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◆ 第4章
54. これはプロポーズですか? 後
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「美果」
翌週土曜日、午後三時になる少し前。
すべての家事を終えた美果に、リビングのソファから立ち上がった翔がそっと声をかけてきた。
「あ、ごめんなさい……私、今日も用事があって」
「まだ何も言ってないぞ」
「……」
あれからも美果は延々と悩み続けていたが、やはりどうしていいのかわからない。本当はこれまでと同じように接していいはずなのに、今週もつい翔の誘いを断ろうとしてしまう。
美果の遠慮に呆れたようなため息をついた翔だったが、苛立って責めるようなことはせず、
「美果、おいで」
と、優しい声で手を引いて、美果をそっとソファに座らせてくれた。
本当は今日も、すぐに帰ろうと思っていた。
本音を言えばもっと一緒にいたいし、もっと深く触れ合いたい。だがそれと同じぐらい、翔に大切にされることが怖い。美果の素っ気ない態度に怒ってもいいはずなのに、美果を労わろうと背中を撫でてくれる翔に申し訳ない気持ちばかりが募る。
いつか離れなければならない相手に甘えたくなる自分が、本当はたまらなく嫌なのに……
「美果。少し早いけど、誕生日プレゼントがある」
「……え?」
翔の宣言に、思わず間抜けな声が出る。
誕生日? と疑問に思いながら視線を動かすと、確かに壁にかけられたカレンダーは九月のもの。しかも美果の誕生日、九月三十日までもうあと一週間というタイミングに差し掛かっていることを、今この瞬間はじめて認識する。
もちろん知らなかったわけではない。だが完全に忘れていた。
呆然とする美果の手の上に、翔が横に長い封筒を置く。それを疑問に思いながらゆっくりと開いて中を確認した美果は、入っていたチケットを見て思わず目を見開いた。
「これ……ハワイ行きの……飛行機の、チケット?」
「ああ。俺もここ最近長期の休みを取れてなかったから、日程を調整して連休を取った」
穏やか声で説明してくれる翔の顔を見上げると、彼がそっと微笑んでくれる。美果の好きな、優しい笑顔で。
「美果と、一緒に行きたくて」
翔の言葉に美果の胸の奥がじんと温かくなる。美果の不安をすべて溶かして洗い流してくれるような優しさに、ここ二週間ほどずっと悩んでいた苦しみが一瞬で吹き飛ぶ。
(翔さん、私の夢を叶えてくれようとしてるんだ……嬉しい)
美果の夢は、父のカメラを使ってハワイの海と空の写真を撮ること。病気の母が喜んでくれるようにと願い、生前の父と交わしたささやかな約束を果たすこと。
それを知っている翔は、こうして美果の願いを叶えてくれようとする。美果を喜ばせようとしてくれる。その気持ちが何よりも嬉しい。――けれど。
「……受け取れ、ません」
胸が温かくなった端から急速に冷たく冷えていく。脳裏に浮かぶ梨果の表情が、翔の気持ちに喜ぶ素直さや翔との海外旅行を楽しみに思う気持ちまで少しずつ壊していく。
「美果?」
「こんなに高価なプレゼントを頂いても、お返しできません」
「返さなくていい。俺も一緒に行くし、楽しみにしてる。それに……誕生日に美果に伝えたいこともある」
「!」
翔から『伝えたいこと』と言われた瞬間、美果は身体から魂を抜かれたような心地を味わった。
美果も鈍感ではない。まだ付き合い始めて三か月半ほどだが、誕生日にずっと行きたかった海外旅行をプレゼントされて、『伝えたいこと』があると言われて、その内容をまったく予想できないほど初心ではない。
翔の少し照れて困ったような表情を見れば、彼が何を言うつもりなのかぐらい想像できる。
けれど。否、だからこそ。
「……ごめんなさい」
「おい、言う前から断るな」
美果が小さな声で謝罪すると、翔が焦ったような声を出した。
「付き合うときは考えてくれたし、俺もちゃんと待っただろ? なのになんで、今度は考えもせず断るんだ」
「だ、だって……」
「そんなに、嫌なのか」
嫌なわけがない。
もちろん嬉しい。
嬉しくないはずがない。
美果に誰かを愛することや愛されることの喜びを教えてくれたのは、天ケ瀬翔ただ一人だけ。美果の事情を理解し、長い苦労を労わり、ささやかな夢を認めて応援してくれるのも、美果の人生には翔以外に存在しなかった。
だからずっと一緒にいたい。そのために『結婚』を考えるのも、美果が心の底から愛しているのも、本当は彼だけだ。
天ケ瀬翔以外にはいない。自分でも自分の気持ちを理解している。でも。
「……私、自分の力で夢を叶えたいんです」
思ってもいないことが口をついて出る。
心の中に一切なかった感情が、ぽろぽろと零れ落ちてくる。まるで梨果の悪意に、心が染まってしまったように。
「翔さんの気持ちは嬉しいです。けど父との約束は……自分の手で叶えたい。誰かに与えられるんじゃなく、自分で一生懸命働いて、自分で稼いだお金で……自分だけの力で成し遂げたいんです」
「……美果」
「誰かに与えられて叶える夢なんて……ほしくありません」
ちがう。
そんなことを言いたいわけじゃない。
本当は翔の気持ちが嬉しい。美果の夢を知っていて、いい夢だと微笑んでくれて、頑張れと応援してくれる翔に美果の夢を奪う意思がないことなんて、美果が誰よりも理解している。
翔は美果に喜んで欲しかった。一緒に夢を見てくれようとした。美果のために願いを叶えてくれようとしただけで、美果の夢を取り上げるつもりなんてない。それは十分わかっているのに。
「そうだよな……ごめん。美果は自分で頑張って、夢を叶えたかったんだもんな」
翔が寂しそうに、申し訳なさそうに俯く。
「美果の夢を横から奪って、俺のエゴを押し付けるようなことをした」
翔の右手が美果の肩を包み込んでくれる。その指先が少し震えているような気がして、自分の可愛げのない言い方を猛烈に後悔する。
可愛げがないどころではない。あまりにも酷い言葉で、美果を想ってくれる翔の気持ちを否定した。そんな最低な断り方をした自分を殴ってやりたい気持ちになる。
けれど訂正しようと喉に力を込めた瞬間、背後に立った梨果の気配が冷たい温度で美果に囁く。
『愛人止まりなのに必死になっちゃって、美果かわいそう』
『美果なんかが、天ケ瀬の御曹司さまに本気で相手にされるわけないじゃない』
『美果じゃなくて私じゃダメ? って聞いてみよーかなぁ。美果より私の方が上手だよって言ったら、興味持ってくれるかも』
悪魔の囁きをかき消せない。
梨果が自分だけではなく、翔のこれまでの努力や未来を奪うのかもしれないと思ってしまったら――抗う気持ちも湧き起こらない。
それならもう、最初で最後の恋をここで終わりにすべきだと信じ込んでしまうほどに。
「無神経なことをして悪かった。許してほしい」
「いえ……翔さんの気持ちは、嬉しかった……です」
「……」
「ごめんなさい。……時間になったので、失礼します」
翔の表情を確かめるのが怖くて、封筒をテーブルに置くとソファから静かに立ち上がる。そのままダイニングチェアにかけてあったバッグと上着を手にしてリビングを後にすると、ろくな挨拶もせずマンションの部屋を出る。
玄関を飛び出すと同時に目からボロボロと涙が溢れてきたが、翔の想いを踏みにじった美果に、引き返すことは許されない。
ほどなくしてやってきたエレベーターに滑り込んで壁に寄りかかると、そのうち力が抜けてきてずるずると床にへたり込んでしまう。
うずくまって嗚咽を我慢するとふかふかの絨毯でできた床に小さな染みが生まれたが、視界が滲む美果にはその数を数えることも出来なかった。
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