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最終章 Side:愛梨
16話
しおりを挟むもうユキの事なんか知らない!とふてくされながら午後の仕事を終え、今日は定時で帰宅した。雪哉の所為でランチが喉を通らず、お腹はずっと空いていたのに、胸はずっといっぱいだった。
早めの夕食と入浴を終えて髪を乾かしていたところに、雪哉から電話がかかってきた。スマートフォンの画面に表示された『河上雪哉』の文字に怒りと呆れを覚えながら、すぐに電話に出る。
「ちょっと、ユキ…!」
『愛梨。今どこ? 家?』
文句の1つでも言ってやろうと口を開いた瞬間、雪哉に言葉を遮られた。一瞬たじろいだものの、彼が強引な性格なのはここ最近で十分理解していたので、愛梨も負けじと応戦する。
「家だけど! っていうか、お昼の話なんだけど…!」
『うん、後で聞く。今そっちに行くから』
「!?」
雪哉には今までの好き勝手な態度も含めて言いたいことがたくさんあったので、少し強めに抗議しようと考えていた。だがさらりと来訪の予告を突き付けられ、思わず怒りが引っ込む。
「ちょ、ちょっと待って! 何で!? 来るの?」
『そう。愛梨に大事な話があるから』
「えっ…? な、何かあったの?」
『うん、ちょっと仕事のことで』
深刻そうな声色に気付いて問いかけると、雪哉は愛梨の疑問をあっさりと肯定してきた。仕事で何か…って何だろう。何か重大なミスをしてしまったのか、と一気に不安になる。
「いや、待って!?」
だからと言って、家まで来られても困る。2日前、傘のない愛梨を家まで送ってくれた雪哉は、半ば無理矢理玄関まで押し入って、愛梨が困惑するほどの情熱的なキスをしてきた。その感覚は、唇だけではなく全身が覚えている。思い出すだけで身体から力が抜けそうになるほどの恥ずかしいキスを、簡単に忘れる事は出来ない。
身体の芯から麻痺しそうになる力を振り絞って、拒否の台詞を紡ぐ。一昨日の出来事を覚えていれば尚更、雪哉を家に入れる訳にはいかない。愛梨は雪哉への想いをようやく自覚したところで、あまり急に距離を詰められても対処が出来ないから。
「ダメだよ! 私もうお風呂入っちゃったし、話すことあるなら電話で…」
ピンポーン
急いでまくし立てていると、部屋の中にチャイム音が響いた。スマートフォンを手にしたまま、言葉を失い玄関の扉を見つめる。
……早すぎない?
それでもまだ拒否の余地はある。そのまま話を続けようとスマートフォンの画面を見て、絶句する。
……通話、切れている。
力だけではなく魂まで抜けそうになった身体を動かして、半ば諦めた心地で玄関扉を開くと、そこには仕事帰りの雪哉が悠揚と立っていた。
「お疲れさま、愛梨」
雪哉はにこやかな笑顔を添えて、今日の労働を労ってきた。
強引にも程がある。
思わず大きめの溜息が出た。
話があるなら玄関先で済ませよう――というのはあくまで愛梨の願望で、雪哉は拒否の一言さえ言わせない俊敏さで扉を広く開け、そのまま中まで入り込んできた。『お邪魔します』なんて丁寧に付け足した言葉が鼓膜に響いて、愛梨は項垂れるしかない。
「……可愛くて物静かだった昔のユキはどこに行っちゃったんだろう…」
玄関で靴を脱いだ雪哉は、まるで自分の家に帰って来たのかと思う程ごく自然な足取りでリビングまで歩いていく。と言っても、愛梨の家は玄関のすぐ隣に小さなキッチンがあって、その奥にある12畳の空間にベッドとテーブルとテレビボードの全てが配置された小さなワンルームなので、歩き回るような広さはない。
「ユキ、仕事で何かあったの?」
「あ、仕事でって言うのは嘘なんだけど」
「嘘なの!?」
部屋の中を興味深げに眺めていた雪哉が愛梨の問いかけをさらりと笑い流すので、思わず驚愕の声をあげてしまう。
「ユキ、意味わからない事だらけだよ?」
仮に仕事で困ったことがあったとしても、愛梨が手助けできるような事はもちろんない。社内に流れる噂を聞く限り、雪哉は通訳としての技能に加えて、ビジネスマンとしての才覚ある立ち振る舞いと、上流貴族のような優美な所作を兼ね備えた、完璧な通訳であるらしかった。
でも上流貴族は、そんなどうでもいい嘘はつかないと思う。英語を喋ってるからそう見えて、みんな騙されてるだけに違いない。
「っていうか、お昼のあれ何!? 」
「そう、その話をしに来たんだ」
どうやら雪哉の話の本題は、愛梨が話したい事と一致しているらしかった。むっとして見上げた雪哉の顔がいつになく楽しそうな事に気付く。
「実はさっき副社長に呼び出されて『うちの社員に手を出してるって噂を聞いたけど、本当?』って聞かれて」
「……え…?」
副社長、と愛梨にとっては雲の上の存在が突然話題に出てきて、思わず言葉を失う。
株式会社SUI-LENの副社長は現社長の息子で、いずれ会社の跡取りになると目されている人物だ。重役たちの中で唯一英語を話せるらしく、雪哉たちのような通訳を必要としないためあまり接点がないと思っていたが、まさかの直接呼び出し。
「ええぇ、ユキー!!??」
「大丈夫。『遊びじゃなくて本気です』って説明したらちゃんと理解してくれたから」
「あ、そうなんだ」
副社長相手にもソツなく対応できたらしい事に、ほっと安堵する。派遣で来ている外部社員が重役から直接呼び出しを受けるなんて、言葉だけ聞くと相当危うい状況だと思うが、大事に至らなかったならそれで……
「って、ちょっとー!!?? 納得しかけたけど、それもダメだよね!?」
「ん? どこかダメなとこある?」
「いや、だって私……って、そうだ! 私、ユキに弘翔と別れた話してないよね? 何で知ってるの!?」
副社長との話も大概どうかと思うが、それより愛梨が問い詰めたいのは弘翔との関係が変化したことを何故雪哉が知っているのか。それから昼間の女性社員に対する空気の読めない発言についてだ。
「ああぁ、もうツッコミどころ多すぎて、どこから聞けばいいのかわかんないいぃ…」
「愛梨、愛梨。ちょっと落ち着いて。まず座ったら?」
自分の家なのに、初めて来た来客に着座をすすめられる不思議な状況。
けれどあまりに余裕綽々な雪哉にずっと振り回され続けている気がして、言葉を止めるとそのまま力が抜けて座り込んでしまった。雪哉もスーツのジャケットを脱ぐと、愛梨の隣に自然な動作で腰掛けてくる。
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