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5章 Side:愛梨
9話
しおりを挟む「あれ、愛梨が届けてくれたの?」
崎本課長に依頼された書類を持って通訳室に赴くと、雪哉が1人で仕事をしていた。先ほど社内で友理香の姿を見かけたので友理香の出勤日でもある筈だが、今は姿が見当たらない。
「展示会の資料?」
「うん、多分」
新規プロジェクトの一環で、商品を売り込むために近々展示会に出展するらしい。プロジェクトメンバーではない愛梨は、展示会が開かれる場所も、どの商品を対象にして、誰が赴くのかさえ正確には把握していない。
けれどたった1度のやりとりを見ただけで雪哉と仲が良いと認識したのか、崎本課長は愛梨に書類の配達を依頼してきた。
「ところで愛梨。この前、連絡したのに返事なかったけど、何かあった?」
愛梨も次の新商品開発時期に合わせて、膨大なデータとの戦いが本格的に忙しくなる時分だ。早く戻って自分の作業の続きに取り掛かろうと思っていたのに、雪哉にあっさりと掴まってしまう。
面と向かって会うのは資料室での一件以来なのに、雪哉が平然としている事が不思議で仕方がない。愛梨は怒ったらいいのか、悲しんだらいいのかも分らないというのに。
「何もないよ。弘翔の家にいただけ」
口にすると、無性に弘翔に会いたくなった。それが雪哉から逃げ出したいと思っている感情の裏返しだと自分でも気付く。
「そう」
その返答を聞いてつまらなさそうに呟く雪哉の声が、また周辺の温度を下げたように感じる。
雪哉が愛梨の事を好きだと言ってくれたのは、確かに嬉しかった。けれど愛梨の中で優先順位が高いのは弘翔であって、雪哉ではない。だからその告白を嬉しいだなんて思ってはいけない。答えは出ているから、自問自答が始まっても深追いはしない。
雪哉の言動にこれ以上振り回されたくないから。矛盾に、気付きたくないから。
「ユキ、もう連絡してこないで欲しい。弘翔に浮気だって勘違いされたり責められるようなことしないって、言ったよね? なのに一緒にいる時に連絡来たら、不快な思いさせちゃうから」
拒否の言葉が冷たいとは、自分でも気付いていた。自分の事を好きだと言ってくれた相手に対して、あまりに一方的で冷酷すぎる。ストレートな言葉を吐くのは心が痛むし、それが雪哉を傷付けていることは承知している。
けれど止めなかった。弘翔を傷付けたくないから。自分の矛盾にも気付きたくないから。これ以上関わるのは止めて欲しい、と願いを込めたのに。
「愛梨は嘘が下手だな」
傷付けてしまったと思ったが、雪哉はすぐにそんな言葉を返してきた。
「俺に諦めさせようと思って、わざと冷たい事言ってる」
「……そんなことないけど」
「そうだよ。だって愛梨、全然俺の方見ない」
そこまで言われてようやく、今日は1度も目を合わせていないことに気付く。
つい身体がびくっと跳ねたが、指摘されても未だ雪哉の顔は見れない。雪哉が怒っているのか、悲しんでいるのか、知りたくない。けれどそれ以上に、一方的に雪哉を傷付けている筈の自分が苦悶の表情を浮かべている事を、知られたくない。
眉間に皺が寄っていることには気付いている。酷い言葉を連ねているのは愛梨の方なのに、その言葉に自分自身で傷付いている事など知られたくない。
「こっち見て」
資料を手渡しで受け取るために近くまで寄っていた雪哉に、突然腕を掴まれた。愛梨の手から書類を奪い取った雪哉が、円卓の空いているスペースにファイルごとを放り投げる。中に入っていたUSBメモリがコンと小さな音を立てたが、今はそんな事などどうでもいいと言うように。
「俺の目を見て言って、愛梨」
もう1度こっちを向いて『連絡してこないで』『不快な思いをさせる』と、酷い言葉でちゃんと言ってみて。そう言われているようで、つい言葉に詰まる。
「この前キスしたこと、怒ってる?」
「当り前でしょ…!」
思い出したように、意地悪く笑うように言われて、思わず雪哉の目を見て怒る。
当り前だ。強引に浮気をさせられ、秘密を作らされた。だから金曜の夜から日曜の昼まで弘翔と一緒に居ても、全然落ち着けなかったし、何も楽しくなかった。
雪哉からメッセージが来たのは1回だけだったが、既読無視してしまったことが逆に不安になった。けれど弘翔の目の前で返事をすることも出来ず、結局雪哉のことばかり考えてしまっていた。
あんなことがなければ、もっと楽しい週末だったはずなのに。
「そう、それならよかった」
「!?」
いろいろな感情を全て凝縮して『怒って当たり前』と伝えたのに、それでも雪哉は笑顔のままだ。
ふざけて言っているわけではないのに一切動じない雪哉に、自分の方がおかしなことを言っている気分になる。掴まれた腕に込めた力が少しだけ緩んだが、その手が解放されることはない。
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