふにゃふにゃと眠りに落ちていく。

 今度はちゃんと抱き上げて掴まえておくから、怖くない。そんなあたたかな夢の中へ。

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