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◆ 第4章

56. やさしい手に包まれて 後

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 静枝の気持ちを深く理解すればするほど、これほどまでに愛情深い人を粗雑に扱う梨果を腹立たしく感じる。

 静枝がこの施設に入所してから一度も会いに来ないばかりか、連絡のひとつもしてこないその無頓着さに苛立ってしまう。ここまで自分たちを慈しんでくれた恩を仇で返す姉に、悲しみと怒りばかりが募っていく。

 そして梨果に対して嫌悪感を覚える理由は、彼女が優しい祖母に見向きもしないことだけではない。ほんの少しだけでもいいから家族に向けるべき関心を、金銭を得るという目的だけで翔に向けることも腹立たしかった。

「……私、どうしても許せない人がいるの」

 素直になれない美果がぽつりと呟く。

 否、静枝の前では素直になろうと決めたからこそ心の声が溢れ出る。

 美果が翔の手を取れない本当の理由は、梨果の悪意に怯えているからじゃない。もちろんそれも理由ではあるし、翔との家柄や社会的地位を気にしているのも事実だ。

 けれど一番の理由は、本当の気持ちは……少し違っていて。

「本当は許すべきだと思う。嫌わないで、味方になってあげるべきだってわかってるの」

 梨果の考えや行動は、美果には理解ができないものばかり。他人を利用して、誰かが稼いだお金で生きて、自分に優しく接してくれる人の気持ちを簡単に踏みつけるような生き方は、美果には到底受け入れられない。

 それでも、彼女は血を分けた姉妹だ。だから本当は梨果を許してあげるべきなのに。味方になってあげるのが、妹の美果の役目なのに。

「優しくなれなくて……話せば話すほど嫌になって……」

 静枝の優しさを、美果の想いを、今付き合っているという恋人の献身を足蹴にする梨果をどうしても許せない。どうしても受け入れられない。

 そして美果は――そんな感情を抱いてしまう自分自身が嫌いだった。醜い気持ちを持ってしまう自分が許せなかった。

「自分の心がこんなに醜いことを……知られたくないの」

 先日梨果に無心されたときに真っ先に感じた『梨果と血が繋がっていることを知られたくない』という感情は、本当は少し違っている。

 美果が翔に知られたくないのは、血を分けた姉妹を許してあげられない自分の醜く狭い心だ。

 梨果の味方になってあげられない自分が嫌でたまらない。心が狭く見苦しい感情を、愛情深く優しい翔に知られたくない。それに梨果と翔が近付くことを拒否する気持ちも、抑えられない。

 だからもう、関わらないでほしいと思ってしまう。相手は実の姉なのに。

「その許せない人って、もしかして梨果ちゃん?」
「!」

 黒い感情に囚われていると、静枝が能天気な声で問いかけてきた。その言葉にハッと我に返ると、静枝がそっと肩を竦める。

「確かに、梨果ちゃんは昔からわがままな子だもんね」
「え、あ……あの」

 静枝の断言に自分が余計なことを喋りすぎてしまったことに気付く。

 もちろん静枝名義のクレジットカードで借金をしていた事実や、それを美果が数年がかりで返済したことは話していない。今後も話すつもりはない。

 しかし名前こそ出さなかったが『悩んでいる人』も『悩ませている人』も自分の孫なのだから、静枝もピンと気がついたのだろう。

 静枝にとっては美果も梨果も大事な孫だ。ならば分け隔てなく対等に接する静枝に聞かせていい話ではなかったのに。

 猛烈な後悔に襲われてあわあわしていると、それを見た静枝がくすくすと笑い出した。

「美果ちゃんは本当に優しい子ね」
「ちがう……私、全然優しくなんか……」
「でも気を遣わなくてもいいのよ。だって私、美果ちゃんと梨果ちゃんの〝おばあちゃん〟なんだから」
「え……?」

 真面目な表情と台詞の意味がわからず、動きが止まってしまう。口を開けて、ソファの隣に座った静枝の顔をまじまじと見つめてしまう。

「いい? 美果ちゃん、よく聞いて。孫のわがままを許すのは、おばあちゃんの役目よ」
「役目……?」
「そう。だから美果ちゃんの役目は、梨果ちゃんのわがままを何でも聞いて許してあげることじゃない。無理に仲良くすることじゃない。今の美果ちゃんに一番大事なのは、自分の幸せをちゃんと見つけることなのよ」

 力強い静枝の言葉に瞠目する。目から鱗が落ちたような気分を味わう。

 驚いて固まる美果の姿を見た静枝が、ふっと笑顔になる。その表情は孫の幸福を祈る祖母の優しい微笑みだ。

「美果ちゃん、家族に勘当された私が、不幸に見える?」
「ううん……見えない」
「そうでしょ? その通りよ、私すごく幸せなの」

 静枝の宣言から、彼女が言わんとしていることを感じ取る。

 姉妹だからってといって絶対に仲良くする必要はない。許せないこともがあって当然だし、嫌いになって疎遠になることだってある。自分がそうだったからわかる。

 だから姉妹の心が離れたり、許せない気持ちが生まれることは悪ではない。受け入れられない感情を無理矢理飲み込んで許す必要はない。そんなことをしても、幸福にはなれない。

 静枝の瞳がそう語ってくれていることに気付いて、美果の目にまた涙が溜まっていく。梨果を許せない自分を、静枝が赦してくれたように思えて。

「美果ちゃんは、梨果ちゃんのわがままを許してあげられないことを格好悪いと思ってるから、素直になれないのね」
「……うん」

 静枝の確認の言葉にこくんと頷く。

 その通りだ。この感情を翔に知られたら嫌われてしまう気がする。優しいな、えらいな、と美果を褒めてくれた彼を裏切って、失望させてしまう気がする。

「大丈夫よ、格好悪くも醜くもないわ。だって美果ちゃんがこんなに一生懸命に悩むのは、その人のことが大好きだからなんだもの」
「おばあちゃん……」

 けれど静枝の微笑みを見ていると不思議と安心できる。胸の底に沈んでいた黒い感情が少しずつ薄れて消えていく。美果の恋心を知って受け入れてくれる存在が、苦しい感情のひとつひとつを解放して心と身体を軽くする。

 本当は静枝の言う通りだ。美果がこんなにも深く悩んでしまうのは、翔に強い恋心を抱いているから。翔に嫌われるのが怖いからこそ、本音を知られたくないと思うのだ。

 静枝はその気持ちも大事にしていい、自分に素直になって相手とじっくり向き合うべきだ、と語る。美果を諭すようにそっと頭を撫でてくれる。

「大切なのは美果ちゃんと相手の気持ちよ。周りの人との関係ももちろん大事だけど、それよりも二人の気持ちの方が重要なの」
「……うん」
「愛は強いわよ? それは私が証明するわ」

 静枝はすべてを捨てて愛する人と一緒になった。そして誰にも負けない幸福を手に入れた。

 天ケ瀬の未来を担う翔はそうはいかないけれど、彼もこれまで築き上げてきたすべてと同じぐらいに美果を大切にしてくれる。その優しさと想いは、美果にも感じ取れている。

 だから翔の気持ちに向き合いたい。美果もちゃんと応えたい。――今ならそう思える。

「これで私は、美果ちゃんの恋を思いっきり応援できるわね?」

 美果の決心を感じ取ったらしい。静枝がお茶目に笑って見せるので、美果もようやく笑顔を返す。

「うん。ありがとう、おばあちゃん大好き」
「あら、私も美果ちゃんが大好きよ」

 うふふ、と笑って美果の手を優しく包んでくれる静枝には、感謝することしかできない。

 きっと美果の恋はまだまだ未熟で、愛と呼ぶにはあまりに拙くて、静枝の言うような幸せにはまだ少し遠いのかもしれない。

 けれど翔の柔らかな笑顔や優しい言葉、温かな体温や丁寧な指先、慈しむような口付けを思い出すたびに美果も優しい気持ちになれる。

 こんな風に思える相手は、きっと後にも先にも翔だけだから。

(翔さんと、ちゃんと話そう)

 もう隠さない。
 誤魔化さないし、逃げない。

 ひどい言葉で傷付けてしまったから、翔はもう美果への気持ちが冷めてしまったかもしれない。恋人どころか、家政婦としても不要だと言われてしまうかもしれない。

 けどもしそうだとしても、今の美果の気持ちをちゃんと言葉にして伝えたい。美果を想ってくれること、大切にしてくれること、夢を大事にしてくれること――美果を愛してくれることを『嬉しい』と伝えたい。

 今、すぐに。

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