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2章 Side:雪哉
11話
しおりを挟む廊下を小走りで進みながら、渦巻く苛立ちを何処かへ逃そうと試みる。
(なんなんだ? 専務本人が悪いのか? 秘書が抜けてるのか?)
だが試行すればするほど苛々が募っていく気がする。
専務の秘書から連絡を受け『取引先に顔を出すので同行して欲しい』と依頼があった。けれどその1時間ほど前に、社長から『挨拶文を5か国語に翻訳してほしい』と依頼を受けたばかりだ。
会社的に言えば当然『社長』から『先に』依頼された案件を先にこなすべきだろう。だが社長の案件は締め切りまでに猶予がある。一方で専務の外出は直近の話らしいので、それならまずはこちらを優先した方がいい。
そう思って了承の意を伝えると『では11時に正面玄関前へお願いします』と言われて内線を切られた。時計を見て、思わず顔が強張る。
(あと15分…!?)
社長からの依頼は、挨拶文の英語・中国語・フランス語・スペイン語・ドイツ語への翻訳だ。英語とスペイン語は自分で担当する。フランス語とドイツ語は、電話を切って殺気立った雪哉を見て大爆笑した浩一郎に、そのまま丸投げさせてもらった。
残るは中国語。
友理香が打ち合わせをしている筈のフロアに赴き『マーケティング部』と書かれたアクリル製のドアを押し開けると、ワークラウンジで10人ほどの社員に囲まれながら談笑している友理香の姿を見つけた。
美貌と存在感を兼ね備えた友理香は、その場にいるだけで目立つし空気が華やかになる。悪目立ちしすぎて頭痛を覚えることも多々あるが、こういう時は探す手間が省けるので大変ありがたい。
「あ、雪哉~!」
こちらの存在に気付いた友理香に、遠くから声を掛けられ手を振られた。打ち合わせと訊いていたが、どうやら今は雑談中なのかそれほど張り詰めた状況ではないらしい。それならば、と場の空気に甘え、頷きながら近付く。
「友理香。良かった、ここにいて」
ワークラウンジにいた他の社員たちに目礼すると、先ほど依頼された案件を友理香に申し伝える。中国語は彼女の得意分野で、今の雪哉にはまだ踏み込めない領域だ。
「デスクに上げてあるA案件からC案件まで中文翻訳してくれないか。データ処理でいいから」
「急ぎ?」
「多少」
首を右に傾げられたので頷き返す。すると瞳の奥で流星を煌めかせた友理香が、にこりと可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ハグしてくれるなら、やってあげてもいいよー?」
友理香が間延びした声で明るく言うと、直後に空気がどよめいたのがわかった。
こういうところだ。
悪目立ちして頭痛を覚える状況。
「しないよ」
「えー、いつもしてくれるじゃない」
「した事ないだろ…」
呆れたように呟くと、友理香が不満気に、けれど想定済みの反応であるようにクスクスと笑う。
日本ではそういうコミュニケーションはあらぬ誤解の元になる。アメリカにいた頃も必要以上に他人とハグなどしなかったが、日本にいる今は尚更ハグの必要性を感じない。
溜息をつくと同時に、踵を返す。友理香は質の悪い冗談と生意気な口調が玉に瑕だが、仕事はきっちりこなすことが出来ると知っている。とりあえず用件は伝えたし、時間もないので急がなくてはいけない。
だが振り返って顔を上げた視界の先に見えたのは、デスクに座ったまま驚いたような顔をしている愛梨の瞳だった。
(え…? なんでここに…)
思わず足が止まり、そのまま動きも停止してしまう。こちらの様子を見て固まっている愛梨をよく見ると、手にもデスクにも大量のリングファイルが重ねられていた。
(愛梨はマーケティング部なのか…!)
所属部署と、そこが愛梨の席である事を同時に知る。
先週の金曜にカフェで話をしてから、愛梨の所属はちゃんと調べておくつもりだった。だが色々考え込んでいるうちに調べ損ねたり、忙しくて調べる暇が無かったりと結局後回しになってしまっていた。
「細木さんは、河上さんとお付き合いされてるんですか?」
やりとりを見ていた若い男性社員が、後ろからそっと訊ねてきた。『何処をどう見たら、そう感じるんだ?』と不愉快な気分を味わったが、俯瞰的にみると何処をどう見ても友理香とは仲が良さそうだった。雪哉もこれが他人だったら、付き合っているように見えたかもしれない。
「えー、そう見えちゃいまし…」
「違います」
あはっ、と悪びれもせずに笑う友理香にまで殺意を覚え、最後まで言わせないうちに遮る。
友理香が本気じゃないことはわかるし、雪哉を陥れようとして言っている訳じゃないこともわかる。けれど今、このタイミングで、そのジョークを披露することはないだろ!
じろりと友理香を睨むが、友理香は無邪気に笑うだけだ。それどころか、その瞳の中に別の流星が走り抜けていくのを感じ取ってしまう。
「雪哉はみんなに優しいから。ちゃんと言っておかないと、クライアント先の女性社員さんたち、いつも勘違いしちゃうの」
嫌な予感の直後、友理香がとんでもない言葉を口走った。雪哉の個人事情を突然暴露し始めた友理香に、ぎょっとして驚きの視線を向ける。だがその小悪魔的な笑顔は1ミリも崩れることはない。
「雪哉は誰とも付き合わないから。みんな、会社中の人にちゃーんと伝えておいてね」
「友理香!」
流石に叱責した。これ以上友理香に喋らせるのは危険すぎる。
はっとして周囲を見ると、案の定その場にいた全員がぽかんと口を開けて友理香の顔を見つめていた。一部の視線は友理香ではなく雪哉にも向けられている。更に顔を上げると、部署内の別の人達まで何事かとワークラウンジを覗き込んでいるのだから、焦りもする。
「っ…! とにかく頼んだ! 急遽取引先に随行することになったから、急いでるんだ」
「はいはーい。いってらっしゃーい!」
仲の良さをアピールするように、無駄に元気な声で送り出してきた友理香に、更なる苛立ちを感じる。ちらりと愛梨の方へ視線を向けると、愛梨も他の人と同じようにぽかんと口を開けて驚きの表情を浮かべていた。
時計を確認すると、指定された時刻まであと7分。5分前に到着しておきたい事を考えると、あと2分しかない。苛立ちと焦りを胸の奥に押し込むと、歯痒い心地のままマーケティング部のアクリルドアを引っ張った。
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