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◆ 第5章
69. ご機嫌ホリデーのあとは 後
しおりを挟む「別に今みたいに写真を撮ることがだめだとか、撮影の技術や経験を積む必要がないと言ってるわけじゃないからな? そうじゃなくて、俺には美果が『目の前にある世界のことをもっと広く深く知りたがっている』ように思えた」
「翔さん……」
「レンズを覗く前に一瞬動きを止めるとことか、撮り終わった後に目を閉じて音を確認する仕草とか、現地の人から話を聞きたがる好奇心とか……。そういう姿を見てるうちに、美果は自然とか生態系、歴史や文化のことからちゃんと学んで理解したがっているように思えた。ただの被写体としてだけじゃなく、人や自然をもっと自分の五感で感じたがってる印象を受けたんだ」
翔の言葉に、ごくりと息を呑む。
自分ではあまり意識していなかった。だから上手に写真が撮れない歯がゆさの理由は、自分の腕が悪いからだと思っていた。カメラの知識も技術も経験も足りないから、自分が望む瞬間を思った通りに捉えられないのだと思っていた。
だが美果の姿を客観的に見ていた翔は、少し違った印象を受けたらしい。彼は美果が思い通りに写真を撮れない原因を、美果の心の中にある願望や考え方と上辺しか捉えられていない現状とのズレにあると感じたようだ。
「美果は本当は、もうずっと前から、父親との夢の中に自分が興味を持てる〝世界〟を見つけていたんじゃないか?」
「……」
翔の問いかけを頭の中で反芻する。
彼の言葉と自分の気持ちをそっと照らし合わせる。
確かに目で見て肌で感じた世界を完璧な一枚の写真として残すには、自分の肌身で大事な瞬間を捉える必要がある。そのためには自分の中に基本的な知識があることや、自分の頭で理解することも大切だ。
だから美果は憧れていたハワイの伝統や文化、歴史や言語を学ぶために国際学部に進学した。それが父が見てきた世界を理解するための第一歩だと考えていたからだ。
「高校生の美果が選んだ進路は、父親との夢を追うと同時に、美果自身の夢を追う選択でもあったんだろ?」
「私、は……」
翔の力強い肯定に少しだけ言葉に詰まる。
確かにそうだ。きっかけは父との約束だったが、実際に入学するとハワイやハワイ州を有するアメリカ合衆国だけではなく、世界中の様々な国の文化や歴史や宗教についても触れることができた。
そして新しいことを知るたびに、自分の中の世界がどんどん広がっていくように感じていた。それが楽しくて、いつかこの知識を職業に活かすことができたら、と密かに思っていたのだ。
「美果にはもう一度、自分が学びたいことをやり直す機会があっていいと思ってる」
そして翔は、美果に自分の夢を追うことを許してくれると言う。美果が望むならもう一度大学に入り直して、学びたいことをちゃんと学んで、その上でまた父の夢をまた追い求めてもいいのではないかという。
「今まで美果が諦めてきたことを、俺が全部叶えたいんだ」
「……翔さん」
「ああ、いや……ちょっと違うな」
ふいに翔が自分の言葉を訂正する。機体の天井を仰いで、自分の顎の先を撫でながら適切な表現になりうる言葉を探す。
そんな翔が美果の表情をちらりと見たのち優しく微笑む。美果の頬に腕を伸ばして手で包み込むと、顔を近づけて至近距離で愛を語る。
「美果が夢を叶えるところを、俺が一番傍で見ていたいんだ」
翔の言葉に、美果はまた泣きそうになる。
天ケ瀬翔は秋月美果の幸福を一番に思ってくれる。美果の夢を応援してくれるし、諦めていた願いを叶えることを許してくれる。
美果でさえ気付けなかった本心を読み解き、『その瞬間』を誰よりも近いところで見つめていたいと言ってくれる。その想いが嬉しくないはずがない。
美果を認めてくれる翔の言葉に感動していた美果だったが、ふと彼が「あ」と短い声を発した。その声音が若干不機嫌なことに気がつき、顔を上げて首を傾げる。
「ただし、結婚してからだぞ。女子大ならともかく、大学に行けば若い男もいっぱいいる。調子に乗って美果に手を出す奴が湧かないように、名字を『天ケ瀬』にすることが条件だ」
「なんの心配してるんですか……」
真顔でありもしない心配をする翔に、感動していた気持ちが一気に吹き飛ぶ。
しかし翔の表情は至極真面目で、気が抜けた美果の鼻をきゅっと摘まんで「危機感ないのは美果の欠点だからな?」と文句まで言われてしまう。
「でももし大学に行くなら、家政婦のお仕事は辞めなきゃいけなくなりますよ」
もちろん翔と結婚することになれば、どちらにせよ家政婦の仕事は辞めることになるだろう。むしろ正式に付き合うようになった時点ですでにただの家政婦ではなくなっているのだから、本来ならばすでに辞めていてもいいぐらいだ。
と考えていると、翔がまた不思議なことを言い出した。
「ああ、だから美果の負担を減らすために、俺も家事を覚える」
「え、えっ……?」
「美果の勉強も応援したいし、大学に行けば研究やレポートで忙しい時期も出てくるからな」
翔が真顔で語る言葉を、失礼ながら『それは難しいのでは?』と思ってしまう。
洗濯とゴミ出しならばかろうじて可能かもしれないが、それ以外は難しい気がする。どうやっても翔が料理や掃除をする姿が思い浮かばない。それに頑張って家事を覚えられるのならば、そもそも最初から家政婦を雇う必要なんてないだろう。
そう思う美果を余所に、翔は意外なほど乗り気である。
「子どもが生まれたときの予行演習だと思えば、今からやっておいて損はないだろ?」
翔が楽しそうに笑うので、忘れていた恥ずかしさと不安が急に呼び起こされる。
そうだ。すっかりと忘れていたが、天ケ瀬グループの後継者である翔と結婚するならば、さらにその次の後継者を産む必要がある。これについてはプロポーズを受け入れた時点で最初からわかっていたことだが、浮かれていて今の今まですっかり忘れていた。
急に不安を感じ始める美果だが、それと同時に翔が子育てのことまで考えていることに妙な気恥ずかしさも覚える。美果としてはもう、どこから驚いていいのかわからないというのに――
「まあ、子作りの予行演習は毎晩するけどな」
「!?」
嬉しそうな彼がどこまで本気なのかは、美果にはまったく判断ができない。
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