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◆ 第3章
35. キラキラ御曹司、再び 前
しおりを挟む美果が翔のパートナーとして出席することになったのは、六店舗目の天ケ瀬百貨店となる『天ケ瀬百貨店横浜』のオープンを大々的に発表するためのパーティーだった。
横浜にあるホテルの大ホールを貸し切り、大勢の賓客やメディアを集めて大型商業施設の創設を盛大に祝う――その開宴の三十分前、会場内に設置されたソファに腰を下ろした美果は、緊張のあまりカタカタと震えていた。
「森屋さん、もう無理です……吐きそうです……」
「あはは、大丈夫ですよ」
着替えとメイクとヘアセットを終えて翔を待つ間、美果の傍には誠人がついてくれていた。知り合いがいない中で誠人が一緒にいてくれることはありがたいと思ったが、どうやら彼も翔と同じぐらいに美果をからかうのが好きらしい。
「お手洗いすぐそこですから」
「え。大丈夫って、そういう意味なんですか?」
「ああ、でもドレスは汚さないでくださいね。それ結構いい値段しますよ」
「うぐ」
ただでさえ緊張で胃がキリキリしているというのに、誠人がさらに緊張感を高めるようなことを言う。
正直、美果はずっと泣きたい気持ちだった。
翔からパートナーとしてパーティーに出席して欲しいと提案を受けたが、本来の契約にはない業務内容のため、一応断ることも可能ではあった。美果は丁重に断ろうとしたが、翔から『美果に断られたら俺はショックで朝起きられないかもしれない。俺が遅刻したら美果は職務怠慢で減給になるかもな』と脅され……説得された。
だが今になって後悔している。減給される方がマシだったかもしれない。まさかこんなに大きいパーティーに『あえて注目を浴びるために』引っ張り出されるなんて。
「でも本当に、大丈夫ですよ。貴方をサポートする人は翔や俺だけじゃないですから」
表情筋が固まるほどの緊張感と戦っていると、誠人がふと優しい声でそう語り掛けてきた。サポート? と顔を上げると、誠人がにこにこと笑顔を浮かべる。
「せっかくだから挨拶しておきますか?」
「え?」
「煌さん、希さん」
誠人が会場の入り口に向かって少し大きめの声を出す。すると丁度ホール内へ入場してきた一組の男女が、誠人の呼びかけに気づいてこちらへ近寄ってきた。
髪を明るく染めた背が高い細身の男性と、同じく背が高いミディアムボブにパンツドレス姿の女性が、慌てて起立した美果の前に並び立つ。そんな美果の姿を見た男性が、誠人に向かって不思議そうに首を傾けた。
「誠人くん、その人だれ?」
「翔の家政婦さんだよ」
「はじめまして、秋月美果と申します」
「ああ! 君が例の!」
誠人に紹介されたのでお辞儀をすると、美果の挨拶を聞いた男性が楽しそうな声を上げた。
「初めまして。僕は天ケ瀬煌。天ケ瀬百貨店本社の人事部所属で、人事部長の補佐をしてます」
「同じく天ケ瀬百貨店本社の経理部で経理部長をしています、天ケ瀬希です」
「煌さん、希さん……」
丁寧な自己紹介をしてくれた二人に思わず見惚れてしまう。
美男美女と呼ぶに相応しい外見だけでなく、二人は美果とさほど変わらない若さに思えるのに、本社で重役を担っているという。すごいなぁ、と感動する美果が『……ん? 天ケ瀬?』と疑問に思うと同時に、誠人が二人を指さしてにっこりと微笑んだ。
「翔の弟と妹だよ」
「え、ええっ……?」
さらりと告げられた事実にびっくりして思わず大きな声が出てしまう。そしてもう一度二人の顔をじっと見つめてしまう。
確かにただの美男と美女ではない。翔の弟だという煌は、髪は黒よりやや明るいが、言われてみれば顔の造りは翔によく似ている。妹だという希は男女の差があるのでさらにわかりにくいが、目と鼻の形が翔にそっくりだ。
驚いて瞬きをしていると煌がにこりと笑う。彼は美果に興味津々と言った様子だ。
「美果さんは、自分の雇用条件のことどう思う?」
「え? 雇用条件……?」
まったく予想していなかった突然の質問に驚き、ついそっくりそのまま聞き返してしまう。
人事部に勤め人事部長の補佐を担うという煌ならば、当然翔の家政婦として採用された美果の職歴も把握しているだろう。だが彼の瞳に侮蔑するような色は含まれていなかったので、美果は素直に自分の考えを口にした。
「正直あまりに好待遇すぎて、毎月通帳に記帳するたびにびっくりしています」
以前の労働環境と比べると今の美果の仕事はあまりに恵まれすぎている。破格の給料はもちろんのこと、十分な社会保険に加入させてもらえて、残業もほとんどない。過酷な重労働をしているわけでもなければ、精神的に辛いこともない。
翔にももちろん言えることだが、なんの功績も資格もない美果を雇うと決めた人は、本当にそれでいいのだろうかと疑問に思うほどだ。
「あれ……まさか……?」
「お、察しがいいね! 美果さんを雇用するために規定の上限いっぱいまで給与の調整をしたのは希で、美果さんの採用を決定したのは僕でーす」
「!?」
疑問に感じたことを訊ねようとすると、美果の考えを先読みしたらしい煌がにへらっと表情を緩ませた。美果の疑問を肯定する明るい言葉に驚き、先ほどまで項垂れて歪んでいた背筋がシャンと伸びる。
「あああありがとうございます、いつもお世話になってます!」
「それはこっちの台詞よ。いつも翔兄さんのお世話をしてくれてありがとう」
美果と煌のやりとりを見ていた希がにっこりと優しい笑顔を浮かべる。ただでさえ高身長の希がヒールを履くとこの中の誰よりも目線が高いが、嬉しそうな笑顔はとても愛らしかった。
どうやら二人は美果が翔の家政婦をすることにかなり協力的らしい。先ほど誠人が美果をサポートする人は自分たちだけじゃないと口にしたのを思い出す。
だがほっこりと安心する美果に希が告げて来たのは、思いもよらない一言だった。
「出来ればこのまま、一生翔兄さんの面倒を見て欲しいところなのだけど」
思いがけない希望に、思わず「え?」と笑顔が凍る。
今、なんて?
「実を言うと、僕も希も天ケ瀬の後継にはなりたくないんだよね」
美果が凍結する様子を見て、煌が肩を竦めながら呟く。美果がぎこちない唇の動きで「そうなんですか?」と聞き返すと、二人は首がもげそうなほど大きく深く頷いた。
「私は仕事に生きたいの。結婚するつもりもないし、人付き合いも最低限しかしたくないのよね」
「僕はずっと遊んでたいかな。でもほら、天ケ瀬の社長がふらふらしてるなんて外聞悪いでしょ。だから僕も後は継ぎたくないなぁ」
「煌くん、社長じゃなくても遊びすぎはダメだと思うけどナ」
「やだぁ、誠人くん小姑みたいなこと言わないで~っ」
誠人の指摘に煌がぶりっ子のように身体を揺らす。二人も翔の幼なじみである誠人と親しいらしく、その様子を見た希も楽しそうに笑っている。
(こ、個性的な人たちだなぁ……翔さんがすごくマトモに思える……)
仕事をしている天ケ瀬翔という人物を客観視して直接的に表現すると『外面を装うことに余念がない二重人格者』だ。もちろん彼にそうする必要性があることも、今の彼にとってはそれが大事な武器であることも理解している。
だから否定するつもりはないし、むしろそれが翔の夢や目標をかなえる鍵となるならば、美果も出来うる限り協力したいと思っている。
そうだとしても少し個性的――と思っていたが、煌と希を見ていれば案外翔はまともなのかもしれない。二人とも翔の苦労を理解しているのかしていないのか、だいぶ自由人だ。
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