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1章 Side:愛梨

7話

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「弘翔、ごめん。ちょっと今日は、やめておこうかな……」

 一緒にご飯を食べに行こうと約束をしていたが、今の愛梨にはまともな食事が喉を通る気がしなかった。少し俯きながら食事のキャンセルを言葉にすると、弘翔が心配そうに顔を覗き込んできた。

「どした? 具合悪いのか?」
「う…ん。…夏バテ、かなぁ」

 確かにあつい。残暑の蒸し暑さもあるが、顔も身体も不思議なほどに火照っている。

 体調の変化を誤魔化すために俯いていると、弘翔は本当に夏バテで食欲がないと判断したらしい。

「わかったよ。その代わり週末は約束だからな」
「うん」

 弘翔は口では納得したようにそう言ったが、顔を見ると少し名残惜しそうだった。人目を気にしながらも愛梨の頭を撫でるので、愛梨もちゃんと笑顔を作った。笑わなければ、心配して顔を覗き込んだ弘翔が、更に心配してしまいそうだったから。

「じゃあ、また明日な。とりあえず、家着いたら連絡して」
「ん。わかった」

 少し不安気ながらも、弘翔は愛梨の笑顔を見るとそっと離れた。

 弘翔とは駅は同じだが、家の方向が会社を挟んで真逆なので、利用するホームが違う。反対側の改札への流れに乗った弘翔が最後にもう1度手を上げたので、愛梨も弘翔が見て分かるように頷いた。

 見えなくなる最後の瞬間まで自分の気持ちを意思表示をするところも、弘翔の可愛いところだ。

(……ユキ…)

 だが弘翔の姿が見えなくなった瞬間に、別の事を考え出してしまう。

 決して恋人である弘翔を雑に扱っている訳ではない。そうではなく、愛梨にとって人生を揺るがす程の重大な事件が起きてしまっただけだ。

(…どうしよう……)

 1か月前、15年間大事にしてきた約束を忘れる事を決意した。

 淡い思い出を綺麗な箱に封印して、厳重に鍵をかけた。そんな忘れたはずの『約束』が、ガタガタ、ゴトゴトと音を立てて騒ぎ出す。

(どうして…)

 どうして雪哉は日本にいるのだろう。
 答えは簡単。アメリカから帰って来ただけだ。

 どうして雪哉は愛梨の勤める会社にいたのだろう。
 その答えも簡単。さっき弘翔が教えてくれた。それが雪哉の仕事だからだ。

 愛梨の勤める株式会社SUI-LENは、自社製品を海外向けに売り出すプロジェクトを本格的に動かし始めた。しかしターゲットにしている諸外国のマーケットやバイヤーとコミュニケーションを取ったり、ビジネスとして通用するほどの語学力を持つ人間が、社内にほとんどいない。

 だから語学に堪能な通訳者や翻訳家を派遣してもらい、ビジネスが軌道に乗るまでその道のプロにコミュニケーション面をサポートしてもらうのだろう。

 それが偶然、本当にたまたま、雪哉だっただけだ。

「…はぁ……」

 日本に帰ってきているなら、教えてくれればよかったのに。通訳の仕事をしている事だって、知らなかった。

 けれどきっと、伝える術もなかったのだろうと思い至る。それは愛梨も同じことだから。雪哉が愛梨を探し出せなかったのなら、愛梨だって雪哉を探せない筈だ。

 あるいは雪哉には、愛梨を探す気などなかったのかもしれない。

(ユキ、すごい格好良くなってたな…)

 ふと、雪哉の驚いた顔を思い出す。
 昔から顔立ちは整っていた。中学生になった頃は、学年で1番格好いい男子に雪哉の名前を挙げる友達も多かった。

 雪哉とはほんの数秒目が合っただけだが、今はその『格好いい』に磨きがかかって、更に洗練されていたように感じた。

(ユキは、あの約束……)

 懐かしい記憶に思考を引っ張られる。
 綺麗な箱に封印して、厳重に鍵をかけたはずの『約束』がまた騒ぎ出す。

(……ううん、だめ…)

 先程、どうして雪哉は自分の事を探さなかったのだろう、と思ってしまった。

 けれどよく考えたら、仮に探されていたとしても愛梨の方が困っていたかもしれない。愛梨と雪哉は、もうかつての幼馴染み以上の関係にはなれない。愛梨には今、大切な恋人がいるから。

(絶対に、開けたらだめ)

 わかっている。
 もう、どうしようもないぐらい。

 なのに、綺麗な装飾を施して美しく着飾り、厳重に鍵をかけた約束の小箱が、外に出たいと暴れて動き始めている。開けたところで何が変わるわけでもない。むしろ弘翔の事を考えると、変えてはいけないのに。

 ぎゅっと目を閉じ、思考を振り払う。

『愛梨。俺、絶対に愛梨を迎えにくるから。待ってて』

 目を閉じて視覚を遮った所為で、かえって聴覚が研ぎ澄まされたのか。

 小箱のわずかな鍵穴から、真剣で無垢な中学1年生の雪哉の声が聞こえた気がした。

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