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18. 研究室の日常
しおりを挟む季節の変化とともに低下してきた風の温度はやや冷たく、時折びゅう、と強く吹くと、研究室内の温度もグッと下がる気がする。
朝一番の澄んだ空気を室内へ取り込み終えたセシルは、窓を閉めるとすぐに元の作業に戻る。昨日最後までやりそこねていたデータの記入と集計の続きだ。
中途半端になっていた記録用紙の並べ替えがいつの間にか終わっている。チェック表の字の癖からルカが続きをやってくれたことがわかったが、用紙の埋め方がわからなかったのかところどころ未記入の場所もあるので、出勤したセシルは一人黙々と作業の続きをこなしていた。
(おしりが……へんだ……)
出勤からこの一時間、セシルのお尻にはずっと違和感があった。だから椅子の座面に圧力をかけないよう、先ほどからずっと少しだけ腰を浮かせている。大きな痛みがあるわけではないが、お尻を圧迫すると『出されたもの』が溢れ出そうな気がするのだ。
緊張の糸が切れたように眠りにつくと、レオンはようやく激しい行為を終えてくれたらしい。それはよかった。
しかし瞼の上に朝日の気配を感じて目を覚ますやいなや、再びシーツの上に身体を縫い付けられて前夜と同じように抱き乱された。何度も名前を呼ばれて貫かれ、昨夜とはまた違う明るい光の中で激しく丁寧に揺さぶられた。
前日に城の地下で見聞きしたことを思い出してあれこれ考え事をしていたのに、その思考を奪うようほどの激しい行為の数々……レオンの性欲と体力は一体どうなっているのやら。
おかげで遅れていた作業を取り戻すべく早めに出勤するつもりだったセシルの予定は台無しだ。レオンの馬車で直接研究所まで送ってもらったので最初に研究室に入ることは出来たが、思ったより時間は少ないし、お尻に違和感はあるし、作業の気は散るし散々だ。
「おい、セシルっ」
「ぅわっ……!?」
心の中でレオンへの文句を並べ立てていると、突然視界が真っ白に染まり、直後に誰かに抱き着かれた。
視界を覆ったものが抱きついてきた相手の白衣の袖だと気付くと同時に、ジェフリーから「おーはよ」と明るく声をかけられた。
朝から強めのスキンシップで絡まれたが、彼がセシルに力任せに接してくるのはいつものこと。退けようと思っても軟弱なセシルではどうせ彼の力に敵わないので、無理矢理引き剥がすのではなく彼の腕の中にスポッと抜けるよう頭を出す。
「おはよう、ジェフリー。けど苦しいから止めて」
「昨日どうしたんだ? 早退したのか?」
「えっ……? えっと……」
セシルの文句をあっさりと受け流したジェフリーが不思議そうに訊ねてくる。その疑問一つで、セシルの身体が緊張でびくりと強張った。
「なんだよ、体調悪いのか?」
「え、ぜんぜんっ! 身体は平気です! 本当に!」
「?」
動揺のあまりジェフリー相手に変な敬語になってしまう。だが言えない、言えるわけがない。
どうやらあの場にいなかった彼は昨日のレオン乱入騒動について何も知らされていないようだ。彼の口ぶりからルカやマルコムから状況を聞いていないことがわかったが、だからといってセシルの口から王族であるレオンとの関わりを口にするのも躊躇われる。
だからがっちりと身体を掴まえられた上で問い詰められても、どう返答していいのかわからない。
困惑して言葉に詰まっていると、研究室の入り口の扉が開いてルカとマルコムが入室してきた。
「あ~っ、セシル先輩ちゃんと出勤してるぅ」
「おはようございます、セシル君、ジェフリー君」
ルカが意外そうな声を出すと同時に、マルコムがいつもの挨拶をしてくる。
「おはよーございマース」
「おはようございます」
ジェフリーと揃って朝の挨拶を返すと、彼の腕の力が緩んでいる隙に拘束を振りほどいて立ち上がる。ジェフリーとのコミュニケーションも大事かもしれないが、セシルはそれよりも、二人に対して謝罪しなければならないことがあった。
「昨日は急に早退してしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「構いませんよ。勤務時間は終わってましたしね」
セシルの謝罪の言葉にマルコムがひらひらと手を振る。皆まで言わずとも事情はわかっているとでも言いたげな笑顔に圧力を感じたが、それを誤魔化すために苦笑いを返す。
「ありがとうございます。ルカもありがとう。集計準備、最後までやってくれたんだね」
「いえいえ。ちゃんとやろうとしたんですけど、メモの拾い方がわからなくて記録用紙の記入は手つかずになっちゃいました。ごめんなさい」
「ううん、助かったよ」
ルカにもしっかりとお礼を言ったので、これで説明は免れるだろう。
と高を括っていたが、そんなはずはなかった。
「で? セシル君?」
「身体は大丈夫なんですか? 腰は? お尻は?」
「え……!?」
そのまま朝礼を始めると思っていたのに、右側をルカに、左側をマルコムにがっちりと掴まれ、昨日何があったのか説明しろと要求される。
思わず声が裏返ってしまうが、二人の反応は当然かもしれない。セシルこそ元は貴族の出自であるが、他の三人は平民の生まれで王族どころか上級貴族と接する機会さえない。
それにも関わらず絶対権力を持つ王族であるレオン――彼らの認識では『アレックス王子』がセシルを訪ね、強引に連れ去ってしまったのだ。何があったのか知りたいと思うのも、無理はない。
しかし聞き方がおかしい気がする。特にルカ。
どうしてセシルとレオンの関係や経緯よりも先に、セシルの身体の心配をするのか。まるで昨日何が起きたのか全部見ていたかのような聞き方は止めてくれないだろうか。それが事実だったとしても。
「な、何もないです! 健康です! 大丈夫ですから!」
「ふ~~~ん?」
「へ~~~え?」
「何もありませんってば……っ!」
先ほどのジェフリーよりもよっぽど強い力で拘束されて、両端からにまにまと笑われる。変な汗をかいて縮こまったまま何も言えずにいると、二人もようやく諦めたのかほどなくしてセシルを解放してくれた。
「なんなんだよ、二人とも」
「ジェフリー先輩は知らない方が良いと思いまーす」
その様子にジェフリーがただ一人置いてけぼりになっている。何があったのか見当もつかないらしい彼は不思議そうに首を傾げているが、セシルには昨日の出来事の詳細もレオンとの関係もこれ以上語るつもりはない。
セシルはレオンを取り巻く事情を彼と共有したことで、安易に口にしてはいけない重大な秘密を抱えた。簡単に外に出ないように、それこそ記憶を封印して自分の中に隠し持った方が安全ではないかと思うほどだ。だからあまり根掘り葉掘り聞かれても困る。
「さて、セシル君で遊ぶのはまた後にして」
二人が追及を諦めてくれたのはありがたい、と思っていたのに、後でまたからかう、とあっさり宣言されてしまう。思わず「また聞かれるの!?」と声をあげそうになったが、マルコムの表情はすでに仕事の顔に切り替わっていた。
「現在着手している研究は今日と明日で実験のフェーズを終了して、来週から論文作成のフェーズに入る予定でした。が、先ほど第六研究室の調査班より『西の古代遺跡から古い魔道具が大量に出土した』と連絡があって、その解析を手伝ってくれる研究室を探しているそうです」
「応援要請ですか?」
「そうですね。なので論文作成のフェーズに入る前に、我々も解析のサポートに回ろうと思います」
マルコムの説明に三人同時に「なるほど」と頷く。
王立魔法研究所の研究対象は、魔法と名のつくものであればどんなものであってもその範囲に含まれる。日常生活に関わる魔法はもちろんのこと、新しい魔法の研究やそれを便利な道具に変換する魔法の開発、国内のいたるところに出現する魔法生物や魔道具の発見・保護・調査・解析も重要な任務だ。
研究室はそれぞれの専門分野や得意分野によって細かく分科しているが、人手が足りないときは総括部署からの打診を受けて別の研究室がサポートや応援にかけつけることも珍しくない。
もちろん本来は、自分たちに与えられた研究を完成させることが最重要課題である。だが実験を中断したり後回しにしても問題がないときは、研究室長の判断により優先順位が変わることもあるのだ。
マルコムの口振りから察するに、彼は部下たちの賛同が得られるようなら今回の打診にも応じるつもりでいるのだろう。
「発掘品が研究所に運び込まれるまで、少し時間がありますよね?」
「そうですね。早くても再来週の半ばぐらいにはなると思います」
「確かにそれなら、論文や新しい実験に手を出すには微妙な空き時間ですよねぇ」
ジェフリーとルカの確認に、マルコムがにこにこと笑う。
「というわけで、来週は自由時間にしようと思います。各自出勤さえすればあとは好きな研究や勉強に時間を使って構いません。もし調査に行きたい場所があれば、申告すれば外出しても構いませんから」
なるほど、そういうことか。
マルコムはきっと、いくらきりの良いところとはいえ自分たちの研究を一度中断するのだから、そのぶん作業を遅らせる許可と自由な時間を与えてほしい、と上層部に交渉したのだろう。しかも彼の笑顔を見るに、その交渉は無事成功したようだ。
上司の強気な交渉術につい苦笑いをしてしまうセシルだが、同時に嬉しさも感じていた。
(一週間あれば、資料探しぐらいはできるかも)
日々仕事に明け暮れているセシルは、ずっとやりたいと思っていた『自分の生まれ持った魔法について研究する』時間をまったく確保できていない。もちろんそれは個人的な興味と関心によるものなので、仕事を押しのけてまでやりたいとは思っていない。
だがもし自由な時間を与えられるなら、その期間を有効活用して自分の勉強や実験もしたい。一週間という短さなら実験まで至らないかもしれないが、資料や文献を探したり、それを読み込むことぐらいはできるだろう。
ルカも自分に憑いているという精霊の定期的なケアが必要だろうし、ジェフリーも溜め込んだ魔力を放出してストレスを発散する時間が必要だ。上層部の許可をもらって各々が有意義に過ごせる絶好の機会だと思うと、気持ちが自然と高揚する。
そんなセシルにではなく、隣であくびをしているジェフリーにマルコムがにこりと笑う。
「ジェフリー君はまず、更衣室のロッカーのお掃除をしましょうね」
「……う。……はい」
それは確かに、有意義な時間の使い方だ。
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