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エピローグ

72. 呪縛から逃れるとき 3

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「ですから梨果さん。美果が貸した分のお金は私が肩代わりしますので、そのお金を私に返済していただけませんか」
「えっ……?」
「ただし一気に返済するのではなく、あなた自身がちゃんと働いて一定額ずつ返済すること。それから指定の口座に引き落とすだけで、私や美果には一切接触しないこと――この二つに承諾して頂くことが条件ですが」

 翔の言葉にごくりと息を飲む。

 一気に返済させるのではなく一定額を少しずつ返済させるのは、別の人から借りた金額をそのまま返済に充てる、という行為を繰り返させないためだろう。

 また、手渡しでの返済となると金額がばらついたり返済が滞るおそれがあるうえに、美果や翔が梨果と接する必要もある。それを美果が望まないと知っている翔は、自分たちに利がある条件を提示した。

「……わかりました。美果と翔さんが、それで納得してくれるなら」

 もちろん梨果には翔の提案を拒否するという選択肢もあった。けれど翔の口から秘密が漏れることを恐れた彼女は、提示された案を素直に受け入れることに決めたらしい。

「結構です。森屋、契約書を」
「はい」

 実は隣のテーブルに座ってずっと成り行きを見ていた誠人が、翔の呼びかけに反応してスッと立ち上がる。もちろん美果は認識していたが、梨果は隣の席にいた男性が突然会話に入ってくるとは思わなかったらしく、素直に驚いたようだ。

 ビクッと怯える梨果の様子には構わず、誠人が数枚の紙をテーブルに滑らせる。今度は簡易的な借用書ではなく、正式な契約書と契約が不履行になった場合の注意点、弁護士への相談先や返済金の振込先を記した書類などがずらりと並んだ。

 さすがの梨果も学習したのか、今回はその書類の一つ一つを丁寧に確認していく。だから少し時間はかかったが、そこにサインを済ませたことで借金の返済先は無事に美果から翔へと移行した。

「お姉ちゃん」

 力なく立ち上がってその場を去ろうとする梨果に、どんな声をかけようかと思った。あるいは声をかけないという選択肢もあったが、美果はたった一人の姉妹に、気づいたら最後の言葉をかけていた。

「私、可愛くて優しくて、責任感があって強いお姉ちゃんが好きだった。ずっと私の、憧れだったの」
「……」
「昔に戻ってほしいとは言わない。無理に変わってほしいとも思ってない。私はもうお姉ちゃんを助けてあげられないけれど、でも、お姉ちゃんにも自分で自分自身を幸せにする方法を見つけてほしいの」
「……。……わかった」

 美果の言葉が彼女に届いたのかどうか、正確なところはわからない。

 けれど梨果は、覇気はなくとも一応は美果の考えに賛同して頷いてくれた。だからいつか、彼女が胸を張って本当の意味で『幸せだ』と思える日が来てくれればいい。それを確認する術はないけれど、美果はどこかで梨果が幸せになってくれることを願うばかりだ。

「美果……ごめんなさい」

 ぽつりと謝罪の言葉を口にする梨果を見て思う。

 本当は彼女も、寂しかったのだ。本人の口から語られたわけではないが、父が亡くなり、母が亡くなり、心の拠り所を失った彼女は、自分の中の指針を失ってしまった。

 それでも美果や静枝を頼って、痛みを分かち合って、悩みを打ち明けてくれればよかった。辛くても三人で乗り越えることだって出来たはずなのに、梨果はその選択をしなかった。

 それと同時に、姉の苦しみを理解してあげられなかったことが、美果も少しだけ悔しい。

 けれどその弱音は吐かない。過ぎたことはもう戻らないし、それ以上に、苦しい思いをしていた美果に救いの手を差し伸べてくれた翔の気持ちを思えば、美果は静かに姉を見送るしかない。

 ふと梨果が振り返って、翔の姿をじっと見据える。

「翔さん。美果を、よろしくお願いします」
「ええ」

 ぺこりと頭を下げてカフェを出ていく梨果の姿を見送る。翔の顔には『言われなくてもそのつもりだ』と書いていたが、余計なことを言わずに笑顔でやり過ごすと決めたようで、美果もそっと胸を撫で下ろした。

 今のがきっと、結婚していく妹を想う姉の気持ちの表われだったのだ。美果はそう信じたい。

「……秋月さんのお姉さん、変わってくれますかね」
「どうだろうな」

 一部始終を見ていた誠人が問いかけてくるので、翔がため息と共に呟く。翔はすでに梨果に対する興味を失ったようだが、美果は翔の選択の意味が少しだけ気になっていた。

「お姉ちゃんに返してもらうお金、どうするんですか?」

 事前に翔から意思を確認されたとき、美果は『借金は返してもらわなくてもいい』と伝えていた。もちろんお金は大事だが、それで梨果がまた別のところからお金を借りるようでは意味がない。

 それどころか高い利息を課せられた梨果が自暴自棄になったり、それが原因で梨果本人、あるいは梨果の身の回りの誰かが傷付くのも嫌だったので、それならば今回貸したお金についてはもう諦めてもいいと思っていたのだ。

 だから翔の『この件は俺に預けてほしい』という言葉を信じて委ねたが、その後どうするかまでは聞いていなかったのだ。

 美果の不安の表情を見た翔が、頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。

「これは秋月梨果の名前で、国際児童基金への活動支援金にする。彼女には世界中の貧しい子どもたちに支援することで、自分の労働が他人のためになることを間接的に学んでもらうつもりだ」
「児童基金……ですか?」
「ああ。一定額以上を送金すると現地の子どもたちから手紙やメッセージビデオが届く。それを見て姉の心がどう動くかはわからないが、美果が言うように優しさや責任感や強さがあるなら、これが目が覚めるきっかけになるかもしれないしな」

 思いもよらない発想に言葉を失ってしまう。

 まさか翔が、梨果から返済の意思を引き出したうえで彼女を更生させる道を示すなんて。本人が知らない間に弱き者に救いの手を差し伸べる道筋を与え、後にその意味を考えさせることで彼女に慈悲と慈愛の精神を学ばせようとするなんて。

「翔はそーゆーとこ優しいよな」
「疎遠になっても美果の姉だからな。正直腹は立つが、美果が気に病む姿は見たくない。まあ、返済されたところで美果も気持ち良くは受け取れないだろうし、かと言って姉をお咎めなしにもしたくないから、現状はこれがベストだろ」
「……翔さん」

 五年の歳月を過ごすうちに梨果に対する信頼感が消え失せていた美果には、梨果を更生する方法なんて思いつかなかった。それを考える気力さえ削がれていた。

 美果は本当は、梨果の言動を受け入れられない自分が嫌いだった。梨果の変化を許すことができない心の狭量を責めていた。身内に寛容になれない気持ちが醜いと思っていたし、たった一人の姉に寄り添えない自分が許せなかった。

 けれど心のどこかに、まだ諦めたくない気持ちもあった。姉の本来の姿を知っている美果は、どうにかして彼女が目を覚ましてくれないかとも考えていた。

 そんな美果の葛藤を見抜き、理性と感情の間で揺れることも許容し、清濁併せ呑むことで美果のすべてを受け入れてくれる。

 一人で悩まなくてもいい、その苦しみを分かち合いたい、だからこの先は自分に任せてほしい――美果が扱いに困っていた手綱を、美果を後ろから抱きしめつつ一緒に握ってくれる。

 翔の選択に、美果はただ感謝するしかない。

「誠人」
「ん?」

 翔の器の大きさに感動していると、翔がふと低い声で誠人の名前を呼んだ。

 翔は仕事のときは森屋と名字を呼び捨てるが、プライベートでは誠人と名前で呼ぶことで公私を分けているらしい。

 そして美果は最近になってようやく気がついた。翔が低い声で誠人の名前を呼ぶときは、二人がじゃれ合うときの合図だ。

「美果は来週にはもう『秋月』じゃなくなる。名字は『天ケ瀬』だ、間違えるな」
「……俺、普段大雑把なくせに変に細かい翔のそーゆーとこ、マジで意味わからん」

 ――激しく同意です。

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