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嘘愛スパイラル
雨降る夜空の独り言
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「おかえり」
ソレイユの東上階・イヴェールのドアを開けると、ベッドに座っていた彩斗が顔を上げた。ヘッドホンを外して今日の労働を労うような軽い挨拶をしてきた彩斗に、深月も頷く。
「ただいま。この時期ゲリラ多くてイヤだね」
夏の黄昏は天気が移ろいやすい。今日も働く人々の帰宅時刻を狙い撃ちしたかのように降り出した集中豪雨に、深月ももれなく見舞われた。
「馬鹿だな、雲行き見たら普通わかるだろ」
もちろんバスを降りる前に土砂降りだった事には気付いていた。けれど最寄りのバス停からソレイユまでは徒歩3分、走れば1分程度。横着してリュックの中の折り畳み傘も出さずに走ったが、やはりずぶ濡れになってしまった。
そんな深月の失敗を、彩斗は綺麗な笑顔で茶化してくる。まるで彫刻か工芸品のように、整った顔で。
「今日は仕事なかったの?」
その生まれ持った容姿を武器に俳優業とモデル業をこなす彩斗は、全てのタイムスケジュールが一般人とは異なる。早朝からいない事も、夕方からいない事も、丸1週間不在になることも珍しくない。
部屋の入り口で水気を払ったリュックを足元に降ろしながら、この雨の中で外に出るんだったら大変だろうな、と思いつつ訊ねる。
「いや、今日はこれから……」
案の定、本日もこれから仕事の予定らしい彩斗の語尾が、空気中に消える。
玄関先でミディアムボブの髪も握り絞ってはきたが、完全には払いきれていなかった。水滴を落とさないよう、片手で髪を束ねながら聞いた、途切れた言葉の続きに。
「ふぁ!?」
その辺に放置してあったタオルが飛んできた。深月の顔面をめがけて。
「ちょっと、何すんの!?」
「先に風呂入って来い」
ベッドの上にあぐらをかいたままタオルを投げて寄越した彩斗に、感謝していいのやら、文句を言ったらいいのやら。でも雨の所為でメイクが落ちかけているので、そこにタオルを投げて来るのは止めて欲しい。タオルが汚れてしまう。
飛んできたタオルを退けると、その向こうで彩斗にそっと視線を外された。
「……透けてる」
「!?」
タオルの心配をしていた深月を心配するような彩斗の声が届く。ぼそりと聞こえた言葉に驚いて視線を下げると、真っ白のブラウスの下に淡いローズピンクの下着が浮かんでいた。それに濡れたブラウスが、肩からお腹までのラインをくっきりと可視化させている。これでは下着姿を見られているのと何も変わらない。
だが、いま深月の目の前にいる相手はあの瀧 彩斗だ。齢28にしてすでに数々の業界人と浮名を流し、週刊誌にスキャンダラスな見出しが躍ることもさほど珍しい事ではない。これまで付き合ってきたと噂されたモデルや女優など数知れず。
そのあまりの奔放さに頭を悩ませた事務所のマネージャーが『ソレイユ』に彩斗を収監したのだ。深月というお目付け役を得て。
「はぁ……すいません。お見苦しいものをお見せして」
いちおう羞恥心というものは存在するので、受け取ったタオルで身体の前を押さえつけてはみるものの、本当はそれすら自意識過剰な気がしている。美人なわけでも、可愛いわけでも、ダイナマイトボディの持ち主ではないことも自覚している。彩斗にとってはどんな意味でも対象外の自分がハプニングの相手で本当にゴメンナサイ、と思っていると。
「なんでだよ。普通に目の毒だろ?」
彩斗の真面目な声が聞こえた。部屋のどこにいてもちゃんと聞き取れるほどの声量で放たれた言葉でさえ、なんだか嘘っぽいと思ってしまう。だから思った通りの言葉で否定する。
「いやいや、私の貧相な身体じゃ、誰も何も思わないでしょ」
深月が思うに、自分には異性に興味を持たれる要素があまりに少ない。恋人だってほとんどいた試しがない。友人には『考え方とガードが固すぎて、男の狩猟本能を削ぐ残念な女』と評されている。数年ぶりの彼氏ですら、偽装恋人という残念ぶり。そんな女をどうにか思う人がいるとは思えない。
なんて思っていた深月の耳に、偽装恋人の声が届いた。
「俺はお前で勃つけど」
彩斗の声は、よく通る。
プライベートはめちゃくちゃだが、俳優としての実力があることは確かだ。滑舌がよくて澄んだ低い声は、演技をしていてもしていなくても人の心によく響く。
そんな澄み切っていて低くてよく通る声で言われた言葉は、深月の心に適度な衝撃を与えた。
「……」
「……」
「今、自分が最低なこと言ったって理解してる?」
「………うん、流石に今の言い方はねーな、って思った」
いや、中途半端に訂正しないで。それならいっそ『今のは嘘だ』と完全否定するか、得意の演技力で『本当のことだ』と押し通して完全に騙すかのどちらかにして欲しかった。
何故『言い方』だけを否定する。それだと変に信憑性が増してしまうでしょう。
「さいてーー!」
「深月」
彩斗に名前を呼ばれたが、沸点を超えた怒りとわずかな羞恥心の化合物が、深月の顔を火照らせた。
入り口の棚に置いてあった使い捨てマスクの箱をわし掴むと、彩斗に向かって放り投げる。投げた箱を綺麗にキャッチされたので、間髪入れずに今度は鏡の前に置いてあったヘアブラシを投げる。
「おい、物投げんな!」
彩斗の焦った声が聞こえたので、さきほど受け取ったタオルを最後の投下物にして怒りを仕舞い込む。
「もーいい、早く仕事行って!」
「はいはい。迎えが来たらちゃんと行きますよー」
自分でも恥ずかしさと悔しさから涙目になっているのがわかったが、下らないことで言い合うとそれだけで疲れが増すので、後は全て喉の奥に飲み込んだ。彩斗の呆れたような返答を聞きながら、入浴の準備をする。
下着とルームウェアをバスタオルの中に包むと、彩斗の存在を無視して部屋を出る。仕事して疲れて、雨に降られて身体が冷えているルームメイトを見ても、彩斗のいう事はいつもと変わらない。
もうちょっと乙女心を理解してくれればいいのになー!というのは、きっと言っても無駄だと思うので、閉じた扉に舌を出すだけで終了する。
だから深月は、扉の向こうで呟く彩斗の言葉には終ぞ気付かない。
「お前にしか反応しないって言う方が、どう考えてもやばいだろ……」
ソレイユの東上階・イヴェールのドアを開けると、ベッドに座っていた彩斗が顔を上げた。ヘッドホンを外して今日の労働を労うような軽い挨拶をしてきた彩斗に、深月も頷く。
「ただいま。この時期ゲリラ多くてイヤだね」
夏の黄昏は天気が移ろいやすい。今日も働く人々の帰宅時刻を狙い撃ちしたかのように降り出した集中豪雨に、深月ももれなく見舞われた。
「馬鹿だな、雲行き見たら普通わかるだろ」
もちろんバスを降りる前に土砂降りだった事には気付いていた。けれど最寄りのバス停からソレイユまでは徒歩3分、走れば1分程度。横着してリュックの中の折り畳み傘も出さずに走ったが、やはりずぶ濡れになってしまった。
そんな深月の失敗を、彩斗は綺麗な笑顔で茶化してくる。まるで彫刻か工芸品のように、整った顔で。
「今日は仕事なかったの?」
その生まれ持った容姿を武器に俳優業とモデル業をこなす彩斗は、全てのタイムスケジュールが一般人とは異なる。早朝からいない事も、夕方からいない事も、丸1週間不在になることも珍しくない。
部屋の入り口で水気を払ったリュックを足元に降ろしながら、この雨の中で外に出るんだったら大変だろうな、と思いつつ訊ねる。
「いや、今日はこれから……」
案の定、本日もこれから仕事の予定らしい彩斗の語尾が、空気中に消える。
玄関先でミディアムボブの髪も握り絞ってはきたが、完全には払いきれていなかった。水滴を落とさないよう、片手で髪を束ねながら聞いた、途切れた言葉の続きに。
「ふぁ!?」
その辺に放置してあったタオルが飛んできた。深月の顔面をめがけて。
「ちょっと、何すんの!?」
「先に風呂入って来い」
ベッドの上にあぐらをかいたままタオルを投げて寄越した彩斗に、感謝していいのやら、文句を言ったらいいのやら。でも雨の所為でメイクが落ちかけているので、そこにタオルを投げて来るのは止めて欲しい。タオルが汚れてしまう。
飛んできたタオルを退けると、その向こうで彩斗にそっと視線を外された。
「……透けてる」
「!?」
タオルの心配をしていた深月を心配するような彩斗の声が届く。ぼそりと聞こえた言葉に驚いて視線を下げると、真っ白のブラウスの下に淡いローズピンクの下着が浮かんでいた。それに濡れたブラウスが、肩からお腹までのラインをくっきりと可視化させている。これでは下着姿を見られているのと何も変わらない。
だが、いま深月の目の前にいる相手はあの瀧 彩斗だ。齢28にしてすでに数々の業界人と浮名を流し、週刊誌にスキャンダラスな見出しが躍ることもさほど珍しい事ではない。これまで付き合ってきたと噂されたモデルや女優など数知れず。
そのあまりの奔放さに頭を悩ませた事務所のマネージャーが『ソレイユ』に彩斗を収監したのだ。深月というお目付け役を得て。
「はぁ……すいません。お見苦しいものをお見せして」
いちおう羞恥心というものは存在するので、受け取ったタオルで身体の前を押さえつけてはみるものの、本当はそれすら自意識過剰な気がしている。美人なわけでも、可愛いわけでも、ダイナマイトボディの持ち主ではないことも自覚している。彩斗にとってはどんな意味でも対象外の自分がハプニングの相手で本当にゴメンナサイ、と思っていると。
「なんでだよ。普通に目の毒だろ?」
彩斗の真面目な声が聞こえた。部屋のどこにいてもちゃんと聞き取れるほどの声量で放たれた言葉でさえ、なんだか嘘っぽいと思ってしまう。だから思った通りの言葉で否定する。
「いやいや、私の貧相な身体じゃ、誰も何も思わないでしょ」
深月が思うに、自分には異性に興味を持たれる要素があまりに少ない。恋人だってほとんどいた試しがない。友人には『考え方とガードが固すぎて、男の狩猟本能を削ぐ残念な女』と評されている。数年ぶりの彼氏ですら、偽装恋人という残念ぶり。そんな女をどうにか思う人がいるとは思えない。
なんて思っていた深月の耳に、偽装恋人の声が届いた。
「俺はお前で勃つけど」
彩斗の声は、よく通る。
プライベートはめちゃくちゃだが、俳優としての実力があることは確かだ。滑舌がよくて澄んだ低い声は、演技をしていてもしていなくても人の心によく響く。
そんな澄み切っていて低くてよく通る声で言われた言葉は、深月の心に適度な衝撃を与えた。
「……」
「……」
「今、自分が最低なこと言ったって理解してる?」
「………うん、流石に今の言い方はねーな、って思った」
いや、中途半端に訂正しないで。それならいっそ『今のは嘘だ』と完全否定するか、得意の演技力で『本当のことだ』と押し通して完全に騙すかのどちらかにして欲しかった。
何故『言い方』だけを否定する。それだと変に信憑性が増してしまうでしょう。
「さいてーー!」
「深月」
彩斗に名前を呼ばれたが、沸点を超えた怒りとわずかな羞恥心の化合物が、深月の顔を火照らせた。
入り口の棚に置いてあった使い捨てマスクの箱をわし掴むと、彩斗に向かって放り投げる。投げた箱を綺麗にキャッチされたので、間髪入れずに今度は鏡の前に置いてあったヘアブラシを投げる。
「おい、物投げんな!」
彩斗の焦った声が聞こえたので、さきほど受け取ったタオルを最後の投下物にして怒りを仕舞い込む。
「もーいい、早く仕事行って!」
「はいはい。迎えが来たらちゃんと行きますよー」
自分でも恥ずかしさと悔しさから涙目になっているのがわかったが、下らないことで言い合うとそれだけで疲れが増すので、後は全て喉の奥に飲み込んだ。彩斗の呆れたような返答を聞きながら、入浴の準備をする。
下着とルームウェアをバスタオルの中に包むと、彩斗の存在を無視して部屋を出る。仕事して疲れて、雨に降られて身体が冷えているルームメイトを見ても、彩斗のいう事はいつもと変わらない。
もうちょっと乙女心を理解してくれればいいのになー!というのは、きっと言っても無駄だと思うので、閉じた扉に舌を出すだけで終了する。
だから深月は、扉の向こうで呟く彩斗の言葉には終ぞ気付かない。
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