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エピローグ

【おまけ番外編】天ケ瀬美果の恩返し 前

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※ ひたすらいちゃついてるおまけ番外編(後日談)です。笑



 ある初冬の日の、正午を少し回った頃。

 お腹の上にスマートフォンを乗せたままソファに仰向けになった美果は、放心状態でひたすら天井の壁紙を見つめ続けていた。

 やるべき家事はまだいくつか残っているが、おそらく今は何をしても集中できないだろう。ぼんやりしたままアイロンなどかけようものなら、翔のシャツを焦がしてしまうかもしれない。

 同じ姿勢のまま呆然とし続ける美果のお腹の上で、ふとスマートフォンがブブブと震える。その振動に驚いてソファにガバッと起き上がる。

 画面に表示されている『天ケ瀬翔』の名前から電話の相手を確認した美果は、あわあわと受話ボタンをタップするとスマートフォンを耳に押し当てた。

『……美果?』

 数秒の間を空けたのち美果の名前を呼んできた夫に、視界が潤みそうになる気持ちを押さえて「はい」と頷く。それから一生懸命に思考を働かせて、つい先ほど自分から翔に送ったメッセージの内容を思い出す。

「お疲れさまです、翔さん。あの……えっと、メッセージ……」
『ああ、見たよ』

 翔は美果がつい十分ほど前に送ったメッセージをちゃんと確認してくれたらしい。忙しいだろうから時間があるときにでも、と思いながら送ったものだが、タイミングがよかったのかちゃんと中身も見てくれたようだ。

 内容を確認してすぐに電話連絡をくれる翔に、また少し胸が熱くなる。優しい夫は今日も美果の幸せを最優先に考えてくれるらしい。

『おめでとう、美果』
「あ……ありがとうございます」

 電話越しに聞く翔の嬉しそうな声に、彼には美果の姿が見えていないと知っていても、勢いよく首を縦に振ってしまう。

 今日は美果が希望した大学の、社会人入試の合格発表日だった。結果は書面でも通知されることになっているが、それに先駆け、正午からインターネット上でも合否が確認できるのだ。

 おそるおそる結果発表ページを確認してみると、天ケ瀬美果は無事に『合格』――美果は大学受験を無事に通過し、自分が興味と関心を持つ学問について本格的に学ぶ機会を得たのだ。

 嬉しさと喜びにふわふわして頭が働かない。高校から大学へ入学するときの合格発表よりも嬉しいと感じてしまう。

 結果を確認してすぐ翔に一報を入れたが、その後はずっと魂が抜けたように放心していた。そこにメッセージに気づいた翔が、すぐさまお祝いの電話をかけてきてくれたのだ。

『合格祝いしなきゃな』

 社会人入学枠での受験だったので、美果が勉強しなければならない科目は一般選抜ほど多くはなかった。だがそれでも受験対策に勤しむ姿を陰ながら応援してくれた翔だ。愛する夫が心から喜んでくれる声に、美果も「えへへ」とはにかむ。

『今日は早めに仕事を終えられる予定なんだ』
「え、そうなんですか?」

 とりあえずの報告を終えたらそのまま終了すると思っていたが、今は昼休みなのか、翔も少し長めに通話が可能らしい。仕事の進捗報告を聞いた美果が声を弾ませると、美果の機嫌を察したのか、翔がさらに嬉しい提案をしてきた。

『ああ、だから合格祝いに、今夜は食事に行こう。夕食まだ作ってないだろ?』
「あ、はい。まだ全然」
『じゃあ今日ぐらい家事は休んで、一緒にゆっくり過ごそうか』

 翔の気遣いと提案を聞くだけで、美果の胸の中に喜びの感情が広がっていく。試験の合格を密かに実感しながら、はい! と元気よく返事すると、スマートフォンの向こうで翔がくすっと笑う声が聞こえた。

『ホテルの場所は教えるから、そこまで来れるか?』
「行けますよ、大丈夫です!」

 どうやら翔は今夜、美果をホテルでのディナーデートに誘ってくれるつもりらしい。いつも美果が作る食事を『美味しい』と褒めて喜んでくれる翔だが、合格発表日ぐらいは家事を離れ、ゆっくりとディナーを楽しもう、と言ってくれる。

 しかしそのホテルというのは、当日に突然予約できるものなのだろうか? と不思議に思っていると、翔が意外な言葉を口にした。

『じゃあ十九時半に。宿泊準備も忘れるなよ』
「はい……って、え? と、泊まりなんですか?」

 一瞬そのまま流しかけた美果だが、思いがけない『宿泊』の発言に驚いて、慌てて詳細を聞き返す。すると彼は、きっぱりとした口調で美果の疑問を肯定してきた。

『美果なら絶対合格すると思ってたからな。実はかなり前から、レストランも部屋も予約してあった』
「えっ……ええっ!?」
『だから今夜は、勉強も家事も忘れてゆっくり過ごそう。ああ、クローゼットルームに俺の着替えを一式用意してあるから、それも一緒に持ってきてくれ』
「わ、わかりました……」
『じゃあ十九時半に』

 美果が驚いている間に一気に捲し立てられ、そのまま通話が終了する。というよりも、今夜の方針が決定したので翔も急いで残りの仕事を片付けに向かった、という印象だろうか。

 先ほどとは別の意味で放心する。まさか翔が美果の合格を信じて、事前にお祝いの準備をしてくれていたなんて。

 彼は美果を喜ばせることと美果にサプライズをすることが得意のようだ。おかげで美果は、いつもいい意味で心が休まらない。

「ほ、ほんとに用意してある……」

 指定された通りにクローゼットルームに向かうと、一番手前の棚の上に青色のトートバッグがおいてあった。中身を確認すると明日ホテルから職場へ着ていくためのワイシャツとネクタイ、靴下と下着が綺麗に畳んで入れてある。

 アメニティはホテルに備え付けのものを使うつもりなのか、着替え以外のものは一切入っていない。だが下着までちゃんと準備してあるところを見るに、彼は急に外泊をすると告げても美果が慌てないよう、事前にここまで想定して用意していたのだとすぐにわかった。

「翔さん、最近自分のこと自分でできるようになってきたような……?」

 もちろん着替えを用意するぐらいならそれほどの手間ではない。だが美果は普段、アイロンをかけ終わった翔のワイシャツをハンガーにかけてクローゼットに収納している。

 そこから持ち運びがしやすいように綺麗に折り畳み、他の着替えと一緒にしても皺がつかないよう工夫して準備しているところを見ると、翔の生活能力が徐々に向上しているように感じる。

 そこでふと、以前翔から宣言されていた『美果の負担を減らすために、俺も家事を覚える』という台詞を思い出す。最初に聞いたときは『それは難しいのでは?』と思ってしまったが、こうして翔の行動を目の当たりにすると彼の本気が感じられる。

 美果の好奇心や探究心を見守って応援するべく、家事の負担を軽減しようと努力してくれる。その姿にまた少し胸が熱くなる。

 対する美果はいつも翔に頼ってばかりだ。せっかく翔と結婚し、妻となったというのにこれでは申し訳ない……としゅんとする。だがそこでふと、自分も翔を喜ばせたいと思って密かに準備してあったものの存在を思い出す。

「もしかして……恩返しのチャンスかも……?」

 美果は以前からずっと、翔にお礼がしたい、感謝の気持ちを伝えたい、と考えていた。そしてふと、今夜がその機会に恵まれた絶好のチャンスなのではないかと考える。

 よし、と意気込んで立ち上がる。

 天ケ瀬美果の『恩返し』は、たぶん、きっと、間違っていない――と信じたい。



   * * *



「美果?」
「あ、は、はい……!」
「どうした? 食べすぎたか?」

 不思議そうな声で呼びかけられたのでハッと顔を上げると、バスローブを身に纏った翔が美果のすぐ傍に立ってこちらをじっと見下ろしていた。

 食べすぎ、は確かにそうかもしれない。

 翔が美果のために用意してくれたのは都内でも有名なハイランクのホテルで、そこに入る創作和食料亭は世界中のレストランを評価する美食の格付けガイドにもしばしば掲載されている人気店だった。

 実際、順番に出される料理は見たことも聞いたこともない長い名前がついていたが、どれも旬の味覚と季節の食材を組み合わせた、彩り豊かで美味しい料理ばかりだった。

 美果も天ぷらにかけられたソースのレシピと、煮魚に合う和風だしと、可愛い野菜の切り方をシェフから直々に教えてもらった。だからただ料理が美味しかっただけではなく、調理の知識を得ることもできて、とても有意義で楽しいひとときだった。

「随分そわそわしてるな。試験に受かったのが嬉しいのか?」
「それはもちろん嬉しいですけど……」

 おかげでつい箸が進んであれこれ食べすぎてしまったのは事実だが、美果の気持ちが落ち着かない一番の理由は、それとは別にあった。

 美果が腰を下ろしているこのベッドは、マンションのベッドルームにある二人が普段使っているベッドよりも一回り大きい。おそらくクイーンサイズほどの大きさと思われるベッドに座ったまま動けなくなっていると、隣に腰を下ろした翔に顔を覗き込まれた。

「あの、私! 翔さんに恩返しをしたいと思ってて……!」

 ばちりと目が合った瞬間、弾かれたように自分の思いを告げると、翔が「ん?」と首を傾げた。

「美果は家政婦として十分頑張ってただろ。俺はもう、しっかり恩返ししてもらったと思ってるけどな」
「あ……そっちじゃなくて……」

 翔と翔の周囲の人々に助けられて姉が作った借金を無事に完済した美果は、その感謝を少しずつ返していきたいと宣言して家政婦の仕事に打ち込んだ。自分の仕事を正当に評価してもらい、自分の力量に見合った正当な報酬を受け、それ以上に翔の役に立つことが『恩返し』になると考えていた。

 結局、あの後短い期間で翔の妻となり天ケ瀬百貨店本社も退職したので、美果としては中途半端――否、これからその恩を少しずつゆっくりと返していくつもりだが、今の話が示す『恩返し』は、彼らが美果の生活環境や資金面に融通を利かせてくれたことに対してではなく。

「勉強が大変だったときに家事をおやすみさせてもらったりとか、夜遅くまで勉強して迷惑をかけたりとか、翔さんに肩とか首をマッサージしてもらったりとか……」

 美果が『恩返しをしたい』と思っているのは、大学受験の試験日に向かって準備を進める中で、翔が美果をたくさん労わってくれたことだ。

 一応、現在は専業主婦という立場の美果なのに、家事を疎かにすることも、勉強に集中するあまり翔を一人で寝かせてしまうことも、逆に翔が美果を気遣って手間をかけさせてしまうことすらあったのだ。

 それを悪い事だと思っているわけではないが、彼の支えがあったからこそ、美果は夢を叶えるスタートラインに立つことができた。春から大学に通い、勉強やレポートに集中してしまうとまた同じ状況になる可能性もある。

 お互いに支え合うことの感謝の気持ちは常に伝えていこうと思っているが、美果はその最初の一歩が、今日この瞬間なのではないかと思っている。

「ありがとうございます、翔さん」
「どういたしまして」

 翔と目を合わせてしっかりとお礼を言うと、表情を緩めた翔の親指に頬をふにふに撫でられた。

 まるで飼い猫を甘やかすような優しい指遣いに、そのままとろんと眠くなりそうになるけれど……美果の『恩返し』の本番は、これからだ。

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