ソレイユの秘密

紺乃 藍

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嘘愛スパイラル

ふたりの星空エチュード

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あや、たまには深月みづきと出掛けたくないか?」

 普段は他人の事情にあまり口を出さない千里せんりにそんな言葉をかけられて、彩斗あやとも深月も思わず固まってしまう。


 千里は今夜、趣味の釣り仲間が船を出すので、海上で夜釣りをする予定らしい。集合場所の船着き場はこの街からかなり離れているから、その付近でならゆっくりデートできるんじゃないか? 行ってみないか? という思いがけない提案。

「どうする、深月?」
「いや、ダメに決まってるでしょ」

 彩斗に訊ねられるが、深月にはそんな危険な真似など出来ない。彩斗は有名人だ。いくら街外れの夜の時間とは言え、たまたま目撃していた人が彩斗の顔と名前を知っていたら、忍んだところで意味がない。

「大丈夫だと思うぞ。途中に大きい公園があるんだが、夜は人が少ない場所なんだ」
「へぇ…。じゃあ折角だし、行ってみるか」

 深月の否定を受け流して、男2人で話を進めてしまう。

(ちょ、何言ってんの、絶対ダメでしょ)
(けどこの好都合な条件で断ったら、逆にあやしいだろ?)
(いや、でも……っ)
(深月)

 眉間に皺を寄せた彩斗が、深月を静かな視線で牽制する。お前達、本当に付き合ってるのかって聞かれたら深月はシラ切り通せる自信あんの? 彩斗の視線はそう言っている。

 彩斗に促され、渋々承諾せざる得ない。こそこそと密談を交わすそんな様子を見た千里が『なんだ、仲良いな』と頷くので、結局は彩斗に『ほらな』と丸め込まれてしまう。





  * * * * *





 千里が2人を降ろしてくれたのは公園の駐車場だった。この先の船着き場までは15分の距離だから、帰りは向こうを出る前に連絡する。じゃあ3時間後に。そう言って過ぎ去っていく同居人の車を見送り、公園の中に入ってみる。

「ほんとにあんまり人いないね」
「だな。意外な穴場だ」

 芝生の上で太極拳のようなゆるやかな運動をする男女が数名と、犬の散歩をしている男性。遠くのベンチに並ぶ制服姿のカップル。人といえば、そのぐらいだ。

 人の分布を確認した後、深月は彩斗と一緒に公園の中を散策した。

 花が散って葉だけが残された広いローズガーデン。生け垣の奥に佇む洋風の東屋。大きな池には、赤と白の錦鯉。勢いが落とされ、パシャパシャと水を排出して循環するだけの噴水。池を取り囲む遊歩道。道は白と桜色にライトアップされていて、思ったより明るい。その暗くて明るい道を、2人でゆっくりと歩いていく。

 俳優・たき 彩斗の人気は今も上昇中だ。先日、半年前に公開された主演映画の続編制作が決まった、と公に発表されたばかり。

 そんな人気絶頂期の芸能人とデート。深月には、この状況が現実だとは思えなかった。その場所が例え、華やかさが微塵もない閑散とした夜の公園だとしても。

 辿り着いた東屋のベンチは、ちゃんと清掃が行き届いていた。生け垣の陰になった場所に腰を下ろすと、隣に座った彩斗と目が合う。

 忙しい彩斗と普段ゆっくり話す事はない。一応、恋人という設定なのにお互いの事を何も知らないなぁ、と思っていると、

「深月は兄弟いんの?」

 と他愛のない雑談を持ちかけられた。

 彩斗も、深月と同じことを考えていたのかもしれない。

 だから家族の事、出身地、好きな食べ物、嫌いな季節、仕事の話、昔の学業成績……そんな取り留めのない話題で盛り上がり、お互いの情報を少し共有した。

「青山さんとの約束、3年だもんね。終わったら私、31歳かぁ。そこから恋愛して結婚して、ってできるのかな」

 ふと恋愛の話になったので、そんな言葉を呟く。

 いま深月の隣に彩斗がいるのは、ただの偶然か神様のいたずらでしかない。この関係は一定期間の後、ちゃんと終わりを迎えると最初から決まっている。

 冷静になれば、青山は28歳という結婚適齢期の女性に対して随分無茶な取引を持ちかけたものだ。いつか人生を振り返った時、この3年間の出来事が強烈に想起されるのは間違いない。だが3年間で更に婚期が遅れた深月は、それを思い出すときも未だに独り身かもしれないのに。

「しばらく彼氏もいないから、恋愛の仕方も忘れてるのにねぇ」

 ふふふっと笑いながら呟く。
 彩斗と偽装恋愛を始める前も、長い間恋人はいなかった。昔から恋愛に対して奥手だった深月が早く結婚したいと思うなら、本当はすぐにでもちゃんとした恋を探さなければいけないのに。

 でも今は難しい。絶対に手の届かない人が手の届く距離にいるという、もどかしい沼にはまっている最中だから。

「なんで? 俺、彼氏だろ?」

 そう思っていたら、彩斗が少し不機嫌そうな声を出した。

 薄暗闇の中に見える自分のスニーカーから視線を上げ、彩斗の顔を見つめる。

「え、でも……ほんとの恋愛じゃ、ない…し?」

 本当の恋愛じゃない、は微妙に語弊がある。深月は彩斗に、惹かれているから。恋愛の範囲に『片想い』も含まれるなら、深月は恋愛真っ最中だ。報われる気がしない、沼のような恋の。

「じゃあ本物の恋愛、する?」
「は…? ……彩斗?」
「俺の……本当の恋人になる?」

 至近距離で奇妙な確認をされてしまう。

 奇妙、だ。
 深月の反応を楽しむような、からかうような台詞なのに。その眼はまるで本気のような、本心から口説いているような温度で。甘ったるい声で。

 だから照れそうになるのを、必死に誤魔化す。茶化して、隠して、嘘をつく。
 彩斗にも、自分にも。

「やだよ。私、浮気されたくないもん」
「は? 俺、浮気なんかしたことないって」

 その言葉につい、嘘だぁ、と思ってしまう。彩斗の女遊びが激しいことは、世間のみんなが知っている。ソレイユの住人は彩斗がしれっと嘯いた『深月と出会ってからは、彼女一筋』を信用しているらしい。それ演技ですよー、嘘なんですよーと聞いた時には思った。でも案外、浮気なんてしないのかもしれない。

 けれど、もし彩斗が『本命』には誠実な恋愛感情を向けるとしても、それは深月の知らない、手の届かない世界の話だ。

「彩斗の本物の恋人になる人かぁ。それなら可愛い系より美人系が似合うと思うよ。ほら、前に噂になってたモデルの……なんだっけ、あのハーフっぽくて目が大き」
「深月」

 名前を呼ばれて、言葉が途切れた。
 いつもより低い彩斗の声が耳に届いて、そのまま動きが止まる。

「なんで『彼氏』に他の女が似合うなんて言うの?」

 顔を上げると、彩斗が少し怒ったように、けれどちょっと傷付いたような顔をしている。

「俺が、深月がいい、って言ったら?」

 伸びてきた腕に突然、肩を掴まれる。反対の手で頬に触れられる。そして顔の向きを変えられて、無理に視線を合わせられる。

 その瞳に、深月の方が困惑してしまう。じっと見つめられて、思考が止まってしまう。噴水の水がパシャパシャと跳ねる遠い音の中に、もう1度だけ名前を呼ぶ声が聞こえた。

 甘ったるい声が近付く。彩斗の整った顔が間近に迫る。ドラマや映画で観るよりもずっと本気の色をした瞳が、ゆっくりと閉じられる。その熱に浮かされたように、深月もそっと目を閉じる……けれど。

 ピリリリリッ
 ―――突然、高い音が響いた。

 その音にハッと我に返る。驚いて咄嗟に身体を離した深月に合わせ、彩斗もゆっくりと身体を離した。

「千里だ」

 大きな息を漏らしながらスマートフォンを確認する彩斗を見た瞬間、深月は自分の心臓が物凄い音を立てて動き始めた事を自覚した。

(危な、かった……)

 電話に出た彩斗が、うん、わかった、と頷く様子を見て、釣りを終えた千里がこちらに向かっている事を知る。もう約束の3時間が経過していたらしい。すっかり話し込んでいて、すっかり彩斗の顔に見惚れていて、時間が経っていたことには全く気付かなかった。

 きっと……青山と取引しているこの3年間もそうやって過ぎていくのだろう。すっかり居心地がよくなって、すっかり彩斗のプライベートの顔に見惚れて、時間が経過していることも気付かずに。3年経って元の生活に戻って、テレビの中でしか彩斗を見つけられないようになって、自分に後悔するのだろう。

 それが嫌なら、今すぐ行動しなければいけない。残された時間の中で、彩斗に『偽り』でも『取引』でもない深月を意識してもらうためには、今、この瞬間に自分の想いを伝えるべきだと思うのに。

「さっきの、答えなくていいから」

 彩斗がぼそりと呟く言葉を聞いてしまえば、急に拒絶された気分になって決意はあっさりと崩れ去る。勢いが消え『うん』と呟くしかなくなってしまう。


 2人で戻った公園の駐車場で、千里の車をぼんやりと待つ。

 意図せずに漏れる小さなため息だけでは。星の輝きも、鼓動も、熱も……この恋も鎮められない。

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