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1巻
1-1
しおりを挟む王子殿下は侍女を愛でる
王宮のエントランスに並ぶ豪奢な装飾品の数々に、リリア・フローラストは一人圧倒されていた。
――これがスーランディア王宮……
壮麗な王宮の佇まいに対する感動とあまりの緊張で、感嘆の声すら喉につかえてしまう。
「わあっ、すごいわねえぇ!」
しかしリリアの隣で歓喜するカティエの目はきらきらと輝いている。リリアは、この状況で呑気にしていられるカティエが羨ましくて仕方がない。第二王子との婚姻が決まって王宮に嫁ぐことになったことももちろんだが、それよりも全く緊張していないらしいことが羨ましい。リリアは緊張と不安で、今にも卒倒しそうだというのに。
侯爵令嬢カティエ・ロナ。フローラスト伯爵家が領地管理を担うフォルダイン領のすぐ隣、ヴィリアーゼン領を治めるロナ侯爵家の末娘で、幼い頃からのリリアの友人。リリアが第二王子であるエドアルドとの婚約を辞退するきっかけとなった人。そしてリリアの代わりに、新たな花嫁に選ばれた人。何度も拒否したにもかかわらず、半ば強引にリリアを王宮まで同行させた張本人。
『私、王宮に知り合いなんていないのに、たった一人で嫁がなきゃいけないのよ? そんなの寂しいじゃない。ずっとお友達だったのにリリアと離れ離れになるなんて……だからリリアにも、私と一緒に王宮に来て欲しいの!』
愛らしい表情が曇り、ダークバイオレットの瞳にうるうると涙が溜まっていく様子を見ると、確かにリリアも寂しさを覚えた。
しかしどんなに懇願されてもリリアにはカティエの要望が無謀な願いに思えた。
なぜならリリアは、第二王子であるエドアルドとの婚姻をこちらから断った身だ。一年も前から決まっていた名誉ある婚姻を辞退しておきながら、いまさら当の第二王子の目につくところへ易々と姿を晒すことは出来ない。
婚約辞退の経緯を知るカティエにもそう説明したが、
『大丈夫よ。私の侍女として王宮についてくれば、エドアルド殿下は気付かないわ』
と食い下がった。
だが婚約を辞退したリリアが、新たな婚約者に選ばれたカティエの侍女に扮して王宮へ赴くなんて、どう考えても無理がある。
万が一エドアルドをはじめとする王宮の人々に知られてしまったら、リリア本人だけではなく父レオンや母ラニア、場合によってはフォルダイン領に住まう全領民に迷惑をかける可能性がある。名誉ある婚姻から一転し不敬罪で処罰を受けるなど、想像しただけで胃に穴が開きそうなのに、まさかカティエの父、フィーゼル・ロナ侯爵から正式にカティエに同行することを求められるとは思ってもいなかった。
無論、すべての事情を知るレオンは相当の難色を示した。断っていい、政治に娘を巻き込みたくない、と優しい父は言ってくれた。だから最初は断ろうとしたが、貴族の社会は縦社会。侯爵位にあるフィーゼルの要請を、伯爵位にあるレオンが断れるはずもなく、フィーゼルの要請は日増しに強くなっていった。レオンの険しい表情を見たリリアは、これはもう腹を括るしかないことなのだと理解した。
「リーリャ、見て! 騎士の鎧が飾ってあるわ。これ全部、純銀よ!」
「カティエさま。むやみに触ってはいけませんよ」
同行したフィーゼルが枢機院の執務室に赴くというので、リリアはカティエと共に王宮のエントランスで待機していた。しかしフィーゼルが離れた途端、カティエは子供のようにきゃあきゃあとはしゃぎ出す。
王宮に嫁ぐ令嬢が豪華な装飾品を目にしたぐらいで浮かれないで欲しい。ため息が出そうになったが、今のリリアはカティエの侍女だ。友人としてなら許容されるものも、侍女としてなら少しばかり気を遣わなければいけない。
それにロナ家の侍女としてカティエに仕えるならば、名前も偽らなければならない。仮に人前でリリアと呼んでしまっても誤魔化せるようにリーリャと名乗ることになったが、それでは偽ったことにならないと思う。反論の一つもしたくなったが、名付けたカティエが呼びやすいなら、もうそれでいいわ、と諦めの気持ちもあった。
「カティエ・ロナ侯爵令嬢。どうぞこちらへ」
こっそり頭を抱えていると、開いた正面の扉から一人の男性が現れた。
執事の装いに身を包んだこの男性が、ここから先を案内してくれるらしい。エントランスの置物やステンドグラスを眺めて無邪気にはしゃいでいたカティエが、ぱぁっと笑顔になった。
きょろきょろと落ち着きなく周囲を見渡すカティエとは対照的に、リリアの緊張はどんどん増していく。それを表に出さないよう努めながら、カティエの後に従う。
長い廊下を何度か曲がり、豪華な装飾品と調度品に見つめられる中で辿り着いた場所は、広い応接間だった。中に入るように促されたカティエに続き、リリアもそっと足を踏み入れる。
「こちらへどうぞ」
勧められたソファにカティエが腰を下ろす姿を見届けると、リリアもカティエの背後の壁に寄って控えた。
「お茶をご用意いたします。お好みはございますか?」
「何でも結構よ」
執事の男性とカティエの会話に意識を向けつつ、視線だけで室内を確認する。部屋の広さは相当なもので、フローラスト伯爵邸にこんなに広い応接間は存在しない。
だが王子であるエドアルドと謁見するには、やや手狭な気がする。
それに装飾品がほとんどない。エントランスには金や銀に輝く豪華な武具や宝物が多かったが、この部屋には森や王宮を描いた絵画がいくつか飾られているだけ。それ以外には青銅の花瓶が置かれているが、肝心の花が生けられていない。まるで御用商人との商談の部屋、といった雰囲気だ。
(あまり歓迎されていない……?)
そんな印象を受けてしまうが、きっとリリアの思い過ごしだろう。今日は王宮に到着したばかりで、これはきっと正式な挨拶ではない。カティエを歓迎するための挨拶や食事の席には、花嫁に相応しい場所が用意されるはずだ。
それに当のカティエは、目の前に用意されたティーセットとお菓子に夢中で、この状況をあまり気にしていない。カティエが気付いていないなら、リリアも良しとするしかない。
「それではエドアルド殿下がいらっしゃるまで、こちらでお待ち下さい」
丁寧に頭を下げた執事が、踵を返して静かに部屋を出ていく。
その様子を見届けたカティエは、ずずっとお茶をすすりながら、
「ビスケットよりもケーキがよかったわね」
と呑気に呟いている。
だから、どうしてお茶を飲むときに音を立てるのだろう。侯爵家の令嬢でそれなりの教育を受けているのだから、相応の振る舞いをしてくれないと見ているリリアの方が反応に困ってしまう。
もちろんカティエはリリアに心を許しているから雑な振る舞いをするのであって、人前に出ればマナーを弁えた行動が出来る。けど、それなら今もちゃんとして欲しい。人目がなくなった瞬間に素に戻ると、いつか本性が出そうでリリアのほうが冷や汗をかいてしまう。
十五分ほど経過した頃、室内にノック音が響いた。
ほどなくして扉が開くと、入って来た人物を直視しないよう、リリアは自然な動作で頭を下げた。
「遅くなってすまない。久しぶりだな、カティエ嬢」
聞こえた言葉から、入室してきた人物がこの国の第二王子、エドアルドだと知る。
その声は大樹を思わせる落ちついた低いトーンだが、新緑を思わせる清々しさもある。
なるほど、彼が人心を掴む魅力に溢れていることは、発する声音からも感じられた。
「お久しゅうございます、エドアルド殿下」
「先々月の夜会以来だな。変わりはないか?」
「はい。殿下に格別のご配慮を賜っておりますので、ロナ家も領民も変わりありませんわ」
淡々と交わされる社交辞令では、カティエはちゃんと受け答え出来ている。ならば最初からそうして欲しい、と考えてしまうが口には出さない。
「今回は急な報せになって申し訳なかったな。フィーゼル卿にも悪いことをした」
エドアルドの何気ない言葉に、リリアの心臓がどきりと跳ねる。
王宮に混乱を招く原因を作ったのは、紛れもなくリリアとフローラスト伯爵家だ。
エドアルドに申し訳ないと思い、心の中で必死に謝罪する。
「とんでもございませんわ。殿下の花嫁にお選び頂けて、幸福の極みにございますもの」
「そうか……彼女は?」
カティエの喜びの感情をさらりと受け流したエドアルドの疑問符から、彼の関心がこちらに向いたことを知る。その瞬間カティエの纏う空気がピリッとした気配を感じたが、彼女が発した声の色はいつもと変わりがなかった。
「先立ってのご報告を怠り申し訳ございません。本来身の回りの世話は王宮の侍女におまかせすべきとは存じます。ですが、彼女はわたくしを幼少より知る者ですの。せめて婚約の発表を終えるまでの間だけでも、彼女を傍に置くことをお許し頂けませんか?」
「まぁ、構わないが……君、顔を上げて」
エドアルドに声を掛けられ、全身が凍り付く。顔を見せろ、と命じられてしまった。
どうしよう、と一瞬ためらう。
いや、冷静に対処すれば不都合など生じない。リリアはエドアルドには一度も会ったことがない。彼はリリアの顔を知らないのだから、対応を間違えなければ、大丈夫なはず。
「……っ」
けれど不用意に顔を上げてしまったことをすぐに後悔する。顔を上げて目の前にいる人物と目が合った瞬間、リリアはそのまま息が止まってしまうのではないかと思った。
スーランディア王国第二王子、エドアルド・スーランディア・ノルツェ殿下。
この人が結婚相手だったと知っていたら。自分が生涯を捧げて添い遂げる相手になると、最初から理解していたら。
その上であの日あの場所に舞い戻ってもリリアはやっぱり同じ行動をして、同じ運命を選んだと思う。この婚約を辞退するという人生に、ちゃんと軌道修正したと思う。
だって、こんなに麗しい人の隣で毎日を過ごすなんて、きっと心臓が持たない。
やはりリリアの選択は正しかった。
たとえあの日あの場所で、この身体を魔女に呪われてしまったとしても。
友人のカティエは物心がついたときからリリアを振り回してばかりだった。両親と三人の兄に蝶よ花よと可愛がられ生きてきた彼女は天真爛漫――言い方を変えれば、わがままだった。
対するリリアは小さな頃から二人の弟の面倒をみていて、人の世話を焼いてばかりだった。
カティエとは、悪い意味で相性がよかったのだと思う。
どうしてもパンケーキが食べたい。どうしてもその上に木苺のジャムを乗せたい。そう言って森の中に足を踏み入れたのは、いつもならティータイムを楽しんでいるはずの時間だった。
「このぐらい摘んだら、もう充分だと思うけれど……」
「まだ必要よ。フローラスト家の朝食にも木苺のジャムが必要でしょ? これじゃ足りないわ」
「うちはいいわよ……」
リリアが遠慮しても、カティエはどんどん森の奥へ進んでいく。
けれどこれ以上は無茶だ。帰りが遅くなるし、魔女の領域に踏み込んでしまう。
そう思ってカティエの腕を掴もうとした瞬間、彼女が感嘆の声をあげた。
「わあ……! リリア、見て! 木苺がいっぱいなっているわ!」
嬉しそうな声をあげるカティエの視線の先に目を向けると、そこには確かにたくさんの木苺がなっていた。けれど。
「人の敷地だわ。柵があるもの」
少し古びてはいるが、木苺が実っている場所は木柵でぐるりと囲われている。ここが誰かに管理されている何よりの証拠だ。いくらなんでも他人の敷地から木苺を摘むことは出来ない。
「大丈夫よ。だってここはフォルダイン領とヴィリアーゼン領の境の森なんだもの。リリアのお父さまや私のお父さまの名前を出せば、木苺ぐらい誰だってわけてくれるわ」
「……」
本当に、そうだろうか。
確かにこの夕闇森は二つの領地の境にある。けれど奥へ奥へと進み、反対側まで行けば別の領地に出ることも出来る。他の土地まで突き抜けるには三日三晩歩き通さなければいけないが、裏を返せば森はそれほど深いということだ。
深い森には、必ずといっていいほど魔女が棲む。魔女がどの領地から森の中へ入り込むのかはわからないが、彼女たちはたった一人の例外を除き、深い森を好むものだ。
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リリアの制止も空しく、カティエはワンピースの裾を捲り上げると古い木柵に跨りそのまま中へ侵入してしまう。脚を上げた瞬間、穿いていたドロワーズのレースがちらりと見えた。なんというはしたない行動をするのだろうと頭を抱えたくなったが、咎める暇もなく彼女は木苺をむしりとって籠の中に入れ始めてしまった。
「カティエ、本当にだめだってば!」
「大丈夫よ。こんなにたくさんあるもの」
夢中になって木苺を摘むカティエは、気付いていなかったのだと思う。もちろんリリアも、気付かなかった。
ぶわりと強い風が吹いて、ザワザワ、ヒソヒソと木々や草花が揺れ始めた瞬間、リリアの背後で地を這うような低い声が聞こえた。
「何をしている……?」
最初は声だと思わなかった。獣の唸り声か、かまどが焔を噴き上げる音だと思った。ごお、と身体の芯を震わせるほどの重低音が響くと同時に、こちらを見たカティエが恐怖の悲鳴を上げた。
「きゃああっ……!?」
「お前たち、ここで何をしている?」
再び聞こえた音に恐る恐る振り返ると、背後で冷たい烈風が渦を巻いていた。
魔女、だ。
そう認識した瞬間に、身体を流れる血液が一瞬で氷漬けになる心地がした。
呼吸が乱れて、全身から血の気が引いていく。カタカタと歯の根が噛み合わなくなる。身体から力が抜けて、木苺を入れた籠が足元にボトリと落ちる。
リリアは、叫び声すら上げることが出来なかった。
「何を、して、いる!」
さらに低い声で問いかけられると、力が抜けてその場に尻もちをついてしまう。悲鳴をあげたカティエも木苺の入った籠を取り落とし、木柵の中で動けなくなっている。
「き、きいち、ご、を……」
震える声で答える。それがちゃんとした答えになっているとは思えなかった。
恐怖で見開いた目に、リリアを見下ろしている魔女の姿が映った。古びてぼろぼろになった黒い巨木の上に、プラムのような二つの赤い光が怪しく光っている。ように見える。
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けれど目の前にいるのが魔女であることは間違いない。
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「ここは私の薬草園だ」
重低音で告げられるとその声が空間を振動させ、さらに恐怖感が増す。
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魔女が呟いた言葉にわずかな違和感を覚える。それは魔女なら魔法でどうにか出来るのではないのだろうか、と思ってしまう。
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「そんなに若く美しくありたいなら、その望み叶えてやる!」
咆哮。その瞬間、魔女が集めていた昏くて黒い球体が、カティエ目がけて飛翔した。
「だ、だめ……!」
あれが何なのか、リリアにはわからない。けれど魔女が発した言葉から、魔法の類であることは想像出来る。魔法を扱えないカティエがまともに受けて無事でいられる保証はない。
そう気付いた瞬間、リリアは無意識に立ち上がっていた。
魔女からカティエを庇えば、あの黒い球体の犠牲になるのは間違いなくリリアだ。けれどカティエが魔女に痛めつけられる様子を黙って見てはいられない。身体も勝手に動いていた。
リリアは結局、友達が大切だった。わがままで身勝手だけれど、自由奔放で天真爛漫なカティエが大事だった。代わりに自分が犠牲になるかもしれないとは、そのときは考えられなかった。
「リリア!」
カティエが叫ぶ声が聞こえた瞬間、このまま死んでしまうのだと思った。
占いに使う水晶玉ほどの球体がお腹に当たると、リリアの身体は突風にあおられたようにふわりと浮き上がる。しかし浮遊感は持続せず、すぐにどさりと崩れ落ちた。
「けほっ……ううっ……ふ、……」
直後に感じた表現しがたい圧迫感と不快感から、そのまま臓物を吐き出してしまう気がした。けれどそれは錯覚で、実際には大きく咳き込んで呻くだけだった。
「リリアッ! リリア、大丈夫!?」
カティエの甲高い声が聞こえる。首を縦に動かして『大丈夫』と示しつつ、うずくまっていた場所から地面に両手をついて起き上がる。荒い呼吸を繰り返しながら上体を起こすと、すぐ近くにカティエの心配そうな顔があった。
「カティエ……だい、じょうぶ……?」
「私は平気よ! それよりリリアが……!」
焦ったカティエの声になんとか頷き返す。
大丈夫。衝撃は受けたが思ったよりも痛みはないし、身体もなんとか動かせる。それよりも魔女をどうにかしなければ。早くあれから逃れなければ、次は本当に殺されてしまう。そう思って黒い球体が飛んできた方向を確認する。
「あ、れ……? 魔女は……?」
整わない呼吸でカティエに訊ねると、リリアの困惑に気付いたカティエが、無言のまま首を横に振った。
魔女の姿が消えている。つい先ほどまで巨木のような黒い影とプラムのような二つの赤い瞳が佇んでいたその場所は、いつの間にか元に戻っている。鬱蒼と茂る草木も、何処かで小鳥が鳴く声も、植物が揺らす風の音も普段と変わらない。まるで今リリアとカティエの身に起きた悪夢が、本当にただの夢だったかのようにすべてが元の状態に戻っている。
自分たちの身に何が起きたのかわからず、きょろきょろと視線を動かして――息を飲んだ。
ただ一つ、先程と違うところがあった。
それは、魔女が薬草園だと言っていた木柵の中。カティエが摘んでいた木苺も、まだ摘んでいない木苺も、すべてが丁寧にすり潰され一面が真っ赤に染まっていた。まるで血溜まりのように。
これはきっと、魔女の警告だ。
ここにはもう近付くな。次にここに足を踏み入れればもっとひどい目に遭わせてやる。
潰れた木苺の赤い色が、何よりも色濃く憎悪の意思を表現しているようだった。その確かな警告に気付いた瞬間、ぶるりと身体が戦慄した。
そこからは、ただ必死に走って森を抜けることに全精力を費やした。木苺を摘んだ籠も、そのまま置いてきた。もはや木苺でジャムを作りましょう、などと呑気な気分にはなれなかった。
息が切れて胸と喉が割れそうなほど痛んでも、ただただ走り続けた。足がもつれて転びそうになり汗で視界がにじむ度に、今立ち止まったら確実に死ぬ、と自分を叱咤した。
必死に走り通してなんとか森を抜けると、すでに陽は落ちかけていた。
夜がくれば魔女の活動範囲が広がるかもしれない。そう思ったら、さらに走ることに何のためらいもなかった。
途中、カティエは『待って』『置いて行かないで』『少し休もう』と何度も弱音を吐いた。その度に『もう少しだから』と疲労困憊の彼女を励まし続けた。
カティエはリリアよりも体力がなく、すぐに限界を迎えてしまうので少しずつしか走れない。特に森を抜けた辺りから、安心したのか文句ばかり多くなる。そんな彼女をどうにか誘導しながらも、足だけは必死に動かし続けた。
そうしてなんとか辿り着いたフローラスト邸の前で、リリアは魔女に投げつけられた黒い球体の正体にようやく気が付いた。
隣で悲鳴をあげたカティエの声に驚いて、父と使用人数名が屋敷から飛び出してくる。しかしリリアの姿を認めた者は、全員その場で固まって動けなくなってしまった。
魔女に遭遇してから五日が経過して、リリアは自分が置かれている状況をようやく受け入れられるようになった。
数日前までは普通に座ることが出来ていた応接間のソファに腰をかけると、床から足が離れて届かなくなってしまう。ふらふらと足が動くことが行儀の悪い姿だとは認識していた。しかし下までつかないので、自分の意思とは関係なく揺れ動いてしまうのだ。
「レオン……カティエが迷惑をかけて、本当に申し訳ない」
「頭を上げて下さい、フィーゼル殿。悪いのは魔女であって、カティエ嬢ではございません」
今夜で五回目になる会話を聞きながら、リリアは自分の手のひらをじっと見つめた。
手の大きさの割に指が短い。自分のものではない、まるで見ず知らずの少女のもののようだ。
そう。あの日リリアは、魔女に呪われた。
そんなに若く美しくありたいなら、その望みを叶えてやる。獣のように吠えた魔女の言葉の意味には、完全に陽が落ちて夜空に月が昇るまで気付けなかった。
社交界へのデビューも済ませたはずの、伯爵令嬢リリア・フローラスト。
田舎の令嬢らしく外見こそ地味ではあったが、所作と言動には気を遣い、領民の手本になるべく丁寧な振る舞いを心がけてきたつもりだった。その時間と努力が逆行してしまったかのように、庭先のランタンに照らされるリリアの姿はあどけなく愛らしい。
肌の色も、髪の色も、目の色も何も変わらない。けれど土泥と植物の汁にまみれ、枝先や葉先で身体中に傷を作り、命からがら屋敷の前まで辿り着いたとき、リリアの身体は大きさだけが元の半分近くまで縮んでいた。
リリアは小さな子供に――幼女の姿に変貌していた。
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