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◆ 第3章

32. 怒りの理由は 3

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 後頭部を撫でられると安心する。ポンポンと背中を軽く叩かれると本音が零れ出そうになる。

 でも言えるわけがない。キスが気持ち良くて泣いてしまった、なんて……

「あの、翔さん……違うんです」
「……違うって、なにが?」
「私、キスしたこと……。今のが、ファーストキスだった、から……その」

 翔が嫌いだからではない。泣くほど嫌だったのではない。しかし本当の理由を口にするわけにもいかない。

 だから美果は自分の本音を隠す代わりに、それとは別の事実を口にして誤魔化そうとした。だが突然ガバッと身体を離した翔と視線を合わせると、彼は目をまん丸にして美果の顔を凝視していた。

「……嘘だろ、それはさすがに」
「ほんと、です……」

 本音は隠したが、代わりの言葉も嘘ではない。美果はこれまでの人生で誰ともキスなんてしたことがない。正真正銘、今のがファーストキスだった。

 だが翔はにわかに信じられないらしく、少しの時間、眉を寄せて訝しげな顔をしていた。しかし美果の仕草から嘘は言っていないと悟ったらしく、やがて疑問の表情は申し訳なさそうな表情へ変化した。

「ごめん、美果。悪かった。びっくりしただろ……ごめんな」
「いえ、平気です……。……いいんです。そんなに、大事にしてたわけじゃないですし」

 一度どこか安堵したように大きなため息を吐いた翔だったが、すぐに美果の初めてのキスを軽率に奪ってしまったことを後悔し始めたらしい。

 またゆるく抱擁されて背中を撫でられたので、涙を引っ込めた美果はふるふると首を振って翔の暴走を許すことにした。

「怖かったよな。本当にごめん」

 もう一度謝ってくれた翔に「大丈夫です」と返す。いつの間にか怒りの気配や美果を責める態度は消え去り、ただ申し訳なさそうに美果の顔を覗き込んでくる。

「……翔さん、怒ったら相手にキスするんですか」
「そんなわけないだろ。どんな気色悪い怒り方だよ」

 その表情を見た美果恐怖心と羞恥心が少しずつ薄れていく。平常心を取り戻した美果が冗談を言うと、翔がフッと笑ってくれた。それから、

「ごめん。美果の言う通り、冷静じゃなかったな」

 と申し訳なさそうに後頭部をかく。

 翔は美果をからかうのも意地悪をするのも好きらしいが、たまに怒ると怖いというだけで、本当は優しくて人情に溢れる穏やかな人だ。

 いつもの様子に戻った翔が、美果の頭をくしゃくしゃと撫でてくる。まるでペットか妹をからかうような撫で方に美果もほっと安心する。

 ふと言葉が途切れる。すると翔が、美果にある提案をしてきた。

「美果、今夜残業する時間はあるか?」
「え? 残業……ですか?」

 美果の問いかけに、翔が低い声で「ああ」と頷く。

「昨日のうちに家の鍵を変えるよう業者を頼んでおいたんだが、付け替え時に誰かが立ち会う必要があるんだ」
「行動早いですね……。そんなことして、萌子さん怒りませんか?」
「怒りたいなら勝手に怒っていればいいだろ。俺はもう、この家に誰も入れたくない。一応今の鍵は誠人も持ってるが、今後はあいつにも預けない。俺と美果が持ってればそれで十分だ」

 フン、と鼻を鳴らすところを見るに、翔は本当に萌子を婚約者として扱うつもりはないらしい。結婚は翔一人だけで決めることではなく、天ケ瀬家と稲島家双方が絡む状況のように思えたが、翔はそれすらどうでもいいと言いたげだった。

「万が一また稲島の娘が来ても、もう入れなくていい。鍵交換の業者が来るまで、内側からチェーンかけとけ」
「は……はい」

 そんなことをして本当に大丈夫なのだろうか、と思ったが、いずれにせよ美果に決定権はない。家政婦である美果は、雇い主である翔に言われた通りに行動するしかないのだから。

「それと夜、美果に話したいことがある」

 とりあえず話はまとまった――と思ったが、翔はまだ美果の身体を離してくれない。それどころかこれまでよりも真剣に、強い意思を示すように美果の腰を抱いてじっと顔を覗き込んでくる。

「お互いに落ち着いて、冷静に頭が働く状態で、ちゃんと俺の話を聞いてほしいんだ」
「あ、あの……翔さん、私っ」

 いつになく生真面目な前置きに驚いて翔の言葉を遮ろうとしたが、口を塞がれたのは美果のほうだった。ただし今度は、唇ではなく彼の細く長い指先で。

「もし断られても、俺は諦めるつもりはない。けど心の準備をする時間ぐらい、くれてもいいだろ?」

 真剣な声と切なさを滲ませた表情で語られると、また心臓がうるさく響き始める。翔の黒い目に吸い込まれて、底なしの蜜の沼に突き落とされる感覚を味わう。

 ほんの数秒あるいは数分。翔と静かに見つめ合っていた美果だったが、ふと彼が真面目な表情を崩して少し困ったような笑顔になった。

「ところで、美果……腹減った」
「え?」
「昨日、晩飯食ってないんだ」

 さらりと告げられた言葉に驚いて目を見開く。それから、なぜ? と顔を顰める。

「そこにあるの、美果が作ってくれた晩飯だろ? 俺が帰ってきたらもう捨てられてたから、食えなかったんだ」
「!?」

 翔の説明に思わず仰天してしまう。

 美果はてっきり、翔が美果の作った料理を気に入らなくて全部捨ててしまったのかと思っていた。代わりに萌子が『料理ぐらい家政婦なんかに頼まなくてもちゃんと用意できるわ』との言葉通りにその腕前を披露し、二人仲良くディナーを楽しんだのだと思っていた。

 だが美果の作った料理を捨てたのは翔ではなく、萌子だと言う。なんでそんなことを……と思ったが、萌子を拒否する翔の態度と状況を考えれば、理由はすぐに察しがついた。翔に自分の料理を振る舞いたかった萌子にとって、家政婦の作った手料理など邪魔でしかなかったのだろう。

 しかし食べ物を粗末に扱って、完成していた料理を捨てるなんて、美果には到底信じられない。罰が当たっても仕方がない行為だと思う。

「代わりにカレーを出されたんだが、口に合わなくて一口で食うのを止めた。ついでに本人にもそのまま帰ってもらったが、食欲が失せたせいで何も食ってないんだ」

 なるほど、それで生ごみの処理ボックスに野菜の皮が入っていたのか。しかし野菜やルーのストックはあったが、肉の用意はなかったはずだ。

 どうやってカレーを作ったのだろう……と思ったが、きっと『口に合わなくて』という翔の言葉がすべての答えだ。これ以上掘り下げても答えはわからないし、美果はもう知りたくもない。

「朝ごはん、作りますね」
「ん」

 美果が提案するとすぐに翔が頷く。

 その真剣な瞳が『俺にはお前が必要だ』と物語っているようで、美果はまたひとりそっと背中を震わせた。

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